第三話 迷い込んだその先で
それから幾ばくかの時が流れた。
「王国にはなぜ名前が無いと思いますか?」
ヴェラ・クラッセン女史が問うた。
そこはアンネリーゼ・イルメラ・アルムガルドの私室で、彼女はアンネリーゼの個人教師だ。クラッセン子爵の奥方で、35歳。小太りというには、もう少々ふくやかな、しかし鋭い目つきの通り気の強い女性だ。
アンネリーゼは彼女のことが苦手だった。おそらくヴェラの方にしてもアンネリーゼのことを快くは思っていない。そのことは態度の端々に見て取れた。
今回の質問にしてもそうだ。
アンネリーゼが知らないだろうと分かっていて聞いているに違いない。
「分かりません……」
推測で答えを言っても一蹴されるに違いなく、アンネリーゼは正直にそう答えるしかない。
「はぁ……」
と、ヴェラは大げさにため息をついた。
それは王女であるアンネリーゼの教養の無さを嘆いているというよりは、彼女を傷つけるためにわざと大げさにしているのだろう。少なくともアンネリーゼにはそう思えた。
「いいですか、アンネリーゼ王女殿下。王国は神々から連なる大いなる王家によって統治されるもっとも栄誉ある国家です。王国と付く国は数あれど、王国の前に王国無し。これは王国貴族なら誰でも知っていることですよ」
「はい……」
そんなの今まで誰も教えてくれなかった。そう訴えても無駄なことはすでに経験として学んでいる。アンネリーゼにできることはヴェラの言うことに従い、覚え、学ぶことだけだ。
教師を変えてくれという嘆願をしなかったわけではない。だが一国の王女の個人教師になれる教養を持つ女性で、アンネリーゼの個人教師になろうという者はほとんどいなかった。
あるいは父親、つまり国王陛下に直接嘆願すれば可能かもしれなかったが、アンネリーゼには畏れ多くてとてもそれを言い出す気にはなれなかった。
「では今日は王国の成り立ちについてお話しましょう」
ヴェラの話によると王国の歴史は神話まで遡る。
あまりにも長かったので要約すると、かつてこの地と空は神々の住まう領域だった。人類に許された住処はエーテルの海の下、つまり下層世界だけだったという。それを不憫に思った一部の神々が人類を上層世界に招き入れた。しかしそれを不満に思った神々との間に対立が生じてしまう。
神々は人類のようにお互いに争うような愚は犯さなかったが、その確執は決定的な物になり、やがて神々はこの地を捨て、空へとその住処を移すことに決めた。しかしその時にはすでに神と人の間の子が生まれていたのだという。
空色の髪と瞳を持つ乙女クリームヒルト。
彼女の扱いについて神々は揉めに揉めた。しかし神々の時間はあまりにも長く、人のそれはあまりにも短い。
神々が彼女の処遇で揉めている間に、彼女は人の子と恋に落ち、子を産んだ。またしても空色の髪と瞳を持つ娘を。
事ここに至り、神々は彼女を連れてはいけないと判断した。
クリームヒルトは地上に残り、神々の去った大地で人々の信仰を集め、最初の女王となった。そうして王国が生まれ、今でもその血脈は延々と続いている。
「その証が殿下の髪と瞳の色なのです」
「私が神々の末裔ということなのでしょうか?」
アンネリーゼにとってはにわかには信じがたい話だった。ほんの僅かとは言え、自分に神様の血が流れているなどと、簡単に信じられるほうがどうかしているに違いない。
「そうでなければ殿下がここにいらっしゃるはずもありません」
「そうですね。そうでした」
少なくとも王国の中ではそういうことになっている。そうでなければアンネリーゼが王族としてここで暮らすことになるはずもなかったのだから。
「さて、お話が長くなってしまいましたね。今日はこのくらいにしておきましょう」
ヴェラがそう言って、アンネリーゼはホッと息をつきそうになったが、慌ててそれを堪えた。
「ありがとうございました」
「いいえ、私の仕事ですから」
ヴェラはあくまで素っ気ない。鋭い目つきを和らげることもなく、アンネリーゼの部屋を一礼して退出していった。後に残されたアンネリーゼは今度こそ心置きなくホッと息をつく。
「アンネリーゼ様、お茶は如何ですか?」
「いただきます」
「いけませんよ。アンネリーゼ様。メイドにはもっと気楽な口調で接してくださらないと」
ヴェラがいる間は部屋の隅で静かにしていたメイドのハンナがクスクスと笑いながら魔法でお茶を淹れる。
「そう言われても難しいの。ハンナ……」
さん、と付けそうになったのをアンネリーゼは飲み込んだ。確かにハンナの言うとおりで、王族には王族に相応しい態度というものがある、とヴェラに散々口酸っぱく言われている。
「もうすぐ2年も経つというのに、アンネリーゼ様はお変わりになりませんね」
ハンナがテーブルにティーカップを用意し、そこにお茶を注ぐ。それから小さじで砂糖を2杯入れ、ティースプーンでくるくるとかき回した。
「砂糖の量は減ったわ」
「ええ、そうですね。白い砂糖に驚かれていたことを鮮明に覚えていますよ」
「もう、ハンナったら。私も少しは大人になってるって言いたいの」
「身長も伸びられましたね。御髪もようやく伸びてきて、大人らしくなってきていますよ」
「そうよね……」
しかしハンナと比べるとアンネリーゼはあまりにも子どもだ。
それもそのはずでハンナは22歳、それに対してアンネリーゼはまだ10歳でしかない。身長はもちろんのこと、体つきの女らしさでも到底敵うはずもない。
アンネリーゼはハンナには分からないように一瞬だけ自分の体に視線を向けた。それからハンナを見る。制服の胸部を豊かに盛り上げる双丘に対して、アンネリーゼのそれはあまりにも平坦だ。
果たして自分もハンナのように成長できるのだろうかと不安に思うが、こればっかりはなってみないと分からない。
母はどうだっただろうか?
アンネリーゼはそう考えて、母の面影が薄らいでいることに言いようのない悲しさを感じる。
「少し外の空気を吸ってくるわ」
お茶を飲み終えたアンネリーゼはハンナにそう宣言した。
「ではお供いたします」
「嫌と言っても付いてくるのよね」
「アンネリーゼ様が迷子になられては大変ですから」
そんなことはないと言い返したかったが、前科持ちのアンネリーゼにはとても言えなかった。王城の中で迷子になってわんわん声を上げて泣いているのをメイドに発見された過去は、できれば忘れてしまいたい。
でも今回アンネリーゼが行こうと思っているのは毎日も通っている庭園で、迷子の心配はほとんどいらない。それでもハンナの役目からすればアンネリーゼから目を離すわけにはいかないだろう。
長い廊下を抜け、外に出ると、そこは薔薇の咲き乱れる庭園だった。風に混じって薔薇の匂いが漂ってくる。それを胸いっぱいに吸い込んで、アンネリーゼはようやく開放感に包まれた。
ハンナを付き添わせ、薔薇の庭園をしばし歩く。
その最中、ふと視界に違和感があって、アンネリーゼは足を止めた。
赤いバラの咲き乱れる中に一輪だけ場違いな黄色い花が咲いていた。
後を付いてきたハンナも当然その花に気がついたようだ。
「ノゲシですね。どうにかして種が飛んできたのでしょう。庭師を呼んできます。アンネリーゼ様はここに」
庭師を呼んでどうするのだろうか?
そんなことは考えるまでも無い。この黄色いノゲシという花は摘み取られてしまうのだ。
思わずアンネリーゼはその場違いな花に自分を重ねてみてしまう。
「あなたも迷い込んできてしまったのね。可哀想に」
そしてこの花は自分のように飼い殺しにされるわけではなく、摘み取られて死んでしまうのだ。そう考えるとまるで自分の分身が殺されてしまうようなそんな悲しみがアンネリーゼを襲った。
気が付くと頬を涙が伝っていた。
それを袖で拭おうとして、淑女にはあるまじき行為だと気づき、ハンカチを探したがポケットの中には見当たらなかった。
「これが必要ですか?」
不意に声を掛けられ、アンネリーゼは飛び上がらんほどに驚いた。誰かが近づいてくるような気配などこれっぽっちも感じなかったからだ。顔を上げるとそこには青年というよりはまだ少年と言ったほうがしっくりくる男性が立っていた。
赤い髪に紫色の瞳、アンネリーゼには見覚えのない誰かだった。だがその服装や差し出されたハンカチの生地からして貴族の子息なのだろう。
「ありがとうございます。洗ってお返ししますので。そのお名前を」
「ルフト・フェラーと申します。アンネリーゼ王女殿下」
それがアンネリーゼ・イルメラ・アルムガルドとルフト・フェラーの最初の邂逅だった。




