二十八話 秋花女子大学落語研究会
私が秋花女子大学落語研究会の部室に入ると、部員の水上杏子が既に来ていて、木の椅子に座って本を読んでいた。
杏子は私を見上げると、「こんにちは、上谷部長」とあいさつしてきた。
「今日は早いね。美知子は?」と聞き返す。
美知子とはもう一人の落研部員の短大生だ。彼女が入部してから流しの周りのコーヒーカップが清潔に整頓され、インスタントコーヒー、紅茶のティーバッグ、煎茶のお茶っ葉などがそろえられたし、部室内もちょくちょく掃除してくれて、とても居心地がいい部室になった。
杏子は女子大二年生、美知子は女子短大一年生だ。ちなみに私は女子大に所属し、今は何回目かの四年生だ。
杏子と美知子と初めて会ったのは二年前の七月だった。部員がひとりも寄らないこの部室で落語の本を読んでいると、突然ドアがノックされ、杏子と美知子が入って来た。
今でこそ杏子は深窓の令嬢のような清楚で落ち着いた性格プラス美貌の持ち主だが、最初に会った時は水前寺清子のように髪を短く切り、私に向かって「こちらでは漫才をどうお考えでしょうか?」といきなり聞いてきた。
こんなボーイッシュで爽やかな美人なのに漫才に興味があるとは見所があると思って、杏子と演芸について話し始めた。
私はどちらかというと落語に興味の中心があったが、漫才の軽妙な言い合いによるお笑いも決して嫌いじゃなかった。
漫才のおもしろさについて滔々と語る杏子を見ていると、この子は漫才向きだな、と思わざるを得なかった。
私は杏子と漫才について熱く語り合っていたが、その間、セーラー服を着ていた女子高生の美知子は後の方に座って私たちの話をただ聞いているだけだった。いや、ろくに聞かずにただ私たちを眺めていただけかもしれない。
その時は、美知子は杏子の後輩で、ここには無理矢理連れて来られただけで、漫才や落語にはあまり興味がないのだろうと思った。
そして翌年、つまり昨年の四月、私は部室で杏子が入部して来るのを待っていた。しかし何日経っても顔を見せず、杏子はこの大学に入学しなかったのだろうと思い始めた。・・・浪人したか、他の大学に行ったのだろうと。
そのまま当てが外れて気落ちしていたけど、六月になってすぐの日に何の前触れもなく杏子が部室を訪れた。その日のことは未だに鮮明に覚えている。
私がいつものように部室でひとり椅子に座って落語の本を読んでいると、部室のドアがノックされた。
「はいよー」と返事をすると、ドアが開いて見たことのない(と思った)美少女が入って来た。
「こんにちは。少しだけよろしいでしょうか?」
「・・・は、はい!汚いところですがどうぞ」私も女なのにその美少女に圧倒されてしまった。
髪の長さは耳が隠れるほどだが、その顔には天使のような笑顔を浮かべていた。ただ美人なだけじゃなく、皇族であるかのような気品が感じられた。
その美少女が静かに歩み寄って来たので、私は近くの木の椅子に座るよう促した。
美少女は上品に椅子に座った。「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言葉があるが、まさにそれを地で行くような美少女だった。
美少女は優雅に頭を下げて口を開いた。「お久しぶりです、部長さん」
え?この子、私のことを知ってる?・・・でも、こんな美少女、一度見たら忘れないはずだけど。
「昨年お話を伺いに来た水上杏子です」
私は椅子からずり落ちそうになるくらい驚いた。水上杏子ならよく覚えている。美人ではあるがボーイッシュな雰囲気で、何より会うなり機関銃のように漫才の魅力を語り出した変な子だった。・・・髪をもじゃもじゃに伸ばし、年中袖なしの半纏を着て部室にこもっている私が言うのも何だけど。
「あんた、あの水上さんなのかい?」思わず聞き返してしまった。
「そうです。ご無沙汰しています」
「あんた・・・いや、水上さん、あなたはこの大学に入学したの?」
「はい。あれから半年受験勉強を頑張って、何とか滑り込むことができました」とにこやかに言う杏子。
「そ、そうなの、おめでとう。私はあなたがこの部室に来ないかと思ってずっと待っていたわよ」
杏子はまた頭を下げた。「申し訳ありません、部長さん。受験勉強で燃え尽きたみたいに漫才への興味が消えてしまって、こちらにお邪魔する理由がなくなったと思ったものですから」
「漫才への興味が消えた?去年はあんなに情熱を持っていたのに?」
「はい。私自身も不思議に思うほどなんですが、お正月に美知子さんと一緒に漫才をしたら満足しちゃったみたいなんです」
「美知子さんって?」
「去年この部室をご訪問した時に一緒だった後輩です」
「ああ、あのセーラー服を着てた子?彼女、漫才ができるの?」
「はい。美知子さんは漫才についてけっこう詳しくて、何度か私の相方を務めてもらっていたんです」
「へ~、あの子がねえ」当時は情熱の杏子、頭脳の美知子って感じのコンビだったのかな?
「あの子はまだ高校生なんだろ?水上さんは、入学してから今まで何をしてたんだい?」
「杏子と呼び捨ててください、部長さん。・・・私は入学してから何をしていいかわからず、大学に来てからできた友人に誘われてとりあえずテニス部に入部したのです」
「テニス部ねえ・・・」今の杏子には似合っているかな?
「それで今日はなぜ私にあいさつに来たんだい?」
「実はつい先日、美知子さんが私の下宿に泊まりに来たのです。そこでいろいろお話ししていたら、高校時代の楽しい記憶が蘇ってきました。そこで部長さんのことを思い出して、ごあいさつに伺おうと思いました。遅くなって申し訳ありません」三たび頭を下げる杏子。
「それはご丁寧に。・・・せっかくだからこのまま落研に入部しない?」入部はしてくれないだろうなあと思いながら、一応誘ってみた。
「はい、お願いします」四たび頭を下げて即答する杏子。
「ええっ、いいのかい?今、テニス部なんだろう?」
「テニスは体を動かせて楽しいですが、私はテニスをしたかったんだろうかと最近思うようになってきたんです。同時に漫才は楽しかったなと思い出されてきて・・・。お願いします、部長さん。部員見習いでいいからここに通わせてください」
「いやいや、見習いじゃなく正規の部員として歓迎するよ」
それから私は杏子と何度も演芸の話をした。去年のような情熱は感じなくなっていたものの漫才の知識は豊富で、話が尽きることはなかった。私は一方で落語のおもしろさも杏子に話した。そのせいか、落語にも興味を持ってくれたようだ。
休日には杏子を誘って浅草に一緒に行ったこともある。
「杏子は今まで寄席で漫才を見たことがあるのかい?」
「いいえ。テレビやラジオで少しだけ見聞きしたことがあるだけです」
「あれだけ知っていて?・・・どこから漫才の知識を得たんだい?」
「さあ?・・・本を読んででしょうか、いつの間にか何となく知ってました」
「不思議な人だね、君は。・・・さあ着いた。ここが浅草東洋劇場だよ」
「劇場ですか?」
「劇場と言ってもコメディや漫才やコントや、お笑いが中心だね。今テレビで人気のコント55号の萩本欽一なんかもここで活躍してたんだ」
「へー、そうなんですか?」
「四階と五階には浅草演芸ホールというのがあって、そこでは落語をしてるんだ」
「まさに演芸の総本山ですね」と感心する杏子。私はにやりと笑った。
「ここは元々浅草フランス座というストリップ劇場だったんだよ」
「ええっ?・・・あの、いやらしい?」
「ストリップの合間にコントなどをしてたら人気になって、東洋劇場が作られたそうだ」
「今はス、ストリップは・・・その?」
「今はしてないみたいだね。興味あるのかい?」
「いえいえ、とんでもない!」顔を真っ赤にして手を振る杏子。そのうぶさに感心するほどだ。
「もうひとつ、浅草松竹演芸場というところがあるんだ。ここでは色物が中心らしいから、次はそっちに行ってみようか?」
「色物?・・・その、いやらしい演し物ですか?」
「何言ってるんだい?色物って漫才やコントのことじゃないか」
「そうなんですか?知りませんでした」
「寄席の看板で落語や講談の演目が黒文字で書かれていたのに対して、漫才や手品は朱文字で書かれていたから色物って呼ばれるようになったんだよ。・・・杏子は漫才にあれだけ詳しいのに、ところどころ基本的な知識が抜けてるね」
「すみません。もっと勉強しておきます」
「謝る必要はないよ。現場で経験して覚えればいい。さあ。今日は東洋劇場に入ろう」
こんな感じで私と杏子は落研の部長と唯一の部員として仲良く楽しく過ごしてきた。私のフーテン娘風の衣装に感化されたのか、杏子もジーパンとジャージを着るようになった。私が見ても変な格好だけど、杏子は美少女過ぎるからこのくらいの方がいいと思って何も言わなかった。虫除けにもなるし。
私は杏子の下宿を訪問するようにもなった。杏子は従姉の祥子と同居しているようで、なかなか豪勢なマンションに住んでいた。私の下宿はお世辞にも上等とは言えないようなところだったから、杏子のマンションは居心地が良かった。
ある日曜日、私が杏子の部屋でごろごろしていると来客があった。杏子の代わりに私が玄関に出ると、セーラー服を着た美少女が立っていた。杏子に似ているが、雰囲気は祥子に似てるかな?
「誰?」と私が言うと、その美少女は、
「私は水上杏子の妹です。あなたこそどなたですか?」と強い口調で聞き返してきた。やっぱり祥子に似ている。
私は杏子の妹の明日香ちゃんの後にもうひとり女子高生が立っているのに気づいた。その顔に見覚えがある。杏子の相方の美知子だろう。
二人を室内に招き入れて話をしていると、美知子は話で聞いているのより変わった子だった。
杏子の服装にダメ出しをし、真新しいジーパンは路上において車に轢かせろ、とまで言った。おもしろい子だ。
その後美知子は手際よくチキンライスを作り、私にもふるまってくれた。きびきび動くし家事もできる。こんな相方かマネージャーがいれば快適だろうな、と思ってしまった。
美知子と明日香ちゃんはその後帰ってしまったが、私は残ってしばらく美知子のことを杏子から聞いた。
「美知子さんは勉強ができるし、生徒会長だし、似顔絵も上手だし、文章も書けるし、女子高の第二校歌も作ったの。部活は美術部と文芸部に所属してるけど、舞台度胸があるから私の相方も務めてくれてたのよ」
「万能の天才かな?漫才や落語には演技力や創作力が必要だから、演芸をやるために生まれてきたような子だね。・・・来年卒業かい?」
「ええ。本人は秋花女子短大を受験するみたい」
「なら、来年は落研に入部してもらえるね」
そんな話をしているところへ杏子の従姉の祥子が帰って来た。
「何言ってるのよ、上谷さん。美知子さんは来年は私のいる英研に入ってもらうんだから」
「祥子も美知子さんを高く買っているのかい?」
「そうよ。私の自慢の後輩で恋人よ」と言い切る祥子。
「祥子も美知子さんが好きなのかい?美知子さんには人たらしの才能もあるのかな?芸人としては理想的だね」
「あ、祥子。これ、美知子さんが作ってくれたチキンライスだから食べてね」
「え?美知子さんが来てたの?会いたかったわ〜」と残念がる祥子。
そんな不思議な魅力のある美知子に再会したのは、水上家の新年会でだった。
美知子は晴着姿の私を見てどぎまぎしていた。かわいい、と思ってしまう。
しかし美知子がコートを脱ぐと、その下はドレス姿だった。さすがに驚いた。
話を聞くと、ドレス姿で女子高の文化祭のステージに立ったそうだ。さすがだ、やっぱり逸材だ、と確信した。
水上家の新年会ではみんなが順番に歌謡曲を歌った。おもしろい家族だ。美知子も歌謡曲を歌ったが、漫才は披露してくれなかった。
仕方なく私と杏子が落語をしてみせた。美知子は熱心に私たちに見入っていた。やはり見所がある。美知子の帰り際に再度落研に入部するよう勧めておいた。
そして四月が来て、美知子は無事に短大に入学し、落研に顔を出してくれた。そして美知子の変貌ぶりに、私は口をあんぐりと開けてしまった。お前は杏子二世か!?
登場人物
上谷葉子 秋花女子大学四年生。落語研究会(落研)部長。
水上杏子 秋花女子大学二年生。落研部員。
藤野美知子 杏子の後輩。秋花女子短大一年生。
水上明日香 杏子の妹。松葉女子高校二年生。
黒田祥子 杏子の従姉。秋花女子大学二年生。
TV番組情報
フジテレビ系列/コント55号の世界は笑う(1968年7月13日〜1970年3月28日)
日本テレビ系列/コント55号の裏番組をぶっとばせ!(1969年4月27日〜1970年3月29日)




