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第二章 鬼子

 細い月がかかっている。屋根の上を走る。跳ぶ。身体が軽い。夕方に降った雨のせいか、土と草の匂いが漂っている。暗闇でもよく見える。私は一人だった。

 目指す建物が見えた。川沿いの古い空き倉庫。三棟あるそのどれかに聖と誘拐犯がいるはずだった。

「身代金の受け渡し期限は翌朝だ。襲撃があるとすれば今夜だと思って奴らは身構えていると思う。ただし、奴らは天の治安維持部隊に大人数で取り囲まれることを警戒している。単独行動する合成獣は想定外だ。そこを突くんだ。それと、誘拐犯は三名だが、リーダーは不在のはずだ。倉庫にいる三人目は聖だぞ。間違って攻撃加えんなよ。」

ハバータの説明を思い返す。

 市街地を抜けるとここから先は身を隠す物のない空き地だ。頼りない月明かりだが、闇に姿は紛れない。一気に駆ける。右手の倉庫から一人出てきた。誘拐犯だと直感で思う。まだこちらを敵だと確定していないようで、相手の身体にはまだそれほど緊迫した力は入っていない。

「なんだ、お前。」

 電灯で顔を照らされる。と、同時に相手が息を呑む。その瞬間、私は相手の鳩尾に拳を叩き込む。が、距離感がうまく測れない。思ったより深く拳を入れてしまった。相手はぐはぁっと液体を吐き出して、気を失った。一人、完了。

 パァン。

 乾いた控え目な音がする。

 誘拐犯のうちのもう一人が倉庫内の窓から銃を撃ってきた。銃の避け方はまだよく分からない。ハバータが着せてくれた防具を信用するままに倉庫の窓のすぐ下まで走る。

 そして、

「ばあー。」

 先ほど倒した相手から奪った電灯で顔を下から照らしながら、口を大きく開けて相手の前に顔をさらす。

「ひ、ひいぃぃぃぃ。」

 相手が顔をひきつらせた隙に、身をひねらせて窓から室内に入る。背後から相手の首に手刀をくらわす。でも相手は呻くだけで気を失わない。場所が合っていないようだ。何度か位置を変えてばしばしと手刀を入れる。やっと動かなくなった。二人、完了。後は聖を救出するだけ。

暗い室内を見回す。空気が埃っぽい。奥の階段から控え目な足音がする。小柄な影。

「トラコ?」

 ささやく声がする。

 電灯をそちらに向けると、女性が立っていた。聖という名から勝手に老人を想像していたが、それよりもずっと若い。ほっそりした身体の輪郭を黒くて長い髪が縁取っている。眩しそうに手を顔の前にかざしてこちらを窺っていた。

「聖?…様?」

 私が尋ねると、聖は思いもよらない行動に出た。駆け寄ってきて、私を抱きしめたのだ。

「トラコ、無事で良かった。」

 細腕にしっかと抱きしめられたまま私はきょとんとした。

「無事で良かったって、こっちの台詞だけど。」

「ええ、そうだった。助けに来てくれてどうもありがとう。」

 聖は指先で目尻を拭った。私はまじまじと聖の顔を見た。

「泣いてるの?誘拐犯に何か悪いことをされた?」

「ええ、大丈夫。どうせ逃げ出すこともできないだろうって縄もかけられなかったし。私が泣いているのはトラコが本当に助けに来てくれたから。ほら、もっとよく顔を見せて。」

 聖は私の顔を優しく両手で挟んで微笑んだ。そして、ハルがしてくれたのと同じように「おかえり」と言って、人差し指と中指を自分の唇に静かにあてた後、私の額に触れた。そしてゆっくりと聖の指は離れていった。

「聖は私のことが怖くない?」

「全然怖くないわ。毎日培養液の中で眠っているあなたに、元気で生まれてくるのよって語りかけてたんだもの。でも、眠っている時よりもとても元気そう。力に溢れているわね。光輪も今までに見たことないくらい大きくて眩しいくらい。」

 「光輪」…。頭の中に問いかけると脳内レキシコン内に知識が見つかる。「力の証。力を持つ者の輪郭が光って見える現象。光輪を見ることのできる眼を光輪眼という。『光輪眼は禍福の源を知る』という古い信託を実践すべく修行を積むことで光輪眼の会得を目指すのがつちのねの教えである。」とある。

「聖は光輪眼を持ってるんだね。たくさん修行したの?」

「ええ、まあそんなところね。それにしても光輪眼のことなんてよく知ってるわね。」

「ハバータが脳内レキシコンにいろいろ知識を詰めてくれたらしいの。」

「ハバータ自慢のいわゆる備え付けの脳内辞書のことよね。説明してくれた時はぴんとこなかったけど、生まれたばかりなのに既に知識を蓄えてあるってすごいことよね。」

 聖は今まで誘拐されていたのが嘘のように、朗らかな様子で話した。私はいっぺんに聖のことが好きになった。

「聖ってもっと怖いヒトかと思ってた。」

「『聖』という呼称が偉そうで良くないと思うのよね。実際はただのヒトよ。私のことはサリヤと呼んで。」

「サリヤ?」

「そう。聖というのはつちのねの階級の名。私個人の名はサリヤ。」

「そうなんだ。じゃあ、サリヤって呼ぶね。」

「ありがとう。」とサリヤは微笑んだ。少し悲しそうに。


 私はハバータに言われた通りの処置を施し、サリヤを連れて風のようにその場を去った。


           ★

 山の端から昇る朝日が容赦なく街を照らしだし、ガルフロンは眩しさに眉をしかめた。目の前には半焼の倉庫があり、少々煙の臭いがする中を十数人の治安維持隊が精査している。右手奥に炭化した柱が集中しており、火元のようだ。一般の火事とは異なるきな臭さが漂っている気がする。ガルフロンはふいに痒みをおぼえ、右手で癖の強い髪をぐわしぐわしと掻いた。右の頭が痒む時は悪い出来事が起こる前兆である。自分で決めたジンクスであるが、大抵の場合それが当たる。一文字の太目の眉の間のしわがやや深くなる。

 ガルフロンは、このクニの王の唯一の息子であり、次期王となる王太子である。天はザーレの襲来を撃退することが最優先の任務のため、自らを鍛え鋼のような肉体を手に入れることが最上の国家貢献とされていた。王太子も例にもれず、厚い胸板と大きく張り出した三角筋が簡素な鎧からはみ出ださんばかりの恵まれた体矩をしていた。

 ガルフロンは王太子ではあるがすんなりと王として即位できるとはみじんも考えていない。隙を見せれば戦士の王としての資格なしとして、実の父である王に命を奪われるであろうことは容易に予測がつく。 八人いた兄たちと同様に。

 このクニの軍隊である治安維持部隊の統率権は当然王にある。ガルフロンは治安維持部隊に平素からよく通い酒を奢る等して顔をつないだため、王が暗殺を図る際には治安維持部隊の裏部隊が暗躍していることをつきとめた。裏部隊の人員構成まではまだ把握できていないものの、代わりに治安維持部隊のファビル隊長とは懇意になることができた。ファビル隊長には、平常と異なるおかしなことがあれば王ではなくまず自分のところに一報を入れるようにと指示しているため、今日もまず王太子に連絡がいったのである。

「おはようございます、ガルフロン様。遅れまして申し訳ありません。」

 引き締まった体つきの天にしてはやや線の細い男性が駆け寄ってきた。縮れ毛のガルフロンとは対照的に、こちらは流れるようにさらさらとした長髪である。

「ああ、セイガか。俺も今到着したところだ。」

 ガルフロンは、セイガと呼んだ青年の顔をちらと見て言葉を続けた。

「目のふちが赤いぞ。また徹夜したな。」

「御明察の通りです。」

「徹夜はやめておけと言ってるだろう。」

「返す言葉もございません。」

 セイガは一応神妙な表情である。ガルフロンは小声で叱責する。

「例のタペストリーは完成したんじゃなかったのか。」

「ええ、それはもう済みました。昨夜は団栗と椎の葉の図柄を思いつきまして。季節物ですから時期を逃さないうちにと、ガルフロン様のハンカチに縫いつけました。一枚だけにしておこうと思ったのですが、やりだすと止められませんね。」

と、神妙なのは表情だけで言の葉からはまったく反省していないのが伝わってくる。

 この青年の密やかな趣味は刺繍である。夜な夜なランプの灯りを頼りに、贅肉一つない背中を丸めて草花や幾何学模様を色とりどりの糸で縫いとっている。このクニでは針仕事は地属が行うべき下等職務とされているためおおっぴらにはできないものの刺繍の腕前は相当なものであった。今まで彼の流し目一つで幾多の女が骨抜きになってきたのだが、いくら女達が熱を上げても本人はどこふく風といった様子で相手にしないのもこの趣味が理由であることをガルフロンは知っていた。夜を女性と過ごすよりも針仕事が魅力的らしい。

 ガルフロンとセイガは主従関係ではあるが乳兄弟である。ガルフロンの母、すばわち王妃がガルフロンを出産した直後に亡くなってしまったため、当時乳飲み子であったセイガを抱えたセイガの母サルマがガルフロンの乳母となり、ガルフロンとセイガを育てたのである。成人した今では別に暮らしているとはいえ、幼いころから共に日々を重ねてきたという信頼感は格別のものであった。  

ガルフロンは溜息をつきながら「何度も言っているが―」と言いかけると、「徹夜では戦士の真価を発揮できない。」とセイガが引き取った。

 ガルフロンはしかめ面をして腕を組んだ。

 と、その時、

「お話中失礼いたします。」

と横からきびきびとした声がかかった。ガルフロンが振り向くと大柄な男性が立っていた。

「ああ、ファビル隊長か。検証は終わったか。」

「はい、ガルフロン様。早朝から足を運んでいただき恐縮でございます。」

「構わん。何かあればすぐに連絡をするよう依頼していたのはこちらの方だ。で、ただの火事ではないということだな。何があった。」

「はい。昨夜遅く倉庫が燃えているという通報がありました。消防が駆け付けたところすぐに火は消し止められました。倉庫の出入り口付近が激しく燃えており油をかけた形跡も見つかったことから、意図的な放火と考えられます。」

 ファビル隊長の説明は、その人柄と似て実直かつ簡潔である。

「空き倉庫に放火か。」

「はい。ただの放火事件と考えにくい点が三点あります。まず一点目、倉庫のすぐ外に男2名がさるぐつわをされた状態で緊縛してありました。そして二点目がその男達の供述内容です。なんでも『つちのね』の聖を誘拐したとのことで。」

「なんだとっ。」

 ガルフロンは思わず大声を上げた。つちのねと天の指導部との関係は不安定かつ複雑である。天の人間がつちのねの最高指導者を誘拐したとあれば、天による地支配の根底を揺るがす大騒動に発展する可能性も十分に考えられた。

「それで今、聖はどこに。まさか火事に巻き込まれたのではないだろうな。」

「男によればすでに聖は救出されたとのことです。」

「もし聖を誘拐したという情報が真実であれば、即座につちのね本部から父の元にしかるべき伝令があるだろう。しかし、今朝私が王宮を出るまでにそのような伝令が来た様子はなかった。さらに、聖については重大な警備がされている。誘拐するのであれば、組織立った犯罪集団が必要だ。たったの二人でつちのねの最高指導者を誘拐できるとは思えない。」

とガルフロンがぶつぶつと考えを整理しながら述べると、セイガが続けた。

「ということは今回誘拐されたとされる聖は偽者の可能性があると…?」

「うむ…。とりあえずまだ情報不足だ。隊長、報告を続けてくれ。」

 ガルフロンは隊長に視線を向けた。

「はい。聖が、いえ、聖とされる人物を救出したのが、『化け猫』だというのです。」

「化け猫?」ガルフロンとセイガは同時に眉をひそめた。その後、セイガだけ小さな苦笑を洩らした。

 ファビル隊長はあくまでも生真面目な顔を崩さない。

「男共によれば、首から下は人間でありながら、首から上は毛むくじゃらの化け猫のような怪物だったと。凶暴な性格で耳まで裂けた口から大きな牙が何本も生えていて、しかも人間の言葉を話したそうです。」

「首から上が動物で、首から下は人間なんて、化け猫というより創生神話に出てくる神様みたいだ。」

 セイガがにやにやしながらぼそっと感想を述べる。ガルフロンは真剣味の薄いセイガを横目でちらりと睨みながらファビル隊長に尋ねた。

「男らが幻覚や妄想をみた可能性は?薬物の影響ということは?」

 「聖の誘拐」から「化け猫」を含む一連の流れ全てが、薬物が見せた幻覚であったという結果に終われば事は簡単に片付くのだが、と思いながらガルフロンは尋ねた。しかし、まだ右の頭が痒い。

「尿検査では陰性でした。幻覚を伴う精神疾患の既往も否定されています。」

そうだろうな、と思いながらガルフロンは頭を掻いた。

「わかった。そして、三番目の不審な点とは?」

それはご覧いただいた方が早い、とファビル隊長は言って、先立ってガルフロンとセイガを案内した。

まだ焦げ臭い建物内に入り、奥の階段を上がる。倉庫は窓が少なく、朝日がほとんど入ってこない。隊長は足元に注意するよう促しながら、説明を続けた。

「倉庫の前に緊縛されていたのは二人です。しかし、その二人によれば聖誘拐に際して二人は大金と引き換えに手伝っただけだというのです。誘拐の首謀者が計画及び実行のほとんどをこなしたと。化け猫が侵入してきた際、首謀者は聖と共に2階の部屋にいたはずだったそうですが、二人は化け猫に襲われて気を失ってしまったから首謀者がどうなったのかは分からないとのことです。」

階段を上り終わる。事務室として使われていたような小部屋のドアがある。

「そして、ここがその首謀者の部屋です。」

ファビル隊長がドアを開けた。

ガルフロンとセイガは一歩踏み出した後、息を呑んだ。先ほどまでしていた焦げ臭さよりももっと強い異臭である。むっとするような生々しい臭いが咽喉の奥まで侵入し、息苦しさを覚える。

「これは…。」

 奥に小さなデスクとソファがあるだけの狭苦しい部屋である。壁一面におびたたしい数の赤い手形が散っている。不吉な呪いでもかけるかのように。床にもぬめったような水たまりがいくつも出来ている。たらりと壁を伝って、一滴ずつぽたりぽたりと床に落ちる不吉な音が聞こえる。

「血だ…。」

 セイガが人差し指で近くの壁の血をさっとぬぐってから呟いた。

 そして、部屋の真ん中には無造作に何らかの物体が置かれていた。あれは…。

 ガルフロンは思わず部屋の前で足がすくんだ。セイガがつかつかと近寄って行き、しげしげと眺めてからあえて平然とした様子を崩さずに言った。

「ガルフロン様、ヒトの右腕です。肘から指先ですね。」

 やっぱり、とガルフロンは目を閉じて息を吐く。右の頭が痒い時は良くないことが起きる。こみ上げる咽喉奥のむかつきをぐっと飲み込んでからさらに尋ねる。

「切断面は?さらに遺体の情報で何かわかることは?」

「ややざらついてますし、端の皮膚がねじきれてます。切れ味の悪い刃物で力任せに切断したような印象ですね。腕の長さからすると男性のようですが、筋肉を鍛えてはいません。地の男性かもしれませんね。ああ、でも中指と薬指に指輪をしています。ということは天か。」

地属の民は装飾品を身につけることは禁じられているためだ。

「化け猫がこの腕を食いちぎった可能性は?」

「化け猫の頭を見たことがないので何とも言えないですが…。牙で食いちぎった切断面ならもっと歯の跡が残っていると思います。可能性は薄いですね。」

「わかった。とりあえずここを出よう。」

「もういいんですか。化け猫と首謀者が争った痕跡がないか調べなくていいんですか?この無数の手形も何かの呪いでしょうか。」セイガが尋ねると、ガルフロンは口元を押さえて言った。

「おそらくここで戦闘は行われていない。もう限界だ。」

 ファビル隊長に腕を持ってくるよう言いおいて、ガルフロンは逃げるように階段を下りて言った。足をもつれさせかねないようなおぼつかない足音をきいてファビル隊長は尋ねた。

「ガルフロン様は体調でも優れないんでしょうか?」

「ええ、まあ。早朝に起床したせいでしょう。」

 セイガは平気な顔で答えた。ガルフロンは鍛え上げられた逞しい肉体、敵の弱点を見抜く冷静な判断力、恐ろしい敵に対峙してもひるまない胆力を持っており、勇猛な戦士であることに疑いはない。しかし、唯一の欠点が肉体の切断に対する異常なまでの恐怖感なのである。血だらけで倒れた敵の心臓に深くナイフを突き刺してとどめをさしたり、拷問の一環として敵の四肢に釘を打ち込んでいくこと等は気は進まないものの難なくこなすことは可能である。しかし身体を切断するという一点のみはガルフロンにはとてつもない困難である。猪や鹿等の獲物を捕えても、血を抜き毛皮を剥ぎ臓物を取り出すまでは造作なくやってのけるのだが、焼くために頭や腿を落とすとなると血の気が引いて手から汗が吹き出し、足がすくみだすのである。獣でさえそうなのだから、ましてやヒトの切断遺体などいわんや…である。成人通過儀礼である首狩りの儀式の際には、次期王たる者として示しがつかないからと無理して一人目の首を落としたところ、三日三晩嘔吐が止まらず昏睡状態に陥った。二人目三人目は、王の目を盗んでガルフロンの代わりにセイガが首を落としてやったことは、二人だけの秘密である。

 セイガとファビル隊長が切断された右腕を持って倉庫の外に出たところ、ガルフロンは緊縛されていた男らの尋問を行っていた。休んでいればいいものをとセイガは思うが、あちこちに検証を行っている治安維持部隊員がいる前では王太子たるもの弱みをみせまいとしているらしい。

(そんな青白い顔して尋問しても威厳も何もあったもんじゃない…。)と半ばあきれながらセイガは思った。これでも彼はガルフロンの心身を案じているのである。

「ああっ、リーダー!」

「リーダーだ!化け猫に喰われちまったのかよ!」

 男共はファビル隊長の持った腕にいち早く気づき、大声を上げた。背の高いのと小太りの二人組だ。

「この腕は誘拐の首謀者であることに間違いないか?」

「ねえよ。あの指輪はリーダーがしていたからな。」

 背の高い方が言った。

「リーダー、喰われちまったのかあ…。これで成功報酬はもらえなくなったなあ…。」

 小太りが残念そうに言った。

「成功報酬?お前達は金のために誘拐したのか?」

 ガルフロンが尋ねた。

「誘拐を手伝えば500万金やるって言われたのさ。」

 背の高い方の説明に小太りがぼやく。

「でも、まさかつちのねの聖とは思わなかったよなあ。そんなにデカいヤマならもっとふっかけとけばよかったよなあ。」

「どのようにして聖を誘拐した?厳重な警備がされているはずだぞ。」

「少人数の警備で湯治に来たところを狙った。具体的な方法はリーダーしか知らねえよ。俺たちは湯治の村はずれで待ってたんだ。そこにリーダーが聖を連れてきた。その後はここで隠れてたんだ。」

「今思えば、ほとんどリーダー一人でやった誘拐だったよなあ。なんで高い金払ってまでリーダーは俺達なんかに声をかけたんだろうなあ。」

 小太りのぼやきともつかない疑問を聞きながらガルフロンは頭をがしがし掻いて俯く。何か考えている様子である。

「お前らはリーダーといつ知り合った?」

 ガルフロンに代わってセイガが質問した。

「誘拐の前日だ。酒場で声をかけられた。ケチな小悪党達の溜まり場よ。」

 再び背の高い方が返答し、小太りが補足した。

「俺たちは常連だが、リーダーは初めて見る顔だったぜ。仕事内容は詳しく言いたがらねえくせにその場で100万金手付け金として払ったから引き受けることにした。」

「怪しいと思わなかったのか。」

「その酒場にいるやつはみんな怪しいやつばかりさ。」

 道理である。セイガは気を取り直して再び尋ねた。

「リーダーの名は?それと外見上の特徴は?」

「タバハと名乗っていた。天にしては華奢で背も低かったな。」

「右腕の指輪は母親の形見だって自慢げに見せびらかしてたよなあ。あれ、高く売れそうだなあと思ったからよく覚えてるんだ。」

「この腕だが、リーダーのものだという証拠は指輪だけだな。」

ガルフロンが再び顔を上げて、切断された腕を顎で示しながら尋ねた。ただし、視線は男達を向いている。なるべく腕を視界に入れないようにしているようだとセイガは気付いた。

 男達は顔を見合わせて頷き合った。

「まあ、そうだな。」

「指輪以外の特徴なんて覚えてないなあ。」

 ガルフロンはかすかに何度か頷いて、話題を変えた。

「わかった。それから聖を救出したという獣のことだが…。」

「ああ、化け猫な。あれは本物だ。おっそろしく牙の飛び出た猫の親玉だ。でも身体はヒトなんだ。」

「二本足で歩いて『ばあ。』ってしゃべったんだ。その割に恐ろしく凶暴だぜ。鉄砲も効かないんだよう。」

「それはお前が狙い損なったんだろうが。」

「その前に兄貴が一発で倒されちゃったから焦ったんだ。」

 男達の声の調子が急に上がり、身体が前に乗り出し、二人で言いあいを始めた。

 ガルフロンは努めて低い声を出した。

「とにかくお前達はその化け猫にすぐに負けた。そのわりに大した怪我はしていないな。」

「俺は鳩尾をやられた。」

「俺は後頭部だよ。気を失っただけみたいだなあ。」

「おい、獣は牙で噛みついたりしなかったんだな?」

 ガルフロンは男達の前に急に膝をつき、顔を近づけながら尋ねた。

「ああ、牙は戦いには使ってなかった。ヒトの拳を使ってたな。」

 気押されたように背の高い方が答えた。

 その瞬間、ガルフロンは途端に立ち上がり、用済みとばかりにそっけなく男共に言う。

「そうか、もういいぞ。後は審問所で裁きを受けるがいい。」

「おい、リーダーを殺したのは化け猫だぞ。殺しの分まで俺達のせいにされたりしねえよな?」

「聖の誘拐だってほとんど何も手伝っちゃいないし、俺達大したことしてないよ、本当だよう。」

 表面上はふてぶてしい態度を崩さない背の高い男と、慌てた様子の小太りが言い募る。

「心配するな。お前らは有益な情報をもたらしてくれた。減刑しておくよう私から口添えしておく。ただし、化け猫のことは他言無用だ。気安く言いふらせば化け猫の飼い主から口封じに殺されるぞ。現にリーダーがそうされたようにだ。」

「わかってる。たとえ化け猫に襲われたなんて言っても馬鹿にされるのがオチだ。」

「せっかく化け猫から生還したってハクがついたのに、自慢できないなんて残念だなあ。」


 城へ戻る道中、ガルフロンは考えをまとめていた。朝の市が立ち、色とりどりの野菜や果物、生鮮食品が並んでいる。セイガは器用に歩きを止めることなくパンチャ(パンに肉や野菜を挟んだもの)を二人分購入し、一口食べた後ガルフロンに手渡した。偶然購入する料理に毒が入っている可能性は低いものの、毒見を兼ねている。ガルフロンもややためらったものの思い切った様子でそれを頬張る。先ほどの切断された腕の光景が頭から離れず食欲はわかないが、戦士にとって身体が資本である。可能な時に栄養補給をしておくことが望ましいという結論に達したようである。二人とも鍛錬を兼ねて徒歩である。大柄な上に早足で歩くのですぐ後ろを尾行しない限り盗み聞くことは不可能である。

「体調は大丈夫ですか?」

「例の光景が頭から離れない。気持ち悪い。」

 セイガの前ではガルフロンは正直に身体の不調を告白する。

「吐く前に言ってくださいよ。ゲロ袋渡しますから。」

「うん…。」

 セイガはガルフロンの顔色を伺って、仕事の話ができる状態ではあると察したようである。

「あの二人は利用されたとみていいですね?」

「そうだな。」

「リーダーは腕一本だけ残されて殺されていたものの、あの二人には傷さえ負わせずに気を失わせた。理性的な判断と行動力が必要です。単なる獣ではなさそうですね。地がそのような生物兵器を生みだしていたことが現実だとすれば、これは大きな脅威です。」

「うん。」

「あの二人を殺さなかったのは、化け猫が出たという証言をさせるためですよね。地は我々に生物兵器をほのめかして今後脅しをかけようという魂胆でしょうか。リーダーだけ殺したのは誘拐の報復のためですかね。腕以外の遺体はどうしたんでしょう。まさか食べたりしないですよね。」

「ああ…。」

 生返事をしてガルフロンは最後の一口を呑みこんだ。

「いつになくやる気が溢れているな。」

「久しぶりに刺繍よりも面白い仕事が舞い込んできたんですからね。そりゃやる気にもなりますよ。」

「俺は頭が痒い。」

「例のジンクスのことですか?へえ。そりゃ心配ですよねー。お頭を掻いて差し上げましょうか。」

「そのにやけた面をやめろ。馬鹿にしやがって。」

「そんなことないですよ。」

「だから、その顔やめろ。いいか、そもそも誘拐したのが本当に聖だったのかという疑念がまだ残っている。その場合、誰が何のために聖を騙り、化け猫を使って聖を奪還したのかはまだ情報が足りない。しかし、誘拐したのが本物の聖だったとすれば、昨日の深夜にはつちのねから王あてに使いが来てしかるべきだが、それがなかった。つまり、つちのねは天に頼らず、初めから化け猫で聖誘拐事件を解決するつもりだったということだ。」

 セイガは一瞬で表情が冷たく整った。

「地が天に頼らず独自の軍事力を持ったということか…。」

「とにかく今は情報がほしい。とにかく城に戻るぞ。」


 

 城に戻るとすぐに侍従が駆け寄ってきて、ガルフロンとセイガは王との接見の間へ通された。

王は既に着席して待っていた。天にしては小柄で痩身だが、無駄のない筋肉がついた白髪の男である。

「陛下、お待たせして大変失礼いたしました。」

「早朝から火事現場に何用だ?」

優雅に一礼したガルフロンと対照的にせかせかと王は尋ねた。

「おそらく父上と同じ案件です。つちのねの聖の誘拐の件です。聖が誘拐監禁されていた場所が燃えたようです。その検証に立ち会ってまいりました。」

 むむ、と王は眉をしかめる。ガルフロンが聖の誘拐について既に情報を持っていることが王である自分を出しぬかれたようで気に食わぬのである。しかし、今回の案件は王一人で判断を下すには荷が勝ちすぎた。そうと気取られぬよう王は鷹揚に尋ねた。

「それで?」

「聖は既に地によって奪還されたようです。首謀者は死亡。手下は捕縛しております。詳細はすぐ治安維持部隊から報告が上がると思われます。つちのねから使者が来ましたか。」

「ああ。先刻失礼極まりない書状がきた。昨日天がつちのねの聖を誘拐したことについて王の監督責任を問いたいと。要求が受け入れられなければ、誘拐の事実を天の貴族に言って回るそうだ。ご丁寧に聖本人からの脅迫文書だ。」

「……それではやはり誘拐されたのは聖本人だったということですね。」

「聖誘拐という大事件でありながら簡単に解決しすぎだな。地には誘拐事件を解決できる武力組織はないはずだ。ただの狂言かもしれん。この書状も言いがかりにすぎんだろう。が、放っておくわけにもいくまい。仮にも地属の最高権威者だ。謝罪ではなくお見舞い程度の言葉ならありがたくくれてやる。金銭的要求には応じない。」

「わかりました。それなら私がつちのねへ参じます。王太子が使者として向かえば王の誠意を示すことができましょう。」

「そうだな。貴族等に王への批判材料を与えてはならん。使者はお前とセイガの2名とし、秘密裏にことを進めよ。」

「仰せの通りに。」

 ガルフロンとセイガは一礼して王前を辞した。


           ☆

「トラコになんてことをさせるのです。」

「危ないことなんて何もなかっただろ?なあ、トラコ?」

 聖ことサリヤが、ハバータにくってかかっている。サリヤは眉をしかめて口をとがらせている。怒ってるヒトってあんな顔になるんだ。それにしてもサリヤが何を怒っているのかよくわからない。脳内レキシコンは「怒り(感情の一種)」、「目がつりあがるのは怒りの表情」等、語句や表情の説明はしてくれるけど、ヒトの行動の理由を説明してはくれない役立たずだ。

「うん。大丈夫だった。大丈夫だったよ、サリヤ。」

 私はサリヤに言うが、彼女は耳を貸す様子もない。

「トラコはまだこの世に生まれたばかりなんですよ。いわば無垢な赤ん坊と一緒です。善悪がまだ判断できないその手にあなたは何を握らせましたか?ヒトの切断遺体ですよ。そんなことよくできましたね。」

「ああ、そのことか。」

 ハバータは心得たようにうなずく。

「あの腕と血は合成獣を創る時に上手くいかなかったやつだ。命が宿らなかった(から)の肉片だ。別に誰かを殺したわけじゃないし、まあ生ごみの再利用ってところだな。」

「部屋中を血まみれにしたあげく、腕だけの切断遺体を放置することが『生ごみの再利用』?」

サリヤの眉間のしわが深くなり、声が一段と高くなった。

「意に染まない表現だったようで失礼。でもまあ、トラコの危険さを端的に伝えるためには必要な手段(エサ)だった。これで狙った獲物がひっかかってくれるといいんだけどな。」

「トラコだけではなくて、まずあなたにも道徳心を教えることが必要ですね。たとえ命の宿らなかった遺体といえどもしかるべき尊厳を払うべきだと私は考えます。」

 長く息を吐きながらサリヤが言った。どうやら叫び出したいのを抑えているみたい。

「ありがと。でもそろそろお暇する。こう見えてもすげえ忙しいから。トラコ、任務の報告よろしくな。サリヤさんは疲れただろうからゆっくり休んで。じゃあ、また。」

 ハバータはサリヤの腕をさりげなく掴んで戸口に進めた。サリヤは去り際に「このヒトの言うこと、信用しちゃだめよ。」と言いながら名残惜しそうに部屋を出た。


 私が聖奪還の様子を説明している間、ハバータは「そうかそうか。」、「やるなー。」と嬉々とした合いの手を入れてきた。しかし、私が壁一面に血を塗りつけた時の様子を説明すると爆笑し始めた。

「壁中を血まみれにしたって!しかも手形で!すごいな!部屋中に血をばらまいとけとは言ったが、まさかそこまでするとはな!」

とハバータが愉快そうに膝を叩いた。

「最初は瓶を振って壁や床に撒いたんだけど、それだけだとだいぶ余っちゃったし。ばらまいとけって言われたから、部屋中を血まみれにしないといけないかなって思ったの。でも血を塗るのにいい道具も持ってなかったから手でペタペタ塗るしかなくってさ。」

 ハバータの笑いは収まらない。

「そいつはいいや。天の奴らもどんな呪いをかけられたのかと思っただろうな!トラコ、お前は最高だよ。」

と言いながらハバータは私の背中をばしばし叩いた。

「私のしたこと、変だった?」

 大真面目に任務をこなしてきたつもりだったのに、そんなに笑われると不安になる。

 ハバータはにやにやしながら頷いた。

「ああ、だいぶ変だったな。畏れ多くも聖の前で壁に人の血液で手形をつけまくったんだろ?聖が怒る理由も少しわかる。」

「聖はやめた方がいいって、遺体や血液はおもちゃじゃないって止めてた。でも、任務だから頼まれたことはしなくちゃいけないって私は言った。それで聖は怒ってた。ねえ、私悪いことした?任務失敗した?」

 ハバータは笑うのをやめて、私の目をじっと見ながら頭を撫でた。

「任務成功だ。想定外のこともあったが、それも含めて成功だ。いい子だな。」

それでも私の気分は晴れない。素敵なヒトだと感じたサリヤを怒らせてしまったことが自分でも嫌なのだ。

「じゃあなんでサリヤは怒ってたの?」

 片眉を寄せてハバータは答えた。

「ああ、聖は俺に怒ってただけだ。俺と聖は違う人間だ。だから生きていく指針が違う。俺の指示でトラコが聖の指針に背く行動をとったから、聖が怒ったんだ。」

 首を傾げる私にガルフロンは言葉を足した。

「誰かにとって良いことは、別の誰かにとって悪いことにもなるってことだ。」

「ふうん。ハバータとサリヤは同じつちのねの味方同士なのに、良いことと悪いことが違うなんて変なの。」

「別に変じゃない。人の数だけそれぞれの正義があるってことさ。味方でも共有しあえる正義とそうでない部分がある。」

「…じゃあ私にもあるのかな。ハバータやサリヤとは違う私だけの正義。」

 それを聞いた途端、なぜかハバータは少し慌てたようだった。

「そうかもな。でも、まだトラコは生まれたばかりだからな。俺の言うことをよく聞いてそれに従っていた方がいい。危ないことがあるかもしれないからな。」

「わかった。」

 素直に私は頷いた。


 すーっと息を吸い込むとフォボスの温かい湯気が鼻から脳に直接しみわたるみたい。出汁の良い香りがする。あったかい。腹が先ほどからぐるぐるうるさいほど鳴っている。

手を合わせていただきます、をしようとしたら、さっとハルが箸を取り上げた。

「で、なんで当たり前のように二人揃ってうちに夕飯食べに来てんの。」

ここはハルの部屋。二人用のこじんまりとした食卓に私、ハルそしてハバータがついている。

「へ?」

「は?」

 私とハバータは食べようとした出鼻をくじかれて気の抜けた返事をした。

「ハルのご飯おいしかったから。」

「とトラコが言うもんで、俺も馳走になろうと思って。」

 私とハバータが理由を説明すると、ハルは脱力する。

「うちは食堂じゃないですよ。」

「そんな堅いこと言うなよ。食事代くらい払ってやるから。」

「面倒くさいことをすぐ金で解決しようとするの、汚いと思います」

「合理的な解決方法を選択しているだけだ。お前には金が有効だろう?ぴーちゃん達のえさ代、馬鹿にならないだろ?新しい鳥かご買ってやりたいだろ?」

 口をへの字にしたハルは三秒考えてから箸を差し出した。

「どうぞ。」

 私とハバータは箸をひったくるように掴んで、それぞれにすすりだした。

「うまい。」

 一口すすったハバータが唸る。

「でしょう。」

「なんでトラコが得意気なのさ。作ったのはあたしだよ。」

「トラコの味覚はあてにならんと半分期待していなかったがな。ハル、これはうまいぞ。こんな才能があったんだな。」

「その言い方、私にもトラコにも大分失礼ですよ。」

 ハバータはもう一口飲んでふうっと息を吐いた。

 「北の味だ。やっぱり出汁は丁寧にとらないとな。切って焼くだけみたいな南の料理は料理とは言えないな。」

「ハバータさんも北部のご出身でしたね。」

「辺境の何にもないところだよ。ハルは稚貝だろ?あの辺になるとだいぶ街っぽいよな。」

「それでも冬は雪と氷の世界ですけどね。」

「まあ北部はどこもそうだよな。」

 雪?雪って言った?私はハバータに跳びつく。

「雪ってまだ見たことないな。雪って氷とは違うんだよね?空から降ってくるんでしょ?。」

「空気中の水蒸気の結晶だ。氷の一種だな。暗い空から羽のような雪が一斉に降ってくるんだ。空に 手を伸ばすと天が逆さにんあってそのまま落ちてしまいそうに思うんだ。」

 自慢気にハバータは言う。故郷が懐かしいのかな。

「そうですよね。私も何度もやりました。しばらくやってないなあ。」

「この辺では雪なんか降らないからな。」

「ふーん。」

 少し沈黙する。ハバータがふと調子を変えて言った。

「トラコはまだ雪どころか、雨も見たことないだろ?空から水が落ちてくるんだぞ。」

「うん。雨かあ。水が降ってくるなんて雪よりもなんだか信じられないね。雨ってシャワーみたいな感じなの?」

 先ほど任務後にシャワーを浴びてその爽快さに病みつきになった私は尋ねた。ハバータとハルは揃って首を捻る。

 「ちょっと違う。」

 ふーん。見るのが楽しみ。


 銘々が食べおわると、ハバータがこともなげにハルに言った。

「ちょっと腹ごなしにトラコに襲いかかってくれ。」

「はい?」

 明らかに戸惑った様子のハルが動きを止める。

「トラコがさ、まだ対人戦闘場面での間合いの取り方を習得中なんだよ。なるべく何回も身体におぼえこますのが手っ取り早いからさ。」

「いや、あの、私、天の戦闘職種でもないし、いきなり言われてもどうするのがいいのか、まったく分からないんですけど。」

「面倒な奴だな。金は払うって。」

「だからなんでも金で釣るなって言ってるじゃないですか。そもそもヒトに急に襲いかかるなんて、普通ためらいますよ。」

「そうか。」

 ハバータはちょっと上を向いて思案してからまた言った。

「本当にトラコのことをヒトだと思うか?こんな凶悪な面をしていて、狂暴な化け物だと思わないか?」

 ハバータ、何を言い出すんだろう。私の心臓が早鐘を打ち始める。ハルはハバータを厳しい表情で見つめている。

「ハバータさんの最高傑作って言ってましたよね。」

 ハバータはここぞとばかりににやりとする。

「最高傑作の化け物かもしれんぞ。ヒトと仲良くなるふりをして、その裏でヒトが大切にしているものを貪り食う。」

 そして、ハバータは私につかつかと近寄ってきて、私の背中から何かを摘まんでハルの眼前にさらした。

 羽毛だ。

「ハルの大切なピーちゃん達、全羽元気かな?」

「え?」

 ハルは急に血相を変えて、いくつもの鳥籠を覗き込み指さしをして数え出す。一度数え終わっても何度も何度も。

 そして呟く。

「ピー三郎がいない。」

 肩をすくめながら、ハバータが私を指差す

「どうやらお前がフォボスを作ってる間に小腹がすいてつまみ食いしたようだ。」

「くっそ。」と言いながら、そのままハルは手近にあった箸を握り一足で距離を詰め私の左眼に振り下ろした。

 私は右手でハルの右腕をはっしと掴んだ。箸は私の目前でぶるぶる震えている。至近距離にハルの怒りに満ちた目がある。目が燃えているみたい。私は左手で首元の発声機のスイッチを切ってヴォグくワあと吠える。そして、案の定、身をすくめたハルの鳩尾をぽんと突く。

「おしまい。」

 私が右手を優しく離すと、ハルはへなへなとそのまま床に尻もちをついてしまった。私は続けて穏やかに言う。

「私、ピー三郎食べてないよ。」

「え?どういうこと?」

 力のない声でハルが呟く。

 ハバータが上着の内ポケットからピー三郎を取り出す。まるで剥製のように眠っている。ハバータがピー三郎の上で手をひらめかすと、すぐに置きあがってピピと鳴き出した。

「ピー三郎!」

 ハルがハバータからひったくるようにピー三郎を受け取った。

「ハバータ様お得意の昏睡術だ。」

「どういうことですか!」

 ハルはピー三郎の羽を愛おしそうになでながら、氷のように冷たい目でハバータをにらみつける。

「だからピー三郎には何の危害も加えてないってことだ。」

「トラコに対人戦闘の訓練をさせるために、ピー三郎を利用したってことですか?」

「そうでもしないとお前、トラコを襲わないだろ?」

「それにしたってやっていい事とやっていけない事があるでしょう。」

「つまらないことでいちいちうるさいな。つちのねはうるさい女ばかりで面倒だ。」

 ハバータは口の中でぶつぶつ言っている。先ほどサリヤに詰め寄られたことを思い出しているらしい。

「これは性別は関係ありません。私が男でも怒ります。」

「まあほら、さっきの昏睡の粉やるから。これで俺がいなくても生き物を昏睡させることができる。 ピー三郎はひとつまみで十分だ。あとは体重と比例させろ。何かと便利だぞ。じゃあな。」

 ハバータはハルに強引に包みを渡すとそそくさとハルの部屋を出て行った。

 かと思うと、ひょこっと顔を出して言った。

「明日からだけど、しばらくトラコの世話係よろしくな。日課とか一緒にさせてやってくれ。よろしくなー。」

 そしてすぐにドアを閉めた。

「言い逃げなんて卑怯だ!」

 ハルが叫んだ。

 

 ハルと別れて自分の居室に戻ってから、私はそのままベッドに倒れ込んだ。あれ、何ては言うんだっけ、こういう感覚。そう、「泥のように眠った。」いや、まだ寝てないから、「泥のように眠りそう。」まぶたが重くなってきて、身体から力が抜けてきて、だるくもあるけど気持ちいい。泥っていつもこんな気分なのかな、それなら泥になるのも悪くないな、と思っているうちに私は眠っていた。


 翌朝、私は目が覚めるとすぐにハルを起こしにいき、食堂に連れてきてもらった。ハルは朝が早すぎると文句を言ったけれども、ぶつぶつ言いながらも私の頼みを聞いてくれてる。とても面倒見の良い人なのだと思う。食堂は見渡す限り、白い机と椅子が並んでいて、天井にはなぜか青空とそこを跳ぶ鳩が描いてあった。

「部屋の中に空が描いてある。」

 トレーを抱えながら私とハルは天井を見上げた。

「さえないよね、この天井。青空と鳩は平和の象徴らしいよ。でも、なんでただの白い天井にしなかったんだろうっていつも思う。」

「ねえ、ご飯の前には手を洗わないといけないよね?そうだよね。」

 私は食堂の隅に設置されている手洗い場を見つけて、ハルをつついた。

「……天井なんてどうでもいいから、早く飯を食べたいってことだね。そうだよ。手を洗わないとね。」

 石鹸を付けて手をこする。石鹸泡の感触はふわふわしていて気持ちが良いけど、鼻の奥がむずむずする。

 ハルは私の隣で手を洗いながら突然感情のない声で言った。

「トラコ、あんたマスクでもしてきた方が良かったかもね。」

「ご飯食べる時、マスクしてたら食べられないよ。」

「何か気付かないかい、この空気。」

 ハルに言われて、途端に私は顎を引いて油断なく周囲を見回す。食堂のカウンターの向こうにいる人達が隅の方に固まって私の方を見ながら話している。目が冷たく光りながらも、頬は恐怖でひきつっている。食堂のテーブル席についていた人達はざわざわし始めた。私を見ようとして席を立っている人もいる。眉をひそめて手で口元を隠して不安気にこちらを伺っている。

「どうして?私、ハバータの最高傑作なのに。私、どこか変なの?私、美しくないの?」

私がハルに詰め寄ると途端に食堂のテーブルのどよめきと悲鳴が起こる。

「トラコ、落ち着いて。ショックを受けているのはわかるよ。今朝は私の部屋で朝食にしよう。そこでゆっくり話すから。」

 私は口をとがらせながら(と言っても私の顔には表情筋がないのでうまくできないのだけれど)ハルが背中を押すのに任せた。


「へえ、そこで尻尾をまいて逃げることを教えるんだ。」

 突然、面白がるような声がした。ぱっと振り向くと小柄な人影があった。私の腰くらいまでしかなさそう。

「そこ、目測で身長測るのやめてくれる?僕の身長、少なくとも君のみぞおちくらいまではあるからね。」

「すごい。言わなくても考えてることがわかるの?」

 私が思わず感激して近寄ると、どうやら男性らしいその人は少し後ずさった。でも、その後ずさったことに自分でもぎょっとしたらしく、体重移動をするようなふりで元の位置に戻った。

「あんなふうに僕の身長と自分の腰をじろじろ見比べてたら誰にでもわかるって。」

「そうかー。あなたは鋭い観察眼を持っているね。」

 私は素直に感心してしまう。

「まあ、そうだね。観察力が高い僕に飼われた方が有益だと思うな。」

 そこでハルが私を背中に隠すようにして割り込んだ。

 「ちょっとナイジ、この子の面倒は私が見るようにハバータさんから言われてるの。」

「どうせ、ハルは、かわいがって甘やかして閉じ込めておくだけだ。かわいい小鳥さんたちにしてるみたいにね。ハルの飼い方は甘すぎる。だから僕も手伝ってあげようと思ってさ。」

「あんたの手伝いなんかいらないよ。」

 ハルと並んでもナイジの頭はせいぜいハルの肩辺りまでにしか届かない。けんかする姉と弟みたいな構図だ。たぶん年齢もハルより年下だと思う。

「いいから聞けよ。」とナイジはちょっと改まった声で言った。

「こいつはつちのねの最終兵器ではあるが、つちのねの皆がその存在を手放しで喜ぶかというとそうでもない。まずは外見が……ちょっとほらアレだ。さらに、ちょっと物を考えられる奴ならすぐに気付くと思うが、こいつは兵器のくせに他人と意思疎通ができて、自分で考えて行動する。ハバータさんでもどこまで手綱がとれるものか、正直わからない。コントロールが利かなくなる危険性は多いにあり得る。」

「私ちゃんと言うこと聞くよ。」黙っていられずに私は口出しをしたけれども、

「ちょっと黙ってて。」

「ちょっと黙ってろ。」とハルとナイジに揃って口止めをされただけだった。

「で、あんたの考える現時点での最良の手は?」

 ハルが眉をしかめながら尋ねると、ナイジは答えた。

「恐れられておく。」

 ハルが不服そうにふん、と鼻息荒く頷いた様子からすると、良い案のようだと私は思った。

「とりあえず距離を保っておいた方がいい。特に純粋派の奴らとは。こいつはバカで思考能力ゼロなただの猛獣だとなるべく思わせておいた方が無難だ。ただの武器でしかないし、近寄ったら食われるかもしれないと。」

 純粋派?脳内レキシコンを探ると「純粋派」の項があった。

 つちのねには大きく二つの派閥が存在する。純粋派と泰然派である。純粋派は、天への恨みを自己昇華に高めるということを重視する。そのため、天の民が地の民を支配するという社会構造はそのままに、その支配からくる負の感情をエネルギーとして自己の鍛練に励むことを基礎とする考え方である。純粋派は司祭をトップとし、宗教上地位が高い者たちに多い考え方である。泰然派は、自己鍛練を重ね、徳を重ねていれば、いつの日か地の民が天の民を支配する日がくるという社会構造の転覆を最終目的とする考え方である。私は地の民が天の民と対等な力を持てるように開発された兵器である(と脳内レキシコンに書いてあった)から、私の存在そのものが完全なる泰然派らしい。ということは、ハバータ、ハル、ナイジも泰然派だと考えるのが自然だ。

「トラコ、あんたは言葉を操れることを極力隠しておいた方がいい。」

「わかった。」

「わかってない。」

「……。」

 私は理解した証拠にできるだけ目を大きく開けながら、頷いた。

「わかってない。言葉を理解している様子もしちゃいけないよ。」とハルが付け加えた。


 次に食堂に入りなおし、私がしたことは身体の底から空気を振り絞って咆哮することだった。変声機は付けたままだけど、思い切り腹に力を入れて喉を鳴らせばことばにはならずに吠え声になる。雷鳴のような不吉なごろごろしたうなり声が床を伝って食堂に充満する。足元から冷気が上がってくるかのようだった。

 食堂で食事をとっていた人、料理を受け取っていた人、食事を作っていた人が一斉に動きを止めてこちらを見た。数秒の沈黙。突然、

「ひええ。」と遠くの方で悲鳴が上がって、一人が食堂のテラスを突っ切って逃げて行ったのをきっかけに、黒い雲が一瞬で空を覆うように混乱と悲鳴と喧騒が始まった。次々に上がる悲鳴と共に人々は我先にと走り出す。

「ぐわるぐわわ……。」

 私はもう一度咆哮し、意図的に途中で止める。ハルがストールを頭に巻きつけたのだ。

人々が一瞬注意を引かれてこちらを見る。その機を逃さずハルが大声で叫んだ。

「このストールを被せていれば大人しくなるから大丈夫。お腹が減って気が立ってるみたい。早めに何か食べさせてくれる?マットウ(パンに肉と野菜を挟んだもの)でいいよ。」

 ナイジは食堂の厨房からマットウ(思ったより大きい)を皿に載せて持ち出してきた。

「今日はセルフサービスでやらせてもらうよ。マットウ6個お買い上げでーす。」


 ハルとナイジが私の正面と横に取り囲むように座りとりあえず食事を始めると、だんだんとまた席について食事を再開する人達も出てきた。そのまま席を立つ人もいたけど。

私はストールの巻き目の間から食事をすることの不自由さで悪戦苦闘していた。目で訴えるとハルは少しストールの巻きをゆるくしてくれた。食堂の入口から変な臭いがする。

 私はしゃべってはいけないので、ハルとナイジが話しているのを聞いているしかない。

「今日の日課はなんだったか。」

「私はいつもの通り畑番だ。この時期は日差しが強いからしんどいな。」

「俺は今月はずっと研究所詰めばかりだ。外に出れないのもなかなか苦痛だぞ。それにハバータさん、ヒト遣い荒いしな。」

「そうだな。まあ、それぞれ大変だな。」

 努めて平穏に見える会話をしてくれているらしい。

 突然、私の分の皿が蹴り落とされた。あざけるような、低い声がする。

「飼い犬のエサは床に置けば十分だ。テーブルを使う必要はない。」

変な臭いの正体が来た、と私は思う。私は犬なんかじゃない。ストール取って顔見せてやろうか。でも、何をされても言われてもじっとしているように、と事前にハルとナイジからきつく言われているので、俯いておくことにする。

 上目づかいで窺うと、背の高くローブを着たヒトが立っている。そのヒトを取り囲むように数人が後ろで待機している。

「鬼子の分際でヒトと同じ食事なんてふざけている!。」

「野獣は残飯でも食ってろ!。」

「その醜い姿、吐き気を催すから食堂には出入り禁止だ!。」

 後ろの取り巻きも好き勝手なことを繰り返す。お腹の中が熱くなってくる。

「ちょっと何するんですか!どういうことですか?」

 ハルが思わず反論すると、その相手はにやりと笑った。

「朝から鬼子が食堂にいて、ヒトに恐怖と混乱を引き起こしていると報告を受けてな。守士じきじきに厳酷注意を与えに来たというわけだ。聞きしに勝る外見だな。禍々しくて見るに堪えん。さっさと食堂を出て行ってもらおうか。」

 唇をへの字に結んだハルが沈黙する。

「ナイデンガル守士様、お気持ちはわかりますがどうかお控えください。この鬼子は昨日、聖様から直接お光を受けたのです。あの聖様がこの鬼子の存在を祝福されたのです。しかし、鬼子ではつちのねの信仰を理解することはできず地位を与えることは困難で、せめて人並みの部屋と仕事を与えることしかできません。どうか哀れと思ってやってください。」

 ナイジがすかさず下手に出て説明すると、守士は鼻を鳴らした。

「ふん。……聖様は何かお考えがあってのことだろう。」

「ええ、この鬼子に利用価値があると今は判断されているとの御様子ですが、聖様もいつ不要と切り捨てるかもわかりません。少なくとも光を授けられたということは、一時的にヒト扱いをすることが聖様の御意向に沿う行動かと……。」

「……やむをえんな。しかし、ここはヒトの食堂だ。鬼子が使うのならせめて端の席に座れ。目ざわりだ。」

 はいはい、と従順にナイジが皿を運んで席を移動し始める。

「聖様もこのような穢れた鬼子に触れられたとは……。禊が十分に必要だな。」

穢れた鬼子?

「どういう……グヴォブルグぶるグル」

 私が思わず立ち上がって文句を言いかけると、途中で唸り声に変わった。ハルが即座に背伸びをして私の首元の変声機を外したのだ。

 ハルは慌てて

「食事を邪魔されて怒っているみたい。ストールを巻きなおそうね。」と言いながら、私の頭のストールを巻きつけながら

「どうどう、落ち着いて―。落ち着いてー。」と声をかけてくれる。

「こいつ、今しゃべって……ないよな。」

「しゃべるはずないですよ。所詮、鬼子ですからね。たまたま唸り声が言葉のように聞こえたんでしょう。」

 ナイジが口を添えた。

「そうだよな。」

 やけにあっさりとナイデンガル守士は認めた。ヒトは自分の信じたいものしか信じない。

「このストール、優れものなんですよ。この子の凶暴化を防ぐんです。培養液と同じ成分が繊維に含まれていて、母親の胎内を思い出させて落ち着かせるんです。」

 ハルが話題を換えた。本当は何の効果もないただのストールだ。『鬼子』にしっかり手綱をつけて支配しています、と見てわかるような品が必要だとナイジが言い張り、ハルのタンスの底にあったストールを引っ張り出してきただけだ。

「へえ。またハバータの発明品か。ハバータにこそ、このストール巻きつけてやれよ。ちょっと最近、調子に乗っているみたいだからな。」

 はは、そうですか、と苦笑いするだけのハルと比べて、ナイジは如才なく立ち回る。

「いやー。さすがナイデンガル守士様、良い考えかもしれないっすねー。ただ、残念ながらヒトには効果ないらしいみたいです。ヒトは培養液に入って生まれてきませんからね。」

「そうかー。培養液から生まれる穢れた鬼子専用ってことだな。ふふっ。まあそれも良いだろう。まあ、この鬼子が暴れ回らないように、厳しくしつけておけよ。じゃあな。」

 ナイデンガル守士とその取り巻きは機嫌よく靴音を鳴らして去って行った。

 ハルとナイジから食事を分けてもらい、私も黙って食事を終えた。脳内レキシコンによれば、守士は司祭の一つ下の位で、ハバータも守士らしい。純粋派は名前の後に役職名を付けて呼ばれることを好むらしい。ハバータは泰然派だから役職名を言わず、名前だけで呼べば良いらしい。今すぐ叫びたい気持ちを抑えるために脳内レキシコンでかたっぱしから関連条項を読んでやった。


 その後、ハルの自室で話し合った。

「ちょっと、なんなのあいつ?私のこと、穢れた鬼子って言ったよ!二回も!」

「ハル、とっさに変声機外したのはすごい判断だった。」

「気づいて良かったよ。それと、首元の変声機に手が届いて良かった。もう少し、私の背が低かったら気づいても手が届かなかったと思う。」

「それ、僕への当てこすりだよね?」

「いーや。違う。正直、ナイジがうまく守士の機嫌をとってくれて助かったよ。私一人じゃあんなにうまくごまかせなかった。」

「ふふっ。僕ら二人でうまくやったってことだね。」

 妙に御機嫌なナイジの肩を私は揺さぶる。

「二人じゃなくて、三人でうまくやったの!」

「お前はしゃべっちゃだめなのに、足をひっぱっただけだろう?」

「そんなことないさ。ひどいこと言われて、よく我慢した方だと思う。」

「ありがとう、ハル。あいつ、私のこと穢れた鬼子って言ったんだよ。二回も!」

「今後のことを考えると、変声機を最初から外しておく方がいいんじゃないかな。必要な時だけつけるとか?」

 ナイジがまた会話の主導権を取る。

「それはかわいそうだ。いつでも臨戦態勢をとっておく必要があることを考えると、変声機をどこかに忘れたり、なくしたりする可能性があることは避けた方がいい。」

「確かにな。じゃあ、トラコの自主努力で黙ってるようにしておくしかないってことか。」

 先行き不安だなー、とナイジがつぶやく。

 あのう、さっきから私の言うことを二人とも知らんぷりしてばかりなんだけど!

「ねえ。あいつ私のこと穢れた鬼子って言ったんだよ!二回も!ちょっと二人ともそのことについて、なんかコメントはないの?」

 私は大声で言う。

「ああ……。」

「そうだね……。」

 ハルとナイジは目を合わせた後、ハルが私に向き直った。

「脳内レキシコンには『穢れた鬼子』って項はないんだよな?」

「『鬼子』もない。」

「ハバータさん編集の辞書ってことだもんな。他にもかなり恣意的な編集をしてそうだな。」とナイジはぶつぶつ言っている。

「必要な情報だと思うから、私から伝えておく。私の理解の範囲で説明するから、真実を伝えられるかどうかは分からない。いいね?」

と前置きをしてくれるハルは、誠実なヒトだと私は思う。

 私が頷くと、ハルは

「言っておくけど、あくまでも神話だからね。」と前置きをして説明を始めた。

 創世記によれば、天地は神が創った。神は半獣半人の存在で、まずはその神自身に似せて生き物を作った。しかし、彼らはとても強欲で暴力的だったので、神はお怒りになり、天のヒトを創った。ヒトは半獣半人の先住民を「鬼子」と呼び、殲滅した。その後、天のヒトを支えるべく、地のヒトを創った。しかし、殲滅したはずの鬼子は何度でも蘇り、そのたびに天のヒトは駆逐を繰り返した。ヒトは母親から生まれるが、鬼子には母は必要ない。どこからでも生まれる、母のない穢れた存在であるがゆえに。したがって、「鬼子」とは半獣半人のことを指し、そこから派生して天属と地属の許されない性関係から生まれた子のことも指す差別的な言葉である、とのことだった。

 ナイジは私のことを窺うように見守っている。たぶん説明を聞いた私が逆上しないか心配しているのだと思う。

「うーん……。ってことは、あいつは私の事を神話に出てくる鬼子だと思ってるってことか。」

「トラコのような合成獣を今まで見たことないし、やっぱり最初は創世記の鬼子を思い出すと思う。私もそうだったし。」

 ハルが申し訳なさそうに付け加える。

「そっか。鬼子って意味がやっとわかった。ありがとう。」

「意外と冷静じゃないか。」

 ナイジが褒めてくれた。

「なんかもやもやするけど、私は神話に出てくる鬼子じゃないもん。ハバータの最高傑作だもの。」と私は胸を張った。


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