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明津一彩はヒトである。野望はまだない。
生まれも育ちも野良猫よりか遥かにいい「僕ら」は、いかにして生きていくのか。
動物として欠陥を抱えたヒトたちの、苦悩と未来の物語。
ーーーーーー。
引き戸の先にある広々とした空間には、ひとりの生徒がいた。
……いや、どうだろう。生徒じゃないかもしれない。
確かに彼女はうちのーーー平城山高校の制服を着ているし、先生だって名前で呼び捨てをしてる。だから状況証拠的には、彼女は紛れもないここの生徒だ。
だけど俺にはそうは思えない。
それは、俺が彼女を知らないからだ。
うちの学校は一学年で400人だから、全校で1200人いることになる。(現時点では卒業式後で入学式前ということで800人しか在籍していないけど)
その全員を覚えるなんていうのは至難の業だと思うし、クラス単位だって覚えきれてるか怪しい俺に限っては、もはや不可能だろう。
でもそれにしたって、彼女をうちの生徒として認めるのは難しい。
だって彼女は、綺麗すぎるから。
なにかで例えることが失礼だと思えてしまうほどの、呼吸を忘れて見入ってしまうほどの美が、彼女にはあった。
こんな生徒、本当にいたのなら噂になってるはずだ。それこそ、ぼっちを決め込んでる俺の耳にも入るくらいに。
でもそんな話は聞いたことがないから、彼女は本当にここの生徒なのか怪しい、というわけだ。
「柚月先生、入室の前には声をかけるようにとお願いしたはずですが。」
「いやぁ一応かけたんだけどなぁ。というかひなたはどうせ反応しないだろう。」
「先生が反応する前に入ってくるんでしょう。」
「ま、そうだな。じゃ、私はやることがあるからこいつは任せるぞ。」
ここの生徒じゃないとすれば、彼女はいったいどこの誰なんだろうかと考察する一彩をよそに、話は進んでいく。
「ちょ、任せるってなにをーーー
「こき使ってくれて構わない、ということだ。人手はあったほうがいいだろう。」
一彩の方を向き直った柚月は「そんなことを言われても」と抗議するひなたを振り返ることなく、今入ってきたばかりのドアに向かって歩き出して。
30畳かそのくらいの空間には、ひなたと呼ばれる生徒と一彩だけが残されるのだった。
「あなた、座ったら?」
「うぉっ!?」
「?」
俺は本当にやらかしてばかりだ。
昔からずっとそうだった。
択当てを何度やっても正解できないギャンブラーみたいな、なにをやっても良い方向にことが向かないインフルエンサーみたいな「悪」が俺にはある。
だから今だって考えるのに夢中になって、この状況でーーーあ、あれ?
「あの、柚月先生は?」
「先生ならとっくに出ていったわ。」
用事があるとか言っていたけどきっと嘘ね、と続く言葉も耳に入らず、一彩は驚きのあまり悲鳴をあげそうになる。
「あなた、紅茶とコーヒーならどっちが良いかしら。」
声が出そうになるのを我慢するのに精一杯な俺に、彼女は「淹れてあげるから」と気を配ってくれる。
この気配りには答えねばなるまい。
「じゃあ、紅茶で。」
絞り出すように応えた俺を一瞬振り返った彼女は怪訝そうな顔をしていたけど、やがて棚に向き直ってビンやらコップやらをいじりだす。
声が裏返っていたかもしれないし、聞き取りづらかったかもしれないけど、一旦。一旦これで、整理の時間が作れる。
まず、まず、だ。
彼女はなぜ平然としているのだろうか。
男と女、一つ屋根の下ふたりきり、だ。
しかもここは旧校舎の奥地(暫定)で、助けを呼ぼうとそれを拾える耳もないだろう。
極めつけには彼女の容姿だ。
身長は158くらいで、男子からすれば少し小さいと感じる大きさーーーだけど、これが良いのだ。
恋人の黄金比率と言われる男女の身長差は15センチで、高二男子の平均身長は170センチと少しだ。つまり、多くの男子が(理論上)理想とする身長、ということ。そして清潔感を感じる手入れの行き届いた艶のある黒の長髪に、校則の範囲内で短く折られたスカートが映える。ここまで来ると胸元の寂しさすら決して減点にならず、それどころか加点とすら捉えられる。
襲われるには充分すぎる。
……だのに、なぜ彼女は男に背を向けて呑気に紅茶を淹れているのだろうか。
俺が逆の立場なら絶対に無理だ。
「初対面の女子をジロジロ見るのはやめた方が良いわよ、気持ち悪いわ。」
「これは不可抗力だ。凝視されるような完璧を携えたそっちがーーー」
悪いと言いかけて、反芻の間に合った脳が緊急停止命令を出してきて、すんでのところで踏みとどまる。
「ーーー今、なんて?」
「?もしかして初対面じゃなかったかしら。ごめんなさい印象に残らない顔をしているから失念していたわ。」
ごめんなさいと軽く謝意を表す彼女に、俺は確信する。
やはりこの世界に完璧など存在しなかったのだ。
そんなものは夢想の存在で、創作の産物、男の夢は実現されないから夢なのだ。
つまり。
「毒舌はどんな長所も打ち消すデバフである」と。
「なんだかとても失礼な事を考えているような気がするのだけど、大丈夫かしら。」
「っ、大丈夫だ。元々俺は現実主義だった。ああ、そうだった。」
「?」
血涙を流しながら、勘違いで祭壇に祭り上げようとした彼女をそっと下ろす。
ああ、短い幸せだったーーー。
「何を言っているのかは分からないけれど、できたわよ。」
「あ、ありがとう。」
呆れ顔の元神から受け取ったカップは、じんわりとした熱気が手の内側をスチームしてくる。これ、相当熱くないですかね?
「確かに少し熱いけれど、冷まさないで飲んだ方が良いわ。」
それが適温だから〜と言う彼女は信じがたいけど…まあ、出してもらった身だし……
「そういえば、自己紹介がまだだったわね。わたしは須郷ひなた。この学校の二年生。」
「ああ、おいしっ。ん、よろしーーースゴウ?」
ふんわりと香る茶葉を楽しみながら口に運んだ火傷必至の液体が予想の5倍美味しかったこと、急な自己紹介、そしてスゴウという聞き馴染みがあるような苗字。一度にたくさんの感情を抱えてショートしそうになりながらも、なんとか。
「俺は明津一彩。明石大橋の明に、津田健次郎の津、一番簡単な漢字の一に、上戸彩の彩で明津一彩だ。同じく今学期から二年生。こちらこそよろしくな。」
「明津くん、ね。分かったわ。よろしく。」
「……そういえばここって、旧校舎の医務室なんだよな。こんなところでなにをするんだ?」
思えばなにをよろしくするのか知らないんだよなと口を開いた一彩に、ひなたはため息をついて、カップを持っていない方の手で頭を抱える。
「え、なに?知ってて当然みたいな感じだった?」
「いいえ、何も説明していない先生のいい加減さでふらっときただけよ。」
「柚月先生、けっこういい加減だよな。さっきも、いきなり教室に来ていきなり着いてこいーーーで。」
「あなたも災難だったわね。」
気がつけばここにいたと、両手を広げてイミフポーズをとる一彩に、わかるわぁと同調したひなたは、一呼吸置いてから、先生の不始末を回収しようと口を開く。
「ここは旧校舎の第一医務室。今は、未来部の部室になってるわ。」
「あし部?」
「アシスタントのアシと未来と書いてあすって読むのを掛けてるらしいわ。」
な、なるほど。ネーミングセンスはともかく、そんな部活は聞いたことがない。部って付くっていうことは、学校としても部活動として認めてるってことだし、それなら生徒総会の会計報告とか、組織一覧のところに書いてあるはずなんだけど。
「あなた、変な人ね。あんな冊子、読む人いないでしょう。」
ものすごい暇人なのね、と苦言を呈するひなただが、載っていないこと自体は否定しない。どうやら、こういった特殊な立地なのもそういうところに関係してきそうだ。
「まあ、それは後々でいいわ。どうせ説明するときが来るだろうし。」
「今じゃだめなのか?まだ8時前だしーーー
「だめじゃないけれど、先に説明しておかないといけない事ができたようだから。」
どうせ時間あるだろ?と説明を求める一彩の言葉を遮ったひなたは、スッと。陶芸のように細く艶やかな白い腕を、人差し指だけを伸ばした状態で入り口に向ける。
鈍い音で来訪者が入室を求めてきたのは、その動作の直後だった。
拝読ありがとうございます。
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