八十四話 大阪観光
それから私は実家に帰った。両親だけで忙しく働いている中華料理屋を手伝わなければならなかったからだ
島本刑事には一応連絡先を伝えておいた。そして一週間が経った頃、突然島本刑事から電話が入った。受話器を取ったのは母だった。
「はい。・・・え?あ、島本さん?・・・いいえ、こちらこそ千代子がいつもお世話になっております。・・・え?私たちに会ってお願いがある?またあの事件のことでしょうか?」と受け答えする母。あの事件とは隣家の殺人事件のことだろう。
「事件以外のお願い?はい、千代子にできることでしたらご遠慮なく。定休日なら私どもも家におりますので。・・・はい、じゃあその頃にお待ちしています。駅へは千代子を迎えに寄越しますのでご心配なく。・・・はい、それでは失礼いたします」
そう言って母は受話器を置いた。そして私と父に向かって、
「今度のお休みにあの島本さん・・・刑事さんがご家族と来られるそうよ」と告げた。
「なにっ!?」「えっ?」と同時に聞き返す父と私。
「事件の協力以外のことで千代子にお願いがあるんですって。奥さんと娘さんもご一緒だそうよ」
もう一度説明する母。私と父は母が勝手にした約束を取り消すことはできなかった。
「事件以外?何のお願いだろう?・・・奥さんと娘さんを連れて来てまで」と首をひねる父。
「ひょっとしたらあのことかな?」と私はつぶやいた。
「あのこと?何のこと?」と聞く母。
「島本刑事さんは家族三人で大阪万博を観に行く予定だったの。でも、大事件が起こるとその捜査で島本刑事さん本人は行けなくなるから、自分の代わりに私にご家族を引率してもらうようお願いするかもって言っておられたの」
「島本さんのお金で大阪へ旅行するってこと?」
「奥さんと娘さんの二人だけでは大阪まで行けるかおぼつかないって話だった」
「それは悪いわねえ。電車代と宿代くらい出さないと」と母。
「それより三日くらい私がいなくても大丈夫?」と私は両親に聞いた。
「それは何とかなるさ。この一年、千代子がいなくても何とかやってこれたからな」と父。
定休日になると、両親が少しだけおめかししている間に私は駅まで島本一家を迎えに行った。朝十時頃に着いた電車から降りて来る島本刑事たち。私は改札の近くに立っていて、三人の姿が見えると手を振った。
「一色さ〜ん」と元気よく改札を抜けて来る満さん。
「満ちゃん!」私は駆け寄って来た満さんの両手を受け止めた。
「やあ、一色さん、時間を取ってくれて申し訳ない」
「おはようございます、一色さん。本日はよろしくお願いします」と奥さんが頭を下げた。
「いいえ、お気遣いなく。ここまで迷わず来れましたか?」
「はい、主人が連れて来てくれましたので。・・・でも、私たち二人だと途中の乗り換え駅で完全に迷っていましたわ」と不安なことを言う奥さん。
「確かにターミナル駅は広くて迷路みたいですけど、さすがに満ちゃんなら道がわかったでしょう?」
「ううん。私も父さんだけ見ていたから、ひとりではとうてい来れなかったわ」と胸を張って満さんが言った。これは深刻だ。
「そういうわけだから、是非二人の引率を頼む」と島本刑事に頭を下げられた。
「は、はあ。・・・とりあえず我が家にどうぞ」と私は島本刑事たちを家に案内した。
家に着くと両親と島本刑事夫妻が「いつもお世話になっておりまして・・・」とお互い頭を下げまくった。
その上で島本刑事が改めて私に大阪まで妻子を引率してほしいと懇願し、事前に私から話を聞いていた両親はすぐに快諾した。
「万国博覧会を観れば千代子の勉強にもなると思いますし、うちでは行く予定がありませんでしたから願ったり叶ったりです。電車代と宿代は負担させていただきます」と母が言うと、
「いえ、新幹線もホテルも私の名で取ってあります。私の代わりに一色さんに行ってもらうので、費用のご負担は必要ありません」と島本刑事が固辞し、何度かやり取りしてようやく島本刑事の提案を受入れることになった。
「一色さんと旅行できるなんて楽しみ!」と喜ぶ満さん。
「ところで、例の事件だが・・・」と島本刑事が神妙な顔つきで私に言った。
「村山が大阪出身だということがわかって大阪府警の方に問い合わせたんだが、村山自身に犯歴はなかった。ただ、いろんな噂があるようで、一色さんに大阪に行ってもらうのと同時期に俺も大阪に行くことになった」
「え?・・・だったら私に頼まず、ご家族と一緒に行けば良かったんじゃないですか?」
「こちらは仕事だから公費出張になる。家族旅行とごっちゃにするわけにはいかないんだ。第一、大阪ではあちこちに聞き込みに行くから、万博会場までつき合うこともできん。大阪についてからも一色さんの引率が必要だから、どうかよろしく頼む」また頭を下げる島本刑事。
「そういうことでしたら承知しました。お仕事大変ですね。お体をお大事に」
「ありがとう。それではそろそろ失礼するよ」
「あら?せっかくですから昼食を食べて行ってくださいな。すぐに作りますから」と母が立ち上がろうとする島本刑事を遮った。
「お気持ちはありがたいのですが、自分はすぐに署に戻らないといけないんです。今日は無理を言って半日ほど時間をもらってここに来ましたので。・・・いつか家族全員で食べに来ます」。
「そうですか?本当にお仕事大変なんですね?」と母。
「刑事と結婚するもんじゃないね、母さん」と満さんが母親に言って、両親を困り顔にさせていた。
「それではこれで失礼いたします」そう言って帰って行く島本一家。私は預かった切符やら万博会場の案内パンフレットやらをしまうと、駅まで見送りに行った。
三月二十三日月曜日の朝、私は島本刑事の家の最寄り駅まで奥さんと満さんを迎えに行き、電車に乗せて東京駅まで案内した。そして東海道新幹線の改札口を通り、新幹線が停まっているホームに上がった。
「あそこにグリーン車って表示があるけど何のこと?」と私に聞く満さん。
「以前は一等車、二等車って呼んでいたのを、去年グリーン車と普通車って名称に変えたの。私たちが乗るのは普通車よ」
切符を見ながら新幹線の長い編成に沿ってホームを歩き、指定の車両に乗り込む。三人がけの指定席で、窓側に満さん、真ん中に奥さん、通路側に私が座った。切符は車掌さんに見せやすいようにすべて私が預かった。印字された内容を改めて確認すると、ひとり分の普通運賃が二千二百三十円、特急料金が千九百円で、合計四千百三十円だ。やっぱり高い。
「長野行きの特急列車より豪華ね」と興奮する満さん。長野には両親の実家があるから、長野行きの特急列車にはよく乗るのだろう。
まもなく発車ベルが鳴り、新幹線が動き出した。徐々にスピードが上がり、満さんはさらに興奮していった。
「速い、速いわ!さすがは夢の超特急!!」
「恥ずかしいからあまりはしゃがないで」と注意する奥さん。
「一色さんは今までに新幹線に乗ったことがあるの?」
「いいえ。女子高の修学旅行で京都まで行ったけど、その時は在来線でした。それ以外の遠距離列車には乗ったことがありません」
そんなことを話しているうちに車内販売のカートが来たので、私たちは昼食用の駅弁を買うことにした。奥さんは二百円の特製弁当(幕の内)、私と満さんは二百五十円のチキン弁当を買った。
一個二十円のポリ茶瓶も三個買った。熱い緑茶が入ったプラスチック製の容器で、蓋をコップとして使うものだ。
最初は奥さんが私の分も払うと言ったが、押し問答の末、食事代は別にしてもらった。
それはともかく駅弁を目の前にすると、どうしても食べたくなる。昼食の時間には少し早かったが、満さんに促されて早めに昼食を摂ることにした。
チキン弁当は二段重ねになっていて、上にから揚げなどのおかず、下にチキンライスが入っている。チキンライスもから揚げもとてもおいしい。何となくハイカラな響きなのもいい。熱いお茶をすすりつつ、久しぶりの駅弁を堪能することができた。
東京駅から新大阪駅までは四時間かかったが、満さんたちとおしゃべりしているうちに、思ったよりも早く到着した。
まず、新大阪駅前にあるこじんまりしたホテルに寄る。新しい建物で、新幹線の開業や万博に合わせて急遽開業したホテルなのだろう。まだ昼過ぎでチェックインには早いため、荷物だけフロントに預けておいた。
「さあ、これからどこに行きますか?」と二人に尋ねる。万博は明日一日楽しむつもりなので、今日は大阪観光をすることになっている。
「大阪の観光地?・・・私は大阪城くらいしか知らないけど」と満さん。
「私は夫婦善哉で有名な法善寺横丁を見てみたいわ」と奥さんが言った。
そこでホテルで大阪城と法善寺横丁までの行き方を聞いてみた。
「新大阪からだと大阪市営地下鉄の御堂筋線に乗り、本町駅で中央線に乗り換えれば、大阪城最寄りの森ノ宮駅に行けるそうです。また、御堂筋線をもう少し南まで行ってなんば駅で降りると、道頓堀川や法善寺横丁が近いみたいですね」
「じゃあ、まず大阪城を見に行こうよ」と満さんが言い、三人で地下鉄の新大阪駅に向かった。
地下鉄の切符を買っていると、満さんが「ホテルからここまで来るのも私たちだけじゃ迷いそうだったね」と奥さんに言っていた。はぐれないように気をつけないと。
森ノ宮駅までの乗車券は五十円だった。改札を抜けて地上にある地下鉄ホームに上がると、まもなく我孫子行きの電車がホームに入って来た。けっこう混んでいる。乗車して南進し、淀川を渡ると電車は地下に入って行った。梅田駅、淀屋橋駅を過ぎ、本町駅に着くといったん電車を降り、中央線のホームに移動して電車を乗り換えた。森ノ宮駅に着き、改札を抜けて地上に出ると、すぐ目の前が大阪城公園だった。
満さんと奥さんはどこをどうやって来たのかわからなそうで、ただはぐれないように私のすぐ後を着いて来る。
大勢の人が行き交う大阪城公園の噴水広場を抜け、豊國神社前を通って北に曲がり、桜門を通ると、目の前の石垣のとても大きな石が目に入った。蛸石と呼ぶらしい。
「すごい石垣ねえ」と感動している満さんと奥さん。カメラを持って来ていたので二人の記念写真を撮った。私も満さんと撮ってもらった。
さらに北に進むと大阪城の天守閣がそびえている。
「大きいわねえ〜。さすがは豊臣秀吉よねえ〜」とひとしきり感心してからまた写真を撮る満さんと奥さん。その後入場券を買い、天守閣の中に入った。
天守閣内は博物館になっていて、豊臣秀吉の生涯や大坂夏の陣の様子などが展示されている。
「冬の陣では真田幸村が大阪城の南側に真田丸という出城を作って、徳川方を迎え撃ったんだって」と満さんに説明すると、
「じゃあ、猿飛佐助や霧隠才蔵もここで戦ったのかな?」と言ってきた。
「真田十勇士は作り話だから」と断ると、「そうなの?」と残念がっていた。
最上階まで上がって大阪の市街の眺望を楽しんでから、私たちは階段を下りて天守閣を出た。そして再び地下鉄森ノ宮駅でなんば駅までの切符を買う。運賃は四十円だった。
なんば駅を出るとまず戎橋を目指した。このあたりの人手はもっと多い。戎橋の上で有名なグリコの看板を背に、また記念写真を撮った。グリコの看板は円形になっていて、その中心にある陸上選手のマークの後から噴水が噴き出していて驚いた。ライトアップされているようで、暗くなればもっときれいに見えるだろう。
道頓堀筋を東に歩きながら、かに道楽の動くカニの看板や、紅白縞模様の服と丸めがねをつけ、太鼓を叩いているくいだおれ人形を見た。
千日前通りに曲がって少し歩くと、ようやく法善寺横丁の狭い路地を見つけた。両側に飲食店が建ち並び、路地を抜けると法善寺の水掛け不動の前に出る。お参りする人が実際に水をかけており、不動さんの顔は半ば苔に覆われていた。
私たちはすぐ目の前にある「夫婦善哉」の店に入った。一人前のぜんざいが二つのお椀に分けて出され、だから夫婦なのかと感心する。
「ここが映画やドラマにもなった『夫婦善哉』というお話の舞台になったところよ。実際に来ることができて嬉しいわ」と奥さんが感激していた。『夫婦善哉』は確か戦前に書かれた小説だったと思う。探偵小説でないので私はよく知らない。
「♪包丁いぃぽ〜ん、さらしに巻いて〜という歌と関係あるの?」と聞く満さん。
「それは藤島恒夫の『月の法善寺横町』ね。夫婦善哉とは関係ないわよ」と奥さんが答えた。なお、地名は「法善寺横丁」だが、曲名はなぜか「横町」と表記されている。
ぜんざいだけではお腹がいっぱいにはならなかったので、法善寺横丁沿いのたこ焼き屋に入った。注文すると目の前でたこ焼きを焼いてくれる。半球形の凹みが並ぶ鉄板に具材を入れ、焼きながら生地をくるくる回すときれいな球形になっていくのが不思議だった。熱いたこ焼きをふうふうしながら食べると中はとろとろしていて、東京で食べるたこ焼きとは違うな、という印象を持ったが、とてもおいしかった。
満腹になって再び地下鉄に乗り、新大阪駅近くのホテルに戻る。
今日はいろんなところに行ってみんな疲れたようで、狭いユニットバスで順に入浴してから早々に寝ることにした。
明日はいよいよ万国博覧会の会場だ。わくわくしながらもやがて眠りに落ちていく。・・・隣家の殺人事件のことはすっかり忘れていた。
登場人物
一色千代子 主人公。明応大学文学部一年生。
島本長治 警視庁の刑事。
一色華子 一色千代子の母。
一色将吾 一色千代子の父。中華料理屋を経営。
島本 満 島本刑事の娘。中学生。
島本登美子 満の母。
村山二郎 殺人事件の被害者。
書誌情報
織田作之助/夫婦善哉(創元社、1940年8月15日初版)
織田作之助/夫婦善哉(新潮文庫、1950年1月25日初版)
映画情報
森繁久彌、淡島千景主演/夫婦善哉(1955年9月13日封切)
TVドラマ情報
KTV系列/夫婦善哉(1966年3月15日放映)
レコード情報
藤島恒夫/月の法善寺横町(1960年4月発売)




