花嵐(1)
『お前は自分で選んだ道を進んでいいんだ。周りの誰から何を言われても、自分の人生は自分で決めなさい。もしその道が行き止まりになったとしても、自分で選んだ道なら、きっと後悔はしないだろう。例え後悔したとしても、それも人生を彩る経験としてお前の財産になるはずだから―――――』
いつかの父親のセリフが、記憶の中で妙に大きく響いていた今日この頃。
おれは、実家に向かっていた足をふと止め、行き先を変更をすることにした。
二年前、地元を離れるとき、未来には明るい道しかないと思い込んでいたおれを、華やかに送り出してくれたあの桜並木。
それを、もう一度見てみたくなったのだ………
高校時代、野球部で主将をしていたおれは、甲子園出場をかけた地方予選の決勝まで登りつめ、一点差で惜しくも母校の初出場は叶わなかったものの、大学のスカウトの目にとまり、スポーツ推薦枠での進学が決まった。
両親ともに教師という家庭で育ち、周りの誰もがおれも教師という職業を選ぶのだろうと思っていた、そんな中でのスカウトだったので、心配する声も少なくはなかった。
当時のおれには、そういった外野の声がとても甲高く聞こえてきたもので、スカウトの返事をした後でさえも、果たしてこれで本当によかったのかと悩む日が続いた。
両親が教師だからといって、子供までもが教師にならなくちゃいけないなんて決まりはないし、どちらかと言えば、いつも忙しそうにしている両親を見てきたので、教師という職業に憧れなども持っていなかった。
むしろ、人生の選択肢から除外したいほどだったかもしれない。
そんなおれに、父はいかにも教師らしい言い方で、だが父親らしい包容力で、自分の将来は自分で決めろと、すべてを委ねてくれたのである。
だがその一年と半年後、おれは、この時心配してくれていた人達の顔を思い返すこととなったのだから、人生とはままならないものである。
手っ取り早い話、肩を壊してしまったのだ。
日常の暮らしには不自由ないが、野球選手としては使い物にはならない。
去年の秋にそう診断を受けて、おれは、野球部のマネージャーになった。
スポーツ推薦で入学した以上、野球ができなくなった時点で退学処置になっても仕方ないと覚悟したが、一度入学した学生は可能な限り卒業までをサポートする、という大学の教育理念に基づき、おれは引き続き在籍することを許されたのである。
マネージャーとしてやるべきこと、覚えることは山のようにあった。
しばらくは落ち込む暇もなかったほど、新しい環境に馴染むのに必死だった。
けれどそれも落ち着いてくると、周回遅れの絶望感がおれを引っ掻き回しはじめたのだ。
やがてそれは野球部の関係者も察するところとなり、おれは、偉い人直々に長めの春休みを告げられたのだった。
実家にでも帰ってリフレッシュして来い。そして、必ず戻って来い――――
顧問や監督、先輩やチームメイト達からの励ましに送られ、おれは、高校卒業以来一度も戻ってなかった実家に足を向けることになったのである。
そしてその途中、行く先々で満開になっている桜を見かけると、散ってもまた一年後には新しい花を咲かせる桜に、おれは、少し嫉妬めいたものを感じずにはいられなかった。
なぜなら、野球を取り上げられてしまったおれには、新しい花なんか見つけることもできないでいたからだ。
けれど、複雑な心境で桜を目にしているうちに、ふと、おれは母校の桜並木を思い出していた。
おれが卒業する年は例年よりもかなり早く満開になったようで、卒業式の数日後、出立の挨拶で職員室を訪ねた際、花嵐に乗った花弁が一斉に舞って送り出してくれたのは懐かしい記憶だ。
まだ二年しか過ぎてないのに、この半年の間にいろんなことがあり過ぎて、あの桜吹雪がはるか昔にも感じてしまうけれど。
それでも、母校はあの日と変わらず、おれを迎え入れてくれた。
正門のインターホンで許可を得てから、職員室に向かう。
見知った教師陣は、突然の訪問になってしまったにもかかわらず温かく歓迎してくれた。
どうやらほとんど全職員がおれの事情を把握しているようで、それぞれに気遣いや励ましの言葉を投げてくれた。
高校時代お世話になってた野球部の監督は、おれの怪我を聞いて何度か会いに来てくれていたので、そのお礼を改めて伝えた。
とにかく自分のことを一番に考えろ――――
部活のときとは全然違う穏やかな顔でそう言われて、おれは、少し胸にくるものがあった。
けれど余計な心配はかけないように、平気な素振りで職員室を後にした。
退室する際の元担任からの言葉は、「頑張って!」だった。
そして、お目当ての桜並木へ。
満開から少し過ぎたような姿だったが、まだ枝には薄桃の花がひしめきあっていて、もしかしたらもう間もなく一斉に舞い立つのかもしれない。
あの日と同じように。
そう思った瞬間、ひらりと、淡い色の一片が風に乗って泳いだ。
ひらり、ふわり、ひらり……
ひとたび散りはじめると、後を追いかけるようにして方々の枝から彩が巣立っていく。
それは花嵐と呼んでもいいような光景だった。
まるであの日のリバイバルだ。
ふと、おれの中で蘇る、旅立ちの日の出来事……
確か、あの日、高鳴る希望を抱えて出立の挨拶に訪れたおれは、この桜達が降らせる薄紅の雨の中で、同じく挨拶に来ていた元同級生と遭遇したんだっけ。
なかなか進路が決まらずに、卒業式の後でやっと進学先が決まったのだと、安堵しきりの表情だった彼女は、実は、おれがひそかに想いつづけていた相手だった。
野球一筋で恋愛事に現を抜かしている暇はなく、それらしいアピールなどしたこともなかったが。
それに、彼女は地元の大学に入り高校教師を目指すとのことだったので、例え想いを告げたところで離れ離れになってしまうのは決定的だったのだ。
だからあの頃のおれには、告白するなんて気は、露ほどもなかった。
大学でも野球で結果を残して、叶うならその道へ―――なんて、夢物語を頭のページに開いていたのだから。
………今となっては、なんて甘い考えだったのだろうかと、恥ずかしくもなってしまうけれど。
あの彼女は、おれとは違って、きっと、一歩ずつ、ちゃんと夢に近付いているのだろう………
懐かしさとともに、ほんの少しの羨望を滲ませて級友を思い浮かべていたそのとき、
「よかった!まだ帰ってなかった……」
たった今おれの記憶の中で姿を見せていたその人物が、ハァハァと呼吸を乱しながら、現にあらわれたのだった。