第八話 演壇上の王女
2016/12/15 話数が変わりました。
俺は知らなかったが、日が中天に差し掛かる頃になると大広場は人で埋め尽くされ、その先の街路までも人で溢れかえっていたそうだ。
では俺はと言うと、2個目の林檎を食べ終え、その食べかすをそっと人混みの足の群れの中に投げ捨てていた。
この頃になると人波の前には地面にロープが引かれ、衛兵たちはかなりの距離を下がっていた。
それでも最前列にいる俺から演壇までは30メートルほどはあるだろうか。
この状況から俺が王女様に何か仕掛けるとしたら、この30メートルの距離を埋める間に衛兵たちの壁を越えなくてはならない。
到底無理な話だ。
空賊たちにしたって同じことに違いない。
この場で何か起きるようなことはないだろう。
だが、だからと言って空賊たちがこの場に来ないとは限らない。
彼らにしてみればターゲットを直に目で見るチャンスであり、それだけでも何らかの価値があるかも知れない。
俺からは最前列にいる人々しか見えないが、その中に見たことのある顔が混じっているかじっと観察していた。
いない。
少なくとも最前列から見える範囲には。
建物の屋上を衛兵たちが占拠していることを恨んだが、この人波では、たとえエメリヒがいたとしても、彼の姿は人波の中に消えてしまうだろう。
俺より2つ年上だとは言っても、エメリヒだってまだまだ子どもだ。
大人たちに囲まれてしまえばその姿を見つけるのは難しい。
だが空賊たちを見つけるチャンスならあったはずなのだ。
俺はあてもなく人波の中に戻るかどうかを考えて、この場に留まることを選んだ。
どう考えてもこの人波の中で偶然にエメリヒと出くわすとは思えなかったからだ。
それならばまだこの場で何か起きるかどうかを見届けるほうがいい。
そんな俺の決断と、誰かが壇上に上がってくるのは同時だった。
人々のざわめきが一層大きくなる。
しかしながらそれは王女様ではなく、ローブを着込んだ壮年の男性だった。
「静粛に」
その声は決して大きくはなかったが、まるで耳元で囁かれたかのように俺の耳に届いた。
男性の魔法紋が淡く光を放っているところを見るに、なにかの魔法によるもののようだ。
他の民衆の耳にもそれは届いたようで、人々のざわめきは収まっていく。
それを待ってそのささやき声はこれから王女様が演説を行うこと、そしてそれに際しての注意点を淡々と述べていった。
それらは前の人を押してはいけないことや、この場で魔法を使ってはならないなどと言った、ごく当たり前のことばかりだった。
俺にとってはどうでもいいことで大半を聞き流した。
そんなことよりもエメリヒや空賊たちが目に見える範囲に現れるかどうかのほうがよほど大事だ。
やがて延々と続いた男性の前置きが終わり、彼が演壇から引っ込むと、ラッパが高らかに鳴り響き、太鼓と銅鑼が激しく打ち鳴らされ、人々の期待を否が応でも高めさせる。
そんな中を1人の女性が演壇にゆっくりと現れた。
俺でも一目で彼女が王女様だと分かった。
腰の辺りまで伸びた長い空色の髪が風に揺れている。
そう、空色の髪の色だ。
余り世間を知らない俺だが、それでもその髪の色がアルムガルトの王家の女性にしか受け継がれないものだとは知っている。
単なるうわさ話だと思っていて、実際にそれを目にすることになるとは思ってもみなかった。
彼女は演壇の中央に立って、しばらく彼女のために集まった民衆を見渡していた。
美しい女性だった。
年齢は二十歳前後だろうか?
これだけの人々の視線を一身に浴びているにも関わらず、物怖じした様子はない。
「本日はお集まりいただきありがとうございます」
囁き声が俺の耳に届いた。
王女様の魔法紋が光っているわけではないから、誰か別の魔法使いが魔法を使っているのだろう。
その澄んだ声と美貌に引きつけられそうになる意識を、俺は無理矢理に引き剥がし、王女様の姿に心頭している様子の人々へと視線を向ける。
その間も囁き声は俺の耳に届き続ける。
王女様の主張はこの町の現状を嘆くものだった。
アヘンが蔓延し、町には浮浪者や浮浪児が溢れ、さらに新市街と旧市街の住民の間には確執がある。
この町に住んでいる者なら誰でも知っている。
だがどうにもならないと思っている問題ばかりだった。
そんなことを今更持ちだしてどうなるというのか。
俺は囁き声を無視することに決め、人々へと注意を払い続けた。
そして見つけた。
人波から押し出されるように最前列に踊り出た1人の少年の姿を。
演壇を見上げ、他の人々と同じようにその美貌に見惚れる横顔を。
エメリヒ!
叫びそうになるのをぐっと堪え、俺は人波の中に取って返す。
人々を押し分けながら、その方向を目指して歩く。
「皆が幸せになれる、そんな町に変えるため――」
囁き声は相変わらず俺の耳にも届いている。
人々は王女様の一挙一動を見逃すまいと、その姿に注目している。
俺に押しのけられた男性が小さく舌打ちした。
構わずに俺は進む。
そしてようやくそこにたどり着いた。
エメリヒの背中が見える。
他の空賊の姿はない。
細かいことを考えている時ではない。
今この時を逃せば次のチャンスがやってくるとは限らない。
俺はフードを取り払い、腰の後ろからナイフを抜いた。
「エメリヒ」
ただその名を告げる。
名を呼ばれ振り返ったエメリヒの顔が驚愕に歪んでいく。
間違いなくエメリヒだった。
それと同時に俺は構えたナイフごとエメリヒの体にぶち当たっていった。
ずぶりと肉に刃が刺さる感触が腕に伝わってくる。
勢いがつきすぎて、俺とエメリヒの体はロープを越えて人波の列からその前に転がり出た。
「ルフ、ト――」
深々とエメリヒの腹部に突き刺さったナイフが抜けなくなり、俺は立ち上がりながら短剣を抜いた。
最初は子どもの単なる衝突だと思っていた人々や衛兵が顔色を変えて、それぞれの行動に入る。
一般人たちは悲鳴を上げながら短剣を振り上げた俺から離れようとして、衛兵たちは駆け寄ってこようとした。
「止めなさい!」
澄んだ声が囁き声と叫び声の二重になって俺の耳に届いたが、そんなことはお構いなしに俺は短剣を振り下ろした。
その瞬間にそれは起きた。
乾いた音、それから壺か何かを硬い床に叩きつけたような破砕音が続いて耳に届き、さらに乾いた音、更なる悲鳴や叫び声、すべて俺の感知しないところで起きたことだった。
俺はエメリヒの首に短剣の刃を叩きつけ、その首を半分ほど切断していた。
びゅーっと血しぶきが上がり、返り血が俺を濡らした。
殺したという確信はあったが、それをさらに確実にするためにもう一度短剣をエメリヒの首に叩きつけた。
エメリヒの首はもはや皮一枚で胴体と繋がっているだけになり、その目は何を見つめてもいなかった。
「――――!!」
短剣を取り落とした俺は声にならない声をあげ、衛兵に取り押さえられるのを待った。
しかしいつまで経っても衛兵は来ない。
不思議に思い辺りを見回すと、衛兵たちは皆一様に演壇を見上げていた。
俺も釣られて演壇の上に視線を向ける。
するとそこにあった王女様の姿はなく、ただ倒れ伏した人影がわずかに見えるだけだった。
血のしずくがぽたりと演壇から滴り落ちた。