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第十章 過ぎる日々(2)

 歯磨きを終えて口をゆすいだ水を吐き出した彩葉は、顔を上げて隣を見た。


「今なんか言った?」


 今いるのは家の洗面所の鏡の前。いつものようにジムで過ごし、学食で朝食を取ってから、帰ってきて登校の準備をしているところだ。


 顔を右に向け左に向けしてメイクの出来映えをチェックしている日和が答える。


「そろそろ髪染め直さないとなー、って言っただけ」


「もう? 早いね。この間美容院に行ったのに」


「この間じゃないよ。もう一ヶ月以上前だよ」


「そんなに経つっけ?」


「そうだよ。ほら、プリンになっちゃってる」


 日和が頭を下げて、頭のてっぺんをこちらに見せてくる。確かに髪の根元の黒い部分が結構目立つ。


(けど、プリンでも日和はかわいいのに)


 そう言いかけて、彩葉は慌てて口を押さえた。日和への恋心を自覚してから、日和がやたらとかわいく見えて、気がつくと見とれてしまうし、うっかり口に出しそうになってしまう。


 告白する勇気はまだ出ないので、日和に気持ちを悟られてしまわないよう、なるべく普通に振る舞うのを心がけている。日和が彩葉の態度を不審がる様子はないので、ちゃんと取り繕えているのだと思う。


「そうだ! どうせ一緒に美容院行くんだから、先輩も染めようよ」


 日和の無邪気な声に、ふわふわしていた彩葉の頭が、氷水を浴びせられたかのようにすっと冷えた。


「わたしは染めない」


 きっぱり言って彩葉は洗面所を後にした。だが、日和は後を追ってきて、なおも染髪を勧めてくる。


「えー、いいじゃん。明るい髪色も似合うと思うなー」


「染めないって言ってるでしょ」


「何でー。たまには先輩もおしゃれしようよー。イメチェンだよイメチェン」


「必要ない」


「別にいきなりあたしみたいな金髪にしろとは言わないからさー。ダークブラウンなら、いかにも『染めてる!』って感じしないし、今と大きく変わらないから、そんなに抵抗ないんじゃない?」


 何度はねつけてもめげない日和に、彩葉は苛々してきた。


(嫌だって言ってるんだからさっさと諦めてよ。日和のこういうところは好きじゃない)


 日和を好きだと気づいてから、日和の言動に苛立つことは減ったし怒りもあまり長引かなくなったのだが、全てを許容できるわけではないのだ。


「でも、あたしとしては、先輩にはダークブラウンよりミルクティーブラウンをお薦めしたいかなあ」


「やめて!」彩葉はついに声を荒らげてしまった。「染めないって言ってるでしょ! いいかげんにしてよ!」


 日和がぽかんとしてから、むっと唇を尖らせる。


「怒鳴らなくても良くない? そんなに黒髪にこだわりあるわけ?」


 彩葉はぐっと唇を噛みしめた。説明するかしないか迷って、日和を見つめる。

 一般的な焦げ茶の瞳より色の濃い黒い瞳が、まっすぐに挑むように見返してくる。その視線が、彩葉の心の中の壁を突き抜けて、心の奥に刺さった。


 日和にはきちんと知って理解してもらいたい、と思う。日和ならきっとそうしてくれるだろう、と思える。


「……わたしのお姉ちゃんが祝福(ギフト)を覚醒させたきっかけは両親との喧嘩だった、って話したの憶えてる?」


 日和がきょとんと瞬く。


「憶えてるけど?」


「その喧嘩って、お姉ちゃんが髪を金髪にしたのが理由だったんだ。だから、髪を染めるって考えると、どうしてもその時のこと思い出しちゃって……嫌なんだ」


「そうだったんだ……」


 日和はつぶやくと、勢い良く頭を下げた。


「知らなかったとはいえ、思い出させるようなこと言っちゃってごめん!」


「いいよ。わたしも、怒鳴って悪かった。ごめん」


 日和は顔を上げて、ほっとしたように笑った。


「それにしてもさー、あたしって、電気使いだし、金髪だし、めっちゃ先輩のお姉さんに似てるんじゃない? あたしといるのしんどくならない?」


「最初はちょっとしんどかったけど、今はもう何とも思わないよ。あんた、お姉ちゃんとは大分性格違うし」


「そっか。先輩がしんどくないなら良かった」


 その声には本物の安堵がこもっていて、彩葉の胸が温かくなる。


(日和はやっぱり思いやりのある人だな)


 日和のそういうところに、彩葉は随分と救われているのだと思う。


 今も、両親が死んだ時のことを話したにもかかわらず、意外と平気だった。胸の痛みはあったが、覚悟していたほどではなかった。トラウマの克服に近づいてきているのかもしれない。


(日和のおかげだよね)


 日和はいつもきちんと彩葉の話を聞いて受け止めてくれる。家族を護れなかった分まで他の人を護れるようになりたい、と話した時もそうだった。

 だから彩葉は、日和になら心の奥の気持ちを打ち明けられるのだ。


(わたし、やっぱり日和が好きだなあ)


 しみじみとそう思いながら、彩葉はやわらかく微笑んだ。



*****



「あーあ、何であたし、いつまで経っても力を制御できるようになんないんだろ」


 訓練棟を出ながら、日和がぼやいた。


「先輩も他の子たちも、一ヶ月くらいあればほぼ制御できるようになったんでしょ? なのにあたし、もう二ヶ月近くも同じ訓練やってるんだよ? あたしってほんと才能ないなー」


「あんたの力は強いから他の人より時間かかるのはしょうがない、って若宮先生も言ってるじゃん。才能ないとかじゃないよ」


 彩葉は日和の肩をぽんぽん叩いて慰めた。


「でもさあ、もしも、もしもだよ? このまま自力で力の制御ができないままで先輩が学園卒業しちゃったら、あたしどうなるんだろ。どっかに閉じ込められちゃう?」


「気が早すぎるでしょ。わたしの卒業まではまだ二年半もあるんだよ。それだけあればいくら物憶え悪くても自力で制御できるようになるよ……多分」


「そこは絶対って言ってよ!」


 予想どおりの日和の反応に、彩葉は、あはは、と笑った。すねたりむくれる日和がかわいくて、ついからかいたくなってしまうのだ。


「冗談、冗談。絶対できるようになるって」


「むー……本気で言ってる?」


「本気だよ。大丈夫。心配することないよ。来週からは新しい先生が来る、って若宮先生が言ってたじゃん。力の制御方法について詳しい先生なんでしょ。きっとその先生に教われば制御もみるみる上達するよ」


「だといいけど」


 日和は、はあ、とため息をついた。今日はどうもネガティブムードなようだ。


「あたしたちの能力ってさあ、祝福ってよりむしろ呪いみたい、ってたまに思うー」


 そう言いたくなる日和の気持ちは、彩葉にも痛いほどわかった。

 日和は学園に帰ってきて以来家族と連絡を取っていないという。彩葉も、姉とは八年間会っていないし、祖父母とは母方も父方も両親の命日の墓参り時に顔を合わせるだけだ。


 祖父母が彩葉を嫌っているわけではない。ただ祖父母は皆、姉の能力が両親の死因だったために能力者に強い忌避感を抱いていて、彩葉のこともどう扱って良いかわからないのだ。愛しさと憐れみと疎ましさが入り混じった目を向けられて、ぎこちない態度で接される。


 そんな風では会っても気まずいだけなので、彩葉は、学業や訓練が忙しいから、と理由をつけて、親権を持っている父方の祖父母の元を長期休みに訪れることさえ段々としなくなってしまった。


「確かにそうかも。能力のおかげで助かってることも世の中にはたくさんあるけど、ない方が良かったこともたくさんあるもんね……。能力なんてこの世から消えてしまえばいいのに、って思うことあるよ」


 能力などというものがこの世になければ、きっと彩葉も日和も家族と幸せに暮らせていたのだろうに。


 そう思ってから、慌てて自分を叱咤する。


(いや、わたしまでネガティブ思考に陥ってどうするの)


 二人でネガティブになっていては、際限なく気持ちが落ち込んでいくだけだ。

 急いで日和に笑いかける。


「なーんて、ただの夢物語だけどね。ていうか、さっさと学食行こ」


「うん、そうしよ。あたし、もうおなかぺこぺこ」


 日和はにこりと笑い返してくる。多分日和もこれ以上ネガティブでいては良くないと思ったのだろう。


 二人は他愛ない話をしながら、バス停に向かった。


 それから数日が経ち、日和の新しい教師が来るという日がやってきた。

 いつものように訓練棟を訪れて受付をすると、若宮が奥から出てくる。その斜め後ろをついてくるのが、例の力の制御方法に詳しいという教師だろう。


 何気なくその教師に視線をやって、彩葉は凍りついた。二十代前半に見えるその女性の顔に、見憶えがあったのだ。いや、見憶えがあるどころではない。一日だってその顔を忘れたことはない。


 最後に会った時は、金髪だった。今は、一度も染めたことがないような漆黒の髪をしている。


 最後に会った時は、青を通り越して真っ白になった顔でこちらを凝視していた。今も、血の気の引いた顔でこちらを見つめている。


 最後に会った時は、彩葉が叩き払った手を胸元で固く握りしめていた。今は、何かに祈るように縋るように、両手を胸元で組み合わせている。


 その人の唇が動いて、言葉を発しそうになる。彩葉は音を立てるような勢いで身を翻し、駆け出した。八年ぶりに会ったその人から、一目散に逃げ出した。――最後に会った時にも、そうしたように。




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