初桜
「………ういざくら?」
「え?……わっ、ちょっと!勝手に人の手帳見ないでくださいよ!」
「人から見えるところで手帳に記入する方が悪いだろうが」
「だってさっきまで誰もいなかったから!」
「そんなに人に見られて嫌なら、家で書けばいいだろう?」
「それはそうですけど……っていうか、これ、”ういざくら” じゃなくて ”はつざくら” って読むんですよ?まあ、”ういざくら” でも間違いではないし、そっちの方がなんか可愛い感じもするけど」
「へえ……はつざくら、か。それはそれは大変勉強になりました。でもどっちもはじめて聞いた気がするな」
「春の季語なんだって」
「ああ、それっぽいな」
「はじめて咲いた桜って意味らしいんですけど、やっぱり ”はじめて” って、いいですよね」
「そうか?俺は……初桜もいいけど、遅咲きの花の方が好きだな。なんかこう、じっくり寝かせてから開花するって感じがしてさ」
俺は、他愛もない世間話として、そんなことを言ったのだ。
相手はよく知る人物で、だからてっきり、えー、そうですか? なんて可愛らしいトーンの反論が聞こえてくるだろうと、勝手にそう思っていた。
けれど、少しの間があって聞こえてきたのは、彼女の笑うような吐息だった。
そして、
「それ、わかってて言ってるんですか?」
まるで呆れたような、拗ねたような、でも、どこか傷付いたような表情を見せる彼女に、俺はかすかにたじろいだ。
けれどちょっと迷ったものの、結局、
「何のことだ?」
と正直に返事したのだった。
すると彼女は「いえ、なんでもありません……」と首を振って、手帳をタン、と閉じた。
まるで、この話題の終了を告げるかのように。
その態度と、俺から逸らした横顔が、とても大人びて見えた。
………そうか、彼女と出会ってからもうすぐ三年になるんだよな………
その大人びた横顔に月日の流れを感じてしまう。
「ま、とにかく気を付けて帰れよ」
俺はぽんぽん、と彼女の頭を軽く叩いて、その場を後にしたのだった。
※※※※※
「ああ、それ、ちょっと前に授業でやりましたよ」
俺が ”初桜” について詳しそうな人物に尋ねると、すぐに答えが返ってきた。
「授業で?」
「ええ。自由登校になった頃だったと思いますけど。それがどうかしましたか?」
二つ下の女の後輩が、隣の席で少しだけ得意げに教えてくれる。
「どんな内容だったんだ?」
「えーと、確か……花とか桜は季語だけど、恋人とか恋心の意味も含んでる、って話をしたような……」
「へえ…。そういえば合格の意味で ”サクラサク” ていうのもあったよな」
反対に不合格だと、”サクラチル”
そう頭に浮かべたとたん、俺は心のどこかが微かに痛みを感じた気がした。
もう十年以上も前のことなのに。
けれどいい意味で鈍感なところがある後輩は、俺のことなんかお構いなしにどこかのんびりと続けた。
「昔も今も、特に日本人は比喩表現が好きですからねえ。人の一生を桜に喩えたりもしますし、桜だけじゃなくて、月の満ち欠けとか、雪とか。でもやっぱり、桜が一番でしょうか?」
いつも明るい後輩が満面の笑みで俺を見てくるので、俺は微かな痛みなど素知らぬふりで握り潰してやった。
「…まあ、桜は日本人の心の拠り所だからね。それじゃ、お先」
俺はそう言って席を立った。
握った手の隙間から微かな痛みがこぼれ出てくる前に、この場を立ち去るつもりで。
「あ、お疲れさまでした」
唐突に会話を終わらせたにもかかわらず、後輩はにこやかに送り出してくれて、俺は少々の罪悪感を覚えたが、無言で廊下でコートを羽織るとそのまま歩き出した。
外は、まだほのかに明るかった。
この頃どんどん日が長くなっているなと、春の訪れを身近に感じる。
けれど夕方になると肌寒さもあり、俺は車までを急いだ。
すると駐車場に向かう途中、細長い通路の両側に花の咲いてない桜の木が行儀よく並んで立っていて、
いつもならたいして気にもとめないのに、今日はなんとなくそれらの脇で立ち止まり、そっと、何も宿していないシンプルな枝を眺めた。
もう間もなく、そこは薄桃で彩られて、人々の心を癒す存在になることだろう。
俺は、ここが桜の花のトンネルになる毎年の風景を思い出していた。
華やかに賑わい、そして、ひとひらずつ舞っていく。
葉桜になり、若葉が芽吹き、新緑の葉でいっぱいになって………
けれど、時が経てばまた花は新しく開く。
一度散っても、また咲くことだってできるのだ。
俺は、それを毎年、ここで見届けてきたのだから。
きっと、人々はその当たり前の自然現象にいろんなことを重ねて見るのだろう。
いつの時代も、もしかしたらそんなところに慰めを求めているのかもしれない。
何度散っても、また咲くことだってできるのだと。
花も、人も………
まだ花もないその枝に対し、俺はひっそりと、今年もいい花を咲かせてくれよと願ったのだった。
※※※※※
三寒四温が冬の季語だと後輩に教わるまで、俺は今の頃の、春先に使う言葉だと思い込んでいた。
だって、日射しに汗をかくほどの気温になったと思えば、また真冬に逆戻りで、コートの厚さを保てない日が続くのだから。
それはともかく、今日は、晴れてよかった。
暑くも寒くもなくちょうどいい気温で、穏やかな気持ちでこの日を迎えられる。
俺はいつもより早めに出勤して、更衣室の鏡の前で身だしなみを整えた。
特別な日に着るスーツはそれだけで気持ちを引き締めてくれるが、朝から顔を合わせる人達が皆揃って「おめでとうございます」と言葉を贈ってくれるので、その都度しゃんと背筋が伸びる。
セレモニーは滞りなく過ぎ、涙と、笑い声と、いろんな感情が混ざり合った時間はあっという間に終わりの時を告げた。
時は有限。
今日はその言葉を嫌になるほど実感した一日だった。
ここで過ごした時間を、それぞれがどう捉えるのかはわからない。
長かった、
一瞬のようだった、
後になって思い返したときどう感じるかは人それぞれだろう。
けれど限りがある以上、やはりそれは儚いもののように思うのだ。
俺は窓の外に並ぶ桜の木を見遣った。
あそこにまだ花はないけれど、いつか咲いて、また散る、それだって相当儚い。
それなら俺は、やっぱり、最後まで咲いていてくれる遅咲きの花の方がいいと思ってしまうのだ。
いつか散ってしまうのならば、できるだけ、より長く、花を見つめていたいから………
十年以上前に散ってしまった俺のサクラは、今はこうして、カタチを違えて俺の気持ちに寄り添ってくれているのだろう。
今の俺自身は、どうしても叶えたいと望んだ結果ではない。
平易な言い方をすれば、なりたくてなったものではないけれど、この職業も、今の生活も、そうそう悪くはないと思わせてくれるのだから。
帰り際、靴を履き替えようと靴箱を開けると、そこに、ぽつん、と手紙が入っていた。
年頃の女子がルーズリーフやノートをちぎって折ったような、少し凝った形のものである。
俺はそれを取り出し、駐車場に向かいながら何となく広げた。
だがそれは、ルーズリーフやノートの切れ端ではなく、きちんとした便箋だった。
中には、見覚えのある文字が桜並木のように行儀よく並んでいた。
”わたしの初桜は、先生でした。”
無記名だったけれど、俺には差出人がすぐ分かった気がした。
細かい折り目のついたその便箋を元の形に戻すのはとても困難で、俺はただ普通の四つ折りにするしかできない……つまり、彼女と同じものを作るわけにはいかなかったけれど……
ふと見上げると、あの桜の木が目に入った。
俺は、まだ初桜も付いていない木の枝を見つめて、便箋を上着のポケットにしまい入れたのだった。
彼女の桜が、また花を咲かせることを祈りながら。
そしてその桜が、彼女に温かな幸せをもたらしてくれるように願いながら…………
初桜(完)