仮面夫婦はもう終わりにしましょう~素直になれない幼妻は怜悧な夫からべた惚れされていることに気づかない~
年上クールな男が幼な妻に絆されちゃうお話♪
春――それは華やかな社交の季節の始まりを意味する。
私ミネット・アルブレヒトは、古くから王家に仕える由緒ある伯爵家の一人娘として、惜しみない愛情と教育を受けて育った。
当然ながら結婚相手にも同等以上の家格が求められる。もしかしたら舞踏会で素敵な男性と出会って恋に落ちることがあるかもしれない、そんな淡い夢を抱いたこともあった。
そして――それはただの夢に終わる。
「では今夜はこの辺りで失礼させていただこうか、ミネット」
夫であるヴィルジールの甘い声に名前を呼ばれて、ハッと現実に立ち戻る。
「ええ。そうね」
隣に立つ彼に、にっこりと笑い返すと、ぎゅっと肩を抱き寄せられた。彼がつけている落ち着いた甘さのフレグランスの香りがふっと鼻をくすぐる。
オフショルダーのすみれ色のドレスは今夜の為に仕立て上げられた特注品で、わずかに彼の指先が肌に触れ、その温かさにどきりとした。
「あら、そうなの。また、いらしてくださいね」
「はい。ぜひまたお声をかけていただけると嬉しいです」
夜会の主催者である夫妻と挨拶を交わす間、私の顔から笑みが消えることはない。
「アルブレヒト夫妻は、結婚して五年も経つのにまだまだお熱いわねえ」
「なんでもヴィルジール卿からミネット様へ猛アピールされたとか」
「あれだけ見目麗しく聡明な方に愛を囁かれたら断る理由なんてありませんもの。少々身分が釣り合わなくともミネット様も夢中になるでしょうね」
「今日のドレスも遠い異国で織られた特製の生地で仕立てられた物なんですって。わざわざそこまで手をかけて下さるなんて奥様が羨ましいわ」
「素晴らしいドレスだと思って見ておりましたの。王都でも取り扱ってくれないかしら」
周囲から噂好きな貴婦人たちの会話が耳に飛び込んでくる。
(全部聞こえているわよ)
笑顔を絶やさないように努めながら、隣に立つヴィルジールと共に軽く一礼してホールを後にした。
馬車に乗り込み、ゆっくりとそれが動き出すと、スンと彼女の顔から力が抜けて笑みがなくなる。
「そのドレス、好評だったようだな。買いつけの話はついているから来月には王都の店にも生地が並ぶだろう」
はす向かいの座席に腰かけたヴィルジールは、こちらを見て満足そうな表情を浮かべた。
「それはよかったですね」
感情のこもっていない声で返答し、わざとらしく窓の方へ顔を向け意識を逸らす。
貴婦人たちの噂話には尾ひれがつくものだが、ヴィルジールの容姿に対する評価には同意せざるを得ない。
色気をまとった艶のある真っ直ぐな黒髪に、蠱惑的な二重瞼の青い瞳、鼻筋は高く通っていて、引き結んだ唇は薄く理知的だ。
すらりと伸びた背は私の頭一つ分を余裕で越える。どんな衣装もきっちりと着こなし、優雅な物腰で、紡がれる声は甘いテノール。夜会に赴けば誰もが振り向く麗姿だ。
それに対して私は、特別自慢できるようなものは持っていなかった。髪色は淡いピンクブロンドで、瞳の色こそ母親似のエメラルドグリーンをしているが、よく覗き込まなければわからない。顔立ちは平凡で中肉中背、胸も成長期から止まってしまったのではないかと心配になるほど小さい。
だからヴィルジールが私に惚れ込んだわけでもないし、もちろん、こちらから求婚したわけでもない。
彼が夫となったのは今から五年前のこと――。
かつてこのエーシオン国は、領地を争って他国との戦争が絶えない国だった。だがそれも落ち着き、穏やかな時代になった。
交易も盛んになり、裕福な商人も増えた。多額の税を王家に納めることで爵位を得る者も出てきた。伝統を汲む上流貴族たちからは成り上がり貴族と呼ばれ、卑しき者として煙たがられていた。
ヴィルジールもその一人。巧みな話術と恵まれた容姿、次に流行すべき商品を見つけ出す、いわゆる先見の明をもっていて、他国との貿易や多種の店の経営を担い、子爵の位を国王から戴いていた。
そんな時、当時のアルブレヒト伯爵――私の父親から信じがたい言葉を聞くことになる。
『ミネット。お前の結婚相手が決まった』
冗談を言っているのかと思った。だが父の顔は真剣そのもの――というより苦渋に満ちた表情をしていた。
聞けば借金がかさみ、利息が膨れ上がって返済しきれなくなったのだそうだ。
近年の商売ブームに乗じて起業したい者に金を貸したはいいが、踏み倒されて夜逃げされたり、父自身も投資に失敗したりしたのだという。土地を担保にしていたので、このままでは領地ごと高利貸しにとられてしまうことになる。
『悩んでいたところでヴィルジール・シリングスという若者に声をかけられてな。二十歳という若さで子爵の位を自ら得た者だ』
『はい……』
私は小さな声で頷いた。
当時、まだ十三歳とはいえ、上流貴族であれば婚約者がいてもおかしくない年齢である。
『子爵といっても、今の我が家よりも資産を持っている、しかも一代でそれを築いたというのだから間違いのない才覚をもっている男だ。彼が援助してもいいと言ってきたのだ。ただし条件が一つあって――』
『私と結婚する、と言っているのね……?』
駄々をこねるような真似はしなかった。子供ながらに父の真剣さは伝わってきたし、家同士のつながりを重視する政略結婚になることも覚悟してきた。
『すまない、ミネット。ヴィルジール卿にはアルブレヒト家を継いでもらうことになるだろう。お前は家を出る必要はないのだ。それだけは安心してくれ。私もテアもいる、何かあれば相談してくれればいい』
テアは母親の名だ。私に兄弟はいない。いずれ自分が爵位を継ぐか、他家に嫁ぐことになればこの家は親戚が継ぐことになるだろうと思っていた。
それが突然の婿入りの話だ。
密かに家長になるのは荷が重いと感じていたので、最初は正直安堵した。慣れ親しんだ家から離れることなく、両親や気の知れた使用人とも一緒にいられる。夫となる男は援助を申し出るくらいだから親切な人間なのだろう。
(もしかしたら、私に一目惚れした……とか。やだあ、そんなこと言われたらどうしよう!)
流行の恋愛小説を読み漁っていた私は夢見がちだった。
そうでなくとも、きっと仲良くなれる――と自分に言い聞かせ、心を決めたのだった。
顔合わせの日、知的な雰囲気をまとった美青年の姿に心をときめかせたのも否定しない。だが、二人きりになった時、ヴィルジールはにべもなく言い放ったのだ。
『商売をするうえで大事なのは信用だ。アルブレヒト伯爵家の名前があれば仕事がしやすくなる』
その冷たい言い草に、私の心はたちまち猛吹雪の中に放り出された。
『あなたは……自分の商売のために、私たちの家を利用するの?』
『俺が声をかけなければ一家全員路頭に迷っていたんだ。もっと感謝してほしいな、ミネットちゃん』
馬鹿にするような呼び方に、私は怒りで顔を真っ赤にした。
『み、みんなのためだもの。今更結婚を拒んだりしないわ。でも――私に指一本触れないで』
十三歳の少女がぷんすかと頬を膨らませる様子は、さぞや幼く映ったのだろう。
ヴィルジールはしばらく笑いを押し殺して後ろを向いて肩を震わせていたが、気が済んだのかくるりとミネットの方に向き直る。
『はいはい、わかったよ。俺のかわいい奥さん、子供に手を出すほど女に飢えてないから安心してくれ』
貴族らしくない軽口に、軽蔑の念を込めて思いきり眉をひそめてやった。
『だが、商売の邪魔はしてほしくない。外では仲のいい夫婦を装うこと。家庭円満をアピールした方が相手も心を開きやすいからな』
『どうぞお好きなように。でも家では話しかけないで。お部屋も別よ』
『仕事の時間が不規則だから、その方がいいだろう。じゃあこれからよろしく、ミネットちゃん』
そう微笑する彼の顔は憎たらしいくらい綺麗で、本の中から飛び出してきた王子様みたいだった。性格は最悪なのにずるい。
家の窮状を救ってくれたことには感謝しなくてはならないのかもしれない。でも、やっぱり素直に喜ぶことはできない。
彼を無視し続けることが、自分なりの抵抗手段だった。
それでも両親がいればなんとかやっていける――そう思っていたのに、二人は天気の荒れた日に馬車が崖から落ちて還らぬ人となってしまった。
私には家族と呼べる人がヴィルジールしかいなくなってしまった。
一年間の喪が明けても悲しみに沈む私を、ヴィルジールは強引に夜会に連れ出した。
毎回新しい宝飾品やドレスを用意し、最新の化粧品で爪の先まで磨くように使用人に命じた。はじめはひどい人だと思っていた。
放っておいてほしかったのに無理やり人前に連れていくなんて、と。
だが、外に出れば嫌でも仲のいい夫婦の仮面をかぶらなければならない。
何度か出席するうちにだんだん意地になってきて、円満な夫婦を完璧に演じてやろうという気になった。
食事にも気を遣い、湯浴みの時には念入りに肌を磨いた。ストロベリーブロンドは艶が出るまでしっかりとブラッシングした。偽りの笑顔でも、嘘の抱擁でも、虚しいほど甘い言葉でもかまわない。
嘘や秘密を抱えるのはスリリングで――楽しい。
そう、ヴィルジールと過ごす時間が、いつしか純粋に楽しいと思えるようになっていた。たとえ本心でなくても大切に扱われるのが嬉しかった。胸の奥が温かくなってくすぐったい気持ちになる。それが恋だと気づくまで少しもかからなかった。
けれど、自分から肩書だけの関係だと突き放しておきながら、好きになったからやっぱり仲良くなりましょうと言うのは都合がよすぎる。
だからずっと恋心は胸に秘めてきた。
「明日はティアム侯爵閣下の夜会に呼ばれているから、早く休むんだぞ」
「わかっています」
揺れる馬車の中で現実に引き戻され、気のないフリをする。
やがて、アルブレヒト伯爵家の屋敷に到着した。中に入れば、二人が一緒に過ごすことはほとんどない。会話もここまでだ。
その線引きをしたのは私自身なのだから、さっさと部屋に引き上げる彼を呼び止める権利はない。
※
翌日、レースとフリルがたっぷりあしらわれたシャンパンブルーのドレスを着て、ティアム侯爵の屋敷を訪問した。
二人での挨拶が済むと、たいていヴィルジールは他の招待客のもとに商談を交えた世間話をするために離れていく。私も他の夫人や令嬢の会話に加わることがほとんどだ。
今日も同じように、あまり興味のない流行服の話に相槌を打っていた。
侯爵家には大勢の客がホールに詰めかけ、廊下にも人が溢れているような状況だった。
(少し息苦しい……)
昨夜、あまり寝つけなかったこともあって、軽い眩暈を感じていた。
「少し外の空気を吸ってきますね」
そう告げて世間話の輪からはずれると、解放された中庭に向かう。他人の家を勝手に歩き回るのは常識的ではないと思いながらも、一人になれる場所を求めていつの間にか奥の方まで来てしまっていた。
「……夫婦をやめたいんです」
ふいに生け垣の陰から密やかな声が聞こえてきた。どきりとしたのはそれがヴィルジールの声だったからだ。
「まあ。それは奥様も……なの?」
話し相手はどうやらティアム侯爵夫人のようだ。
「わかりませんが……」
「それなら……こちらへ……誰にも内緒よ」
くすっと楽しそうに笑う夫人の朗らかな顔が浮かぶようだ。
見つかったらどうしようと心配になったが、どうやら二人はさらに奥の方へ歩いていった。屋敷の中に入ったようだったが、あちらはさすがにプライベートな場所なのでこれ以上ついていくわけにはいかない。
(夫婦をやめたいって言っていたわよね? 誰にも内緒って?)
冷や汗が背中を伝う。
(まさか、浮気とか……)
ティアム侯爵夫人は私よりもずっと年上だが、年齢を重ねても肌艶はよく、包容力のありそうな柔らかい雰囲気をもった女性だ。
彼女に誘われたら男性の方だってその気になってしまうかもしれない。現にヴィルジールはついていったではないか。
「私なんかじゃ……」
幼さを残した自分の胸元に目線を落として泣きたくなる。
とてもではないが、相手にならない。
その場に留まっているのがこわくて、急いで夜会の会場に戻ってきた。そこではダンスが始まっていて、戻るなり他の招待客に誘われる。
何かしていないと不安で押しつぶされそうだったから、足がふらふらになるまで何人かと続けて踊った。
ヴィルジールが姿を現したのは、それからしばらく経ってからだ。
ティアム侯爵夫人と一緒にいたことを聞けずに、悶々とした気持ちを抱えながら帰りの馬車に乗り、カーテンの隙間から外の景色を眺める。
「真っ暗だろう、何か面白いものでも見えるのか?」
「別に……」
顔を背けたままミネットは答える。
「そうだ。今夜ティアム侯爵夫人から新作の美容液の試作品をもらったからミネットにやる。これを塗るともっと……」
「いりません。私は今のままで十分よ!」
浮気相手かもしれない人物からの貰い物など手にしたくない。
「まあ、それでもかまわないが……ん? そのカードはなんだ?」
ヴィルジールが眉をひそめて私のポケットを指さした。
そこから何枚かのカードの端が見えていた。
「ダンスの時にもらったの。ぜひまた踊りましょうって」
誰と踊ったかなど覚えていない。一方的に渡されたものだが、その場で突き返すわけにもいかず受け取ったものだ。
ポケットから取り出したカードの名前を確かめようとすると、彼に素早く取り上げられた。
「あっ、返して!」
「ふうん……ぜひ二人きりでお茶でもどうですか、と書かれているな、誰にでも渡しているのだろうが」
ヴィルジールは目を細める。
「そんな言い方しなくたって……」
たしかにあの場で書いている様子ではなかったから、あらかじめ書いたものを相手に渡しているのだろう。
「君には必要ないだろう、今後の商売のいい取引先になるかもしれないから俺がもらっておく」
「勝手にすれば?」
なんでも仕事の話かと、呆れてそっぽを向いた。
そこで顔を逸らしたりしなければ、ヴィルジールの苦虫を嚙み潰したような表情を見ることができただろう。手にしたカードを自身のポケットに入れ、ぐしゃりと握りつぶしたことも当然私は知る由もなかった。
数日後、別の伯爵家の夜会に招待された時、いつも通りヴィルジールと離れた私は、ホールでばったりとティアム侯爵夫人と遭遇してしまった。
(会いたくなかった――)
げんなりしそうになるが、そんな顔をしては夫婦間に何かあったのかと勘繰られてしまう。
「ミネットさん。先日は楽しい時間をありがとう」
夫人はうふふと微笑を浮かべた。すでに彼女の周りには数人の貴婦人が集まっていた。
「こちらこそ、とても有意義に過ごすことができました」
「ヴィルジール卿にお預けした新作の美容液、使い心地はどうだったかしら? あれ、薔薇水を加工したりして私が開発に携わったのよ」
ニコニコと笑みを絶やさずに尋ねられ、私は引きつりかけた笑顔をなんとか自然な形に持っていった。
(受け取ってもいないなんて、面と向かって言えないわよね。こんなに人がいる前で夫人の好意を無下にした失礼な人間の烙印を押されたら、ヴィルジールの仕事にも支障が出てしまうわ)
浮気をされているかもしれないというのに、それでも私中での優先順位の不動の一番はヴィルジールだった。
「あ、あの、とても良かったです。ふっくらもちもちというのでしょうか。お肌にハリが出たのを実感できました」
白粉をのせた頬に手を当て、にっこり笑ってみせる。
「それはもちろんヴィルジール卿に塗っていただいたのよね?」
「え?」
そんな事実は一切ない。普通の化粧品は自分でつけるものだろう。だが、仲のいい夫婦なら夫にクリームを塗ってもらうこともあるのだろうか。
夫婦仲を怪しまれてはいけないと思い、私は大きく頷いた。
するとティアム侯爵夫人をはじめ、周囲にいた貴婦人たちから「きゃー」と嬉しそうな、恥ずかしそうな弾んだ悲鳴が上がった。
「それはよかったですわ」
「もしかして、以前お話していた例の新美容液かしら?」
「本当に仲がよろしいんですのね」
「そんなに効果があるなら私も買いますわ!」
「私も!」
たかが私一人の感想だけでここまで盛り上がるとは思っていなかったので、戸惑いながらも愛想笑いを続ける。
「塗るだけでバストアップするなんて夢のような話よね」
「ふふっ、本当に。やっぱりアルブレヒト伯爵ご夫妻は憧れのふたりですわ~」
「え、今なんて……」
ティアム侯爵夫人の言葉に、私の思考にぴしりとひびが入る。
「お胸、ハリが出てふっくらしたんでしょう?」
彼女たちから無邪気な笑みを向けられて、私の顔はみるみる熱くなっていく。
(塗る場所まで聞いてなかったわ!)
すると自分はもらった美容液をヴィルジールに塗ってもらったのだとあけすけに報告し、肌に張りが出たなどと堂々と主張してしまったことになる。
「い、いえ、あの、実はそれ自分で塗って――」
「もう! いまさら照れなくてもいいのよ」
すでに場は明るくきゃあきゃあと盛り上がるばかりで、誰も私の釈明など聞こうとしない。
(ど、どうしよう……)
恥ずかしすぎて、目に涙が滲んだ。
「す、少し風に当たってきますっ」
その場にいるのがいたたまれなくなって、中庭目指して急いで駆け出した。
「どういうつもりで、あれをもらってきたのかしら!」
ヴィルジールの顔を思い浮かべ、両頬を大きく膨らませながら、こぶしを握り締める。
まだまだ子供っぽいということなのだろうか。あれを使って少しは女としての魅力を磨けと言いたかったのだろうか。
ティアム侯爵夫人は女ながらもああして美容系の商品を開発し、ヴィルジールとも対等に商売の話もできそうである。
(美人だし、話はうまいし、私とは真逆だ。もしかしてあの日ヴィルジールはティアム侯爵夫人に美容液を試し塗り……)
そこまで考えて、ぶんぶんと大きく首を横に振る。
「やあ、先日はどうも」
後ろから声をかけられて、私は飛び上がるほど驚いた。
「えっと……」
振り返って顔を確認するが名前が出てこない。身なりからして上流貴族だということはわかるのだが。
「コンラート・バーダです。先日ダンスの時にカードを渡したはずですが、私など眼中にないですよね?」
じわりと充血した瞳の中年の男は、困ったように頭をかいた。
「あ、あの時の……ごめんなさい、カードをなくしてしまって」
「かまいませんよ。それより今夜もおひとりですか?」
「夫は仕事の付き合いもあるので。私がいると邪魔ですから」
私がいても何も役に立たない。できることは言われた通り仲のいい夫婦を演じてみせるだけ。
「おやおや、こんな素敵な奥様をほったらかしとは理解できませんな」
「仕方……ありませんわ」
震える指先を反対の手で握り込んで微笑んでみせる。
「気丈に振る舞う姿もいじらしい。では今夜は二人きりでもう少しお話しませんか?」
「えっ」
ぐいっと腕を引かれたので慌ててその場に留まろうとするが、想像以上に強い力で抵抗が無意味だった。
ずるずると引きずられて、誰もいない薄暗い生け垣の方へ連れていかれる。
(やだ。声……出さなきゃ)
そう思うのに、突然のことに体が強張り、焦るばかりで喉がカラカラになってかすれ声しか出ない。
「他の既婚女性にはない初々しく甘い匂いがたまらない」
両肩を掴まれて酒臭い息が頬にかかり、ぎゅっと目をつぶった。
「は……離して! いや……っ」
コンラートから離れようとしても背中が生け垣に当たって、それ以上避けられなかった。足元からぶるぶると震えて涙が溢れそうになった時だった。
「ミネット!」
夫の声が矢のごとく飛んできて、ハッと目を開く。
「ヴィルジール……っ」
涙声で彼の名前を呼ぶと、大股でやってきた夫はコンラートを睨みつけた。今までに見たことのない鷹のように鋭い視線だった。
コンラートが舌打ちして、私から手を離す。
「私の妻に何をしているのですか?」
「ふん、成り上がりで爵位を手に入れた卑しい者に答える義理はない。せっかくいい気分だったのに、酔いが醒めてしまったではないか。冗談も通じないような男にはかかわらない方がいいと皆に話してこよう」
コンラートは鼻を鳴らして踵を返した。
「どちらが卑しいのでしょう? 教会への寄付金と言いつつ、その一部をご自分の懐に入れているような方が貴いとでも?」
ヴィルジールがそう言うと、コンラートの背中がびくっと揺れた。
「ど、どこでそれを……」
振り返ってから、コンラートはハッと手を口に当てる。
「覚えていないのですか? あなたが贔屓にしている、とある店の店員が教えてくれましたよ。酔うとなんでも話してしまうようですが、あまり深酒しない方が御身のためでは?」
ヴィルジールの目元が冷たく細められる。
「だ、誰にも言わないでくれっ」
コンラートはすっかり顔色をなくしてその場に膝をつき、頭を下げた。
「今後は姑息な不正を働かないことですね」
ヴィルジールは興味なさげにその姿を見下ろしてから、こちらを向いた。
「怪我はないか?」
ヴィルジールが体をかがめて顔を覗き込んできた。
もう少しで鼻先がつきそうな距離に、慌てて目を閉じた。
「は、はい……」
ドキドキと胸を高鳴らせながら必死で声を振り絞る。
「帰ろう」
ぽんと優しく頭を撫でられ、彼女は小さく失望した。
(キス……するのかと思った……)
妻が他の男と関係を持ったことが世間に知られたら、今までの苦労が水の泡だから助けに入っただけであって、私の身を案じてくれたわけではないのだ。
つんと鼻の奥が痛くなる。
「まだお仕事の話があるんじゃ……」
「今夜はもういい。一人にして悪かった」
そう言ってヴィルジールは私の手を引き、土下座を続けるコンラートの脇を素通りしてホールへ戻ると、他の客に挨拶をして屋敷を後にした。
(仕事の邪魔をしたかもしれないわ。それに、さきほどの方の心証を悪くしてしまったのでは……)
馬車に乗り込んだ私は、自身の至らなさに小さなため息をついた。
ヴィルジールの人生に自分は不要だ。彼の隣にはもっとふさわしい人がいるに違いない。仮面夫婦などいつまでも続くわけがないのだ。少なくとも私の方はもう限界だ。
気持ちが通じないのにそばにいるのはつらい。
ヴィルジールが必要なものはアルブレヒト伯爵家の名だけなのだから。
(全部あげる。私はもう修道院にでも入って静かに暮らすのよ)
ヴィルジールの幸せだけを願って――
「あの……」
「話が……」
心を決めて口を開いたものの、彼と同じタイミングだったようで気まずくなって口をつぐむ。
「あ……あなたからどうぞ」
やっとそう言うと、ヴィルジールにしては珍しく視線をあちこちに彷徨わせた後、こちらを真っ直ぐに見つめてきた。
「今日のことでよくわかったんだ」
落ち着いた静かな口調だった。
やはり彼に迷惑をかけてしまったのだ。完璧な妻失格である。
私は膝の上でぎゅっと手を握り込んだ。
「仮面夫婦のような生活を始めてもう五年が経つが……俺としては限界というか……もうやめたいと思っているんだが、君の気持ちを教えてくれないか?」
吸い込まれそうな青い瞳が揺れている。
ヴィルジールはずっと我慢してきたのだ。こんな子供のような女を妻にして、私のいない所では何か言われて苦労していたのかもしれない。
爵位も財産も彼に譲って、ヴィルジールを解放すべきだ。彼にふさわしい、完璧な妻を迎えられるように。
「ええ。私もまったく同じ気持ちですわ」
五年間で培ってきた作り笑顔が、ここで役に立つとは思わなかった。心の中で苦笑いしながら居住まいを正す。
「本当か?」
ヴィルジールの目が輝き、口元には笑みさえ浮かぶ。
「ずっと考えていたの。五年も我慢してくれてありがとう」
皮肉を込めたつもりなのに彼には通じなかったようで、突然立ち上がるとすぐ隣に籍を移動して、ぎゅっと抱きしめてきた。
「ありがとうはこっちの台詞だ。なんだ、もっと早く話していればよかった!」
「そ、そんなにぎゅうぎゅうとされたら、ドレスが皺になっちゃう」
こんなにしっかりと抱きしめられたのは初めてだ。嬉しい反面、それほど夫婦関係を解消したかったのかと思ったら泣きたくなった。
「悪かった。信じられなくて」
眩しいほどの笑顔。
それももう見られなくなる。
(今度はそれを誰に向けるのかしら)
涙が零れそうになって、ぷいと顔を背けた。
「少し疲れたの。家に着くまで休ませて」
「わかった」
ヴィルジールは素直に腕の力を抜き、前を向いて座り直したが、手だけはぎゅっと握ったままだった。
その温もりがもうすぐ離れてしまうのだと思うと、振りほどけなかった。
「ただいま。今夜は休んでもらってかまわない。ミネットと二人で過ごしたいので」
「かしこまりました」
出迎えてくれた使用人にそう声をかけたヴィルジールの手には、まだ私の手が繋がれたままだ。
(まだ何か話があるの? それとも今後の私の身の振り方でも教えてくれるのかしら?)
何も言わずにヴィルジールに手を引かれるまま、彼の部屋までついていく。
今夜はやけに静寂が耳に痛い。体温を感じて高鳴っている鼓動が彼に聞こえてしまわないか不安だ。
「この時をどんなに待ち望んでいたか」
部屋に入るなり、ヴィルジールは私を抱きしめて唇を重ねてきた。
「ん? え?」
混乱する頭で、慌ててヴィルジールを押し返した。
「ど、どういうこと?」
「君も俺と同じ気持ちだと言ってくれたじゃないか」
「それは……仮面夫婦を終わりにするっていう……」
「ああ。五年経って……いやもっと前から、かな。どんどん綺麗になっていくミネットに惹かれていた。聡明な君に成り上がりの俺はふさわしくないだろうが、いつか君の気持ちが変わったら、俺でもいいと言ってくれたら、ちゃんと本当の夫婦になろうと」
眉根を下げ、自信なさげな笑みを浮かべる。
「だが、今日他の男に迫られているのを見て、待っているうちにミネットの心が他の奴に向いたら……と思ったら、いてもたってもいられなくなって……」
再び強く抱きしめられる。
「な、何を言っているの? 成り上がりだなんて、私は思っていないわ。あなたは自分の力で人生を切り拓いてきた立派な人。私の方こそ、役に立たないばかりで、ティアム侯爵夫人に比べたら子供で……」
「なぜ彼女と比べる必要がある?」
「だって……あの日、美容液を夫人にもらった日、夫婦をやめたいって、夫人と内緒で会っていたのを偶然見かけてしまって……」
「ティアム侯爵夫妻は社交界でも有名なおしどり夫婦で、その、どうしたら距離を縮められるのか相談していたんだ。それで、あの美容液をきっかけに、と」
ヴィルジールの涼しい目元がかすかに赤く染まる。
「そ、それだけ……?」
「それだけ」
言葉が止まって、ヴィルジールの吸い込まれそうな青い瞳を見上げた。
「仮面夫婦は、今日でおしまい?」
信じられない。だが、ヴィルジールも同じように想いを寄せていたことがわかってみるみる透明な雫が瞳に盛り上がってくる。
「おしまい。これからもよろしく、俺の愛する奥さん」
涙で滲んだ視界は熱かったが、彼のキスはもっとずっと熱かった。
「私も……ヴィルジールが好き。子供みたいに拗ねたりしてごめんなさい。ひとりぼっちになった私のそばにずっといてくれてありがとう」
胸のつかえがようやく取れたみたいに、心が軽い。
「いや、俺も言葉が過ぎた。君をずっと大切にするから」
もう一度、優しいキス――
夢ではない確かな温もりに包まれて、私たちは心からの愛を伝え合い、朝まで幸せを確かめ合った。
※
ミネットは13歳から18歳になるまでの5年間で、見違えるほど成長した。彼女は伯爵家の娘としての教養を身につけ、美しさと賢さを兼ね備えた女性になっていく。
ヴィルジールは最初、彼女を子どもとしてしか見ていなかったが、次第に彼女の魅力に気づき始めた。
社交界での優雅な姿や、時折見せる優しい微笑みに、彼の心は揺さぶられるようになる。彼女の聡明さや、何事にも真剣に取り組む姿勢は、彼にとって新鮮で魅力的だった。
ある日、彼は庭園で彼女が友人たちと談笑する姿を見かけた。彼女の笑顔はまるで春の陽光のように輝いていたが、彼に向けられることはない。
ふいにヴィルジールに気づいた彼女の瞳が冷たい色に変わった瞬間、彼の心は痛んだ。しかし、それでも彼女に惹かれていく自分を止められなかった。
別の日には、庭で一人読書をしているミネットを見かけた。彼女はお気に入りの詩集を手に取り、集中していた。その姿は静かで、まるで一輪の花のようだ。
彼は彼女に近づき、心臓が高鳴るのを感じる。
「何を読んでいるのかな?」
彼は優しく声をかけた。
ミネットは驚いたように顔を上げたが、すぐに冷静な表情に戻る。
「声をかけないでと言ってあるでしょう?」」
彼女はそっけなく答えたが、ためらった後に「詩集よ、どうせ興味ないでしょうけど」と呟くように言った。
「いや、君が読むなら興味があるよ」
ヴィルジールは穏やかに微笑んだが、彼女は視線を落としたままだ。
彼は彼女のそばに腰を下ろし、しばらくの間、二人は沈黙の中で過ごす。
ミネットの横顔を見つめると、その静かな美しさに心を奪われた。
――君がいると、この庭も美しく見える。
彼は心の中でそう思ったが、口に出す勇気はなかった。
ヴィルジールは少しずつ距離を縮めたいと願うようになる。だが、彼女の態度に戸惑い、どう接していいかわからないままだった。それでも彼は、ミネットへの想いが本物であることを確信し、彼女の信頼を得るために時間をかけてでも信頼を得ることを決意する。
ところが、そんな悠長なことは言っていられないと思ったのが、あの日の夜会でのトラブルだった。
おかげでミネットとも心が通じ合い、今ではより充実した夫婦生活を送っている。
「愛しているよ」
隣で眠る愛する妻――ミネットの額に口づけて、ヴィルジールも甘い眠りにつくのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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