六話 明日香の憂鬱
「じゃあ、また明日ね」と言って駅でマキと別れる。
今日は土曜日だ。学校から帰る途中で半月ぶりに帰省するマキを駅まで送った。
十二時を過ぎているがまだ昼食は食べていない。マキはすぐに両親が待つ家に帰って、明日の昼過ぎにまたこっちへ戻って来るのだ。両親と過ごす時間が短いから昼食を食べずに帰り、実家で食べるつもりらしい。
電車で帰る実家と言ってもそんなに遠くはない。おそらく二時過ぎにはマキも昼食を食べられるだろう。
改札口を抜けたマキを見送ると、私は自分の家に帰った。
・・・マキは私の家に下宿している。だから夕方から翌朝まではたいてい一緒にいる。でも、二年生になって別のクラスに分かれてしまったので、校内で一緒に過ごす時間がかなり減ってしまった。
私もマキもそれぞれのクラスで委員長に選ばれたから、生徒会の仕事がある時には一緒になれるが、代表するクラスが違うと主に話すのは自分のクラスの副委員長とになってしまう。マキが二組の副委員長と親しげに話しているのを見ると、ちょっと胸が苦しくなる。
そんなことを憂いながら家に帰ると、大学生の姉さんが帰っていた。姉さんは大学近くで下宿しているため、マキと同じように週末に時々帰って来る。
「姉さん、帰ってたの!?」私はカバンを放り投げて姉の杏子に駆け寄った。
「ただいま、明日香」と言ってにっこりと微笑む姉の杏子。その上品な美少女ぶりは高校生の時とはかけ離れたものだったが、私が駆け寄ったのは姉さんに会いたかったからではない。
「ねえ、お姉様も一緒に帰ったの!?」
お姉様とは私の実の姉ではなく、高校の先輩の美知子お姉様のことだ。姉が進学した秋花女子大学に併設されている秋花女子短大にこの春入学した、私が敬愛するお姉様・・・。
「もちろんよ。美知子さんと祥子と一緒に駅まで帰って、そこで別れたわ。もうとっくに自分の家に帰っているでしょうね」
「私、会いに行って来る!」私はそう言うと昼食を食べずにすぐに家を飛び出した。
お姉様とは先月の卒業式以来だ。ほんとうは春休みにも会いたかったが、入学の準備で忙しそうだったので遠慮したのだ。
私は早足でお姉様の家に行くと、玄関を開けて声をかけた。
「こんにちは、明日香です!お姉様はいますか!?」
しかし玄関に現れたのはお姉様でなく、お母様の方だった。
「あら、明日香さん、お久しぶりね」と言うお姉様の母親。お姉様と顔や背格好が似ていて、嫌でもお姉様に会えるという期待が高まる。
「ごめんなさいね、明日香さん」しかし、お母様は申し訳なさそうに言った。
「美知子は今お友だちのところへ行ってるの。元同級生で、結婚された方ともうすぐ結婚される方のお宅へ」
私は期待が打ち砕かれてがっかりしてしまった。お友だちに会うのもいいけれど、私にも会いに来てよ。
「そうですか。お邪魔しました」そう言って私はお姉様の家を出る。お姉様の短大生活は、一緒に暮らしている姉さんにでも聞けばいい。
私はとぼとぼと自分の家に戻った。お姉様に会えるという期待で空腹を忘れていたが、会えなくなるととたんにお腹がすいてきた。
気落ちしたまま家に帰ると台所に行って、お母さんに昼食を出してもらう。お姉様に会えなかった私がやけ食いするようにがつがつ食べていると、姉さんがお茶を飲みに来た。
「姉さん、お姉様との暮らしはどう?」
「毎日お食事を作ってもらっているわ。そして一緒にお話ししながら楽しく過ごしているの」とにこやかに答える姉さん。
「杏子、美知子さんに任せっぱなしじゃなくて、自分も料理を習ってたまには作りなさいよ」とお母さんが姉さんに言った。
「そうねえ。・・・でも、手伝っているわよ。お皿を出したり、一緒に買い出しに行ったり」
「ご飯の炊き方ぐらい覚えたの?」と追求するお母さん。
「え・・・と、お釜にお米と水を入れて、スイッチを入れればいいんでしょ?それくらい知ってるわよ」
「ちゃんとお米を研いでるの?水の分量も重要よ」
しかし私はお母さんと姉さんの会話を断ち切った。
「姉さんのことなんかどうでもいいわ。お姉様はキャンパスライフを楽しまれているの?」
「美知子さんは私と一緒にのんびり過ごしているわ。たまに一緒に落研に顔を出してくれるし」
「また漫才の相方に誘ってるんじゃないでしょうね?」
それを聞いて姉は微笑んだ。「それもいいわね。・・・でも、上谷部長さんが、美知子さんの印象が変わったって驚いているわ。あ、祥子もね」
「印象が変わった?どういうこと?」
「う〜ん、そうね、私はそんなに気にならないんだけど、動作が緩慢になって、性格も穏やかになったって言ってたわね」
そう言いながら姉はお茶碗をゆっくりと持ち上げて、そっとすすった。姉さんの動作こそ緩慢だ。高校生だった頃と違って。
「お姉様はいつもきびきびと動く人だったじゃない?」
「だらけているわけじゃないけど、ゆったりした感じになったかしら。・・・受験勉強が終わって、生徒会長の責務からも解放されたからじゃないの?」
「そんな人じゃないでしょ、お姉様は」私は言い返したが、
「う〜ん、そうねえ・・・」と姉の説明は要領を得なかった。
「いいわ、祥子姉さんに聞きに行くわ!ごちそうさま!」私はお茶碗と箸をテーブルに置くと、すぐに立ち上がった。
「食器くらい流しに出しなさい!」と言うお母さんの言葉を無視して私はすぐに家を出た。
今度の行き先は従姉の祥子姉さんの家だ。十五分くらい歩いて黒田家の玄関に着く。勝手知ったる伯父さんの家だ。だから勝手のドア・・・じゃない、勝手に玄関のドアを開けて中に入った。
「こんにちは、祥子姉さん、いる?」
私が大声で祥子姉さんを呼ぶと、すぐに本人が現れた。
「あら、明日香、どうしたの?」
「姉さんに美知子お姉様のことを聞いたら妙なことを言うから、祥子姉さんに聞きに来たの」
「・・・そう」祥子姉さんは考え込むように言った。「とにかくお上がりなさい」
祥子姉さんは私とお姉様を取り合う恋敵だ。でも、その分、下宿でじっくりと美知子お姉様のことをなめまわすように観察しているに違いない。そんな祥子姉さんにお姉様のことを聞くのは慚愧に堪えないけど、背に腹は代えられない。
祥子姉さんは私を食堂に招き入れると、「明日香、お昼は食べたの?ひやむぎでも食べる?」と聞いてきた。
祥子姉さんはひやむぎが大好きで、真冬以外は年中食べている。
「食べて来たわよ。それより、お姉様が穏やかになったって姉さんから聞いたけど、本当なの?」
ため息をつく祥子姉さん。「そうなのよね・・・」と俯き加減で言った。
「美知子さんって何事にも一所懸命だったじゃない?勉強にも生徒会行事にも」
「そうよ」と私は答えた。当たり前のことだ。
「ねえ、杏子が大学に入学してしばらくしてから、ものすごくおとなしくなったでしょ?」
「ええ、そうね。中学生の頃の性格に戻っただけだけど、あれには驚いたわ」
「美知子さんもそんな感じになっちゃったの」
「ええええっ!?」
「杏子ほど落差は大きくないけどね、いつもにこやかで、おっとりと立ち上がって、ゆっくりと食事の準備をして・・・って感じで、なんか別人みたいになっちゃったの」
「信じられない・・・」
初めて会った時の美知子お姉様は、無理矢理姉さんの漫才につき合わされながらも相方を何とかこなし、卵しかなかった台所であっという間に三種類の味の卵焼きを作ってくれた。生徒会長の仕事を危うげなくこなしながら、文芸部と美術部の部活を併行し、素敵なドレスを身にまとって私に愛を注いでくれた。
そんなお姉様が、姉さんみたいにぼんやりした感じになっちゃったって?・・・どうしても私には信じられなかった。
「入学前から頼んでいたように英研に誘ったのよ。前の美知子さんなら『自信ないけど頑張ります!』って言ってくれたと思うけど、『英語に自信ありません』とか言って、信じられないくらい弱気なのよ」と祥子姉さんは続けた。
「姉さんと一緒に落研に顔を出したって聞いたけど・・・」
「そうなんだけど、まじめに漫才や落語をする気はないみたいね。ただ、活動が楽そうだから、のんびりとおしゃべりするために寄っているだけなんじゃないかしら?上谷さんも美知子さんと杏子を見て、『何だ、このほんわか姉妹は!?』って驚いていたくらいだもの」
「何で?・・・姉さんだけならまだしも、お姉様もだなんて」
祥子姉さんは私の反応を見てから聞いてきた。「で、明日香はどうするの?」
「どうするのって、お姉様に会って確かめたいけど、今日は友だちの家に行ったって言われたし・・・」
「じゃあ、明日下宿に帰る前に会うといいわ」
「そうね。・・・ところで」と私は祥子姉さんをにらんだ。
「一緒に住んでいるからって、お姉様に変なこと、してないでしょうね?」
「変なことなんてしないわよ。たまに抱きしめたり、一緒にお風呂に入るくらいよ」
「祥子姉さん!」
「でもね、抱きしめても微笑むだけで、前みたいにあわてたり恥ずかしがったりしなくなったから、ちょっと拍子抜けなのよ」
「・・・祥子姉さん」
祥子姉さんは人をからかって反応を見るのが好きな、ちょっといじわるな性格だ。少女どうしが慕い合うというお話の、いわゆるエス小説が好きな祥子姉さんだけど、Sっ気もあるみたいだ。・・・後のSはもちろんサディストのSだ。
「からかわないでよね、私のお姉様を!」
「わかった、わかった」と言う祥子姉さん。多分わかってない。
あきれたけれどどうしようもできない私は、祥子姉さんの家を出て自宅に帰った。お姉様はまだ当分帰宅しないだろう。今日は会うのはあきらめて、明日の午前中に改めて会いに行こう。
家に帰ってから姉さんにまたお姉様の話を聞いたが、のんびりした姉さんからはぼんやりした話しか聞けなかった。そのためお姉様に会いたいという気持ちがいっそう強くなった。
とりあえずその日の夜は宿題をして過ごし、翌朝起きて朝食を摂ると、午前十時頃に家を出た。あまり早すぎても迷惑かなと思ったからだ。
美知子お姉様の家に着くと、私は威勢よく玄関の戸を開けた。
「おはようございます、明日香です!お姉様はいますか!?」
しかし出て来たのは、昨日と同じように美知子お姉様でなく、お母様の方だった。
「明日香さん、ごめんなさい」と謝るお母様。私は嫌な予感がした。
「美知子は宿題を忘れたと言って、さっきあわてて家を出て下宿に向かったわ」
「そ、そうなんですか・・・」私の落胆は大きかった。
「昨日明日香さんが来たことを伝えたら美知子も会いたがっていたけど、何かとても急ぐ宿題を忘れて来たらしいの。お姉さん方にも美知子が先に行ったことを伝えておいてもらえないかしら?」
「わかりました。・・・お邪魔しました」
肩を落としてお姉様の家を出る私。またすれ違ってしまった。こんなに会えないとなると、美知子お姉様がこの世に実在するのか疑いそうになってしまう。
もうすぐゴールデンウィークだ。今年は四月二十九日火曜日が天皇誕生日でお休み、五月三日土曜日が憲法記念日、四日が日曜日、五日月曜日がこどもの日で珍しく三連休だ。五月三日か四日にはお姉様も家にいるだろう。その時にもう一度お姉様の家を訪問しようと心に決めた。
私は家に帰って姉さんにお姉様が先に下宿に帰ったことを伝えた。姉さんも驚いていたが、お姉様にも下宿の鍵を渡しているので問題はないということだった。
姉さんと祥子姉さんも昼過ぎに下宿に帰って行き、夕方になってマキが我が家に帰って来た。
「お姉様に会えなかった」と私がマキに愚痴ると、マキは首をかしげた。
「お姉様って誰?」
「何言ってるのよ!?美知子お姉様のことに決まっているじゃない!」と私が叫んだらマキが笑い出した。
「冗談よ、冗談」と言うマキ。変な冗談はやめて、と私はマキに文句を言った。
登場人物
水上明日香 松葉女子高校二年一組の委員長。
内田真紀子(マキ) 松葉女子高校二年二組の委員長。明日香の家に下宿している。
藤野美知子(お姉様) 秋花女子短大一年生。杏子と祥子の下宿に同居している。
水上杏子(姉さん) 明日香の姉。秋花女子大学二年生。
黒田祥子 明日香の従姉。秋花女子大学二年生。
上谷葉子 秋花女子大学の落研の部長。多分四年生。