花御堂(1)
花御堂………花で飾られた小さな堂。
四月八日、釈迦の誕生日に飾られる。
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子供の頃住んでいた実家の近くに、そこそこ大きな寺があった。
桜が似合う、寺だった。
季節になると、家族で散歩がてら花を見に行ったものだ。
観光客で特別賑わうほどではなかったけれど、それでも、露店がひとつふたつくらいは出たりして、
子供の俺には楽しみな行事のひとつだった。
だから、毎年、勤め先の桜が花開きそうになると、ふと、実家や、その寺のこと、家族で見上げた桜なんかを思い出す。
………とっくの昔に実家は売却されてしまったけれど。
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日本では、春は別れと出会いの季節である。
特に、俺の勤める職場においてはそれがとても大きい。
三年生が卒業し、ひと月もしないうちに新入生を迎え入れるのだから。
涙や、それぞれの感傷に包まれた卒業式から数週間しか経たないうちに、今度は期待に満ちて、僅かに緊張を纏った新入生達がやって来る。
俺が、その入れ替わりのシーズンを見守るようになって、もう何年になるのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えながら、職員室の窓の向こうに広がる桜並木を見やった。
この高校には、両サイドに桜が植えられた細い道がある。
まるで一列に並べと号令をかけられたように行儀よく並ぶ桜達は、校舎裏の駐車場にまで続いているのだが、卒業式を終え、春休みに入ったばかりの今は、ようやく開花の気配を匂わせていた。
「初桜か……。満開はいつ頃かねぇ……」
まだ裸の枝ばかりで、それがなんだか寒そうで、ついポロッとそんなことを呟いていた。
「毎年入学式の数日前に満開になりますよねぇ。今年もそれくらいじゃないですか?」
隣のデスクから、俺の独り言に明確な返事があった。
後輩の古典担当の教師だ。
古典担当の彼女は、俺が口にした ”初桜” という季語に興味を示したようだった。
「ところで、その初桜って、最近流行ってるんですか?」
「そうなのか?俺はこの前はじめて聞いたけど」
でも、時季柄、何度か耳にしてもおかしな言葉じゃないだろう?
俺が言うと、後輩も頷いた。
「まあそうですけどね。あ、でも、初桜って、そのまんま ”初めて咲く桜” とも取れますけど、古典ではいろんな意味にも取れますからね。あんまり乱用しちゃだめですよ?」
いたずらっぽく言ってくる後輩に、俺は反射的に「いろんな意味って?」と尋ねた。
偏に、好奇心のせいだ。他意はない。
「桜は恋心や恋人という意味を含む場合があるんです。だから初桜は、”初恋” ですね」
「へえ……そんな意味があるんだ」
俺は素直に感心した。
けれど、後輩はちょっと呆れたように笑ったのだ。
「だから、多感な女子生徒の前では注意すべき単語ですよ?」
「そこまで深読みしてくる生徒がいる?」
「深読みというか……。ご自分が生徒達からどう見られてるか自覚なさった方がいいですよ。年頃の女の子達は繊細なんですから」
呆れを深めて言ってくる後輩に、俺は小さく嘆息した。
「みんな可愛い生徒達だよ」
後輩の言いたいことはなんとなく伝わったから。
あの年頃の女の子が年上の男に憧れるなんて、よくある話だ。
俺は努めて冷静に答えたが、後輩は大きく首を振った。
「これだからモテる男性教師は困るんです。女の子達から恋愛相談を受けるこっちの身にもなってくださいよね」
「そいつは済まないね」
後輩に悪気なんてないのは分かっているので、こちらも柔和に返した。
けれど、なんとなく居心地が悪くなってしまい、俺は、
「あ、そういや財布を車に忘れてきたんだった……」
誰ともなしにそう言い、自然な形を作って、席を立ったのだった。
でまかせの口実だったけれど、職員室から駐車場へ行く道は丸見えだったので、俺は仕方なくフリで、車に向かうことにした。
外に出て駐車場に歩いていると、遠くの方で運動部の掛け声が響いていた。
春休みともなると生徒数が一学年分少ないわけで、聞こえてくる掛け声も夏休みなどに比べるとやや物足りない感じはした。
カーン、という金属的な音は、野球部だろうか?
外周りをランニングしている生徒の声も、遠くから風に乗って聞こえる。
快活な彼らの存在が、一学年減ってしまった校舎を慰めてるようだ。
人気のない桜並木を進みながら、俺は、音で人の気配を探っていた。
大学を出てこの高校に勤めだしてから、もう何度もこの季節を迎えている。
その都度、ここにある桜の木々が花を披露してくれるのを見届けてきた。
散ってもまた咲く桜達に、刹那と永遠を見つけたように感じたのは、勤めはじめて二年目のことだっただろうか―――――
第一希望には落ちてしまったが、滑り止めでどうにか大学生になれた俺が実家を出て一人暮らしをしていたとき、弟が大学に入るのを待っていたかのように、両親が実家を売却した。
田舎暮らしに飽きた両親が、利便性の高い都心に住みたいと望んだからだ。
両親は、二人暮らしには十分な、けれど家族四人で住むには窮屈なマンションに移り住み、それからはそこが俺の実家となった。
両親の選択に反対はしなかったが、家族の思い出が色濃く残るあの家を懐かしいと思ったことは、一度や二度じゃない。
できることなら俺が働いて買い戻したかったけれど、売却した数年後、俺の元実家はきれいに取り壊されてしまい、密かな願いは儚く消えた。
その事実を知ったのは、この高校で働きはじめた年の、春だった。
この世の中に、”変わらないもの” なんて、存在しないと思う。
形あるものはもちろん、目に見えないものだって、少しずつ、知らない間に変わっていくはずで。
だから、懐かしいあの家が消えてしまったことも、仕方ないことなんだ。
そう思いながらも、やりきれない思いは燻っていた。
そんなこともあってか、
本格的に教師の仕事がはじまった頃、朝、車を降りて歩いているときにここで桜吹雪に囲まれて、
俺は、その前夜に聞いたばかりだった実家の取り壊しと桜の散華を重ねてしまったのだった。
けれど、どうにか無事に一年目を終え、二年目の春。
ここに並んだ桜達が、誇らしげに自慢の花を見せびらかしているのをふと見上げた瞬間、俺は、前の年の桜吹雪を思い出した。
あのとき潔く散っていったにもかかわらずまたこうして咲き誇っている桜の花が、とても強く見えて。
散って、それで終わってしまうわけじゃない。
そこに、俺は刹那と永遠を見たのだった。
散ることを嘆いてばかりでは、また咲くことはできないのだろう。
慣れ親しんだ家はなくなったけれど、そこでの思い出は、俺の中にずっと咲いているわけだから………
俺は、ぽつり、ぽつりと遠慮気味に開花を告げている枝を見上げて、今はなき実家の思い出を辿っていた。
すると、
ぽん、と一滴の雨に頬を濡らされたのだった。
ぽとん、ぽとっ、ぽと……と落ちてきた雨も、次第にザアザア降りになり、俺は小走りで校舎に戻った。
遠くのグラウンドからは運動部が慌てて片付ける音が騒がしく聞こえてくる。
やがて職員玄関の軒下に走り込んだ俺は、上着を脱いで濡れた箇所を手で払うようにして拭いていた。
春休みなので服装もカジュアルしておいてよかった。
雨に濡れたスーツは、どうしても苦手だから。
不幸中の幸いとばかりに上着に夢中になっていた俺が、何とはなしに辺りに視線を流すと、ちょうど校門をくぐる人影が目に入った。
傘をさしているので人物がはっきり見えるわけではないけれど、その傘に、俺は目がいってしまったのだった。
おそらく、コンビニなんかで売られているような透明のビニール傘だろう。
けれどその傘には数多くの花弁が乗っていたのだ。
それらは薄紅の、まるで桜の花びらのようにも見える。
そしてそんな風に花で彩られた傘の様を、俺はどこかで見たような気がしたのだ。
どこで見たのだろう……?
上着を片手で握ったまま、記憶の糸を辿る。
やがて、俺が記憶の中のある光景を思い出したのと、こちらに歩いてきていた傘の人物が俺に声をかけてきたのは、ほとんど同時のことだった。
「花御堂!」
「こんにちは」
「あ………」
「え………?」
傘を上げて挨拶してきたのは、アーモンド型の目が印象的な、学生と社会人の狭間にいるような、率直に言って、きれいな女性だった。