三話 真紀子の本棚
私が朝目覚めたとき、顔の上に開いた本が載っていた。
本を持ち上げると、既に窓からはカーテン越しに朝の光が差し込んでいたが、枕元の電気スタンドが点いたままだった。
今日から新学期なのに、昨夜本を読んでいるうちに寝入っちゃったんだわ。
そう思って起き上がり、本を枕元に置いて電気スタンドのスイッチを切った。
そのままベッドから立ち上がり、セーラー服に着替える。そして枕元に置いてあった本を本棚に戻した。
その本は『馬と少年』というタイトルのナルニア国物語の一冊だった。小学校高学年向けの児童文学だ。今日から高校二年生だというのに児童書を読んでいるなんて、と自分でも思うが、児童向けの本は読みやすく、挿絵がついていて物語の情景が浮かびやすく、そして内容が楽しかった。
『馬と少年』という本は、別世界に住んでいる主人公の少年が、言葉を話せる馬とともにアラビア風の国から北欧風の国まで逃避行するというお話だ。途中からは一人の少女(将来の結婚相手)も旅の仲間に加わる。恋愛小説ではないがそういう雰囲気もあり、胸がほっこりするお気に入りの本だった。
私は部屋を出て洗面所で顔を洗い、髪にざっとブラシをかけると、朝食をいただきに食堂に入った。
「おはよう、マキ」と食卓の椅子に腰かけていた美少女が私にあいさつした。私が下宿しているこの家の娘であり、親友の明日香だ。
「おはよう、マキちゃん」三十代半ばのきれいな女性が私にあいさつした。明日香の母だ。
「おはようございます」私は二人にあいさつを返した。
「二人とも今日から二年生ね、おめでとう」と明日香の母がご飯とお味噌汁を私の前に置きながら話しかけてきた。ちなみにおかずは焼いた塩ジャケと納豆と白菜の一夜漬けだ。
「そうなんだけどね、二年生はクラス替えがあるのよ」と明日香がぶすっとした顔で言った。
「マキと離れ離れになったら嫌だわ。私とマキは松葉女子高の最強のペアなんだから」
「そうね。私も明日香と同じクラスになりたいわ」と私も言った。
明日香は気の強い美少女で、私にも遠慮がない話し振りをしてくるけど、その分こっちも本音が言いやすい相手だ。
「それにみっちゃんが卒業してしまってもういないのも寂しいわよね」みっちゃんとは二歳年上の先輩で、先月私たちの通う松葉女子高を卒業していった。優しくて頼りになって、一緒にいるといつも楽しい年上の友だちだった。
「そうよね。お姉様のいない高校は暗闇に包まれているようだわ。マキがいるのが唯一の救いよ」と明日香。
明日香が言う『お姉様』とはみっちゃんのことだ。明日香には杏子さんと言う美人のお姉さんがいるが、みっちゃんこと藤野美知子さんは明日香のほんとうの姉ではない。義理の姉でもない。エス小説という少女同士で慕い合うお話が好きな明日香がみっちゃんのことを勝手にお姉様と呼んでいるのだ。
私もみっちゃんのことをほんとうの姉のように慕っているけど、明日香のみっちゃんに対する想いは恋愛っぽい香りがして面食らうこともあった。まあいいけどね。
朝食を終えると私たちはカバンを持って一緒に明日香の家を出た。二人並んで高校までの通学路である砂利道を歩く。道沿いの桜の花がほころび出していて、自然と心がうきうきしてきた。
「そう言えばお母さんが、ゴールデンウィーク頃には私たちのドレスができるって言ってたわ」
「嬉しいような、恥ずかしいような」と私は言い返した。ドレスと言うのは歌手や女優が着るようなドレスで、明日香の両親が明日香姉妹とともに私にも作ってくれるのだ。半月前に採寸したばかりだ。
「何言ってるのよ。今年の松葉祭では私たちがそれを着て、お姉様のように全校生徒の熱いまなざしを一身に受けるのよ。・・・あ、私たち二人だから、二身に受けると言った方がいいかな?」
「そんなことを考えると、余計に恥ずかしくなるわ」
二人で雑談しているうちに松葉女子高校の校門に着いた。校門を抜けると歴史を感じさせる木造の校舎が建ち、その前に新しいクラス分けを書いた紙が貼り出されていた。
「いよいよね。・・・マキと同じクラスになっているように」真剣な顔になる明日香。
「明日香と同じクラスにしてください」私も両手を合わせて祈った。
一心に願いながらクラス分けの発表を見たら、明日香は二年一組、私は二年二組になっていた。
「何よ、このクラス分けは!私たちを陥れる罠だわ!」
誰がわざわざ私たちに罠なんか仕掛けるのよ、と心の中でツッコんだが、明日香と別のクラスになって残念なのは私も同じだ。
でもどうにもならないことだ。私たちは昇降口の新しい下駄箱に外履きを入れると、「じゃあ、後でね」と言い合ってそれぞれの教室に別れて行った。
二組の教室に入ると、一年生のときに同級生だった尾方敦子さんが私に話しかけてきた。メガネをかけた三つ編みの子だが、一年生の時はおとなしかった印象がある。
「内田さん、同じクラスだね。よろしくね」
「尾方さん、こちらこそよろしくね」
「水上さんと分かれちゃったわね」
「そうなの。明日香のことはいつも頼りにしていたから残念だわ」
「でも、内田さんも副委員長をしていたじゃない?とてもしっかりしてたわよ」
「それほどしっかりしてないわよ」
「引き続き・・・と言うか、どうせなら今度は委員長をしてみたら?」
「やめてよ、冗談は。・・・それより席に着きましょうよ。出席番号順だっけ?」
私はクラスで四番、尾方さんは五番だったので、教室の一番右側の列の前から四番目と五番目の机の上に通学カバンを置いた。
カバンの中から教科書とノートと筆箱と下敷きを出して机の中に移す。カバンは机の横の床上に降ろした。そして何気なく尾方さんの方を振り向くと、尾方さんは机の上にオレンジ色の表紙の本を置いていた。教科書より小さいが厚い本だ。表紙には『この湖にボート禁止』と記されていた。
「あら、何、その本は?」
「あ、ごめんなさい。昨日読んでた本を持って来ちゃった」
私はその本に少年少女学研文庫と記してあるのを見逃さなかった。
「ひょっとして児童書?」
「え?・・・ええ。でも、小学校高学年や中学生向けの本よ」と尾方さんは言って中をぱらぱらとめくって見せてくれた。
「おもしろい?」
「ええ。主人公の少年と妹が母親の都合でロンドンから田舎の湖畔の町に引っ越して、そこでできた友だちと楽しく過ごすってお話よ」
「『ツバメ号とアマゾン号』みたいなお話?」『ツバメ号とアマゾン号』は夏休みに湖沼地方に遊びに来た少年少女がヨットに乗ったりキャンプをしたりする話だ。
「昔のイギリスの歴史なんかも話に絡んでくるから、少し系統が違うお話かな?シェークスピア好きなヒロインも出てくるし。・・・ところで、内田さんも『ツバメ号とアマゾン号』を知ってるの?」
「ええ、あのシリーズが好きで全巻読んだわ」去年、高校生になってから市内の図書館で借りて読んだ。児童書コーナーに置いてあるので借りるのは少し恥ずかしかったが、中学三年生のときに第一巻を読んで、続きが気になって明日香にも内緒でこっそり借りに行っていたのだ。
「全巻って。・・・最後の巻が出版されたのは去年じゃない。もしかして、内田さんも児童向けの小説が好きなの?」
「もしかしなくても、尾方さんも?」
見つめ合って微笑み合う。偶然同好の士を見つけたことで、尾方さんと話が弾んだ。
「児童書の三大シリーズは何と言ってもナルニア国とドリトル先生とツバメ号シリーズだと思うの」と尾方さん。
「そうね。でも、ケストナーの少年文学全集や、名探偵カッレ君シリーズも忘れてはならないと思うのよ。・・・でも、この本は初めて見るわ。いつ出版されたの?」と私は尾方さんに聞いた。
「これは今年出たばかりよ。偶然本屋さんで見つけて、表紙買いしたの。なかなかおもしろいから、読み終わったら貸してあげようか?」
「ええ。貸してくれるなら嬉しいわ」と私は尾方さんに微笑んだ。
その後、始業式と入学式に出るために体育館に行った。式典が終わって教室に戻ると、担任の柳井先生が教室に入って来た。私語が止まり教室中が静かになる。
「えー、注目してください。私が担任の柳井です。現国担当です。これからクラスの委員長、副委員長を決めるので、出席番号順に自己紹介をお願いします」
最初に席を立って自己紹介をしたのは青木さんだった。伊藤さん、上田さんと続き、四番目が私だ。
「内田真紀子です、よろしくお願いします」と私が言うと、
「去年の松葉祭で水上さんと一緒に独唱した人ね」と誰かが囁いた。
去年の松葉祭ではミュージカル『ラ・マンチャの男』の曲を歌った。私も独唱の一部を担当したが、最初に独唱した明日香だけ目立っていたと思っていたので、恥ずかしくて顔が赤くなった。
明日香がいたから歌えたのだ。できれば忘れてほしい、と思った。
私が着席すると尾方さんが立ち上がり、その後順番に自己紹介が進んで行った。
何人かの後に立ち上がったのが、髪がソバージュがかった子だった。人一倍にこにこしている。
「私は森田茂子で〜す。よろしく〜」
森田さんは、一年生の時は別のクラスだったのであまり話したことはなかったが、私や明日香と同じようにみっちゃんを「お姉さん」と呼んで慕っていた女子生徒だ。
みっちゃんは卒業式の時、特に仲が良かった後輩四人にセーラー服のスカーフを渡してくれた。四人のうちの三人が私と明日香とこの森田さんだった。
「去年の松葉祭のお芝居で愛と美の女神、アフロディーテを演じていた人ね?」と尾方さんが私に囁いた。
うなずく私。森田さんは明日香ほど美人ではないが、ちょっと見た目が変わっている子だった。何と言うかな、欧米人の血が混ざっている感じ?本人がハーフだという話は聞いたことがないけど。
最後の人まで自己紹介が終わると、柳井先生が、
「それではまずクラスの委員長を選出します」と言った。
「立候補者はいますか?他薦でも構いませんよ」
委員長か。勉強ができる人がいいわね。このクラスで成績がいいのは誰かな、と思っていたら、突然尾方さんが立ち上がった。
「私は内田さんを推薦します」
「ええっ?」私はあせってしまった。明日香と違ってクラスをまとめる自信なんてないのに。
しかし無情にもクラス中に拍手が鳴り響き、他に立候補する生徒や推薦される生徒もなく、なしくずしに私が委員長に選ばれてしまった。
そう言えばみっちゃんも二年生のときに委員長になって、三年生のときに生徒会長になった。私が見たみっちゃんはいつも前向きで一所懸命で、尊敬できる先輩だった。あんな風にはなれないよ〜。
「内田さん?」と柳井先生に呼ばれて私は立ち上がった。
「副委員長はどうしますか?」
私は推薦されたお返しに尾方さんを指名しようかと一瞬思ったが、私怨で決めるのも良くない気がした。
「私は適任者がわかりませんので、副委員長もどなたか推薦していただけたら・・・」
「それでは副委員長の立候補者はいますか?他薦でも構いませんよ」と柳井先生。
すると誰かが手を挙げた。「私は森田さんがいいと思います!」
「え〜!?」と森田さんが声を上げた。「無理だよ〜」
「森田さん、物怖じしない性格だからいいんじゃない?」と別の誰かも言った。
「ほかに推薦される方はいませんか?」と柳井先生。誰も答えず、結局副委員長は森田さんに決まってしまった。
「それでは今年度の委員長と副委員長は内田さんと森田さんにお願いします」と柳井先生が言って私たちは再び拍手に包まれた。
「二人は次の休み時間に職員室に来てください。放課後になったら生徒会がありますから、生徒会室に行ってくださいね」
「はい・・・」「はいっ!」声が小さい私と自信満々の森田さん。何でそんなに威勢よく応えられるのだろう?
先生が出て行ったので私は尾方さんの方を振り返った。
「尾方さん、恨むわよ」
「なぜ?内田さんは適任よ。・・・一年生の時は水上さんに隠れていたつもりだけど、しっかり目立っていたわよ。だから適任よ」
私は改めて明日香と別クラスになったことを嘆いた。
「それより今度私の家に来てよ。児童文学について語り合いましょうよ」
せっかく見つけた同好の士だから、私はそれ以上尾方さんに文句を言うのをやめた。
登場人物
内田真紀子 松葉女子高校二年二組の委員長。昭和二十七年九月一日生まれ。
水上明日香 松葉女子高校二年一組の委員長。昭和二十八年二月十四日生まれ。
藤野美知子(みっちゃん、お姉様、お姉さん) 今年卒業した真紀子と明日香の敬愛する先輩。
尾方敦子 松葉女子高校二年二組の同級生。
柳井佐和子 松葉女子高校二年二組の担任。現国担当の先生。文芸部顧問。
森田茂子 松葉女子高校二年二組の生徒。美術部員。
書誌情報
ナルニア国ものがたり(C・S・ルイス著)
①ライオンと魔女(岩波書店、1966年5月28日初版)
②カスピアン王子のつのぶえ(岩波書店、1966年7月01日初版)
③朝びらき丸東の海へ(岩波書店、1966年8月1日初版)
④銀のいす(岩波書店、1966年10月1日初版)
⑤馬と少年(岩波書店、1966年11月1日初版)
⑥魔術師のおい(岩波書店、1966年9月01日初版)
⑦さいごの戦い(岩波書店、1966年12月01日初版)
アーサー・ランサム全集(アーサー・ランサム著)
①ツバメ号とアマゾン号(岩波書店、1967年6月19日初版)
②ツバメの谷(岩波書店、1967年7月18日初版)
③ヤマネコ号の冒険(岩波書店、1968年6月18日初版)
④長い冬休み(岩波書店、1967年8月18日初版)
⑤オオバンクラブの無法者(岩波書店、1967年9月18日初版)
⑥ツバメ号の伝書バト(岩波書店、1967年10月18日初版)
⑦海へ出るつもりじゃなかった(岩波書店、1967年11月18日初版)
⑧ひみつの海(岩波書店、1967年12月18日初版)
⑨六人の探偵たち(岩波書店、1968年1月18日初版)
⑩女海賊の島(岩波書店、1968年4月18日初版)
⑪スカラブ号の夏休み (岩波書店、1968年2月19日初版)
⑫シロクマ号となぞの鳥(岩波書店、1968年3月18日初版)
ドリトル先生物語全集(ヒュー・ロフティング著)
①ドリトル先生 アフリカゆき(岩波書店、1961年9月18日初版)
②ドリトル先生航海記(岩波書店、1961年10月16日初版)
③ドリトル先生の郵便局(岩波書店、1962年1月13日初版)
④ドリトル先生のサーカス(岩波書店、1962年2月13日初版)
⑤ドリトル先生の動物園(岩波書店、1961年11月13日初版)
⑥ドリトル先生のキャラバン(岩波書店、1962年3月13日初版)
⑦ドリトル先生と月からの使い(岩波書店、1962年4月13日初版)
⑧ドリトル先生月へゆく(岩波書店、1962年5月14日初版)
⑨ドリトル先生月から帰る(岩波書店、1962年6月13日初版)
⑩ドリトル先生と秘密の湖(岩波書店、1961年9月18日初版)
⑪ドリトル先生と緑のカナリア(岩波書店、1961年12月13日初版)
⑫ドリトル先生の楽しい家(岩波書店、1962年7月13日初版)
ケストナー少年文学全集(エーリヒ・ケストナー著)
①エーミールと探偵たち(岩波書店、1962年7月18日初版)
②エーミールと三人のふたご(岩波書店、1962年8月18日初版)
③点子ちゃんとアントン(岩波書店、1962年7月18日初版)
④飛ぶ教室(岩波書店、1962年5月16日初版)
⑤五月三十五日(岩波書店、1962年6月16日初版)
⑥ふたりのロッテ(岩波書店、1962年5月16日初版)
⑦わたしが子どもだったころ(岩波書店、1962年8月18日初版)
⑧動物会議(岩波書店、1962年6月16日初版)
名探偵カッレくんシリーズ(アストリッド・リンドグレーン著)
①名探偵カッレくん(岩波少年文庫、1957年6月10日初版)
②カッレくんの冒険(岩波少年文庫、1958年5月10日初版)
③名探偵カッレとスパイ団(岩波少年文庫、1960年6月20日初版)
旗の湖シリーズ(ジェフリー・トリーズ著)
①この湖にボート禁止(少年少女学研文庫、1969年2月1日初版)
②黒旗山のなぞ(少年少女学研文庫、1971年初版)(作中時点で未発刊)
未訳の続巻三巻あり(2021年1月現在)