第十三話 疑念
数年前──
もう少し計画的に進むべきだった。
じりじりと肌を灼く太陽の熱を忌々しく感じつつ、男は澄んだ湖の水を両手で掬った。冷んやりと心地よい水を顔に叩きつける。ここ最近で一番の贅沢だ。
「ふぅ〜……気持ちいい……!」
顔だけでは満足できず、頭から水をかぶる。服も濡れてしまったが、そんなことどうでもいい。むしろ、旅の汚れが落ちるというものだ。
チャポン、と何かが跳ねる音が聞こえそちらへ目を向ける。
「おお。アプカルルか」
視線の先では、アプカルルが気持ちよさそうに泳いでいる。人間のような見た目の上半身と、魚のような下半身をもつアプカルルは、きれいな湖にしか住まないことで有名だ。
それにしても、かれこれどれくらい歩いただろうか。まさか、飛翔魔法の使いすぎで魔力を使い果たすとは。
美しい銀髪から水を滴らせながら、男はそばにあった岩へ腰をおろす。
さて、どうするか。そもそも、ここがどこなのかまったく分からない。
普段は里にこもりきりで、他種族が暮らす地域へ足を運ぶことも少ないため土地勘もまったくないのだ。と、そのとき──
「……む? 誰だ?」
気配を感じ振り返った視線の先にいたのは、複数の青年。と言っても人間ではない。長く尖った耳と、強い警戒の色を宿した瞳。エルフだ。
「おお……エルフか」
「……ここで何をしているんですか? ここは我々が暮らすリエッティ村が管轄する地域。勝手な立ち入りは……っ!?」
青年エルフが言葉に詰まり、次第に顔が驚きに染まってゆく。自分が口をきいている相手がどのような存在なのか、認識したようだ。
「あ、あなたは……もしかしてハイエルフですか?」
銀髪の男は岩から腰をあげると、両手のひらをパタパタとふりながら笑みを浮かべた。敵意がないことを示す合図だ。
「ああ。私はハイエルフのクレオメという。旅をしているうちに方角を見失い魔力も尽きそうになり、ふらふらと歩いているうちにここへ辿り着いてしまった」
「そ、そうだったのですか。ですが、ハイエルフの方々が里から下界に降りてくるとは……」
「ああ。私は好奇心の塊でね。同胞からは変わり者とバカにされているよ」
屈託のない笑みを浮かべるクレオメから、至高の種族と呼ばれるハイエルフ特有のおごりはまったく窺えない。
「な、なるほど。とりあえず村までお越しください。旅の疲れも癒さなくては」
「おお、それは助かる。ここはお言葉に甘えよう」
丁寧に接してくれるエルフの青年に、クレオメは好感を抱いた。
「ええと、君の名前は?」
「私はクローバー・クライスといいます。村長には私から話しておくので、ぜひ私の自宅でのんびりしてください」
「いやあ、本当に助かるよ。あ、それはそうと、この村が属するのは何という国なんだい?」
複数国の国境が複雑に入り混じる地域を通ってきたため、クレオメは今自分がどのあたりにいるのか分からなかった。
「ここはバジリスタ。あなたと同じハイエルフであられる天帝、サイネリア・ルル・バジリスタ様が治める国です」
隣に並んで歩くクローバーが、誇らしげな顔をクレオメへ向ける。一方、その言葉を聞いたクレオメの眉がぴくりと跳ねた。
「バジリスタ……。そうか、ここが……」
「おお、やはりご存じなのですね!」
嬉しそうにはしゃぐクローバーを見て、クレオメは苦笑いするしかなかった。たしかにバジリスタのことは知っている。というより、ハイエルフなら誰もがその名を知っているはずだ。
「ここは首都から相当離れた小さく辺鄙な村ですが、首都のアストランティアはそれはもう素晴らしい繁栄ぶりなのだとか」
クローバーがやや興奮気味に口を開く。
「実は、私の姉が首都の学園で学んでいるんです。いつか天帝陛下のお役に立ちたい、と。姉はとても頭がいいので、必ず夢を叶えるんだと思います」
「へえ、それは凄いね」
「それに、この村もこれからもっと発展すると思いますよ」
「それはどうして?」
「ふふ、お耳を……」
しゃがんで顔を寄せたクレオメに、クローバーがそっと耳打ちをする。話を聞いたクレオメの顔に、わずかな驚愕の色が浮かんだ。
「それが本当なら凄いね。繁栄間違いなしだ」
「そうでしょう?」
再び歩き始めたクレオメは、少し思考を巡らせる。そして──
「なあ、クローバー。秘密を教えてくれた代わりと言っちゃなんだが、私もとっておきの秘密を君に教えてあげよう」
「え、何ですか?」
「君たちが敬愛している天帝のことさ。だが、この話は決して他言しないほうがいい。それが君たちのためだ」
目をぱちくりとさせるクローバー。聞いていいものかどうが、判断がつかないといった表情を浮かべている。が、結局好奇心には勝てなかったようだ。
クレオメがクローバーの耳元へそっと顔を寄せる。
「君たちが敬愛する天帝。実は、あの子は……」
「……なっ──!!?」
話を聞いたクローバーが思わず後ずさる。その顔がみるみる真っ青になり、体も小刻みに震え始めた。
「う、嘘です……そんなこと! あ、ありえない……!」
「本当のことだよ。我々の同胞のあいだでは有名な話さ」
ガクガクと全身が震え始めたクローバーは、そのまま力が抜けたように地面へ崩れ落ちる。驚いた仲間が駆け寄り声をかけるが、クローバーの耳にはまるで届いていないようだった。
──アシュリーたちが学園を卒業した三年後。
窓の外はすっかり暗くなっていた。椅子に腰かけた状態で窓から夜空を見上げると、両端を鋭利に尖らせた三日月がぼんやりと怪しげな光を放つ様子が視界に映る。
ネメシアは小さく息を吐くと再び机へと向き直り、束になった書類を乱暴に掴んだ。
まったく、人手不足にもほどがある。束で掴んだ書類の一枚一枚に視線を這わせるネメシアの眉間にシワが刻まれる。
特にここ最近の忙しさは異常だ。おかげで仕事を終える時間は日に日に遅くなり、ほぼ毎日のように職場の窓から月を見上げている。
正直なところ、三年前には自分がまさかこのような仕事に就くとは思ってもいなかった。いや、自分だけではないはずだ。友人に知人、家族、誰もが耳を疑い信じようとはしなかった。
ネメシアが今いる場所は、バジリスタの治安維持機関、通称『サイサリス』の拠点である。国の治安を維持する役割を担う機関であり、首都であるアストランティアはもちろん、バジリスタ全土の治安維持に務めている。
日常における市街地の巡回や犯罪者の捕縛。バジリスタの治安を守るためなら、拷問や暗殺といった物騒なことにも手を染める組織だ。
三年前、バジリスタ学園を卒業後、特にすることもなくぶらぶらと日々をすごしていたネメシアは、偶然にもテロ組織の拠点を見つけてしまった。
友人と待ち合わせしていた店を間違い、足を踏み入れた建物がテロ組織の拠点だったわけだ。タイミングが良いのか悪いのか、ちょうど組織の幹部が全員そろっており、ネメシアは口封じに殺されそうになった。
が。学生のころからバジリスタ屈指の怪力無双と評されていたネメシアである。その場にいたテロ組織のメンバーと幹部を、たった一人で見事に返り討ちにしてしまった。
これが大手柄となって、当時のサイサリス長官からスカウトの声がかかった。ドワーフの地位が決して高いとは言えないバジリスタにおいて、学園を卒業したばかりの、しかもドワーフがサイサリスの職員に抜擢されるなどということはあり得ないことである。
しかも、ネメシアはサイサリスに就職してからというもの、次々と実績を積み上げていった。自分たちドワーフが、ヒエラルキーの底辺に位置することを理解していたからこそ、揺るぎない反骨精神のもと職務を忠実にこなしていたのかもしれない。
着実に功績をあげ続けたネメシアは、順調に出世街道を進んだ。その結果、三年も経たずにサイサリスの長官に任命されるという、前代未聞の快挙を果たしたのである。
もちろん、ドワーフをサイサリスの長官とすることに反対の声もあった。が、エルフの前長官がネメシアを強く推したこと、三年間で驚くべき功績をあげていることを示し、反対勢力を黙らせることに成功した。
その後、天帝サイネリアから正式に長官就任の辞令が交付され、ネメシアは若くしてサイサリスを統括する地位を得たのである。
書類を隅々までチェックしていたネメシアの目が動きを止めた。そこに記載されていたのは、最近起きたあるテロ組織による事件の内容だった。
事件の現場となったのはここアストランティア。バジリスタでもっとも繁栄し、日常的に大勢の国民が行き交う首都でテロを敢行したのは、『緋色の旅団』である。
国の中枢に位置し、天帝サイネリア・ルル・バジリスタを支える存在でもある長老衆。その長老衆の一人が件の組織によって殺害された。
ネメシアも事件の内容についてはすでに把握していたが、改めて同事件について記載された書類へじっくりと目を通してゆく。
思えば、ここ最近における『緋色の旅団』は動きが活発すぎる。かつて、天帝を暗殺しようとした『バジリスタ解放戦線』が瓦解し、多くのメンバーが『緋色の旅団』に合流した。
その結果、組織の規模は大きくなったのだが、『緋色の旅団』はもともと地方都市でのテロが活動の主軸だ。それが、最近は首都アストランティアでの活動も増えている。
ネメシアは、机の端に積まれている書類の山から数十枚を束にして掴みとると、素早く書類に目を通し始めた。やはり、ここ一、二年は『緋色の旅団』によるものと思われるテロがアストランティアのあちこちで発生している。
やり口が残忍かつ過激になっているのも気になるところだ。先だって殺害された長老衆の一名は、自宅にいたところを邸宅ごと爆破された。
しかも、事前に斬奸予告を送りつけ、標的が自宅に引きこもったところを屋敷もろとも爆殺している。通常、斬奸予告など出されたら、外での襲撃を警戒し安全な場所へ引きこもるのが普通だ。それを逆手にとった巧妙なやり口である。
また、別の事件では行政機関の施設に爆破予告を送りつけ、慌てて建物から逃げてきた職員たちを離れた場所から魔法で攻撃するといった方法もとっていた。正直なところ、手がつけられない。
書類を机の上へ置いたネメシアは、椅子の背もたれに背中を押しつけると、天井を仰いで大きく息を吐いた。疲労が溜まった目を何度か瞬かせ、首を左右に傾ける。
ゴキン、ゴキンと不穏な音が自分の耳にも届いた。再度机へ向き直ったネメシアは、気になる書類を何枚か手にとると、革のバッグへと詰め込み帰宅する準備を始めた。
――待つ者がいない自宅へ帰ったネメシアは、革張りのソファへどっかりと腰をおろすと、欠伸をしながら思いきり伸びをした。
日々、テロリストやその他の犯罪者とやりあっているネメシアにとって、自宅だけが唯一寛げる場所である。サイサリスの内部にさえ、ネメシアの失脚を虎視眈々と狙う者がいるくらいだ。些細な失敗や怠惰すら許されない。
ソファから立ち上がったネメシアは、ダイニングテーブルの上に置きっぱなしにしていたグラスへ、アルコール度数の強い酒を注いだ。グラスを手にとり、琥珀色の酒を勢いよく喉へ流し込む。
「……っぷはぁーー!!」
やはり仕事終わりの酒は格別だ。親父やお袋が、あれほど酒好きなのも頷ける。こんな美味しいもの、飲まないのはもったいなさすぎる。
グラスを手にもったまま再びソファへ腰をおろした。グラスを口へ運び、そしておもむろに天井を眺める。
バジリスタ学園を卒業して三年。毎日仕事に追われ忙しい日々をすごしてきた。あまりにも忙しかったため、おかげさまで余計なことを考える時間もなかった。が――
「……アシュリー」
ともに学び舎で切磋琢磨してきた学友。バジリスタの未来を担う真の天才と呼ばれたエルフの少女。どれほど仕事に追われ多忙な日々を送っていても、ネメシアがアシュリーのことを忘れることは一日たりとてなかった。
あのとき、アシュリーはたしかに首都アストランティアへ戻ってくると言っていた。故郷へ戻り、親兄弟へ卒業の報告をしたあと必ずここへ戻ってくると。天帝陛下の役に立つのだと、たしかに彼女はそう言った。
だが、俺はあの日以来、彼女の姿を一度も見ていない。そう、卒業式の日、湖で会話を交わしたあと、アシュリーは忽然と俺の前から姿を消したのだ。一週間、一ヶ月、半年、一年、二年。彼女は戻ってこなかった。
「いったい、何があったんだ。アシュリー……」
里心がついて、ここへ戻ってくるのが嫌になった、という可能性もなくはない。が、アシュリーに限ってそれはないように思える。あれほど天帝を妄信していた奴が、里帰りしたくらいで心変わりするとは思えない。
ほかに考えられるとしたら、結婚や出産だ。里へ戻ったとき、旧知のエルフと恋仲になり、そのまま結婚した、ということも考えられなくはないだろう。だが……。
『こめん、嫌だった?』
あの日、湖畔で突然アシュリーに口づけされたときのことを思い出す。いきなり唇を塞いできた彼女は、『ごめん、嫌だった?』と悪戯っぽい目を向けてきた。
ネメシアの唇には、あのときの感触がまだはっきりと残っていた。当時のことを思い出し、頬を紅潮させながら首をぶんぶんと左右に振る。
正直、そのような結末もあまり考えたくはない。別に、アシュリーとは恋人同士でも何でもなかったが、何となく想像するのも苦痛だ。それに、天帝陛下のお役に立ちたいとあれほど言っていたアシュリーが、あっさりと結婚するなど現実的ではない。
となれば――
最悪の事態がネメシアの脳裏をよぎる。その可能性について、一度も考えたことがないわけではない。が、なるべく考えたくはないと思っていたのだ。つまり、アシュリーの死。
事故や病気、他種族との戦闘など、死を迎える原因は多々考えられる。正直、もっとも当たってほしくない予想ではあるが、もっとも現実味があるのもこれだ。
だが、もし彼女が亡くなっていたとすれば、そのような話の一つは二つは耳に入ってきそうなものである。しかし、これまでそのような話は一度も聞いたことがない。
「はぁ……」
ダメだ。考えただけで気が滅入ってくる。疲労が溜まっているせいか、今夜は特に気分が落ちる。このようにモヤモヤした状態で、明日から通常通り任務をこなせるのだろうか。
「……よし」
ネメシアは、自分の気持ちを整理するためにも、アシュリーが今どこで何をしているのか調べることにした。これでもサイサリスの長官である。それなりの権力と裁量はもっている。きっと調べられないことはないはずだ。
自分で自分を無理やり納得させたネメシアは、グラスに残っていた琥珀色の酒をおもむろに飲み干す。飲み終えたグラスをコトンとテーブルへ置いたネメシアの目には、強い決意を示す光が宿っていた。




