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花嵐(3)





胸が、ドクリと震動を強めて。

その反響は、腰や足先にまで伝わっていって。

こういう感覚は、良くも悪くも、自分の人生に大きな影響を及ぼすのだということを、おれは経験からよく知っていた。

例えば、大学からスカウトの連絡をもらった時や、医師から、野球をやめるように告げられた時――――

あの時も、今みたいに胸が大きく震動したあと、背筋を通って腰や足に刺激が渡っていった。

そして、立っているのがやっとのような、どうにも形容しにくい感情に支配されてしまうのだ。


おれが彼女の笑顔を見つめ過ぎていると、まるでそれを囃し立てるように、桜の欠片達がおれの視界を賑やかに横切っていく。


そういえば、あの日、彼女と二人で、この場所で、今と同じ薄紅の景色を眺めた時も、なんて呼んだらいいのか分からない何か(・・)が、体を走り抜けたような気がしていた……

けれどあの時は、新たなる場所へ向かう高揚感と、密やかな恋心への決別がおれの中でせめぎ合っていて、正体不明の感情を気遣う余裕なんてなかったのだ。


でも今日は、心にはうんと広い余白があった。

野球のことを考える必要がなくなったおれの心は、余り(・・)が広すぎて、使い道が定まらずに困惑するほどだったのだから。

そのせいなのか、あのときは蓋を閉めて知らぬふりをできていた恋心が、今一度出口を求めて突き上げてくる感覚が、はっきりとおれを捕らえていた。



今日たまたま、実家への帰り道の途中で、思い出したかのように立ち寄ったこの場所で、こうやって彼女と再会できたのは、おそらく、いや……きっと、間違いなく何かの縁だ。

おれは、この偶然をただの偶然として片付けることに、底知れない後悔の種を見つけてしまった。


「あのさ、」


「なあに?」


「……せっかくこうして会えたんだしさ、一緒に頑張ってる者同士としてさ、また時々、会わないか?」


「え?……二人で?」


彼女の目元に少しの惑いが映るのを見て、しまった、いきなり過ぎたかと焦ったものの、次の瞬間には「そうね……」と満更でもなさそうに目を細めたりするから、おれは、安堵を通り過ぎて調子に乗ってしまいそうになった。


それでも、秘めていた恋心を吐露するのは、今のタイミングではないはずだと、グッと気持ちを宥めることにした。


「ほら、新しい目標に向かってどこまで進めたか確認し合ったりして、お互いに切磋琢磨してさ……」


野球を諦めて以来、ここまで積極的な意思で発言したのははじめてだった。

多少、がっついていたかもしれない。

でも彼女は尻込みするような様子もなく、あの、おれの好きになった笑顔のままで返事をくれたのだった。


「そうだね。一緒に頑張ろうって言ったのは私だしね。よろしくお願いします」





※※※※※





それから、いくつかの薄紅の季節を通り過ぎてきた。

彼女と一緒に。


あの春の日のように麗らかな時間もあったけれど、時には、夏の夕立のような予測も難しい展開もあったりして、おれ達の関係は深まりつつ、そして、あの日約束したように、二人で、一緒に頑張ってきたのだ。

お互いの、新しい目標に向かって。


やがてその目標に辿り着くことができたとき、彼女は、「一緒に頑張ってくれてありがとう……」と、瞳いっぱいの涙とともに伝えてくれた。


それから数年、おれと彼女の人生は、また一段、進もうとしていた。





「あら、スーツ?今日はデートじゃなかったの?」


シューズクロークから革靴を出していると、見送りにきた母親につかまってしまう。


「……今日は、高校の時の担任に挨拶に行くんだ。二人で」


正直に答えたおれに、母はパッと目を見開いた。


「まあ!それはいいことね!きっと先生も喜んでくださるわ」


母も高校教師をしているので、教え子から結婚の報告を受ける教師の気持ちはよく分かっているのだろう。

表情いっぱいの笑顔を見せた。


「電話では、えらく驚いてたみたいだけどね」


「それは仕方ないわよ。だってあなた達、高校時代はそんなに接点なかったんでしょう?」


「まあ、そうだけど」


「でも、付き合うきっかけになったのは、卒業してから偶然母校で再会したことなのよね?しかも、今みたいな桜の季節に」


「―――っ?!なんでそんなこと知ってるんだよ?」


誰にも話したことない彼女となれそめを母がスラスラと口にするから、おれは、まるでやましい本でも見つけられた中学生のように焦ってしまう。

が、母にそんな情報を提供できる人物が唯一であることは分かりきっていたので、


「……って、そんなのあいつしかいないよな」


婚約者を思い浮かべながら、微苦笑を浮かべた。

母に紹介してからというもの、彼女と母はまるで本当の親子のように仲が良いのだから。

おれが話してないことでも筒抜けになってるなんて何度もあったわけで。


瞬時に承知できてしまったおれに対し、母はまだ話し足りないのか、にこにこと上機嫌で見上げてきた。


「……なんだよ?」


「ううん、ただちょっと、昔のことを思い出してただけ」


「昔って?」


「私とあの人との出会いよ。私達もね、桜の季節に、高校で知り合ったの。高校と言っても私達の場合は生徒同士じゃなくて教師同士だったんだけどね」


「はいはい、母さんと父さんが職場恋愛だったのは知ってるよ」


二人とも高校教師で、父の勤務する学校に母が後から入ってきたらしい。

母の採用面接の日に職員玄関で鉢合わせし、面接場所に案内したのが父だった…もう何度も聞かされて、おれにとっては子守唄に等しい。

おれはうんざり気分を隠さずに言い返したが、母は「違うのよ、今思い出したのはその話じゃなくて……」と、楽しげにクスクス笑い出したのだった。



約束の時間にはまだ余裕があるので、おれは母のいかにも披露したげな思い出話に付き合ってもいいかなと思った。

通勤に便利だからという理由で大学卒業後再び実家暮らしをしていたが、結婚してこの家を出てしまえば、母とのこういう時間も易々とは作れないかもしれないのだから。



「じゃあ、何を思い出したんだよ?」


詳細を催促すると、母は嬉しそうに口を開いた。


「あのね、お父さんったら、私と出会う前に、とある卒業生から風流なラブレターをもらってたのよ」


「へえ…。まあ、父さん、若い頃は結構イケメンだったって聞いたことあるしな。でも、風流って?」


高校生にとって若い教師というのは、容易く憧れの対象になり得るのだということ、それはおれ自身の経験からも理解はできた。

だが風流なラブレターというのは、想像しにくい。和紙にでも記されていたのだろうか。


「それがね、あなたの結婚が決まってから、納戸にしまってたあなたの古い荷物を整理してたんだけど、そこにお父さんの昔の荷物も紛れてたみたいでね……以前教材に使ってた資料のファイルボックスに、小さく折り畳まれてた便箋が入ってたのよ。可愛らしい文字で書かれたラブレターがね」


「へえ、捨てないで取っておくなんて父さんらしいね。でもそれを母さんが見つけたんだ?で、何て書いてあったの?」


おれがちょっと乗り気になって訊くと、母はうっとりするような表情をして、



「”わたしの初桜は、先生でした。”」



セリフ調で、そう答えた。



「……はつざくら?何それ」


はじめて聞いた言葉に、おれは気が抜けた声になっていた。

風流と言えば風流なのかもしれないが、古典担当でもない父にそんなクラシカルな文章の手紙を渡したとて、送り主の気持ちが伝わりきるとは思えない。

その卒業生だって、父の人となりを在学中に見てきたのなら、あの父が風流を感受できるタイプでないことぐらいは分かりきっていただろうに。

すると、国語教諭で古典も担当していた母は、フッと意味ありげな息をこぼした。


「私が思うに、差出人の女の子は ”初恋” の意味で使ったんじゃないかしら?」


「初恋?そんな隠語があるの?じゃあ……”わたしの初恋は、先生でした” になるわけ?」


「お父さん自身も本人から確かめたわけじゃないみたいだけど、たぶん、間違いないと思うわ。だってあの頃のお父さん、とっても素敵だったんだから」


頬に手を当てて、当時に想いを馳せる母。


「はいはい、もうのろけ話は結構です。じゃあ、行ってくるよ」


母の話がいつもの夫婦仲良しエピソードに舵を切りそうだったので、おれは早々に退避することにした。

だが、「あ、待って」と母が呼び止めたのだ。










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