13
その夜はアルバイトが入っていたので、冬生は渚沙の部屋に後ろ髪を引かれながら廊下を抜け、居酒屋へ向かった。その日は普段と何も変わらず、程々に忙しく、冬生は忙しなく厨房とホールを行き来して酔っ払いの相手をしながら町が静まり返るのを待った。
二十二時になると未成年は労働基準法を理由に強制終了だ。
厨房スタッフに「お先に失礼します」と挨拶してバックヤードに戻ろうとすると、通路を歩く途中、同じタイミングで上がりとなる女子大生が「お疲れ、冬生ちゃん」と背中を叩く。
「佐藤さんも。お疲れ様です」
佐藤は髪を茶色に染めてピアスを通している派手な女性だ。同性で年齢が近く、また、勤務時間も重なることが多いため、従業員の中では比較的冬生と親しい方だろう。
二人で更衣室に入り、思わず揃って溜息を吐き出しながら制服を私服に着替える。
「やー、今日は疲れたねえ」
「ええ、六番卓のお客様が随分な波状攻撃を。あれはもう嫌です」
「厨房組は目に見えて苛々してたね。私達は配膳メインだからマシだけど」
そんな会話をしながらあっという間に着替えを済ませ、二人で従業員カードを持って共用ロッカールームへ。勤怠管理は電子化しており、カードを翳すリーダーがそこに置いてあるのだ。
二人でロッカールームに入ると、そこに置いてある小さな机で恰幅の良い男性が悶々と書類作業をしていた。店長の星野だ。彼はこちらに気付くと苦悶の顔を明るく取り繕う。
「おや、もうそんな時間か。お疲れ様」
「はい、お疲れ様です」
「お疲れ様っすー」
軽い挨拶をしながら二人でリーダーにカードを翳すと、「そうだ」と星野が冬生を見た。
「綾瀬さんさ。もうここの仕事には慣れた? というか、慣れてそうだよね」
あまりにも唐突な質問だから冬生が鼻白むと、佐藤が「唐突過ぎ」と笑いながら茶々を入れてくれる。「ああ、そうか」と星野が申し訳なさそうに改めようとするから、冬生は慌ててそれを制するように軽く手を挙げた後、小さく頷いた。
「そう、ですね。自惚れでなければ、ホール周りの仕事は概ね把握できたかと」
「だよね。いや、ベテランの厨房組がさ、結構綾瀬さんの仕事を評価しててね。で、飲み込みも良さそうだから、その気があるなら厨房の仕事もどうかなって。勿論、昇給もある」
上手い話だろうと言いたげだが、実際、こちらからすれば拒む理由はない。
「本当ですか? でしたら、私に拒む理由はありません。是非」
「オッケー。今度、軽い講習会みたいなのに行ってもらうかもしれないけど、費用も飯代も全部こっち持ちだから安心して。で、まあ途中でなんか思ってたのと違うなと思ったらすぐ言ってよ。今の仕事だけでも充分助かってるし、気兼ねなくね」
むっと笑ってサムズアップする星野に、冬生はつくづく職場に恵まれたことを実感した。
微笑んで頷き返し、少しおどけてサムズアップを返す。すると星野は嬉しそうに破顔した。
「しかし、冬生ちゃんもよく働くね。何か欲しい物とかあるの? オタ活とか?」
すっかり談笑気分になった佐藤が腕を組んでロッカーに寄り掛かる。
「こら、プライバシーだよ」
星野が苦笑しながら釘を刺すも、ここで長々と勤めるなら、少し込み入ったプライベートな部分も軽く伝えておくくらいはしてもいいだろうかと、冬生は考える。
「いえ」と呟いて二人の視線を集めた後、「その」と語り出す。
「両親と仲が悪くて。自分の費用を全部自分で出すために」
空気が凍り付いた。そう錯覚しそうになるほど二人の顔が強張る。
星野と佐藤は気まずそうな顔で視線を合わせ、明らかに場違いな話し始めだったと察した冬生は続きを語らずに終わらせようとする。しかし、「よし」と佐藤が声を上げた。
「先輩が相談に乗ってあげよう。ほら、さっさと話してごらんなさいよ」
そう自分を親指で指す佐藤に冬生が目を丸くすると、隣で星野が窘めた。
「こらこら、佐藤さん。無理強いはしちゃ駄目――でも、必要なら僕も相談に乗れるよ」
つくづく、自分は身の回りに恵まれている気がすると噛み締めた。
冬生は少しだけ胸に熱を感じながら「お言葉に甘えます」と曖昧に笑った。
それから要点を掻い摘んで両親の不倫を説明すると、次第に二人の顔が曇っていく。
やがて全てを話し終えると、星野は険しい顔で腕を組んだ。
「どう向き合うのが正解か――成程、難しい問題だね」
その傍ら、吹っ切れたように豪快に笑った佐藤が手を振って裏口へ向かう。
「がっはっは! どうやら私は力になれなさそうだぜ! 先に帰ってるぜ! ばいばーい!」
言い出した張本人が何とも無責任だが、或いは最初から星野に押し付けるという算段か。
「あ、はい! ありがとうございました」
「気を付けて帰るんだよ!」
唖然としながら冬生と星野がその背中を見守る中、裏口を出て間もなく彼女が叫ぶ。
「ぎゃー! 雨降ってんじゃん!」
その声と重なるように随分と強烈な雨音が聞こえて、冬生は自分が傘を持ってきているか不安になって鞄を押さえる。何だか嫌な予感がしたが、今は考えても仕方が無い。
扉が閉まって雨の音が途切れると、星野はしみじみと呟いた。
「彼女のように明るければ、人生は上手くいくことが多いんだろうねえ」
「私もそう思います。あれは、憧れる明るさです」
星野は「だねぇ」と苦笑をした後、小さな溜息で本筋に戻った。
「……さて、多くの親は子育てで悩むことがあると思う。でもそれは大抵の場合、自分で選んだ道だ。自分達で産むと決めて、育てると決めて、だからそこには責任がある。そしてそれを理解しているから、自分が何をするべきかもハッキリとしているし、正しい逃げ方が存在する」
冬生が頷くと、星野は手元のペンを逆向きにくるりと捻る。
「その逆は、酷く息苦しいものだと思う。子供は親を選べないからね。そして庇護下にある子供は行政の積極的な手助けが無い限り、それを耐え忍ぶばかり。だから、君が君のご両親にどう向き合うべきかという問いに、答えは存在しないと思う」
星野は綺麗に剃られた顎に無骨な指を当て、唸りながら回答を捻出する。
「強いて言うなら、君自身がどう向き合いたいかが肝要なんじゃないかな」
冬生は膝に手を揃えて乗せ、俯きがちに声を絞り出す。
「私は……」
どう向き合いたいかという問題には、随分と複雑な心情が絡まってくる。
正直なところ、冬生は最早、二人が嫌いだった。だが、過去には確かに好きだった。失望から来る衝動的な拒絶の中には、一抹の、まだどうにかやり直せないのだろうかという感情もある。それでも、心情の底の底、根底にあるのはやはり、二人への軽蔑と叛逆の感情だろうか。
「……両親が間違っていることを証明したいです。過ちを分からせてやりたい」
冬生が静謐な顔でそう答えを出すと、星野はその温厚な顔をやや怯えたように歪める。そしてどうにか苦笑をこぼすと、否定はせず頷いてそれを認めてくれた。
「結構、物騒な話だけど、言っていることは悪い事じゃないと思うよ」
そう背中を押されるも、冬生の顔はどこか浮かない。
星野が微笑を以て何に引っ掛かっているのかを尋ねるから、冬生は告白した。
「ただ……最近、私に好意を抱いてくれる人を、そのせいで拒むことになってしまって」
脳裏に焼き付いて離れない渚沙の苦しそうな顔を思い出し、胸を押さえて打ち明ける。
急に色恋沙汰の話が絡んできて、星野は少々面食らったように口を開く。だが、すぐに噛み砕くと真剣な顔で頷くから、冬生は苦虫を噛み潰したように結論を吐き出した。
「家族を嫌う気持ちと、その人を大切に想う気持ちの、折り合いの付け方が分からないんです」
ようやく問題の要点を掴んだ星野は唇を尖らせながら唸った。
「ふむ。少し、僕の話をさせてもらおうか」
冬生が顔を上げると、彼は粛々と語り始めた。
「僕の両親は弁護士でね、二人で事務所を構えている」
そう語る星野の顔に誇る色は見えない。案の定、彼は溜息を吐いた。
「そして当然ながらそんな二人に育てられた僕も法律の勉強とかをさせられてね。でも僕は当時、調理師の道に進みたくて――衝突した」
冬生が重々しく頷くと、彼は懐かしむように木目に肘を置いて、手で口を隠す。
「凄い喧嘩をしたのを今でも覚えている。そして、売り言葉に買い言葉だったかな。父がね、こう言った。『飲食なんて誰にでもできる。でも弁護士には知恵と知識が必要だ。お前はこの道で人を幸せにするべきなんだ』と。僕が両親と同じ道に進まないのは勿体ないそうだ」
冬生が首肯で相槌を打つと、星野は苦笑をする。
「腹が立った僕は望み通りに弁護士になってやったよ。そして、父の弁を否定するのに躍起になった。弁護士だって案外簡単になれるし、弁護士だからって知恵と知識が必要とは限らない。不当な罪を着せられている人間のただ一人の味方だからって、そうそう冤罪は無いだろう、と」
しかし、星野は腕を組んで内省的な顔でこう続けた。
「現実は、父の言う通りだった」
それ以上の言葉は必要ない。冬生は厳かな表情で続きを待つ。
「現実を思い知って尚も、僕は夢を手放せなかった。で、弁護士を始めて四年くらい経った頃かな。高校時代の友人が飲食店をやるから一緒に手伝ってくれないかと誘ってくれた」
星野は笑みを堪えきれない様子で少し声量を上げた。
「葛藤した。でも、最終的に僕は周囲の声を振り切って友人の店を手伝うことにした。父の言うことが正しいのなら、誰にでもできるんだろうと言い返してね。でも、こっちも現実は違った。働くことは確かに、弁護士に比べれば比較的容易かもしれない。でも、食べてくれたお客さんを笑顔にして、それだけで生きていくのには努力と研究が必要だ」
今では別の店を構えているが、当時の高揚が忘れられない様子で目を細める。
「初めて口コミで褒めてもらえた時、友人と泣いて喜んだのを覚えている」
すっと息を吸って真剣な表情に戻った星野は冬生に丁寧に語る。
「父は間違っていなかった。君と僕の境遇はそこが違う」
不倫をした両親は誰の目にも明らかに間違っていることだろうから、当然か。
「でも、同じ部分がある。それは、やり方を間違えたということ」
冬生は微かに息を吸って丸い眼差しを星野へ送り返す。
星野は肩の力を抜くように、吐息をこぼして語る。
「相手の間違いじゃなくて、自分の正しさを証明する方法を探せばいい」
その言葉は冬生の体内にある無数の歯車をカタンと震わせ、気付けば、機構が動き出す。
見開いた目で星野を見詰めると、彼は誇らしそうに傍のテーブルを軽く叩いた。
「僕はこの店を出ていく笑顔の数々で父にそれを証明した。君は?」
目的と手段が逆転していたことを、冬生は今になって思い知った。
愛を謳いながら不倫をした両親を否定するため、自分は恋愛をせずとも幸せになってやろうと思っていた。だが、違う。その二つの目的と手段が逆転してはいけない。
その手段が何らかの理由で頓挫した時、それが目的になっていると別のアプローチを選べなくなるのだ。それにようやく気付いて、錆び付いた歯車が動き出していくのを感じた。
「ああ、そっか……そういうことか」
思わず呆然と呟く冬生の肩の荷はいつの間にか下りていて、幾らか呆けた顔を晒す。
冬生が証明したいことは、あの二人が間違えていたということ。
その事実を突き付ける手段は何も、恋愛とは無縁に生きて幸せになる事だけではないはずだ。
そんな単純なことを今更思い知った冬生は可笑しくて小さく笑い、そして、泣きそうな顔になりながら渚沙を思い出す。――唐突に、会いたいという感情が胸の内で膨らんだ。
傷付けてしまった自分が会うべきではないと思っていたのに、会いたいと思って、それを自分の中で許してしまった途端、もう、歯止めが利かなかった。今すぐ会いたくて仕方が無い。彼女の顔を見て、声を聞いて、体温を感じたい。そう渇望をしてしまった。
「胸が晴れるやり方じゃないかもしれない。でも、胸を張れるやり方だ」
最後にそう星野が胸を張って言うから、冬生は息を吸いながら顔を上げた。
「この店を選んだのは、家の近くで……時給が良かったからです」
「お、おぉ。おお?」
唐突な、誉め言葉か中傷かも分からない冬生の言葉に星野が困惑の色を見せる。
「でも、ここで働かせてもらえて本当に良かったと、今は思っています」
最後に真っ直ぐ店長を見詰めて伝えると、彼は嬉しそうに頬を綻ばせてペンを握り直す。
「忘れがちだけど、親だって実は人間だ。人間だから完璧じゃなくて、でも、時にその不完全は受け入れ難い。そしたらその時は、ちゃんと伝えればいい。そして、その一連の流れで君が君の人生を抑圧するのは、凄く勿体ないと思うよ」
言いながら書類作業に戻った彼は、裏口を指した。
「さ。遅くなり過ぎない内に帰りなさい」
冬生は深く彼に頭を下げ、店を後にした。
「ありがとうございました」




