花嵐(2)
「え……?なんでここに……」
あまりにも想定外過ぎて、ギクリと身が竦んでしまったおれを、元同級生はクスクスクスと笑ってくる。
その屈託ない笑顔は、高校時代とまったく変わっていない。
おれは彼女の、この明るい笑い方が好きだった。
「驚いた?実は私、今ここで働いてるんだ」
「―――は?」
軽やかに言った彼女を、おれは、渾身の力で訝しむ。
何おかしなことを言ってるんだと、言外に表明しながら。
だって彼女は、おれと同じで、まだ大学生のはずだ。
春休みの間だけのアルバイトというのなら理解も出来るけど、今の言い方だと、どうもそんな感じでもなさそうだ。
おれは怪訝な顔つきを濃くしてしまったけれど、彼女はよりいっそう朗らかに笑った。
そして、笑いでは済ませられないような事情を説明してきたのである。
「あのね、私、大学やめちゃったの」
「は?やめた?え、なんで?教師になりたいって言ってたじゃないか」
「そうなんだけどね……」
苦笑、とも呼びきれないような、複雑そうな笑い顔に変わった彼女。
「ほら、私、ギリギリまで進学先決まらなかったじゃない?それって、希望大学にことごとく落ちちゃったからなんだけど、どうにか一か所だけ受かって、そこに行くことにしたのね。でも、もともとそこは想定外の学校で、入ったときから、経済的にちょっと厳しいかなとは思ってたんだよね……。うちね、兄弟が多くて。私は高校受験でも失敗しちゃってて、公立に落ちてこの学校に来ただけでも、結構親には無理させてたんだ。でも、国立狙えるほどの成績でもないし、返済免除になる奨学金とか、バイト掛け持ちとか、出来る限りの選択肢は考えてみたんだけど……結局、一年が終わる頃には、やっぱり無理だな……って、諦めたの」
「そんな……」
さっき彼女に対して勝手に感じていた羨望を、おれは全力で取り下げた。
知らなかったとはいえ、自分本位な憶測で一方的に彼女を羨んだりして、どうしてそんな無責任な想像ができてしまったのだろう。
……まさか、おれが一番不幸だとでも思ってたのだろうか。
だから、一人で勝手に、彼女はおれと違って夢に近付けているはず…なんて思い込んだのだろうか。
彼女の悔しい思いは、もしかしたら、おれよりもずっと大きかったかもしれないのに………いや、どちらが大きいか比較すべきではないのだろうけど。
「でもね、私の状況を知った先生が相談に乗ってくれて、この学校で働いてみない?って勧めてくれたんだ。それで、今は昼間はここで働いて、夜間で看護師資格を取るための専門学校に通ってるの」
「看護師……?」
「そうだよ。看護師さん」
まるで自慢するように、彼女は胸を張った。
無論、看護師だって立派な職業だ。だが、高校教師になりたいと語っていた姿を覚えているだけに、おれは、その進路変更をどういう気持ちで聞けばいいのかわからなかった。
”すごいな” とか ”よかったな” なんてとてもじゃないが口にできなくて、おれは、「そっか……」と、起伏のない顔色で、平坦な返事をするしかできなかった。
ところが、
「もう!そんな残念そうな顔しないで?」
ありありと困った表情になってしまったおれに、彼女はパンパンッと手を打って、沈みかかった空気を変えた。
「私、今結構頑張ってるんだよ?毎日忙しいけど充実してて、楽しいんだ」
「そっか……」
「そりゃ、高校の先生っていう目標は変わっちゃったけど、別に夢が変わったっていいじゃない?小学校のときの将来の夢なんか、みんなコロコロ変わっちゃうんだし」
それこそ、コロコロと、転がるように彼女は笑い声をあげてみせた。
そこには強がりめいた影はいっさい見受けられなくて、おれは本気でホッとしていた。
「でもさ、だから……」
「うん?」
「その、怪我のこと……」
「ああ……」
急に言葉を濁すようになった彼女に、おれは納得の意味で頷いた。
「そうだよな、この学校で働いてるなら、おれのことも耳に入ってるよな……」
「同じクラスだった子達も心配してたよ?野球部主将は学校中の人気者だから」
「は?なに言ってんだよ」
「あれ?自覚なかった?でも、告白とかされてたでしょ?」
「それは、まあ……」
「ほら、人気者じゃない」
「でも、おれは野球一筋だったし……」
「そうね。そういう真面目なところも女子には大人気だった」
「あのなぁ……」
なぜだかやたらと ”人気者” を強調されて、おれは若干の呆れ顔を浮かべた。
すると彼女は「だから……」と、あえておれの方を見ずに告げたのだ。
「みんな、すっごく心配してたのよ」
花嵐に舞って地面に着地した薄紅の花弁を、ひとつまみ拾いあげながら、彼女が言う。
「みんな、すっごく……」
みんなが、誰を指すのかは定かではないけれど、どうやら、おれが帰省するよりも先に、おれの噂は地元を席巻していたらしい。
彼女がおれのことを ”人気者” と連呼した理由がなんとなく分かり、おれは深いため息をこぼさずにはいられなかった。
「……心配かけて、悪かったな」
だが考えてみれば、おれ達は二人とも、ここを巣立ったときに持っていた夢への道を、途中で曲がってしまったんだな。
高校時代に片想いしてた相手にこんな風に芽生える親近感は、なんだか妙な感じだった。
「謝ることなんてないよ。でも……」
彼女はパッとおれを見上げてきた。
「怪我してからも、ずっと頑張ってるんだってね」
「え?」
「先生から、いろいろ話は聞いてたんだ。すっごく、頑張ってるって」
「あ…、まあ、ぼちぼち、かな」
面と向かってそう言われると、照れ臭さが頭を出してくる。
そのせいで、今度はおれが彼女から顔を逸らすことになってしまった。
すると彼女は、それまでの、何かを含ませたような口調をさっぱりと脱ぎ捨てながらおしゃべりを再開した。
「私ね、大学を自主退学するとき、自分で決めたことだけど、やっぱり落ち込んじゃったの。でもそのとき先生から『頑張れ!』って言われて、すごく普通のありきたりな言葉なんだけど、その一言が、結構背中を押してくれたんだ。”頑張れ” って、あんまり使わない方がいいって言う人もいるじゃない?けど、わたしは、やっぱり、元気をくれる言葉だと思うんだよね。だからさ、頑張ってね!」
彼女は、にっこりと、おれが惚れたあの明るい笑顔で言ってくれた。
そして、
「……っていうか、一緒に頑張ろう?私も、こうやって、予定変更しながら頑張ってるから。ね?一緒に、頑張ろう!」
その笑顔を、よりいっそう大きく、濃くして、おれの心を撃ち抜いたのだった。