第八話 下層生まれのネラ
ネラが生まれたのは下層世界の名も無き小さな村だった。どこかの国に属してはいたが、国の名前は思い出せない。
どちらにせよ遠い昔のことだ。
重要なのはその生まれ故郷の村がオークの集団によって蹂躙され、両親の手によって1人逃されたネラが、上層世界の冒険者たちによって救われたということだ。
ネラは言葉の通じぬ冒険者たちの手を必死に引いて生まれ故郷に戻ったが、そこはすでに焼け落ちた廃墟が広がるのみで、あちこちにはオークによって惨殺された遺体が惨たらしく転がっていた。
ネラは必死になって両親の姿を探したが、結局父の遺体を見つけただけで、母の消息を知ることはできなかった。
行く宛を失ったネラは冒険者たちによって、彼らの拠点のある町に連れられていった。
そしてそこで奴隷商館に売り飛ばされた。
最初は訳が分からなかったが、要は彼らは良い冒険者ではなかったのだ。
ネラの生まれ故郷の近くにいたのも初めから人さらいが目的だったのかもしれない。実際、奴隷商館には他にも下層世界からさらわれてきたという奴隷の娘が何人もいて、ネラは彼女らから王国の言葉を学んだ。
少しは王国の言葉が分かるようになると、ネラには買い手がついた。
ルーデンドルフという貴族の邸宅で働く女中が必要とのことで、まだ幼くて世のことを知らず王国の言葉は辛うじて分かり、何より目鼻立ちの整った兎の耳を持つ少女だということが気に入られたようだった。
ルーデンドルフ侯の代理人だという男の値踏みするような目をネラは忘れられない。
この時にようやくネラは自分が単なる商品に成り下がったことに気がついたのだ。
そして奴隷の証である首輪をつけられたネラは長い旅路の後にルーデンドルフ侯の邸宅に辿り着いた。
それは邸宅と呼ぶにはあまりにも巨大な真っ白い城だった。
故郷は遥か遠くになっていた。
ルーデンドルフ侯の邸宅での暮らしは決して悪いものではなかった。
ネラは要領の良い子どもだったので、邸宅での仕事はすぐに覚えたし、他の女中との関係も下手に出ることでうまく立ち回っていた。
ルーデンドルフ侯の邸宅には少なくとも10名を超える下層世界の人々が働いていたが、その中でもネラは新参者で、彼女はそのことをわきまえていた。
ネラは上手くやっていた。
ただひとつ彼女にとって不幸だったことは、恋をしたことだった。
もちろん恋をすること自体が不幸なわけではない。
ネラはその人の前に出る度に舞い上がるような気持ちになったし、その人のことを考えるだけで幸せになれた。
声に恋した。
表情に恋した。
態度に恋した。
その人の匂いに恋した。
あるいはその人の存在そのものに恋をした。
そしてそのことを感じる度に、彼女の胸は強く締め付けられた。
叶うはずのない恋。
彼女が恋したのは、彼女にとって先輩にあたる女中だった。
それも上層世界の出身の、しかも貴族の家の出の娘だった。
アデーレという名の彼女は、美しいだけでなく、誰にでも別け隔てのない気立ての良い娘で、誰からも好かれていた。
いつも下手に出ようとするネラの手を取って、高さの違う目線を合わせて話をしてくれる、そんな娘だった。
ネラは胸に抱えた気持ちのことを誰に相談することもできず、ただ日々を過ごす他になかった。
そうして三年の月日が流れた。
その間にネラは花が開くように美しい乙女に育っていたが、それに輪をかけてアデーレはその美しさを増していた。
ネラの美しさが大地に根を下ろすマリーゴールドなら、アデーレは温室で育つ薔薇のような美しさであった。
アデーレがより一層美しくなったのには理由があった。
彼女のことをいつも見ていたネラだからこそ分かった。
アデーレは恋をしていた。
当たり前のことだが、ネラに対してではなかった。
彼女が恋したのは邸宅で雇われている庭師のトビアスという青年で、トビアスがアデーレに惹かれているのは誰の目にも明らかだった。
そのままこの恋が進展すれば、ネラにも諦めがついたかもしれない。
トビアスは美形というわけではなかったが、常に笑顔で、仕事を楽しんでやっている好青年だったからだ。
アデーレにだけ優しいということもなく、ネラも彼に親切にしてもらったことがある。
生家の格差さえあれど、ネラの目にはお似合いの2人に見えた。
しかしそれからしばらくして、アデーレが塞ぎこむような様子を見せる日が増えた。
恋わずらいなら、同じ気持を抱いているネラにも分かっただろう。
だがアデーレのそれは恋わずらいというにはあまりにも重く、深刻なものに見えた。
しかしその原因はネラには分からないままだった。
ネラ自身や、他の女中が、アデーレに様子を尋ねたことも一度や二度ではない。
しかしそうするとアデーレはいつもの様子に戻って、ただなんでもないと繰り返すばかりであった。
しかしやはり日が立つにつれ、アデーレは水をもらえなかった薔薇のように萎れて弱々しくなっていった。
そしてついにその日が訪れた。
朝になるとアデーレの姿が消えていたのだ。女中たちは心配し、アデーレの姿を探して回った。ネラも当然同じようにアデーレを探して邸宅の内外を探して回った。
そしてネラが真っ先にアデーレを見つけた。
アデーレはトビアスと秘密の逢瀬を重ねていた邸宅の裏のイチョウの木で首を吊ってぶら下がっていた。
その表情は苦悶に歪み、薔薇のような美しさの面影もなかった。
ネラは半狂乱になって木に駆け上り、アデーレをぶら下げていた縄を解いて彼女を地面に降ろしたが、彼女の体はとうに冷たくなっていて、そこには生命の欠片さえも残されていなかった。
ネラの悲鳴を聞いて女中たちが集まってくる中、ネラは彼女の着ている服のポケットから覗く紙片に気がついて、それを自分のポケットに滑り込ませた。
なぜそのようなことをしたのかは自分でも分からなかった。
女中たちに合わせて執事のヴォルフがやってきて、女中たちにいつもの仕事に戻るように言った。
ネラだけは少しその場に残されて、発見時の状況を聞かれたが、そのまま答えるとすぐに解放された。
女中たちがあれこれとアデーレの死について憶測を語りながら仕事をするのをよそ目に、その日の仕事を終えたネラはトイレの中でポケットから紙片を取り出した。
そこに書かれた慣れない王国の言葉に四苦八苦しながら読み進めると、それがトビアスに向けた手紙であることが分かった。
それはトビアスへの謝罪から始まり、彼への愛を語り、そしてアデーレがルーデンドルフ侯から受けた仕打ちについて書かれていた。
そう、つまり美しく、あまりにも美しく育ったアデーレはルーデンドルフ侯によって見初められてしまったのだ。
アデーレが恋をする前ならそれで良かったのかもしれない。
貴族が娘を他の貴族の女中として送り込むからには、娘がそこの貴族家で見初められることを期待しているという側面も大いにあるからだ。
だがそれにしたってルーデンドルフ侯でなくとも良かったはずだ。
彼には跡取りである息子に加え、他にも何人かの息子がいる。
その誰かに見初められ奪われたのであれば、アデーレもこれも貴族の務めと諦めがついたかもしれなかった。
正妻にはなれなくとも妾となり、あるいは跡継ぎを生むチャンスすらあるかもしれなかったからだ。
しかしアデーレを見初めたのはすでに老人であるルーデンドルフ侯その人で、しかも紙片に書かれていた内容からすると、ルーデンドルフ侯は彼女が庭師に恋をしているのを知った上で、いや、知っているからこそ手折ったのだということが伝わってきた。
アデーレはその事実に耐えられなかったのだ。
そして耐えられなかったのはネラも同じだった。
ネラは感情に任せてその紙片をバラバラに引き裂いて、そしてその処分に困り、口に含むと飲み込んだ。
本当ならトビアスに渡すべきだと分かっていたのだが、感情がそうはさせてくれなかった。
とにかくこうしてアデーレの告発はネラの胃の中に消えて他の誰の目にも触れることはなかった。




