花嵐(5)
「ありがとうございます」
おれはひと言で礼を伝えたが、彼女はおれとは違い、まるで高校時代に戻ったように元担任との会話を広げた。
「ありがとうございます!大学を辞めた時も色々とお世話になって、本当にありがとうございました」
溌剌と、当時の憂いなど遥か彼方に置いてけぼりにしてきたような口調の彼女を、おれは誇らしく思った。
それは元担任からしても同じ感想のようで、満足そうに微笑み返してくる。
「あなたが頑張ってたから、みんながあなたを応援をしたくなったのよ。だからそれは、あなた自身のおかげなのよ?」
さらりと、こちらの心に響くようなことを容易く言ってしまえるところが、おれ達の担任が生徒から慕われていた所以だろう。
そしておれも、この元担任には背中を押してもらったことがあるのだ。
そういえば、あの時の礼はまだちゃんと伝えてなかったけれど……
「先生。おれも、感謝してることがあるんです」
「あら、何のこと?」
「先生は覚えてないかもしれないけど……おれが肩を壊した後で学校に顔出したとき、先生、おれにストレートに『頑張って!』って言ってくれたんですよ。あれ、結構嬉しかったんですよね。あの頃はみんなおれに気を遣って、なんとなくぎこちない雰囲気になることが多かったんです。なのに、先生にあんな風にはっきりキッパリと ”頑張れ” って言ってもらって、ある意味新鮮で……ありがとうございました」
「そんな改めてお礼を言ってもらえるようなことじゃないわよ。でも、覚えてるわよ?」
てっきりもう記憶には残ってないだろうという前提で打ち明けたおれに、元担任はケロッと返してきたのである。
「でも、実はあのとき、何て言ったらあなたを元気付けられるのか分からなくて、結局『頑張って!』しか出てこなかったのよ。本当は、あんまり ”頑張れ” って言葉は使うなってお達しが出てるんだけどね……ほら、”頑張って” って、相手によっては逆影響になる場合もあるでしょ?でも、困難なことが起こっても懸命に乗り越えようとしてるあなた達を見てたら、どうしても『頑張れ!』って応援したくなっちゃったのよ。だけど受け取り方は人それぞれだから、私の『頑張れ!』が、変にプレッシャーになったり、心の負担にならなかったか、ちょっと心配はしてたの。でも、今日、プラスに受け取ってもらってたと教えてもらって、私こそありがとうと言いたいわ」
先生が包容力ある笑顔を咲かせると、まさにそれに華を添えるように、薄紅の花弁がふわりと踊りだし、おれ達を取り囲んでいった。
おれが彼女と共に見る、三度目の桜の雨だ。
「うわ……まただ……」
「また?」
漏れ出た彼女の呟きを拾った先生が、不思議そうにおれ達を見た。
「あ…実は、おれ達二人でここの桜吹雪を見るの、これで三度目なんですよ」
「二人で見ると、必ずと言っていいほどこの光景よね?」
思い出話の共有は、幸せを引き連れてくる。
彼女のどこかはにかんだ様子からも、きっと彼女もおれと同じ気持ちなんだと思うと、それもまた幸せだ。
「そうだったの?でも、三度もあったんじゃ、それはもう偶然なんかじゃなくて運命ね。その風は、きっとあなた達にとって恵風だったのよ」
先生が風になびく髪を抑えながら言った。
あまり聞いたことがない言葉に、いち早く反応したのは彼女だった。
「恵風って?」
「恵みの風と書いて恵風と言うの。その字の通り、春に吹く暖かな恵みの風のことよ」
「へえ……、恵風か……すごく素敵」
国語教師らしさを余すことなく発揮させた先生に、彼女は上機嫌で頷いていて。
そしておれ達を、柔らかな薄紅の風が撫でていく。
おれは、この穏やかな光景は、まさしく恵風なのだと思った。
「さすが古典の先生。風流なことを言いますね」
感心とからかいを混ぜ合わせて告げると、おれよりも担任と親しかった彼女がクスリと笑った。
「風流と言えば、今思い出したけど、先生って、昔、風流なラブレターを出したことがあるんですよね?」
「え?……ああ、そんな話もしたことあったわね。よく覚えてたわね」
「すごく印象的な話だったから…」
二人の会話を眺めていたものの、風流なラブレターというフレーズに聞き覚えがあったおれは、無意識のうちに、
「風流なラブレターって、どんなラブレターだったんですか?」
そう尋ねていた。
先生は少し面映ゆさを見せながらも、「確か…」と、記憶の引き出しを探っていく。
「”あなたは私の初桜でした”……だったかな?」
「―――え?」
聞き覚えがありすぎる一文に、おれは一気に興味が溢れかえった。
ただの、偶然だろうか?
初桜なんて、今朝はじめて聞いたばかりの言葉がこんなにも早く再登場することが、本当に、実際に、普通に、あり得る話なのだろうか?
けれど、おれの気持ちが前のめりに変わったことに気付かない彼女は、妙に得意気に訂正を加えたのである。
「ちょっと違いますよ。正しくは、”わたしの初桜は、先生でした。” です」