葉桜
彼女と出会ったのは、春だった。
その日、寝坊して遅刻確定だったオレは、開きなおってのんびり校門をくぐった。
校舎まで行く途中、桜並木を通りかかったとたん、風が強く吹いて、ふと、足を止めた。
そして、桜が役目を果たしたと言わんばかりに空を乱舞していた風景の中、
『あー、今年ももう散っちゃっうんだね』
ふいにに声をかけられて、振り向いたそこに、
彼女がいたんだ。
ショートカットの髪が風になびくのを面倒そうに手で押さえ、そのすき間からはピンクベージュの口紅が見えて、ひどく ”大人” を感じた。
かと思いきや、身にまとっているパンツスーツはまだ新しそうで、あきらかに新任の教師だと分かった。
『ところで、きみ、こんな時間にここにいていいの?もうチャイム鳴ったよ?』
説教節ではなく、からかうように、どこかイタズラっぽく訊いてくる彼女は、少女のまま大人になったような、そんな印象だった。
その印象が、慣れたように施されたメイクとギャップがあるように感じて、
いとも簡単に、オレは彼女に恋をした。
それが、オレの長い片想いのはじまりだった――――――
※※※※※
そして五年前の春、オレはこの高校を卒業した。
一年間片想いしていた教師に告白したのは、卒業式の翌日のことだった。
出会いの場所でもある桜並木に呼び出したオレに、彼女の方もなにか予感めいたものはあっただろう。
『もう生徒じゃないんだから、いいだろ?』
そう言い寄ったオレに、彼女は笑いながら返してきたんだ。
『なに言ってんの、まだまだお子様が』と。
そのセリフに、まだ心が幼かったオレはカッと頭に血がのぼりそうになったけれど、彼女は、ふいっと見上げて、続けた。
『……きみはまだ、この蕾みたいなものでしょ?』
その優しい眼差しの先には、まだ花開かない桜の枝。
古典担当でもある彼女らしい話題の逸らし方だった。
『……これからたくさんの経験をして、栄養蓄えて、どんな花咲かすんだろうねぇ………』
『先生が、オレの一番の栄養なんだけど?』
悩んだり、苛立ったり、落ち込んだりしたとき、いつだってこの人の笑顔ひとつで気持ちが回復したのだから。
即座に反論したオレに、彼女は楽しそうにピンクベージュの唇を上げた。
『ダメよ。わたしはまだまだ自分の花を咲かせるだけで精一杯。他の人にまわせる栄養なんてありません』
軽い口調は相変わらずだけど、目元が少し、寂しそうに見えた。
一年間、オレはずっと彼女を見てきた。
だから、彼女だってオレのことを意識していたのはとっくに気付いていた。
授業中、何度も目が合ったこと。
放課後、よく教室に残って何気ない話をしたこと。
廊下ですれ違うとき、用がなくても、いつも声をかけてくれたこと。
卒業アルバムの撮影のとき、さりげなく、でも意図して、隣に並んだこと………
互いに越えてはいけない境界線を気にしながら、距離を、保っていたんだ。
周りの誰にも悟られぬよう、ひそやかに想いを育てて。
触れるか、触れないかのところで、
大切に。
それなのに、まさかこんな返事をされるとは思っていなかった。
彼女が考えていた境界線は、オレが思い浮かべていたものよりもずっと遠く、まだまだ先の方に引かれていたようだ。
高校卒業を区切りと考えていたオレは、出鼻をくじかれた気分だった………
けれど、一年間、ただひたすらに彼女を追い続けたオレは、彼女が意外と頑固なことも知っていた。
今、オレがなにを言ったところで、彼女が答えを翻すことはないだろう。
……例え、ここで彼女を力ずくでオレのものにしたとしても、彼女は意思を曲げないはずだ。
オレは短い逡巡のあと、諦めの息を吐いた。
『じゃあ、ひとつだけ、約束して』
『なに?』
『これから栄養貯めて花を満開にさせるから、そんときオレが迎えにくるまで、絶対に誰とも結婚しないで』
『………彼氏を作るな、じゃなくて?』
『彼氏なんかいたって、奪えばいいだけだからな。でも結婚となると、法的な手続きがあるだろ?……まあ、どっちにしても、あなたは彼氏なんか作らないと思うけど?』
『……どうして?』
『だって、オレのことを好きだろ?』
彼女に顔を近付けて、見据えてそう言うと、彼女は観念したように頬をゆるめた。
そして、
『きみが満開になる頃は、わたしは葉桜になってると思うけど………?』
かすかに寂しそうに、でも、ちょっと照れたように言った。
『―――……のに』
『え?なにか言った?』
オレが彼女に投げた呟きは、気まぐれな春風に遮られてしまう。
『だから、………いや、なんでもねーよ』
言いかけた言葉を、うやむやに飲み込んだ。
そのぶっきらぼうな口調は、彼女から見れば、確かに、まだ上手く感情を取り繕えない子供だったのだろう。
どんなに努力したって、年の差は永遠に縮まらない。
だったら、
彼女のお望み通り、オレの花が咲ききった状態を見せてやる―――――
『約束、忘れんなよ』
オレの念押しに、彼女は、しょうがないな……という風に笑っていた。
※※※※※
あれから、五年。
大学を卒業したオレは大手不動産会社に就職し、研修を終えて本社勤務になっていた。
社会人二年目になる今年を、オレはずっと待っていたんだ。
きっと、学生のうちは、何を言っても彼女の返事が変わらないと思ったし、新卒一年目なんてほとんど試用期間みたいなもので、その間は彼女から合格点をもらえるとも思えなかったから。
だけど、
――――そろそろ、満開になっているはずだ。
もう、NOとは言わせない。
積もりに積もった恋心を今度こそ全部残らず受け取ってもらうんだ。
例え拒否されても、もう待たない。
もう、我慢しない。
オレがどんなに彼女を好きか、
次から次から溢れてきた欲望を堪えるのにどれだけ苦労したか、
全部知ってもらおうじゃないか。
「―――先生」
約束の場所にいた彼女は、あの日とは違って、肩の下で髪を揺らしていた。
休日の人気のない校内は、遠くから部活動の声だけが微かに聞こえるだけで、それ以外はひっそりとしている。
そこに、オレと、彼女の二人きり。
「まだ時間になってないのに。さすが社会人になると時間を守るみたいね」
きっと、はじめて会った日のことを言っているのだろう。
でもあの日、遅刻をしてなければオレは彼女とあんな風には出会えてなかった。
オレは鮮明に残る記憶に想いを馳せながら、彼女のそばに進んだ。
「約束、守ってくれた?」
訊くと、彼女はクスクス笑いをこぼした。
「年に何回もメールで確認してきたくせに、いまさら?」
「うるさいな。一応訊いただけだよ」
ささいなやり取りが、途方もなく嬉しかったりして。
「……まあ、約束が守られてなくても、奪いにいくけど」
そう言ったあと、オレの手は、自然と彼女の手に触れていた。
指先から伝わる彼女の体温が、気持ちいい。
そのぬくもりを逃したくなくて、オレは彼女の手を握りこんだ。
その一瞬、彼女がビクリと反応したのが分かった。
まるで、それが彼女の了承の合図にも感じて―――――
「――――好きだよ。……五年前は言わせてももらえなかったけど」
今日彼女に会ったら、こう言おう、こんな告白をしよう、そう考えていたセリフが、リハーサルしていた順序が、いっきに吹き飛んでしまった。
オレを見つめる彼女の長い髪を、四月の風が撫で上げて、
まるであの日の光景をそのまま繰り返し観ているようだった。
ただ違うのは、桜の花が、今はもう、とっくに散っているということ。
そして、彼女の瞳が、穏やかにオレを映していることだ。
「………きみは、いい花を咲かせたんだね」
「それなりには」
即答できるほどには、努力は続けてきたのだ。
すると、
「きみが満開なら、わたしはもう葉桜になるけど?」
あの日と同じように、自分を葉桜になぞらえる彼女。
ちらりと視線を逸らした先には、もう散ってしまった桜の樹。
葉桜なんて、オレとの年の差を指して言ってるのだろうけど、そんなの、はじめっから分かっていた話だ。
あの日、ここではじめて出会ったときから。
オレは握った手をグイッと引き寄せた。
そしてそのまま、はじめてのキス、をしたかったのに――――
「こら。ここは神聖な学校でしょ」
感情よりも理性を重んじる彼女の、その細い指に、唇を止められてしまう。
けれど、そのあと、桜色をもう少し朱に寄せたような頬が、ふわりと緩んだ。
―――――その瞬間、オレ達の境界線が消えていく。
長い間抑えていた気持ちが自由を得て、彼女へとまっすぐに向かう。
オレはもうそれを隠すつもりもなくて、オレのキスに ”待て” をかけた彼女の指先に、自分の指を絡ませた。これ以上ないほどの想いを込めて。
やがて、彼女もオレの指を握り返してくれて。
オレの気持ちに応えてくれるようになって。
オレはそんな彼女に、どうしてもひとこと伝えたくなったんだ。
あの日、うやむやに誤魔化した言葉を、もう一度…………
「あなたが葉桜なら、オレは満開の桜なんか目もくれないのに………」
葉桜(完)