第七章 脱走(2)
道の片側には延々と学園の塀が続き、もう片側には田んぼが広がる。民家もあるが、住人はすっかり寝静まっているのだろう、明かりは見えない。曇っているので月明かりもない。
学園正門のすぐ傍に立っている街灯の明かりだけが頼りだが、目的のバス停に向かうにはその光の輪から出なければならない。
彩葉はショルダーバッグから懐中電灯を取り出した。これは、停電した時のためにだろう、彩葉と日和が同居している部屋に、他の日用品と共に入居時からそろえられていた物だ。
誰かは知らないが、その采配をしてくれた人に、彩葉は心から感謝した。
正直、夜道がこんなに暗いとは思わなかったのだ。
しばらく歩いて道が学園から離れていき、両側が田んぼになると、更に暗さが増したように感じる。広々とした空間を歩いているはずなのに、閉塞感を覚える。両脇から闇が迫ってきて、今にも押しつぶされてしまいそうな気がする。
日和も怖いのだろう、絶え間なく喋り続けている。彩葉も、沈黙が落ちると闇に呑み込まれて二度と帰ってこれなくなってしまいそうで、相槌を打ったり話の内容について質問をしたり、反応を欠かさない。
日和の話は、ほとんどが家族の話だった。
小六の弟は亮という名前でサッカークラブに入っていること、母親は化粧品メーカーで働いていて、たまに新発売や開発中の化粧品を持って帰ってきてくれるので一緒に使って楽しむこと、父親は建設会社で経理をしていて、たまの飲み会で酔っ払って帰ってくると調子の外れた歌を歌うことなど、すっかり日和の家族に詳しくなってしまった。
だが日和は、彩葉の家族について尋ねてこようとはしなかった。家族とあまりうまく行っていない、と以前言ったのを憶えているのだろう。
彩葉も進んで家族の話をする気にはなれず、日和の話に反応を返すのに終始していた。
夜はもう大分涼しいとはいえ、数十分も歩けば汗ばむし喉が渇く。日和がちゃんとミネラルウォーターのペットボトルを数本準備していたので、時々それを飲みながら歩く。
もう一時間か、下手したらそれ以上歩いたのではないかと思い始めた頃、ようやく目的のバス停に着いた。
「あー、疲れたー」
日和が地面に座り込む。彩葉も座って、二人の間に懐中電灯を立てて置いた。
それからミネラルウォーターとスナック菓子を飲んだり食べたりしながら、また延々とお喋りをする。今は眠気に打ち勝つためという理由もある。
そうしているうちに、闇が薄れていき、空の端が色づいてきた。朝になったのだ、とほっとする。太陽のありがたみを感じる。
「明るいってすばらしいねえ」
日和が感想をもらした。
「そうだね。朝焼けも綺麗だし」
二人は黙って、移り変わっていく空の色を眺め、雲の間からもれてくる陽射しを味わっていた。一晩中喋って疲れたので、口を開く気になれない。
彩葉は目を閉じて、大きく呼吸した。朝の空気が肺を満たす。鳥の鳴き声が耳に心地良い。
「――んぱい、先輩」
彩葉はがくっと前のめりになり、はっと顔を上げた。
「やだ、わたし寝てた?」
慌てて隣を見ると、日和がうなずいた。
「うん。起こすのかわいそうだったから、そっとしといた」
「そうだったんだ。ありがと。もうバスの時間?」
「ううん、そうじゃなくて……」日和は困ったように眉を下げた。「あたし、トイレ行きたくなっちゃった。どうしよう……」
「え……」
言われてみれば、彩葉も尿意を感じる。
だが、外で用を足すのにはかなりの抵抗を覚えるし、その抵抗感をねじ伏せたとしても、そもそも周囲は田んぼばかりで姿を隠せる場所が見当たらない。
きょろきょろと周囲を見回した彩葉は、景色の中の一箇所に目を留めた。その場所を指差す。
「あそこに家があるから、トイレ借りよう」
バスの時間までまだ一時間近くあることを、時刻表で確認する。家は少々離れているが、これなら行って戻ってこられるだろう。
幸い家の住人はもう起きていたようで、呼び鈴を鳴らすと中年女性が出てきた。トイレを貸してほしいという彩葉たちの頼みに不審そうにしたものの、危険人物ではないと判断したのか、家に上げてトイレを使わせてくれる。
彩葉と日和は何度もお礼を言い、感謝の印としてクッキー一袋を渡して、家を後にした。
「今からは水分を控えた方がいいね」
「うん。バスの中でトイレしたくなったら大変だもんね」
もうしばらく待つとバスが来たので、乗る。
乗客は他におらず、がらんとしている。彩葉はほっとした。学園の教職員が乗っていて、正体を気づかれたら困る。
真ん中より一つ前の座席に座ると、バスが発進する。
少ししたところで、運転手が話しかけてきた。
「お客さんたち、天恵学園の人ですか?」
彩葉は微笑んで答えた。
「ええ、新任教師なんです」
日和に大人っぽく見えるメイクをしてもらい、手持ちの服から一番大人びた物を選んで着てきたのは、この嘘を少しでも本当らしく見せるためだ。
「やっぱりそうですか。学園前から乗らなかったから違うかと思ったけど、この辺の住民じゃないっぽいですからね」
心臓がドキッと跳ねたが、必死で笑顔を保つ。
「ちょっと調べることがあって、遠出したんです。街まで行くのも、その用事で。詳しいことは話せませんが」
「そうなんですか」
あまり長々と喋っていては、ぼろが出るかもしれない。そう考えて、彩葉はわざとらしくあくびをした。
「すみません。朝が早かったので眠くて。ちょっと寝ます」
「ああ、邪魔してすみませんでしたね。終点まで行くんでしょう? 着いたら起こしますよ」
「ありがとうございます」
運転手に軽く頭を下げて、彩葉は目を閉じた。日和は座った直後からすでにうとうとしている。念のためその手首を握っておく。
深い淵に吸い込まれていくような感覚に身をゆだねたと思ったら、次の瞬間には運転手の「終点ですよ」という声に起こされていた。
ぼうっとした頭で日和を揺さぶって起こし、運転手に乗車賃を払いながらお礼を言う。「またのご利用お待ちしております」という声を背に聞きながら降りて、すぐ傍にある駅のホームのベンチに座る。
眠りの世界の誘惑を懸命に退けながら待っていると、二十分くらいで県庁所在地まで行く列車が来た。
「あと何回乗り換えるの? ていうかどのくらいかかるの?」
列車に乗り込みながら、日和が眠そうな声で訊いてくる。
「これに二時間くらい乗って終点で降りたら、そこから新幹線に乗るよ。東京までは……二時間? 三時間だったかな? まあ、そのくらい。東京に着いた後は知らない。わたし、東京行ったことないし」
「新幹線に乗る前に食事する場所ある?」
「あるよ。大きな駅だから」
「良かったあ」
日和はふにゃりと笑って、二人がけ座席の窓側に座ると、すぐにすやすやと眠り始めた。彩葉も日和の手首を握って眠りに落ちる。
終点を告げるアナウンスで起きた時には、大分頭がすっきりしていた。駅内のATMで金を下ろし、新幹線の切符を買ったら、レストランで昼食を取る。
日和は売店でお菓子を買い込んで、新幹線の座席に座るとさっそく袋を開けている。すっかり遠足気分のようだ。
「今お昼食べたばかりなのに、よく入るね」
「甘い物は別腹だもーん」
「あんたって結構食べるくせに運動はほとんどしないよね。なのによく太らないね」
「あたし、食べても太らない体質なんだよねー。いいでしょー」
「うわ、それはうらやましい」
「でしょでしょ。みんなに言われるー。ていうか、先輩も体型とか気にするんだ?」
「そりゃあね。特にダイエットとかはしないけど、甘い物を食べすぎたりはしないようにしてる」
一晩お喋りして過ごしたせいか、共犯者意識の賜物か、以前よりも気の抜けた会話ができるようになっていることに、彩葉はふと気づいた。
(なんか友達みたい……かも。いや、それは言いすぎかな)
日和のことは別に嫌いではないが、ちょくちょく苛立たせられるし喧嘩も絶えないので、友達とは呼びづらい。
「あたしの顔になんかついてる?」
日和の声に、彩葉ははっとした。無意識に日和を凝視していたらしい。
「な、何でもない」
顔をそらして座席に深く体を沈める。新幹線が発車するというアナウンスが流れた。
新幹線の中では、周囲の関心を引きたくないこともあって、ほとんど喋らなかったが、沈黙は苦ではなかった。
二十四時間離れずにいる生活を一ヶ月送ってきたせいもあるが、やはり昨夜からの間に心の距離が近づいた気がする。
それを嫌だとは感じない。一緒に暮らさざるを得ない相手ならば、肩の力を抜いて接することのできる方がいいに決まっているが、それだけでもない。
(わたし、意外と田辺のこと好き……なんだろうか)
少しの間考えたが、答えは出なかった。まあ、別に急いで答えを出す必要もないだろう、と彩葉は窓の外を流れていく景色に意識を移した。
東京に着くと、そこからは日和に先導してもらうことになる。
電車を何回か乗り換えてようやく着いた日和の家の最寄り駅から、住宅街を十五分ほど歩いたところに、日和の家族が住んでいるという高層マンションは建っていた。




