05 : Day -52 : Hachiman-yama
個人宅なのに、ホテルのように並んだ便器があることを、チューヤはもう不思議にも思わなくなった。
このウォータークロゼットには、じっさいクロゼットの役割もあるらしい。
チューヤがじょぼじょぼと用を足している間に、ケートは制服を脱ぎ捨て、ラフな部屋着に着替えていた。
それは肩や腰が露出した、どこか扇情的なローブのような服だった。
「いくらおじさんだからってさ、そういう服は失礼じゃないの?」
意識的に視線を外しつつ、チューヤは数度、腰を振る。
「いいんだよ、これがあの人の趣味なんだから」
「……え? どういう意味だ、ケート」
「まんまの意味だよ。スターゲイザーがゲイダーからって、お星さまの言うとおり、ご勝手に、だろ」
唖然とするチューヤの横で、ケートは不敵に放尿を開始した。
「おいケート、まさか、おまえ」
「まさか? どうせ気づいてたろ。この期に及んで気づかないフリか? はっきりさせるのが、そんなにいやかよ」
いつもより挑戦的な物言いに、チューヤはたじろぐ。
「いや、まあ他人の趣味に口を挟む気はないけども」
「それでいい。世の中にはヘテロセクシャルだけがいるわけじゃないんだ。あの蛇女も、そうだろう?」
マフユのレズ傾向については、サアヤがうまいことコントロールしているが、ほっとけば速やかにリアルな事態に陥るであろうことは想像に難くない。
「性的少数者を否定するつもりはないよ。けど、さ」
チューヤはゆっくりと言葉を選ぼうとして、選びきれない。
「都合がいいんだぜ。おまえが口ごもる、まさにその理由によって、この件は醜聞にもなるからな。おかげであのおっさんは、ボクの言うことは、なんでも聞く」
ケートの愛らしい表情が、ときにひどく老成するのは、このような多様な経験と価値観の反映なのだろう。
理解はするが、納得のできないチューヤは小市民。
「そういうの、よくないだろ、ケート。そもそもカネなんか」
「ああ、ボクはべつにカネなんかほしくはない。腐るほどあるからな。欲しいのは、あのおっさんが持ってる力だ。ただの金持ちじゃない。学者だし、権力もある。ついでに同性愛者なだけだ」
「日本にいるインド人と学会関係のドンなのか」
「ついでに国際天文学のドンだよ。三鷹の所長なんざ、やってられないだろうな。国際天文学会の会長と、上部組織の世界科学会議の常任理事にもなってる」
手を洗っている間には咀嚼しきれない情報量に、チューヤの手の隙間から無駄に流れ落ちていく水資源。
ようやく手をもどし、備えつけのふかふかのタオルで拭きながら、
「なんか、すごそうだけど」
「名前はすごいよ。だがな、これが意外に、なんの力もない」
「え? だって、そのひとの肩書とか権力が目的なんだろ」
「人聞きがわるいが、まあ否定はしない。だがサイエンスってのは、そもそもカネにならない分野には、予算がまわらないって仕組みになってるんだ。おかげさまで、考古学と宇宙論にはカネがまわらない」
ケートも手を洗いながら、鏡に映る自分の表情に見入る。
チューヤの横顔がちらりと映ったのは、彼がまだ会話したいという意志表示だ。
「権力あるんだろ」
「ああ、それだよ。たしかにカネはまわらないが、知恵のまわる連中が集まってる。問題はここだ。才能の無駄遣いと世間から揶揄されても、知恵のかぎりを尽くして探求したいテーマが、ここにはあるんだ。その探求の成果を、ボクはまっさきに手にしたい」
「……カプセルも、それか」
「三月会やシキュウ同盟経由で、いろいろ流出してはいるが、基本テクノロジーを生み出したのは、われわれの組織だ」
鏡のまえでくるりと体を返し、ケートはゆっくりと目を閉じた。
なにを考えているのだろう。チューヤは自分の情報量が著しく足りないことを自覚しながら、探るような問いを向けることしかできない。
「まあ薬学系には資金まわるだろうし、ってことかな?」
「金になる部分ももってないと立ちいかないだろう、ってか。浅はかな考えだが、まちがいじゃないな。ただ、ボクらにとっての問題は、それをまっさきに手に入れるのは、ボクらだってことだ」
ケートは一歩踏み出し、チューヤをまっすぐに見つめた。
鏡越しではなく、まっすぐに同級生を見つめるこの視線から、チューヤはなぜか目をそらしてはいけないと思った。
「そうか。それは大事だよな」
チューヤの相槌に、ケートは優艶に微笑んだ。
どうやら選択はまちがいではなかったらしい。
「同意が得られてうれしいよ。そうだ、神でも悪魔でもない、人間が手に入れるんだ。世界にたれこめている暗雲を振り払える力があるのは、だれか。……いっしょにこいよ、チューヤ。おまえには、その資格がある」
チューヤが示したのは、けっして満腔の賛意ではないのだが、ケートはそう信じることにしたようだった。
「神でも、悪魔でも、ない」
「お嬢は神の下僕だし、蛇女は悪魔の手先だ。人間として立っているのは、ボクたちだけなんだよ」
「……リョージは?」
「あいつは、まあ、自分で考えて、自分の足で立っているかのように思い込まされてはいるんだろうが、バックにいるのは悪魔だ、信じるに足りん」
「インドの神さまに、ケートが同じように思い込まされている可能性は?」
一瞬、言葉に詰まるケート。
それが的確な返しだとすれば、まだ人間として考慮の余地がある。
「……どの道を選ぶかは、しょせん、各々が決めるしかない。チューヤ、おまえの立ち方を否定する気もない。だがな、その立ち位置は崩れ去る。崩壊する地盤に、いつまでも立ちつづけるのは危険だ。こっちの岩盤へこい。道はこの先につながっている」
「ああ、そうだな」
そうなのだろう。
頭のいいケートと、もっと頭のいい天才たちが、頭を寄せ集めて計算したのだから……そうなのだろう。
いつか、選ばなければならないときがきたら、そのときは──。
マフユが、ぽっこりと腹を膨らませていた。
もう食えねえ、と言いながら。
ずいぶん減ったな、と部屋にもどったチューヤとケートは「宴の跡」を眺める。
一方、プラネタリウムはヒナノの言葉を聞き入れて、あらためて動きはじめている。
「ベルエアを」
ヒナノの言葉に、ぴくり、と数人が反応する。
人工知能は一瞬、判断に迷ったが、ラーマパパのゼスチャーを同意ととらえ、ただちにデータベースから最新の観測情報とともに、引き出してくる。
「お嬢さんも、なかなかデリケートな部分を突いてくる」
「お褒めいただき、光栄ですわ」
当人含め、だれも褒めていないことは知っている。
「このまえ、部室で話したよね。地球にぶつかるっていう、小惑星でしょ?」
「だから、ぶつからないと言ってるだろ」
ケートはサアヤの横に立ち、その手にあるフライドチキンを食いちぎった。
──天体シミュレータは、小惑星ベルエアの軌道に、衝突軌道を重ねて投影する。
たしかに、かなり接近はするが、ほぼすべての計算が衝突の可能性を排除する。
「アメリカの当局は、本当にそう思っていますか?」
ヒナノの視線は、まっすぐにラーマパパをとらえて揺るがない。
アメリカ出身の天文学者で、政策決定に一定の影響を与えているという学会の重鎮だ。
ラーマパパは、ゆっくりと首をまわしながら、ケートの煽情的な衣服に目を止め、やや目じりを下げる。
「べつにいいだろ、パパ。知りたいってんだから、教えてやれよ」
「……まあ、かまわんか。オルドリンの車のことは、わたしよりもきみのほうがよく知っているはずだがな」
「ふん、元気かい、あのおっさん」
ふたりの会話に沿って、人工知能は空中に、件の人名の写真を投影する。
愛車であるクラシックカーの横で、にこやかに笑う白人の老人。
「オルドリン博士。たしか、ベルエアの第一発見者」
「通称キャプテンだ。そう、そして名づけ親でもある。そのクルマのことだよ」
ケートは、写真にあるベル・エアーに乗ったことがある。
ラーマパパの友人でもある素人天文学者は、その後、アメリカの政策決定に大きく関与することになった。
──最初の報告から一か月後、この小惑星が地球に衝突した場合に発生するエネルギーは、TNT火薬990メガトン、とNASAは発表した。
センメガショック! と、月刊『ヌー』も第一報を飛ばした。
新地球派の叫びを、アメリカを代表する科学番組、ネオ・ジオグラフィックスでも、しばしば特集している。
「インドは、アメリカと、組むのですか……?」
ヒナノは慎重に言葉を選ぼうとして、どうやら失敗したようだ。
神学機構が首根っこを押さえているEUサイドに立つヒナノとしては、第三軸である中国・インドの動きを、気にしないわけにいかない。
日本はアメリカ追従がメインストリームであるから、場合によってはインドとも野合する可能性がある。
nWoでつながる可能性も、もちろんないわけではない。
──そのとき神学機構はどう動くのか。
いずれここで得る情報は、きわめて重要と判断されるかもしれない。
「あっはは……。それはなかなかむずかしい質問すぎやしないかい、お嬢さん」
ラーマパパの乾いた笑いが、室内を上滑っていく。
「ネオコンの動きには、例のテロ以来、EUも敏感だよなあ、お嬢。たしかに、ネオグラの記事を見るまでもなく、現政権はけっこうEUに対しては冷淡だよ。だって、あいつらEUとか見下してるし、温暖化なんかどうでもいいと思ってるからな。なにしろ地球は、これから寒冷化するんだぜ?」
ケートの言葉に応じて、ネオ・グラフィックスの記事がいくつか並び、そこに重ねてアメリカ政界の重鎮が、つぎつぎと空間に投影されていく。
──ネオグラは、ネオコンの関係者に支持層が多く、政府関係の利権と密接に関係している。
男権主義的な部分が一部の共感を誘い、戦後の一時期に隆盛し、その後衰退したが、現在もつづいている、などと批判されている。
社会を階層化しながら客観性を主張するやり方であり、第三世界の住人を、ことさら異国的に表現し、性的なイメージを付与する、という批判記事を、ヒナノも読んだことがある。
彼女はイギリス『ネイチャー』派であり、アメリカのネオグラにはかなり距離を置く立ち位置だ。
「ベルエアを理由に、アメリカの選択にしたがえと、常任理事会で発言したでしょう」
ふつうの高校生が口にする内容ではないが、ここではごく自然に受け入れられた。
いつの間にか、プラネタリウムはニュースサイトのように、最新の地政学を投影する映写機に成り下がった。
アメリカの政権に巨大な影響を与えたのが、この「ベルエア派」と呼ばれる学者集団だった。
アメリカ国粋主義者たちの群れは、基本的に自国と、自分たちの利益しか考えていない。この点については、他国も多かれ少なかれ同様であるから、問題にはしづらい。
問題は、共通の敵が出現した場合、だれがイニシアティブをとるか、だ。
悪魔という喫緊の課題になぞらえ、アメリカは「ベルエア対策」を絡めることで、自分たちのやり方を採用すべきだと主張する。
各国はもちろん、各国なりの対策をとっているわけだが、アメリカは自分たちのやり方が最善だという。
アメリカは世界の警察ではないが、守ってほしいなら土下座をして頼め、という態度が透けて見える。
──地球を破壊するものがやってくるのだ。おまえらはおれたちがきらいだろうし、おれたちもおまえらがそんなに好きじゃないが、地球が壊れるのを黙って見ているつもりはない、おれたちが守ってやんよ。
アメリカの一部政治家が、このような発言をくりかえしている。
こうしてアメリカを中心とした宇宙計画が、悪魔対策に絡めて、展開されているという。
「アメリカの悪魔対策って?」
「信じられないと思うが、爆撃だよ」
ケートの言葉にしたがい、開かれた画面には空中を飛翔するドローンと、放たれるヘルファイア。
「はあぁ?」
「あの国のやり方は、ほんとにおもしろいぞ。そのうち日本に輸入されるかもしれないから、楽しみにしてようぜ」
ケートの皮肉に歪んだ唇には、自分の生まれ故郷である国アメリカに対する、ほとんど軽蔑しかない。
──だから、自然を守るとか、議定書とか協定とか、そういう縛り、おまえらが守るのは勝手だけど、おれらはいっさい関係ないから。それで貿易は対等に頼むよ。変な関税とかやめろや。言うこと聞けば守ってやるよ、悪魔と隕石から。
は? いや環境破壊とか、それはべつに地球壊れないから。多少生きづらくなる連中がいる程度で、それで第三世界とか、貧乏人が苦しむ程度なら勝手にしろよ。
だけどまあ、瞬時に大絶滅を起こすような隕石の衝突は、別かな。
映画もいろいろつくったし、しかたない、助けてやるよ、アメリカさまの世界最高の技術力と軍事力でな、感謝しろ、世界の愚民ども。
と、アメリカ人は恩着せがましく言いながら、その「世界一ィイィイ」の技術力を結集して、地球を救ってやろうとしてくれているのだという。
アメリカさまがそうおっしゃるので、世界は諾々とそれにしたがう。
20世紀後半まではデフォルトだったし、21世紀もそれなりによくあるパターンではあった。
「隕石はわからんでもないけど、境界にミサイルぶっこんで、悪魔が倒せるの?」
チューヤの疑心。
「当局は、そうおっしゃっているようですね」
ヒナノの冷淡。
「ほんとに、そんなので国民が守れるのかなあ」
サアヤの憂慮。
「ホワイトハウスの自画自賛発表は、とどまるところを知らないぞ」
ケートの軽侮。
「大統領の最後の求心力、というところはあるからね。じっさいベルエアは人類レベルで、なんとかしなきゃいけない、と日本の政治家もアメリカ寄りの発言をなさってる。再来週の大統領選も、現職優位で決まるだろう」
ラーマパパの総括。
「人類迷走か。困ったもんだな」
リョージの嘆息。
「どうせ滅びるんだよ。いいかげん、あきらメロン」
マフユの果実。
メロンは別腹とばかり、しゃるり、と口いっぱいに果物を放り込む。
その視線の奥深い闇の正体を、だれもえぐりだす勇気はない──。