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 ポケットが大きいからという理由で購入したメンズパンツの左ポケットには小さな財布。右にはスマホ。今すぐにでも家を出られる格好で部屋を見回すのは、綾瀬冬生(ふゆき)という少女だった。


 年齢は十五歳で、この春から新たに高校生となる。背丈は年齢の平均値付近でやや痩せ型。風貌は美形に分類されるのだろうが、退屈そうな無表情が好意の類を寄せ付けない。髪はセミロングで、大抵の場合は後ろ髪を低い位置でシニヨンに纏めている。


 そんな冬生が十余年を共に過ごした私室からは一切の荷物が運び出され、酷く殺風景になっていた。冬生は未練を断ち切るように小さな溜息をこぼすと、踵を返して私室を後にする。


 廊下に出ると、リビングから顔を出した母の由紀子が不安そうな声を上げる。


「本当に一人暮らしをするの? 大丈夫?」

「もう荷運びまで終わったのに、今更何を言うんですか。ご心配なく」


 冬生は少々呆れの滲んだ苦笑を返し、そのまま彼女の脇を抜けて玄関へ。靴に足を入れる。


「以前も申し上げましたが、式典や三者面談の類も基本的にはいらっしゃらなくて結構です。どうしても先生を説得できなければ連絡します。それから――向こうに着いたらすぐバイト先を探すので、それ以降は定期代等の振り込みは不要です。家賃もお支払いします」


 淡々と一人暮らしをするに当たって自分から提示した条件を列挙すると、由紀子が眉尻を下げて「うん」と頷いた。そんな彼女の脇から、恐る恐る父親の弘道が顔を出す。


「その、新居まで車を出そうか?」


 父から娘へ向けるようなものではない顔色を窺うような視線と言葉。答えは決まっているのに、この期に及んで角が立たないように悩むフリをする自分が、冬生は少し嫌だった。


「必要ありません。では、行ってきます――お世話になりました」




 東京都郊外の住宅街にある八階建てアパートの六階。その角部屋に冬生の新居はある。


 冬生は、既に引っ越しも済んで平和を取り戻した六階の外廊下を新鮮な気持ちで歩く。


 ふと、お隣さんの扉の前に立ち止まって足を止めた。


 調べたところ、近年、特に単身住宅では防犯の観点から挨拶などをしない方が良い場合があるそうだ。それに倣って冬生も特に挨拶をしていないが、鉢合わせた時に嫌味を言われたらどうしようか。そんな風に考えるも、「まあいいか」と呟いて鍵を取り出す。


 新居に入ると、特有の香りが鼻腔を刺激した。馴染みがないのに、どこか落ち着く。


 部屋は単身用のワンルームだ。玄関から狭い廊下が一本伸び、突き当たりがリビング。


 廊下を挟むように手洗いや浴室、キッチンが置かれている。冬生は水気の無いキッチンを一瞥し、水道の蛇口を軽く捻って水を少し出した後、部屋を点検する。


 差し当たって問題は無さそうだということを確かめ終え、それから少ない荷物の荷解きに着手すると、終わる頃には昼食時を過ぎていた。それを報せたのは腹の虫だった。


 ドサリ、とベッドに仰向けに倒れた冬生は天井を眺めて深い呼吸をする。


 八畳のワンルームにはベッドと勉強机、残りは備え付けのクローゼット程度。その中に雑多に荷物を詰め込んでいる、そんな酷く殺風景な部屋だった。


 冬生はベッドに倒れたままポケットからスマホを取り出し、些細な暇潰しにニュースサイトを閲覧する。桜前線に関する予報、政治家の汚職、若者への問題提起――そして、ある結婚詐欺師の報道。ページタイトルは『江坂静流が京都で目撃』。


 思わず冬生がリンクをタップすると、画面に黒髪の絶世の美女が表示された。


 江坂静流というその女は、度重なる結婚詐欺を繰り返した稀代の詐欺師でありながら、先日、その件を問い詰めてきた人物に対して強盗殺人を働いた極悪犯だ。


 しかし、あまりにも端正な顔立ちをしたその詐欺師が報道されると、民衆はその悪辣に畏怖を抱くと同時、その容姿に沸き立った。自分が被害を受けていないからという理由で世間は他人事のように騒ぎ、根も葉もない噂が流れている。今やすっかり足取りも掴めなくなった彼女は、その美貌を使って誰かに匿って貰っているのではないかと、そんな風にも言われていた。


 そんな彼女が京都府で目撃されたという証言があり警察が捜査しているようだが、真偽のほどは定かではないようだ。「馬鹿馬鹿しい」とブラウザをタスクキルし、地図アプリを開く。


 近くのスーパーマーケットを調べた冬生は、ポケットの財布を確かめた後、腹の虫を泣き止ませるためにベッドを起き上がった。


 部屋を外に出ると、初春の香りが鼻腔をくすぐった。肺を埋め尽くすように息を吸って、六階の外廊下から覗く住宅街の景色に目を細めた後、扉を後ろ手に閉める。


 鍵を掛けて最寄りのスーパーマーケットへと向かおうとすると、


「あ」


 丁度、隣人が帰宅したところで、それを視認した冬生は思わず声を上げる。


 廊下の向こう側から歩いてきたのは、どこか見覚えのあるような美しい少女だった。


 背丈は冬生よりやや高いかもしれないが、容姿から窺える年齢はそう変わらないように思われた。髪は透き通ったブロンドで、毛根や眉などの体毛を見る限りでは地毛に見える。それにしても呆気に取られるほどの美形で、長い睫毛が瞬きの度に隠す双眸は吸い込まれるほどの造形美を宿し、柔らかそうな唇は何か別の素材で作られているのではと思わせた。


 既視感の正体を暫定的に外国人女優の類だろうと推定し、冬生は軽い会釈をする。


「挨拶が遅れて申し訳ありません。隣に越してきた綾瀬です。よろしくお願いいたします」


 冬生が軽く頭を下げると、少女は「あ、はい」と戸惑いを隠せない目で冬生を見ながら頷き、コンビニの袋がぶら下がった手でうなじを掻く。一切違和感のない流暢な日本語だ。ハーフか、クォーターか。少なくとも日本生まれ日本育ちだろうとは思われた。


 それから、数秒の沈黙が両者の間に差し込まれる。


 少女は何も言わずに棒立ちし、複雑な表情を俯かせていた。


 てっきり挨拶を返してもらえるものだと思ってその場に直立不動だった冬生は、気まずくなって、視線を廊下から覗く景観に一往復させる。そして愛想笑いを浮かべた。


「それでは、私はこれで」

「ああ、はい。あ、と――」


 脇を抜けてエレベーターの方へ向かおうとした冬生の背中を、少女の臆した声が呼び止めた。


 振り返ると、彼女は苦虫を噛み潰したような表情で、視線も合わせずにこう挨拶した。


「……江坂です。よろしくお願いします」


 そう言って逃げるように隣室に消えていった少女を、冬生は返事もできずに見送った。


 しばらく呆けた顔で瞬きを繰り返した後、冬生は既視感の正体に思い至る。


 脳裏にはつい先刻のニュースサイトの写真。


 毛髪の色が違うせいでまるで気付けなかったが――既視感の正体は、江坂静流だ。


 瓜二つとまでは言わないまでも、ハッキリと遺伝を感じさせる美貌と同一の姓を聞いて、その二つを脳内で結び付けないなんてことはできなかった。


 冬生は江坂が消え去った後もしばらくその場に立ち尽くして、じっくり十数秒の思案の末、ようやく相槌のように吐息をこぼした。




 彼女が果たして江坂静流の親族であるかは、まだ確信が持てなかった。


 彼女が挨拶を渋った事実やその似通った容姿、同じ姓を考慮すれば、確かに推測は真実味を帯びる。だが、確信には至らない。例えば彼女が、まったく無関係なのに容姿や姓から関連性を疑われ続けてきて、自分の姓を名乗ることに嫌気が差していただけの可能性だってある。


 だから、先入観は持たないことにしよう。


 ――そう決めて迎えた四月九日。今日は高校の入学式だった。


 冬生は勉強机に置いた小さな鏡で新品の制服に袖を通した自分を確かめる。まだ皺の無い、どこか固い制服だ。着ているというより、着られていると表現する方が的確か。顎を持ち上げてネクタイの位置を確かめた後、最後に一度、襟を正して鞄を担いだ。


 玄関扉を開けて外に出ると、穏やかな春の風が冬生の襟足を撫でた。視界を彩る薄桃色の点に気付いた冬生は、誘蛾灯に導かれるように廊下の手すりに歩み寄る。木々には開花を待ち侘びる桜の蕾が散りばめられており、冬生は微笑しながら桜前線をスマホで検索した。


 その時だった。ガチャ、と鍵の開く音が隣室の扉から聞こえた。


 弾かれたようにそちらを見ると、欠伸と共に出てきたのは隣人の少女――江坂だった。


 彼女は欠伸で浮かべた目尻の涙を眠たげに拭うと、すぐにこちらに気付いた。呆けた顔で瞬きを繰り返した彼女の視線は冬生の制服に。同様に、冬生の目も彼女の制服に下りた。


 奇しくも、全く同じ制服だった。


 しばらく呆然とした冬生だったが、考えてみれば可能性は充分にあった。


 外見年齢は近いため学生だろうことは窺える。そして、この付近にある高等学校はそう多くない。わざわざ単身用の住宅に住むのなら当然、通学先に近い場所を選ぶだろう。それらを一点に結び付けると、江坂が冬生と同じ高校に通っている可能性はあり得る話だった。


「おはようございます。奇遇ですね。先輩……だったんですか?」


 冬生が挨拶ついでに尋ねるも、言ってすぐ、彼女の制服が新品同然だと気付く。


「いや、一年生ですけど…‥そっちも?」

「はい。今年入学の一年生です」

「そっか、じゃあ――同い年か」


 そんな言葉のやり取りを終えると、途端に気まずそうに両者の口が噤まれた。


 江坂はどう接すればいいか分からない様子で頭を掻いて不安そうな目を虚空に泳がせる。冬生も距離感に困って二の句を語彙の海から探す。一度沈黙が訪れると、それを打ち破るのは会話を維持するよりも遥かに難しい。幸い、焦燥感のようなものが尻に火をつけてくれるが。


「えっと、では改めまして、綾瀬冬生です。敬語は癖なのでお気になさらず」


 冬生が踏み込んで手を差し出すと、渚沙は目を白黒させつつ応じて頷く。


「あ、うん。えっと、江坂渚沙(なぎさ)です。よろしく。それじゃ――折角だし、一緒に行く?」


 渚沙が少し安堵しつつ空いた手でエレベーターの方を示すから、冬生は思案の素振りを見せる。とはいえ、今度も頭の中で返答は決まっている。特に拒む理由も無いどころか、拒めば隣人との関係は最悪だ。高校三年くらいは問題を起こさずに付き合っていきたい。


「是非。この辺の地理にはまだ慣れていなくて」


 どうやらお互いに社交的ではないらしく。登校する間、二人の会話は必要最小限だった。


 お互いの家庭事情には一切踏み入らず、ただ中身のない会話を交わし合う程度に留まった


「今日、どのくらいで終わるのかな」

「授業は無いと思いますが、クラスで親睦会のようなものはあるかもしれませんね」

「あー……そっか。そうだよね」

「面倒そうですね。そういうのはお嫌いですか?」

「分かるでしょ? 私の苗字とか顔とかで」


 改札を抜けて地図アプリを眺めながら冬生が先導をする最中、後ろから諦観の籠った投げやりな返答が帰ってくる。その言葉だけで彼女が江坂静流の親族であるかはやはり断定できなかったが、少なくとも彼女がその関連で困り果てていることは間違いなさそうだ。


 冬生はどう相槌を打てばいいのか分からなかったから、黙ってそのまま歩く。


 物言いたげな目が後頭部に向けられているような気がしたから、取り敢えず、頷いた。


「まあ、察しは付きますね」


 そうして二人は定刻より十五分早く高校に到着し、校門を前に緊張の表情を向き合せる。


 視線が合うと「同じクラスだといいね」と心にもない渚沙の言葉が来るから、「はは」と冬生は笑って「本心ですか?」と訊いた。「正直、どうでもいいかな」と無感情な表情がそっぽを向いたから「残念」と並び歩いて校門を抜け、入り口付近に置かれた大きな掲示板を仰ぎ見る。


 そこには新入生のクラス訳が貼り付けられており、それに従って体育館前の通路に整列するのが最初の集団行動だそうだ。人集りの後方に張り付いて二人で掲示板を睨み、顔を見合す。


「B組だったけど。そっちはどう?」

「お名前の一つ上を見ていただければ」

「『綾瀬』と『江坂』だもんね。見えてたよ、一年間よろしくね」

「ええ、よろしくお願いいたします。並びましょうか」


 高校の体育館には来賓用の外通路が設けられており、そこに合計五クラスの列ができていた。


 一クラスは二列で構成されており、並びは出席番号順だ。出席番号は余程の理由が無ければ姓の五十音で決まる。男女合わせて三十人のクラスで綾瀬・江坂の間に誰かが来る可能性はそこまで大きくない。そして、数奇にも二人横並びでB組の先頭に並ぶことになった。


 並び始めると周囲の生徒が騒然としながらこちらを――渚沙の方を見始める。女子は困惑と憧憬、羨望を。男子は興奮したように江坂を見て旧友と話し合っている。


「あの人、めっちゃ綺麗じゃない? 外国人?」

「顔もだけど、スタイルがやばいね。海外の血って感じ」

「後で連絡先聞いてくるわ。そしたらお前にも教えてやるよ」


 流石に、別格の美貌を持つとこういう時に大変そうだ。


 好奇の視線が大量に突き刺さる中、渚沙はうんざりした表情で黙って時間の経過を待つ。冬生は真横に彼女の小さな溜息を聞き、幾何の同情をしながら腕を組んで目を瞑った。


 それから間もなく入学式が始まり、何事もなく終わりを迎えた。


 終了と共に登場した各クラスの担任の誘導に従ってクラスは教室へと案内され、黒板に掲示された出席番号順に座席に座っていくことになる。冬生は廊下側最前列、渚沙はその後ろだ。


 今後は席替え等で離れることになるのだろうが、何とも数奇な縁である。


 そうしていざHRが開始するといったタイミングで、


「えー、申し訳ない。書類を忘れたのでちょっと待機をお願いします」


 若くくたびれた風貌の男性教師がそう言い残して教室を去って行き、しんと静まり返った教室だけが残った。


 だが、凪いだ水面に雨が降るように一つの囁きが別の囁きを許し、それらが集まった時、少し声量を抑えた程度の大きめの談笑が交わされる。すると誰もが免罪符を得たようにざわざわと新旧の友人と笑い合い、滅多なことでは収集のつかない状況へと変貌した。


 冬生は最前列の席でスマホを取り出し、誰とも話さずニュースサイトを読み耽る。決してこれを高尚な時間潰しなどとは思っていないが、しかし僅かな時間の会話でできることなど限られている。そこに労力を費やすくらいなら、一人で完結する方が省エネだ。


 だが、ニュースを読み耽っていると一際大きく甲高い哄笑が教室の一部から上がった。


「ちょっとぉ、それマジ⁉ なんでアタシがそんなことしないといけないのよ!」


 人目も憚らず手を叩いて笑うのは、如何にも自分に自信を持っていそうな上背の女子だった。周囲には同じく派手な女子の集団。


 既に備品の机に腰掛けて騒ぎ合い、小突いたり叩いたりと好き放題をしている。


 冬生は特に何事も無かったようにスマホに視線を戻すも、しかし集中しきれずに様々な会話が頭に入ってくるようになってしまった。この後に親睦会をしようとする女子達。倦怠感を主張する男子。アニメの話で盛り上がる男女。着々と、教室に様々な繋がりができ始めていた。


 そんな中、男子の中でも飛び抜けて目を惹く美形の男子二人組が教室後方で囁き合った。


「なあ、なあ! お前ちょっと、あの子に話しかけてきてくれよ」

「何故だ。お前の用件ならお前が行くのが筋だろう」

「いやだって、恥ずかしいじゃんか。なんか、狙ってるみたいで」

「事実なんだから恥じることはないだろ。俺を巻き込むな」


 特に大きな声ではなかったが、やはり第一印象の五割以上は視覚で決まると言われている通り、整った顔立ちの男子の会話には聞き入る女子が多いようだった。そんな会話で教室は不自然に静まり返り、彼らを気に掛けている女子の誰もがその動向を見守る。


 そして、その男子二人の視線は明らかに目立つ金髪の女子へと向けられていた。


 冬生は振り返る気など無かったが、どうにも視線が自身の背後に集まっている気がして仕方が無く、むず痒かった。しかし、彼女の注目が集まるのも当然か、冬生だって初対面で絶句するほどの美人と出会ったのは初めてだ。少なくとも第一印象で渚沙が好感を持たれるのは極めて自然な流れで、故に、少しだけ心配だった。


 案の定と言うべきか、それを良く思わない者達の視線が幾つか突き付けられ始めた。


 最も顕著なのは先程まで騒いでいた女子集団だろう。中でも一番五月蠅かった上背の女子が、苛立ちを隠さず渚沙を睨んでいる。化粧がやや濃く、容姿に関する拘りは強そうに見えた。


 ちらりとそちらを盗み見た冬生は、揉め事にならなければいいがと密かに憂いの息をこぼす。


 すると、そんな祈りも虚しく騒がしい女子集団の中の一人が「ねえ、玲子」と声を上げた。嫌な予感がして再び視線を寄越すと、眠たげな目をした女子が驚きを隠せない様子で上背の、玲子と呼ばれた女子へ己のスマホを見せる。


 「これ見て」「何?」という会話の後、玲子の目が見開かれる。


 嫌な予感がした。早く担任に戻ってきてほしいところだったが、やはり祈りは届かない。


「…‥マジ?」

「分かんない。大丈夫かな」


 眠そうな女子の報告そのものに悪意は感じられなかったが、それを聞いた玲子は明確に何らかの感情を持って含み笑いを浮かべ、彼女のスマホを奪う。そして、つかつかと歩き出した。


 途端に静まり返る教室。しかし玲子はそれを一切歯牙にもかけず、渚沙の真横に立った。


 渚沙が気怠そうな目を返すと、玲子は自身の勝利を信じて疑わない笑みで見下ろした。


「ねえ、アンタ。名前、江坂でしょ?」

「そうだけど。君は?」

「私のことなんてどうでもいいでしょ。それより、これ――」


 静まり返った教室で、玲子が渚沙の机にスマートフォンを置く音が嫌なくらい響いた。


 置かれたそれの画面を見た渚沙の目がすっと細められる。背後で揉め事が起こされている冬生はうんざりとした顔で介入を検討したが、一先ず、振り向かずに静聴することに決めた。


「アンタのお母さんって、江坂静流?」


 低いどよめきの声が地響きのように教室を包み込む。噂好きの女子が口に手を当てて何かを友人と言い合い、事態を見守っていた者は確かめるようにその名前を検索し、渚沙に近づこうとしていた美形の男子二人は、流石に驚きの表情を浮かべていた。


 それを見た玲子は勝ち誇るように「ねえ、どうなの?」と質問を突き付ける。


 止めるかは悩んだが、それは実際、冬生も気になっているところだった。


 それに、ここで止めたところで、あれだけ報道番組やネット上で騒ぎになっている江坂静流だ。見る者が見ればその関連性は窺える。来るべき事態が早速訪れたというだけの話だろう。


 喧騒が少しずつ、少しずつ収まっていって教室中の注目が二人に集まる中、渚沙は嫌悪感と倦怠感を隠さない表情でうんざりした目を虚空に逃がす。「ねえ」と玲子が獲物を見る肉食動物のように唇を舌で濡らすから、渚沙は観念して頷いた。




「そうだよ。もう所在は知らないけど、その人は私のお母さん」




 喧騒が爆発した。「やば」「ね」と囁き合う女子や、承認欲求に取り憑かれてSNSに何かを書き込み始めるクラスメイト。憧憬や羨望の眼差しは一転して畏怖や好奇に様変わりした。


 黙って話を聞いていた冬生も、大きく目を剥いて「マジかぁ」と小さく呟いてしまう。


 玲子は思い通りに事が進んだのを噛み締めるように嗤って頷くと、ちらりと先ほどの男子二人組の方を見た。二人が唖然としているのを確かめると、満足そうに目を細める。


「だってさ。怖いねぇ」


 玲子がクラス中に響き渡る間延びした声でそう言うと、もはや周囲の渚沙を見る目は腫れもの見るようなそれだった。


 小さな、小さな溜息が背後の渚沙から聞こえてきた冬生はどうにか慰めの言葉を考えるも、しかしこの場の空気を一転させる力は自分には無いと判断し、瞑目して時間が経つのを待った。




 それから間もなく訪れた担任は困り果てた様子で事情を把握すると、今後はその類の話を無暗にしないよう釘を刺した。


 そんな具合に一年B組の一年間は始まり、そして、あっという間に今日の予定が終わった。


 担任が号令をかけて終業を宣言し、そして生徒達は喧騒と共に各々の時間を過ごし始める。


 クラスの輪の中心に居る女子群は、同じく活動的な男子を掻き集めて親睦会の予定を打ち立て始める。それに招かれなかった者達は新旧の友人達と過ごす平穏な時間を選択した。


 それらを意に介さず冬生が鞄を担いで席を立つと、それを呼び止めるように誰かが目の前に来た。小柄で、黒縁の眼鏡をかけた如何にも文学的な女子生徒である。手にはメモ帳。


「あの、綾瀬さんだよね? 綾瀬冬生さん」

「ええ、そうです。初めまして、えっと――」


 冬生が視線を彷徨わせて彼女の名前が分かるものを探すと、察しよく彼女は微笑む。


「私は新島梓。一年間、よろしくお願いします」

「これはどうもご丁寧に、新島さん。よろしくお願いいたします。それで、ご用件は?」

「実は、その――何と言えば角が立たないかな。あの、ほら、あっちで」


 新島はクラスの中心で騒いでいる玲子達を一瞥し、冬生も、刺激しないように静かな目を続けて送る。親睦会の会場を選んでいる様子だった。頼むから酒だけは飲むなよと心で念じた。


「親睦会を企画してるみたいですね」

「そうなの。でね、えっとぉ……ほら、全員じゃないでしょ?」


 新島が気まずそうな顔で言葉を選ぶから、内容を察した冬生は口を隠して笑う。


「ふふ、そうですね。彼女のお眼鏡にかなった人だけが招待状を貰える様子で。なるほど――そうでない人を集めて親睦会を計画してくださってると」


 冬生が察して言いづらいだろう部分を言葉にすると、その表現方法には苦笑するものの「そういうこと」と新島が頷いた。「どうかな、綾瀬さん」と尋ねてくるから、冬生は瞑目した。


「新島さんは優しい方ですね。お誘い、本当に嬉しいです」

「じゃあ――」

「――ただ、お恥ずかしい話ですが、諸般の事情で持ち合わせが無くて。ご厚意を無下にして申し訳ないのですが、飲食店の類なら欠席させていただけると幸いです」


 事情が事情とはいえ自分の意志で選んだ一人暮らしだ。


 両親は不要だと言ったが、冬生の意地で家賃も生活費も定期代も自分のバイト代から工面すると返した。無論、初期費用は出してもらっているが――そこから行楽費を捻出するのは気が引ける。それ故、非常に不本意ながらこの誘いに応じることはできない。


 酷く肩を落としてそう詫びる冬生に、新島は目を泳がせ、声を潜める。


「えっと、その、聞いていいか分からないんだけど、ご家庭の事情? 苦学生的な」

「自分の意志で一人暮らしをしています。ですから、私の思い上がりでなければご提案いただけそうな、その、貸し借りなどの話も含めて、諸々辞退させてください」


 きっぱりとそう依願すると、新島は寂しそうに眉尻を下げて「そっかぁ」とどうにか食い下がる道を模索する。しかし冬生の意思が固いのを表情で察すると、弱い微笑を浮かべた。


「分かった。でも、次があれば綾瀬さんの都合も考慮して計画するね」

「ご配慮、痛み入ります。よかった――貴女のような人がこのクラスに居て」


 冬生が本心からの賛辞を新島に送ると、彼女は少し照れくさそうに頬を染めて「そうかな」と眼鏡の奥の目を逸らす。「そうだといいけど」と言うから冬生は微笑んだ。


 そして新島の表情が綾瀬の肩越しに向こう側へと向く。


「それで、えっと――」


 新島が何かを言いづらそうにしているから、冬生はバトンを奪って勝手に振り返る。


「江坂さんは如何ですか? 一軍未満で親睦会をするそうですよ」


 鞄を担いで今にも帰ろうとしていた渚沙は、ぐっと眉根を顰めた。


「…………え、私?」


 あんな話があって尚も誘う気なのかと言いたげな顔だ。


 だが、先駆けした冬生の言葉を呼び水に、新島は少し軽くなった口で「もちろん」と肯定して頷いた。渚沙は動揺したように目を泳がせて唇を閉ざし、返答に窮する。


 断りそうな雰囲気を察した新島は、彼女に大義名分を与えるように拳を握って熱弁した。


「恐怖は無知に根差すからね。知る機会があれば、江坂さんへの偏見も消えるはず!」


 とんだお人好しだ。冬生と渚沙は驚きと呆れを含んだ目をぶつけ合わせる。


 渚沙は困惑を隠せない様子で視線を泳がせた後、頭を掻いて殊勝に新島に向き合った。


「……気持ちは、本当に嬉しい。でもやっぱり、最初が肝心だから。だからこそ、私なんかに余計な気を遣って皆の門出を棒に振るってほしくないよ」


 渚沙は慎ましくそう辞退を伝えるも、自分が引き下がることで場を円滑に回そうという選択を肯定できるなら、こんな風にわざわざ全員に声を掛けて回ったりしないだろう。


 新島は納得しかねる表情で食い下がる。


「でも……」

「代わりに、次があれば必ず誘ってほしい。私の弁明の為に。できるだけ大勢を」


 新島が二の句を継ぎきる前に、渚沙は遮って妥協点を提示する。


 渚沙なりに歩み寄ろうという意思はあるらしく、それを認めた新島は嬉しそうに頷いた。


「う、うん、約束する!」


 そう言ってメモ帳に何かを書き込むと、それを見て肝に銘じるように何度か頷いた。


「じゃあ、今度、また誘うからね。二人とも」

「はい、お待ちしています」

「よろしくね」


 新島は軽く手を振った後、不安そうにこちらの様子を窺っていた集団の方へ戻っていく。


 それを二人で見送った冬生と渚沙は同時に鞄を肩に担ぎ上げ、再び視線を合わせた。ここでわざわざタイミングをずらすのも感じが悪いだろうか。冬生は提案する。


「帰りますか?」

「……だね。帰ろうか」




 行きと同じく、帰り道も二人の間で交わされる会話は中身の無い雑談だけだった。


 短い通学路を遡り、最寄り駅の改札を抜けて電車に。乗り換え無しの一本で近くの住宅街に降り、それから、平日の昼間で人気の少ない歩道を、静寂を切り裂くように縦並びで歩いた。


 話題が尽きて二人の間で交わされる言葉が減りつつあった頃、ようやくアパートのエントランスに到着する。エレベーターに乗り込んで冬生が六のボタンを押下。


 浮遊感が二人を支配する間、そこに言葉は無かった。


 今まで無言を許容してくれた住宅街の喧騒が消えると、静寂も幾らか心に残る。


 気まずくなってきたから、冬生は六階に停止したエレベーターの『開』ボタンを押し、わざわざ「どうぞ」と口に出して渚沙を追い出す。「ありがと」と彼女もわざわざ言ったから、きっと気まずいのはお互い様だったのだろう。


 外廊下を抜けて部屋の前に到着すると、ようやく冬生はほっと一息を吐く。


「それでは。また、明日からよろしくお願いいたします」


 冬生は鍵を鞄から取り出し、同じように鍵を財布から抜き出す渚沙へとそう挨拶した。


 抜き取った鍵を穴に刺し込んで捻ろうとしていた渚沙は、ふと動きを止めて冬生を見た。その表情は幾らか真剣で、その顔を見た冬生は真剣な話題だとすぐに察した。


「あのさ」


 冬生は鍵を持ったままノブに手を置き、「何でしょうか」と彼女に向き合った。


「その――あんまり私に気を遣わなくていいからね?」


 冬生は目を丸くしてマジマジと渚沙の顔を見詰める。


 真剣なその表情の節々には自己嫌悪と諦観が満ちていた。唖然とする冬生を見て、渚沙は自分の言葉が唐突過ぎたと思い直したように、断続的な補足を付け加えた。


「ほら、さっきも、言いづらそうな新島に代わって私に親睦会の話をしたり、あんな話があったのに何事も無かったように私に接したり。普通、怖いでしょ。結婚詐欺に強盗殺人を犯した女の娘なんて。しかも、綾瀬の場合は隣人。何があるか分かったもんじゃない」


 冬生はしばし呆けた顔でその話に聞き入っていたが、やがて我に返ると手を口で押さえて黙る。考え込むように視線を伏せると、やがて肯定するように頷いて視線を戻した。


「まあ、強盗殺人は確かに恐ろしいですね。死ぬのは怖いですから」

「結婚詐欺だって怖いでしょ。人を騙して金を取る悪行だよ」

「でも、悪いのは貴女のお母さんであって、江坂さんではないのでは?」


 冬生が正論を突き付けると、渚沙は少し泣きそうな顔を歪めて目を逸らす。


「被害者もそう言ってくれるならいいけどね。見たでしょ、クラスのあの雰囲気。悪いのが本人だなんて皆、百も承知。その上で加害者側に居た人間はまとめて悪者にする」


 そういう風潮があるのは否定できないだろう。冬生は物憂げに目を細めて首肯する。


「だから、私には気を遣わなくていいよ。巻き込み事故で恨まれたら迷惑だから」


 冬生はしばらく黙ってその言葉を噛み締め、幾度も反芻する。


 渚沙が訝しそうにするくらい、何度も、長々と咀嚼して熟考を繰り返す。やがて冬生は思考の海から浮上したように深呼吸をすると、微笑を浮かべ、扉に手を突いた。


「少し、面白い話をしましょう。江坂さん」


 「何? 急に」と困惑を隠せない渚沙の疑念が返ってくるが、それには返事をしない。


「なぜ私が一人暮らしをしているか、分かりますか?」

「そんなの知らないけど、実家がめちゃくちゃ遠いとか?」

「実家はここから電車で数十分の距離です。この家よりは高校から遠いので、家賃と定期代を考慮すれば、それは一人暮らしの合理的な理由にはなりません」

「じゃあ、何で?」


 痺れを切らした渚沙が投げやりに訊いてくるから、冬生は微笑んで簡潔に答えた。


「両親が嫌いなんです」


 すっと渚沙の顔から表情が消え失せ、その目が困惑に揺れた。口が何かを言いたげに何度か開閉し、やがて噤まれる。丁寧で物腰の柔らかい冬生から発された毒のような一言を飲み込むに少しの時間を要して、数秒でどうにか理解した渚沙は、そっと二回、頷いた。


「それがどうしたの?」

「なぜ嫌っているか分かりますか?」

「さあ」

「父が不倫をしました」


 まるで仮面を被ったように穏やかに笑い続ける冬生が不気味で、渚沙は表情に怯えを宿す。


 それを見た冬生は自分の顔があまり好ましくない表情を浮かべて居るのだと気付いて、揉む。どうにか愛想の良い笑みを取り繕ったが、渚沙の怪訝そうな表情が消えないから構わず続けた。


「父のスマートフォンからその事実が発覚し、開き直った父は本当に大事な人を見付けたから別れてほしいと母に言いました。最終的に二人は離婚し、それに心を痛めた母は塞ぎ込むようになりました。中学二年の話です。それから三年の半ば頃まで、私は勉強や部活動、友人を差し置いて失意に暮れる母の傍で、母を励まして過ごしました。そんなある日のことです」


 冬生は言葉が熱を帯びるのを懸命に堪え、強張った笑みでこう続けた。


「父が母に復縁を迫りました」


 渚沙はどうしてこんな話を聞かされているのか分からないながら、しかし同情できる境遇を聞いて傾聴に徹する。


「『両親』って言ってたね」

「ええ、母は再婚を承諾しました。拒絶する私の意思をよそに、惚れた弱みだと笑って」


 渚沙は絶句して相槌も打てずに黙り、対照的に冬生は笑う。


「私は愛という大義名分で人の気持ちも考えず傲慢に暮らす人が嫌いです。だから、両親が嫌いです。私がどんな思いで過ごしたのかも知らず、愛し合う自分達に酔っている」


 笑顔で吐き捨てる冬生に、渚沙は同情の目を向けることもできず頷いて相槌をした。


「君の境遇には同情するよ。でも……何の話?」

「ここからが本題です。復縁を迫る際、父はこう言ったそうです」


 あんまり冗長でも仕方が無い。冬生は問題形式にはせず、速やかに真相を語った。


「『騙されていた』と」


 穏やかな笑みでそう打ち明けた冬生の発言に、しばらく渚沙は不思議そうだった。


 しかし、どうにもその言葉が頭に引っ掛かる。


 渚沙が目を細めて思考に耽ると、段々とその言葉の裏側が見えてきて、その表情が驚愕に彩られていく。まるで真水に墨汁を垂らしたように顔色が変化していき、熱い息が漏れた。呼応するように息をこぼして笑った冬生は、唇を舌で濡らし、可笑しそうに続ける。


「曰く、結婚詐欺に遭ったそうです。詳しい話は聞いていませんが、相手の名前は聞きました。そして調べました。どうやらその人は最近、強盗殺人まで犯して、今は一人娘を置いて全国を逃げ回っているそうです。嫌でも目に入る情報です。はは、詳しいでしょう?」


 頭の中の『まさか』が少しずつ『真実』に塗り潰されていき、渚沙は緩やかに首を振る。


「冗談でしょ」

「私も貴女のお名前を聞いた時はそう思いました」


 一切冗談だと思わせない微笑でそう答えると、渚沙は揺れる目を外に逃がした。


「世界は狭いですね。教室では、思わず声が出ましたよ」


 呆然とする渚沙を一瞥し「さて」と冬生は話を切り替えた。


「話を元に戻しますが、悪いのは貴女のお母さんであって、江坂さんではない」


 ――被害者もそう言ってくれるならいいけどね。


 そんな、先程の渚沙の言葉が二人の間に漂う。


 同じ言葉を繰り返す趣味は無いが、この言葉には先ほどよりも多くの意味があった。


「私が貴女に向ける感情は気遣いや同情や心配ではありません。だからといって憎しみだとか復讐心の類もありません。それどころか、今は友愛の類も持っていないと断言できます。心の底から、貴女のことはどうでもいい。ただ、真っ当な人間として常識的な配慮をしただけ」


 だから、彼女がこちらを気遣って言った言葉の数々は無意味で無用なものだ。冬生は彼女を気遣ってなどおらず、人間が持ち合わせるべき必要最小限の人間性を行使したに過ぎない。


「ご納得いただけましたか?」


 冬生が持ったままだった鍵を錠前に刺し込んで尋ねると、渚沙は押し黙って思考に暮れた。


 しばらく呆けていたその表情は、与えられた情報を理解して嚥下するにつれ、錆が落ちるように苦笑へと作り変えられていく。同感だと返すように、冬生も苦く笑う。


 冬生の語った話が事実であるか否かを、渚沙はまだ確かめられていない。


 だが、もしも全て本当だとすれば、実に数奇な縁もあるものだ。


「――隣に引っ越してきたのが、君でよかった」


 全部を覆い隠して表面的な親睦を深めるより。全部を曝け出していがみ合うより。


 全てを理解した上で何事もないお隣さんで居られる方が、ずっと気が楽だろう。


 そして、江坂渚沙にとっても、綾瀬冬生にとっても、それができる世界中でただ一人の人間が隣人だった。冬生は苦笑して徐に手を振って、部屋の扉を開けた。


「誉め言葉と受理しておきます。では、また明日」

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