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止り鮎

作者: 仲音由彦

 背後に気配を感じ、刀を抜いた。

 視線の先にいたその男は、村越弥九郎をじっと見据えた後、両手を広げ、武器となるものを何も持っていないことを示した。

 弥九郎は次第に警戒を解くように刃先を下げ、やがてそれは鞘に納められた。


 道とも言えないような道を一昼夜歩き通し、この河原にたどり着いた。目指す領内は目と鼻の先にあるのに、そこが既に自分の帰る場所では無いことも知っていた。

「沢窪のお殿様んところのお侍さんかい?」

 男は弥九郎と並んで河原の砂利に座り、弥九郎は男の問いかけに無言で頷いた。

「そいつは災難だったな。」

 男が黙って握り飯を差し出す。はじめ弥九郎はそれを無視しようとしたが、男がしきりに勧めるので、仕方なくといった体で受け取った。腹は減っていた。昨日の夕刻から何も食べていなかったからだ。男はこの川で漁をして日々の暮らしをたてていると言った。

 無骨な見栄えの握り飯はしかし、米の甘い味が弥九郎の脳天を突き、それは瞬く間に胃袋に収まった。


 国境を領地とする桐山某という武田方の武将が、近いうちに沢窪の城に攻めて来るとの知らせが入ったのは今から十日ほど前のことだった。

「我らには兵も食料も十分ではない。三俣の城まで行って援軍を頼むほかは無い。」

 弥九郎の主である沢窪城主の奥寺信政は、そう言って弥九郎に使いの役目を言い渡した。

「頼むぞ。そなたが奥寺家の命運を握っておるのだ。」

 先代が急逝し、二十一の若さで奥寺家を継いだ信政は、弥九郎にとって主君というより、兄のような存在だった。信政からの命令を受け、三俣の城で援軍の約束を取り付け、高揚した気分のまま帰途についた弥九郎の耳に信じ難い報がもたらされたのは、道中半ばまで進み、つかの間の休息を取っていた時だった。

 桐山の兵が沢窪城に攻め込み、城はわずか数時間で落ちた――。

 旅人を装い地元の民から得た情報によると、信政は城にて自刃、奥方も城から逃げる途上で捕らえられて殺されたとのことだった。

 仲の良い夫婦だった。信政の横でいつも穏やかに微笑んでいた奥方の顔が、思い浮かんでは消えた。

 そこからは試練の旅路だった。

 領外へ落ち延びようとした奥寺の将兵は残党狩りに遭い、ことごとく斬られた。領内へ戻ろうと足を進める弥九郎も、闇夜の道中で何度か桐山の兵や武器を手にした農民に囲まれ、一度は山中の獣道に逃れ、もう一度は二人に槍で襲いかかられたが刀を抜いてはたき落とすと、相手は恐れをなして逃げ去った。

 そうやって夜通し駆け抜け、あと僅かで沢窪の領内というところまでやって来た。そしてそこで気力が尽き、夜明けの河原に座り込んだところで、男に出会ったという訳だ。


「あんた、これからどうするんだ?」

 男は弥九郎にそう、聞いてきた。ぼんやりとした答えしか思い浮かばず、投げやりに返した。

「駿河まで行こうと思うが、道が分からぬ。途中で落ち武者狩りに遭うやもしれず、途方に暮れておる…。」

 悪いことは言わないが…。男はそう前置きしたうえで、はっきりと言い放った。

「間違いなく遭う。南へ向かえば人の多い町中に出る。東へ進んで山の中を通れば迷った挙句、地元の民に刃を向けられる…。」

 ならば、わしはどうすればよい…。もはや笑うしかなかった。行き場所は何処にもなかった。領内に戻っても桐山の兵がうろついており、戻らず別の場所へ向かおうにも、やがて奥寺の家来だということが見破られれば、槍で突かれて絶命する。

「握り飯一つだけでは腹が持たないだろう。」

 男はそう言って、河原の少し離れた場所まで歩き、二本の串を抜き取って戻ってくると、うち一本を弥九郎に渡した。

「鮎か…。」

 焼き魚の香ばしさが、弥九郎の食欲をそそる。こんな時でも腹は減るのだ、そう思うと僅かに気が晴れるような感を覚え、男に勧められるがまま、それに齧り付いていた。

「旨い。」

 沢窪川で獲れる鮎は味が良いとされ、旬のものは、駿河にいる今川の殿にも届けられていると聞いたことがある。

「わが殿も…初夏の鮎は絶品だと、そう言われていた…。」

 信政が家を継いだと時を同じくして今川の先代も戦で討ち死にし、程なくして国境の武田方からの脅威に怯える日々が始まった。

 腹を満たし、少しだけ頭が働きだしたところで、弥九郎は男に問いかけた。彼に対して刀を抜いたその時から思っていたことだった。

「ひとつ聞きたい。」

 何なりと、と男は返した。

「わが殿は、良いお人だった。」

 弥九郎はそこで少しだけ間を置き、続ける。

「だが力は無い。城も小さければ兵も少ない。その家臣であるわしなど、武田方にとっては取るに足りぬ存在かも知れん。それでもこのわしの首を持って桐山の陣へ参れば、少しばかりの褒美はもらえよう。そなたは何故そうせぬ?」

 男は少し考えて、それから答えた。

「誰かの首と引き換えに褒美をもらったところで、今度は褒美をもらった人間の首を狙う奴が出てくる。それじゃあ終わりが無い。その事に誰かが気付くべきだ。」

 初夏の朝日に照らされた川面を見ながら、男はそう言った。山中に粗末な小屋を建て、猫の額ほどの畑を耕し、川魚を採って日々を生きているこの男には、もしかして過去に、今の自分と同じような何かを失った経緯があるのではないかと弥九郎は思った。思ったが、それを問うことは出来ず、男もまた、それ以上何も話そうとはしなかった。


「行くなら駿河ではなく、西へ向かった方が良い。」

 不意に男が立ち上がり、そう告げた。

「駿河は、先代がいなくなり、これから落ち目になっていく。国は乱れ、人が人を殺めるのが日常となるやも知れぬ。ならば西の方が良い。」

 弥九郎は腰を下ろしたまま、男を見上げる。男はじっと川面を見つめたまま、やがて言葉を続ける。

「三俣への街道の途中に分かれ道があるだろう。そいつを三俣へ行く左ではなく、右に進めば三河にたどり着く。険しい道程だが、そのぶん人と会うことも少ない。」

 三河に入ったら、しばらくはそこに潜んで時を稼げ、と男は言った。

「止り鮎、という言葉を知っているか?」

 いいや、と弥九郎は首を振った。

「鮎はふつう一年で一生を終えるが、稀に冬場も水底に潜んで翌年の春を迎えるものもいる。」

 そいつのことだと、男は言った。

「あんたも三河の地に潜んで、来るべき時をむかえたらどうだ? 時が来れば世は変わる。あんたみたいな人間には、できれば生きてもらいたい。」

 秋口には川を下り、産卵を終えれば命が尽き、そのまま朽ち果てるのが定めながら、中には他のどの鮎も知ることの無い、その先を生きる個体がいるのだということは、今の今まで知らなかった。

「わしにはもう、何も無いと思っておった。その先のことなど、今は考えられぬ。」

 山深いこの地に生まれ、子供のころから信政の傍に仕え、そこで生涯を全うするものと信じて疑わなかった。主のいない領外での人生など、ほんの数日前まで想像だにしたことが無かった。

「戦の世の、定めだ。」

 男はそう言って、足元の小石を拾い、川に向かって投げた。小石は何度か水を切り、対岸に着く少し手前で水中に没した。


 背後で草木が揺れる。

 弥九郎が振り返った時、それはすく傍まで来ており、刃先はすでに弥九郎を捕らえられる位置にあった。

「奥寺の残党か?」

 鎧に身を包んだ桐山の兵らしき大柄な男が刀を振り下ろす。弥九郎は鍔に手をかけるのが一瞬、遅れた。

 一閃したそれに体を切り裂かれたと思ったが、その場に倒れたのは隣にいた男だった。

「其方…わしの代わりに…。」

 男はすでに虫の息だった。傷は深かった。

「あんたはまだ若い…。」

 血を吐きながらそれだけ言うと、男は息絶えた。弥九郎は桐山の兵を睨みつけ、刀を抜くと相手も応戦してきた。刃先がかち合う音が何度か鳴り響いたのち、弥九郎の刀が相手のそれをはたき落とし、それから躊躇することなく首筋をめがけて振り下ろした。

 河原に二つの亡骸が横たわる。

 弥九郎はそのいずれにも手を合わせ、その場を立ち去った。手厚く葬りたいと思ったが、ほかの桐山の兵がいつ襲って来るとも知れず、留まるのは危険と考えた。


 三河への道程は、想像した以上に厳しかった。大きな川に沿って進んだかと思えば、それが途切れ、険しい山の中を進まなければならない箇所も多かった。落石によって道が塞がれた場所では崖の斜面を進んだこともある。だが男が言ったように、道中で人と会うことは殆ど無かった。

 やがて視界が開け、田畑が道の両側に現れるようになると、ぽつぽつと民家が点在するようになった。三河の国の外れに入ったのだと、弥九郎は思った。

 男はこの地に潜んで、来るべき時を向かえたらどうだと言った。実際、潜み方すら弥九郎には分からなかったが、それでもどうにかするしかないとは思った。

 時が来れば世は変わる…。

 生かされた自分は、それを信じてみても良いような、そんな気がした。


 沢窪の川よりも、ずっと小さな川が水田の間を流れている。そこから引いた用水の上を、水車がゆっくりと回っている。初夏の日差しが川面に映っては反転し、その先で一匹の魚の影が、中空に舞ったような気がした。


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