花嵐(4)
「なに?もう二人の思い出話ならお腹いっぱいなんだけど……」
玄関扉に手を伸ばしながら、軽く振り向いた。
すると母は唐突に「ありがとうね」と告げてきたのだ。
「え?何が?」
あまりに突飛な話題転換で、おれは思わず間の抜けた声を出していた。
のろけ話を聞いてやったことが、そんなに嬉しかったのだろうか。
まさかなと思いながらも、きょとんとしてしまったのだ。
「あんなに私達と同じ教員の道に進むのを嫌がってたのに……」
こっそり眉尻を下げて微妙な顔つきになった母に、おれは「今さら?」と吹き出した。
だって、おれが高校教師として働きだしてから、もう何年も経っているのに。
「でも、ちゃんと言ったことなかったでしょう?あなたに直接伝えたことはないけど、お父さんもものすごく喜んでたのよ?」
「へえ……、それは、初耳だ」
おれが野球の道を諦めて別の目標を探し求めたとき、一番近くには彼女がいた。
教師への道を諦めて、看護師という新たな夢を持って頑張っていた彼女に感化されたわけではないが、おれが改めて人生の道に選んだのは、両親と同じ ”高校教師” だった。
それを報告した時も、無事に教員免許を取得できた時も、父は「そうか」「おめでとう」程度の反応しか見せなかったのだが……
でも実は、そんな風に喜んでくれていたなんて。
それだけ、父は教師の仕事に自負を持っているということだろう。
「あなたにしてみれば、恋人の叶えられなかった夢を自分が代わりに…ってとこなのかもしれないけど、お父さんから見たら、自分と同じ教科だし、特に嬉しかったみたい。あなたが教員の道に進むと聞いた頃は、毎晩のように『あいつが教師か…』なんて言いながら祝杯をあげてたものよ」
「いや、別にあいつの代わりに教師になったわけじゃないけど……。でも、父さん、そんなに喜んでたんだ……」
お前は自分で選んだ道を進んでいいんだ―――――
いつかの父のセリフが、鮮明に蘇ってくるようだった。
自分で選んだ道なら、きっと後悔はしないだろう。例え後悔したとしても、それも人生を彩る経験としてお前の財産になるはずだから―――――
本当に、その通りだった。
自分で選んだ野球の道は行き止まりになってしまったけれど、おれにとってはその挫折も、きっと、今後の人生に役立つ貴重な経験だった。
あの時は悔しくて悲しくて悲観してばかりだった痛みも、時を経てその存在価値は変化しているのだから。
決して、あの痛みが消えてなくなることはない。
だが、流れる時間や心の方向、日々に起こる出来事の積み重ねによって、その痛みはどんどん削られて、大きさや重さを減らしていくのだろう。
やがて、身に着けていても邪魔にならないほどになって、それは、おれを彩る一部になるのだ。
おそらく父は、おれの選択を認めて応援してくれる傍らでは、それと同じだけ心配もしていたに違いない。
そして、おれ自身で選択するようにと言いながらも、心のどこかでは自分と同じ職に就くことを望んでいたのかもしれない。
「あなたが自分で選んだから、嬉しいんだと思うわよ?ありがとうね」
「……別に、改まって礼を言われるようなことじゃ……あ、じゃあ、おれもう行くから」
しみじみと言う母の目が、わずかばかりに潤んでいるようにも見えて、おれは慌てて家を出た。
相手に感傷的になられると、つい自分もそんな気分になってしまう。
そんな性質は、果たして父親と母親、どちらに似たのだろうか……そんなことを考えながら、彼女との待ち合わせ場所に急いだおれだった。
※※※※※
おれも彼女も実家は母校とそう離れていないので、待ち合わせは校門前だった。
在学中は、二人で並んでくぐることなんて一度もなかったけれど、それが数年後、婚約者と言う関係になって一緒に訪れるなんて、誰に想像できただろう。
おれは胸をくすぐって止まないソワソワした感覚に、高校時代の片想いしていた時間を重ねていた。
あの頃思い描いていた未来とは全然違っているけれど、今は、言うまでもなく幸せだ。
そうやって現在の自分の境遇を今一度噛み締めていると、おれの幸せの種をまき続けている人が、それこそ幸せいっぱいの笑顔でおれに手を振ってくれてるのが目に入り、おれは急ぎ足で駆け寄った。
「おはよう!時間通りだね」
「悪い、待たせた?」
「大丈夫だよ。でもさっき先生に連絡したら、急に用事が入ったとかで、あんまり話してる時間はなさそうなんだ」
「え、じゃあ急いだ方がいいよな?」
「うん、そうだね」
二人並んで校門を入り、足早に校舎に向かう。
すると、来客用玄関の手前に数十メートルに渡り続く桜並木が、おれ達を、昔と変わらない風景で出迎えてくれた。
おれと彼女にとっては、思い出の桜達だ。
急いでるにもかかわらず、思わず足を止めてしまいそうになったのは、そこに立っている桜達が、これ以上ないくらいの満開だったからだ。
「すごい………満開だね」
そう言って、先に立ち止まったのは、彼女の方だった。
おれは彼女につられる形で桜の枝枝を振り仰いだ。
「ああ………あの時と同じだな」
懐かしむように同意したおれに、彼女は「どっちのこと言ってるの?」と楽しそうに首を傾げた。
「それは、」
両方―――そう答えようとしたけど、玄関口から出てくる人影があり、二人同時にそちらに意識を流した。
「あ!」
「あ…」
おれ達の約束の相手、元担任教諭が、スプリングコートと手提げバッグを抱えてこちらに向かってくるのが見えたのである。
「二人とも久しぶり!よく来てくれたわね」
元気よく片手を振ってくる元担任は、おれの記憶にある姿と微塵も変わらない。
しいて言うなれば、近付いて見た顔の目の下に、若干シワが増えただろうか。
そんなことを言えば蔑視発言だと非難を受けるかもしれないが、でもそのシワ1本1本にだってその人の歴史が刻まれてるわけで、おれには、その人を彩るパーツのひとつにしか思えないのだから。
まるで、おれが経験したあの痛みのように。
ただまあ、元担任がどう受け取るかは分からないので、この場ではあえて言うまい。
「先生、お久しぶりです」
「本当にねえ……。あ、まず最初にこれを言わなくちゃね。結婚、おめでとう!」
荷物を脇に挟んだまま、元担任が小さくパチパチパチと手を叩いて言ってくれる。
正確には、まだ結婚はしておらず婚約の段階なのだが、そんなのは些細なことだ。
おれも彼女も、家族以外の人からこうして二人揃って祝福を受けたのははじめてのことで、やや照れ臭さも感じたものの、それを遥かに上回る喜びは、おれ達二人に満開の笑顔を描かせたのだった。