07 : Day -51 : Ginza
一日、いや半日でも、テツ乗りを楽しもう。
彼はそう決めて、朝早く、家を出た。
そもそも彼は本来、ただの鉄ヲタだ。
社会の底辺、鉄ヲタに休日を与えたら、その使い方は本来こうあるべきもの、という生態を観察する機会に恵まれたので、すこしばかり詳述しよう。
──テツ乗り。
いくつか行きたい場所がある。ゆえに行く。
行くのだが、そのルートは自由だ。ここに、テツの生きる道がある。
せめて楽しまないわけにいくだろうか? いや、いかない。
目的地までのルートが複数ある場合ほど、楽しいことはない。
まっすぐ最短距離で向かう。まあ、それもよかろう。
だがテツは、行き方にひとひねりを加えたがる。
渋谷から東京へ向かおう。山手線一本? バカめ! そんな素人みたいな乗り方ができるか!
とばかり、チューヤは品川で東海道本線に乗り換える。
いわゆる「湘南電車」だ。
JRは国鉄時代の名残で、都内にも広大な線路用地を有している。
必要最小限の線路しか敷いていない私鉄とちがって、贅沢に敷きわたされた線路空間、車両基地の様子を眺めることができる場所が、まだ都内にもいくつか残されている。
そこは品川駅のくせに港区。
再開発で消滅してしまったが、かつてはここに広大な車両基地、貨物用の線路、並ぶ機関車、錯綜する分岐、飽くことなく眺めつづけられる最高のレジャースポットが存在した。
いまや「高輪ゲートウェイ」などという、悪目立ちする名前で一世を風靡した空間に、当時の面影を見出しながら、至福の笑みを浮かべて電車に揺られるチューヤ。
もちろん山手線や京浜東北線からでも見えるのだが、クロスシートに座ってゆっくりと景色を眺める、などというぜいたくができるのは東海道本線しかない。
「感じる……」
テツらしく、ため息を漏らす。
なにを感じるのかは、長くなるので省くことにしよう。
チューヤは、とりあえず有楽町駅から改札を出つつ、そのまま地下を歩いて、銀座線、日比谷線、丸ノ内線が交錯する地下鉄の魔境、銀座駅へと向かった。
じっさい西荻窪からなら中央線一本で東京まで出られるし、荻窪まで歩けば丸ノ内線一本で銀座だ。
そんなアホみたいな乗り方ができるか! と、2時間ほどかけて、チューヤが銀座までやってきたことには、もちろん理由がある。
──午前10時。
開店の時刻だ。
「こんにちは」
店のドアを開くと、そこは古式ゆかしい「時計店」のたたずまいを、何十年と変わらず醸し出す、悠久の空間。
チューヤがドアをくぐった瞬間、店主の顔色が変わった。
歓迎されているな、と一瞬勘ちがいしそうになるが、店主の笑顔の意味をもちろんチューヤも知っている。
「いらっしゃい、テツイッちゃん」
チューヤが鉄ヲタだと知っているから、というわけではない。
母方の祖父の名が、哲一郎。
古い知り合いからは、テツイッちゃん、略してテッちゃんとも呼ばれている。
「どうも、おひさしぶりです。こんにちは」
「わかってるよ、オーバーホールだろ。さあ、早く出して」
サンタを待ちわびた子どものように、いい年をした老人がキラキラした目でチューヤを見つめる。
正確には、彼のもっている懐中時計を。
チューヤ3点セットを形成する一角。
ポケットから取り出された、精工舎のレイルウェイ・ウォッチ。
運転士などがつねに携行する、いわゆる「鉄道時計」だ。
「ああ、きちんと使っているね。丁寧に、そして実用に、使い込まれている」
「死ぬまで使いますよ。だから、お願いします」
チューヤの手が、それを時計師の手へ、たいせつに引きわたす。
彼にとっては祖父の形見であり、友人にとっては友情の証である、小さな機械式時計。
──機械式の時計業界は、もっぱら旧態依然とした職人の世界である。
修理職人の平均年齢は高く、50代、60代以上の職人も少なくない。
年をとっていたほうが技術が高いとすら思われる向きもあるが、必ずしもそうではない。ごく特殊な事例で経験が生きることはあるかもしれないが、若手でも優れた技術者はいくらでもいる。
それでも、いまここにいる年老いた時計師の技術が高いことは、だれも疑っていない。
杉田時計店。
銀座の一角に店舗を構える、知る人ぞ知る老舗だ。
銀座といえば和光が有名だが、その歴史は服部時計店(現セイコーホールディングス)にある。
現在は商業施設として経営され、その周囲のエリアには「時」を扱う場所が多い。
だからこのエリアには、誇らしげに「時の三女神」が配置されている──。
ふいに視線を感じたチューヤは、店内をぐるりと見まわしたが、人影はなかった。
脳裏に「時の女神」の姿が思い浮かぶのは、ゲームの影響だろう。
──街角に、不思議な女が立っていたら、それは「時」の結節点かもしれない。
無限に組み合わされるノード。その断章を、垣間見た事実。
それは過去なのか、あるいは未来なのか。
銀座は東京の中心で、不思議に「時」が封じ込められたパンドラの箱だ。
「すばらしい時計だ。無限の価値がある……」
杉田は、半ば恍惚として、使い古された機械時計を見つめる。
50年まえのアンティーク機械式時計で、完璧にメンテナンスされた、クオーツ並みの精度を誇る、19セイコー。
オークションに出せば数万、場合によっては10万以上の値をつける。
そのくらい鉄道時計のファンは多く、状態のよい個体は高く評価されている。
「それは使い込んでるから、そんなに値段はつかないと思いますよ」
機械式時計は宿命的に、定期的なオーバーホールを欠かすことができない。
壊れやすいという意見もあるし、じっさい壊れてもいるが、壊れやすさを判断するまえに、まず彼らが必要なメンテナンスを怠っていなかったかを確認すべきだろう。
機械式時計の歴史は、クオーツなどとは比較にならない。
その長い歴史のなかで、事実、百年以上動きつづけている時計が、無数にある。
言い換えれば、時計を長持ちさせる技術は確立していて、きちんとメンテナンスさえされていれば、その時計の信頼性は最新の時計よりも高いとさえ言っていいのだ。
「いや、見る人間が見ればわかるさ。この時計の価値は。外見はともかく、中身を見れば一瞬でわかる。この、一度も手入れを怠ったことがない、機械時計の美しさが」
オーバーホールは、故障したときに行なうのではない。
定期的にチェックして、故障を未然に防ぐことが目的とされる。
要するに「分解掃除」のことで、分解・洗浄・調整・注油・組立・点検などの一連の作業を指す。
修理とちがい、問題点を特定する手間がいらず、ただ慣れた作業を丹念にこなす技術と集中力があればいい。
「お世話になってます。じいちゃんのころから。……ええ、もちろん売る気なんてありませんよ。百万出されてもね。壊れないかぎり、死ぬまで使うつもりです。あ、壊れても飾っておきます」
じっさい一時的にでも時計を手放すと思っただけで、チューヤは背中にうすら寒さを感じている。
高級時計は一生モノだが、メンテナンス費用がかかることも、忘れてはいけない。使いつづけるつもりなら、毎年1万円かかる、と考えておいたほうがよいだろう。
なんとなく財布を出そうとするチューヤに、時計師は首を振り、
「いや、いいよ。いつも言っているが、もうテツイッちゃんから一生分、先払いされているんだ。この時計は、わたしが死ぬまでメンテナンスする、いや、させてくれ。壊れるものか。使われるかぎり、意地でも動かすとも」
時計屋として、時計を使ってくれる持ち主に、時間を報せることは最大の義務であり、喜びでもある。
高価な時計を趣味で死蔵されるのは、商売としてはいいが、それが本来的な業務とは思えない。
ポケットから時計を取り出した持ち主に、正確な時間を報せる。
その役割を果たさせるための最善を尽くす。
それが時計屋だ。
「じゃ、帰りに寄ります」
チューヤは深く頭を下げる。
手順の決まったオーバーホールに、それほど時間はかからない。
高い技術をもった時計職人の時間を借りても2~3万でできるのは、そのためだ(もちろん機種にもよるが)。
「ああ、夕方までには仕上げておくよ。わたしの手から離れるのは惜しいが、持ち主の手で仕事をすることが、この時計の喜びだ。……おまえが仕事を完璧にできるように、わたしの全部を注ぐよ」
時計に話しかけている……。
なんとなく気持ちがわかるチューヤは、静かに踵を返す。
チューヤが列車を愛するように、杉田老人は時計を愛する。それだけのことだ。
ちらり、と客の女がひとり、こちらをふりかえった気がした。
チューヤが視線を向けると、彼女はすでに背を向けていて、表情はわからない。
アンティークな振り子時計の正面に立って、その針をじっと見つめている。古い時計が好きな趣味人は、若い女のひとでもいるんだな、と思った。
チューヤが店のドアを開けると同時に、女は老人のところに向かった。
「その時計、売っていただける?」
まるでわざとのように、ドアが閉じた瞬間に発された女の声は、ぎりぎりチューヤの耳まで届かない。
「すいませんが、お客さん」
眉根を寄せる老人。
こんな非常識な提案を、聞いたことがないという表情。
「ほほほ……冗談ですわ。たいせつに使ってあげて」
女はころころと笑って、カウンターを離れていく。
老人は逃げるように、息子の嫁を呼び店番を任せる。
店舗の奥まった一角、一刻も早く作業室に引きこもりたい。
──そこは小さな精密作業空間。
この場所から、無数の機械時計が再生の息吹を吹き込まれ、旅立った。
メンテナンスの必要性は、時計のズレから判断できる。ズレが大きくなる原因は、たいていオイルが切れてきているからだ。
……問題ない。これほど完璧な鉄道時計を、わたしは知らない。
しかし、たとえ時刻がずれていなくても、つねに持ち歩かれている実用時計の場合、早めにオーバーホールしたほうがよい。
使い込まれた工具を手に、内蓋を取り外す。
内側に、最後にメンテナンスをした日付と、担当者を意味するマークがスタンプされている。
SSS──杉田時計店・杉田・シニア。自分だ。
前回のオーバーホールは、ちょうど2年まえ。変わらずに美しい。
もちろん使用にともなう汚れはあるが、その汚れじたいが、使われることによって要務を果たした、という意味で美しいのだ。
2年後、これをもう一度メンテナンスできるだろうか。
今回が最後になるかもしれない。
きゅっと目を閉じる。それから左目にレンズをはめ、作業机に向かう。
精密機械時計の宇宙が、そのさきには広がっている──。