満月の夜に。
先日書いた短編小説です。
4000字程度ですので、息抜きにどうぞ。
台風の名残なのか、海岸には風が強く吹いていた。夜空に厚い雲はなく、満月の明かりだけが、黒い海に白い光沢を与えている。海面に立体的な造形が浮かんでは消え、無数に合わさって言いようのない質量を湛えている。それらが、波の一つ一つであった。
波は高く、大きく、荒く膨らみ、大気の粒のまとまりを幾重にも呑んでいく。その波の端は泡立つ白浪となり、地上の一部を撫でて砂浜の砂粒をさらい――誰かの足をいじらしく舐めた。
真央は、堤防の白い梯子を上り、消波ブロックの上に座った。大波は、消波ブロックの垣にぶつかり、その湛えられた質量が爆ぜると飛沫となる。そのバラ撒かれた水が、真央の顔にかかった。
月夜に風が騒ぎ、波は煽るようであった。
燃えた灰に熱が残るように、真央の頬は熱い。
未練の二字が烙印となって真央の胸の奥に押されたのは、もう一年も前のことだった。
「涛は、男とデキているらしい」
その言葉を聞いたのは、涛の知り合いからであった。彼は何の気なしに真央に漏らしただけであったが、真央にしてみれば驚天動地の極みであった。
二つ結びの黒髪を艶めかせ、丸く、やや垂れた目に、慈しみを湛えた少女であった。あのあどけない掌の柔らかさを、まだ、真央は覚えている。
「あれは俺のものだ」
真央は波音に抗おうと叫んだ。が、それは無情に消えた。
びゅうびゅうと吹く風が、真央の身体を冷やした。だのに、未だに真央の頬は火照り、まぶたを閉じれば、目尻から熱く流れるものがあった。
涛について、振り返ってみた。
彼女には、三年間片思いだった。中は良かったと思っている。目が合えば必ず話をしていた。けれど。
あとは、何なのだろう。
思えば、それだけだったのだ。真央と彼女が互いを認識したことなど。我に返った真央は、振り返ったことを後悔した。
――涛はもう、自分が一人で寝ている間に、誰かの暖かな愛を受けている――
その想像すら、真央の心には毒だった。
心の内と、外の人間関係での、自分自身の愚と稚拙さが涙としてにじみ出ているように思えた。
真央は、成人してから煙草を吸うようになっていた。
美味しいとも思わないのに、ただ落ち着く気がするからというだけで吸い続け、今晩はもう三本目に火を点けようとしていた。
真央は今夜、知らず月光に静けさを求めていたが、当てが外れた。
今更ながらそう思うも、一度おろした腰を、すぐにあげようとも思わなかった。
シュッ。
マッチ棒を擦る。が、火は一瞬で風に消し飛ばされてしまった。
シュッ。シュッ。
二本目、三本目と擦ってみても、火はたちまち海風にさらわれてしまう。
「くそっ」
真央は、苛立ちのあまり左手のマッチ箱を握りつぶしてしまった。「いかんいかん」と呟きつつ、真央は箱を縦向きに立てつつ側面を押した。
瞬間、マッチの中箱がずり落ちてしまった。
「ああっ」
両手を開いてバラバラを落ちるマッチ棒を拾おうとした。
そう。両手で。
真央は左手の箱を手放してしまったのだ。
それを見計らったように、
ぴゅう!
と風が一段と強くなった。
十数本のマッチが吹き飛んでいく。
せめてマッチ一本、いや外箱もなくては火が点けられない――
そんな逡巡を頭に過らせながら、真央は両手を伸ばしたその勢いで、身体を投げ打つように倒れた。
座る体勢が崩れ、顎からビタンッと消波ブロックにぶつかった。
両手には虚しさが握られていた。
真央が咥えた一本の煙草が、口先で寂しく震えていた。
真央の情けない視線のずっと先に、砂浜があった。
涙に滲んで良く分からないが、白く光る何かが一つ、立っているようにみえた。
それが不思議なことに、砂浜の脇の消波ブロックに昇り、ゆらりゆらりと真央の方へ近づいてきた。
「誰だろう……こんなところ人に見せられないぞ……」
涙を腕で吹いて、その光を見る。
濡れた腕が更に冷えると、涙の一粒が光へと吸い込まれた。
「――へえ」
と、光から聞こえた気がした。
「何――?」
目を瞬いて、真央は再び光を凝視した。
「君は――」
真央は自分の目を疑った。
それは、真央が誰よりも求めていた人だった。涛が、そこにいたのだ。
「どう? こんな感じで」
肩を晒した白のワンピースに、長い黒髪をストレートに下した姿は、夢にまで見た彼女の理想像であった。
「どうしてこんなところにいるんだ」
真央は胸を震わせて怒鳴った。
嗚咽がぶり返しそうになるのを抑えて、潮の香りを吸った。
「別に。ただ、何となくだよ」
涛は昔のように小首を傾げてそう言った。
――彼とはどうなんだ――真っ先に出かかった疑問を、真央は歯を食いしばって抑えた。
彼女の薄紅色の唇が動く。
「煙草すってるの?」
「いや、これは」
君に失恋してからはじめた、とは口が裂けても言えなかった。
「好きなんだ?」
「違う、これはさ――」
真央がどぎまぎしていると、
「火、点けてあげようか」
と言って、涛は潰れたマッチ箱とマッチ棒を両手にもっていた。
風に飛ばされたものをひろっていたのだ。
真央の口から煙草がこぼれた。
膝の上に落ちたそれを、真央は慌てて口に戻しつつ、そばに立つ彼女を見上げた。
記憶のままの、天使のような彼女だった。その丸い瞳が美しかった。
真央は、咥える直前になって煙草を口から離した。
「やめておく。君の前で吸うことはない」
「そう」
と言うと、彼女は真央の隣に座り、真央の手から煙草を取り上げた。
そして咥えると、手に持ったマッチで火を点けた。
真央は、開いた口が塞がらなかった。
彼女はいつになくあざとい態度で真央の肩に自分の肩を当てた。
自然、彼女の重みを彼が受けるので、寄り添う形になる。
「涛ちゃん、吸うんだね」
うす紅の淡さを曇らせるように彼女の口から紫煙が漏れると、彼女は静かに肯定した。
「彼が好きだったから」
「だった?」
「うん。気付いたら、潮の香りより気に入っちゃった」
「今は、彼氏とどうしてるの」
「……」
涛は黙ってしまった。
「その薫りが好きなら、まだ一緒にいるんだろう?」
「まさか! そんなわけ、ないよ」
「じゃあどうしたの」
「もういいでしょ。私の恋は終わったの」
煙草の先が紅くなる。
波の揺れが少し静かになり、海は穏やかに月光を反射している。
真央は、次にいうべき言葉が分からなかった。
良かったね、というのは的外れに思える。それは、真央の本音だからだ。
残念だね、というのも違う。そんなのは、上辺すらも理解していない言葉だ。
「なんでさ、俺に会いに来たの」
「会いたくて会ったんじゃないわ。私にだって分からない」
こればかりは追及できないものだった。
「――どんな人だったの。彼は」
また煙草の先が紅くなる。
心なしか、彼女の顔がほころんだように見えたが、月明かりだけでは彼女の表情は判然としなかった。
青い吐息の後に、涛の話が続く。
「空想の好きな人だったわ。いつも好きな映画の話ばかりしてた。
宇宙人、怪物、怪獣、マッドサイエンティスト、改造人間、アンドロイド、それにもう色々。
『もし僕が宇宙飛行士なら君を月まで連れていってみせる』
なんて言ってくれたこともあったかな。
あの言葉、素直に嬉しかった。
彼ならきっと私のことも、と思ったのに……」
「涛ちゃん?」
「ううん、何でもない」
こんなときの「何でもない」が嘘だということくらい、真央にも分かった。
「どうしたかったの」
「偉そうに聞かないで。そんなんだったから、君は君なんだよ」
彼女は吸い終わった煙草をマッチのゴミとまとめて海に投げた。
「もういいわ。さようなら」
涛が立ち上がろうとした。
「待って」
咄嗟に、真央は彼女の手を握った。
「だったら、俺だって君を月に連れて行ってみせる。そうさ、あの満月の果てに連れて行ってみせるよ」
真央が叫んだ。彼女は止まった。
「……ありがとう。でも、彼だってそう言ってくれたわ。それが言えたなら、どうして君は、涛にもそう言ってあげられなかったのかしらね」
「涛……? どういうこ――」
真央の言葉は途切れた。
彼女が真央の唇に人差し指をあてたのだ。
彼女が座り直すと、途端に波が止み、静寂が夜を支配した。
直後、水平線にまで届くかのように彼女の澄んだ歌声が響いた。
……Fly me to the moon
And let me play among the stars
Let me see what spring is like
On Jupiter and Mars
In other words, hold my hand
In other words, darling, kiss me……
真央の胸の奥にあった、詰りのようなものが溶けて、全身を痺れさせる熱に変わって広がった。
危険を感じるほど魅惑的なその声は、おおよそ人間が出す歌声ではなかった。
「……彼女は、涛は歌が下手だったんだ。それに俺のことは苗字で呼んでいた。俺だって彼女を下の名前で呼んだことは無かったのに、君は気にも留めずすんなりと受け入れてくれたね」
波は海の呼吸である。呼吸は静かに、不規則な規則を基に営まれ時を刻んでいた。
「ねえ。一つ聞いてもいいかしら」
真央は頷いた。
「これは、もしもの話だけど、私が人魚姫だと言ったら、信じてくれる?」
風が、止んだ。
「信じるよ。じゃあ失恋した金はきっと――」
「甘いわね。やり直せる恋なんてないのよ。でも悪くないわ。私、あの人からその言葉を聞けなかったから」
「君の彼はロマンチストになり切れなかったんだ」
「君は、もっとロマンチストになればよかったのよ。怖がらず、傷を受けてでも」
彼女の目がきらりと光った気がした。
うすらぼんやりと雲がかかり、朧月夜に風が踊る。
二人が立つと、風はまた強く吹いた。
波は大きく立ち、
砂浜を染めるように白波が幾億の泡を立てて鳴動すると、
二人が立つ消波ブロックの近くに、月明かりの白山脈が激しくぶつかった。
爆ぜた飛沫が二人を優に超す高さへと舞い、
まさに降りかかるその時。
「嘘でも嬉しかった。バイバイ」
「――!」
涙を拭いていた真央の腕に、彼女はそっと口づけた。
もう一度、真央の目を見る。
「涙って、しょっぱいね」
笑顔でウィンクしてみせた彼女の目から、一縷の涙が流れた。
そして、水飛沫が二人に覆いかぶさった。
身体にびちゃびちゃと飛沫を受けて、真央は閉じていた目をゆっくりと開いた。
「いない……」
白浪の泡が、彼の足下でぷつぷつと弾けて消えていった。
これは、幻なのだろうか。
それとも現実なのだろうか。
真央は再び雲の去った満月に向かって、彼女が歌ったのと同じ歌を口ずさんでみた。
本当の涛はどうしているだろうか。
やはり、自分でない誰かを想い、眠るのだろうか。
それはもう、今の彼には関係のないことだった。
真央は月を見てあの人魚に言ってやった。
「信じてるよ。悲しみの人魚は泡になって、世界を巡るのだから」
真央は腕にかかった飛沫をひと舐めした。
しょっぱい、と真央は思った。
(完)
お読みいただきありがとうございました。
近日、これとは毛色の違った長編ファンタジーを投稿する予定です。
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