第九話 叛意の象徴
アデーレの一件があってから、ネラのわずかばかりだったルーデンドルフ侯への忠誠心はマイナスに針が振り切れた。
しかしその身はルーデンドルフ侯の奴隷である。
直接顔を合わせる機会などそう無いとは言え、歯がゆい日々が続いた。
ルーデンドルフ侯への憎しみは募るばかりで、どうすれば自分が満足の行く結果になるのかネラには分からなかった。
殺してやりたい。
しかしそれでは物足りない。
アデーレがそうだったように苦しんで、苦しみ抜かせて、その後は自死したくともできないようにして……。
そんな妄想ばかりが膨らんでいく。
しかし妄想は妄想で、現実味を帯びることはなく、具体的な計画など無学なネラには練ることも出来なかった。
そうして2年の月日が無為に流れた。
とある日、ヴォルフから買い物を指示されたネラは街に出ていた。
買い物とは言っても注文をするだけで、実際に荷物を運ぶのは店の人間だ。
注文だって注文書を店に渡すだけでいい。
だからこの買い物という仕事はどちらかというとルーデンドルフ侯が奴隷を民衆に見せびらかすのが目的だった。
それと同時に奴隷の息抜きをも兼ねている。
買い物を指示された日は、のんびり街を見て回っていいというのが暗黙の了解になっていた。
使ってもいいと小銭も渡されており、多くの女中は街で買い物をしたり、あるいはお菓子を食べたりして過ごすらしい。
しかしネラは人目を気にしつつ、その姿を路地裏に消した。
人気の無い裏通りで、手に提げた鞄から着替えを取り出したネラは、手早く女中から、町人へと姿を変えた。
兎の耳を隠すために帽子を被ることも忘れない。
これでどこから見ても、ネラはヴァイスブルクを歩く普通の奴隷となった。
それからネラは慣れた様子で裏通りをスイスイと進むと、やがて治安の悪い貧困街へと足を踏みいれた。
そこで1件の酒場に入る。
営業許可を取っているようなまともな店ではない。
酒は水で薄められ、パンは三等小麦で焼かれているような、そんな店だ。
そしてこの店はルーデンドルフ侯に良からぬ意見を持つ者が集まってくる、そんな店でもあった。
ネラは姿を見せることこそ少ないものの、店の中には多くの知己ができていた。
ほとんどの者がルーデンドルフ侯によって傷つけられた心の拠り所を求めており、傷の舐め合いをしているに過ぎなかったが、それこそがネラが必要としているものでもあった。
その日も話を聞いたり、身の上を隠して話をしたに過ぎない。
それでもずいぶん救われた気になってネラは店を後にした。
裏路地をスイスイと進み、そろそろ女中の衣装に着替えようかと思っていたその矢先だった。
「ネラさんですね?」
「――――!」
不意に声をかけられ、ネラは逃げ出そうとした。
しかし路地の先にもすでに人の手は回っており、この狭い路地の中で前後を挟まれて、ネラは逃げ場を失った。
「慌てないでください。別にあなたに対して害意があるわけではありません」
「あなたたちは一体? どうして私の名前を知って?」
「そんなことは些細な事です。私たちはあなたから少しばかりお話を聞きたいだけなのです」
掠れがかった男の声は、その年齢を推測させない。
深く被ったローブのせいで、その表情も伺えない。
その風体で何を信じろというのか。
ネラは警戒感を露わに、男たちの囲みから突破できないかを考えた。
しかしそれも男の次の一言を聞くまでだった。
「アデーレ・リヒテンベルクさんの死の真相について、あなたは何かご存知ではありませんか?」
まさに頭をハンマーで殴られたような衝撃だったと言っていい。
ネラは足をよろめかせ、壁に手をついて体を支えなくてはならなかった。
「知らない」
首を振ってそう答えたが、説得力の欠片もないことはネラ自身が自覚していた。
男も追及の手を緩めるつもりはないようだった。
「あなたが第一発見者だったと伺っています。彼女は現場に何も残していなかった? 遺書やその類のようなもの、あるいはダイイングメッセージのようなものは? あなたは何か知っているのでは? だからあのような酒場に出入りしているのでは?」
酒場への出入り自体を咎められていないようだということにネラは気がついた。つまり彼らはルーデンドルフ侯の手の者ではないということなのだろう。
「あなたたちは一体何者なの?」
「ルーデンドルフ侯は少々やりすぎています。そのことを憂慮している勢力の関係者とだけ」
つまりはルーデンドルフ侯の敵というわけだ。
だがそれを素直に信じていいものなのか? ネラには判断がつかない。
「あなたたちにアデーレさんのことを伝えたとして、私に何か得があると?」
「あなたの心の重荷を少しでも軽くすることができるかと。お望みなら金銭でも、あるいはそれ以外の望みでもなんとかいたしましょう」
「私があなたたちに協力することでルーデンドルフ侯が苦しむことになる?」
「それは分かりません。ただ彼の野望を阻む力の一助にはなるでしょう」
ネラは唇を噛んで少し考えた。
どうせ彼女には難しいことは分からない。
だったら騙されたとしてもルーデンドルフ侯に噛み付いてみようとそう思った。
「分かった。私の知ることならなんでも話す」
こうしてネラは自分が誰の手先になったのかも知らないままに間諜となった。
その後は定期的にルーデンドルフ侯の身の回りで起きたことや、来客について伝えたりし続けた。
その情報がどの程度ルーデンドルフ侯を苦しめるのかネラには分からなかったが、彼に歯向かっているという事実が彼女の心の支えとなった。
そうしてさらに1年が過ぎた頃、ひとつの転機が彼女に訪れた。
ルーデンドルフ家の食客となったマリア王女殿下の世話役を任じられたのだ。
マリア王女殿下の第一印象はひまわりの花のような人だった。
太陽の光を一身に浴び、健やかに成長したひまわりの花。
そしてその人となりにもネラは惹かれるものがあった。
王族でありながらネラを物としてではなく、一個の人格として扱うその姿勢は、どこかアデーレに通じるものを感じさせたのだ。
だったからマリア王女殿下から次のようなお願いをされたとき、ネラは一も二もなく頷いた。
「ナタリエという私の侍女がこの城のどこかにいるはずなの。彼女がどこに居て、どういう扱いを受けているか調べられるかしら?」
「やってみます」
誰かに聞いて回るような愚はネラは犯さなかった。
ただ人の話に耳をそばだてて、ナタリエという名前が聞こえてくるのをじっと待った。
その結果分かったことは、ナタリエという名の誰かが尖塔の鍵のかかる部屋に幽閉されているということだった。少なくとも女中がひとりついており、不自由でありこそすれ、不便のない暮らしはさせてもらっているようだった。
そのことをマリア王女殿下に伝えると、彼女は安堵の息を付き、それからクスリと笑った。
「まるでナタリエのほうが囚われの王女様ね。よくやってくれたわ。ありがとう」
「もったいないお言葉です」
そしてもちろんネラはマリア王女殿下の世話役に任じられたことを、あれ以降も街に出る度に接触してくる男たちに伝えていた。
そのせいかどうかは分からなかったが、それから数ヶ月もするとマリア王女殿下は帝国の皇子と結婚することが決まり、ルーデンドルフ侯の邸宅を後にすることになった。
「あなたには世話になったわね。できればあなたの行く道が平穏なものでありますように」
「それはどういうことでしょうか?」
「あなたの心に平穏が戻りますように、ということよ」
それでなんとなくネラはマリア王女殿下には自分のルーデンドルフ侯への叛意が知られていたのだなと思った。
ともかくそうしてネラの心に一石を投じたマリア王女殿下は去っていった。
残されたネラは以前の仕事と、時折貧困街の酒場に足を運ぶ、そんな生活に戻っていった。




