第四話 銃声
2016/12/15 改稿しました。
銃声が響いた。
エメリヒは真っ青な顔に震える手で、まだ煙を吐き出している一丁の短銃を俺の胸に向けている。
多分、俺もエメリヒと対して違わない顔色だろう。足は震え、漏らしていないのが不思議なほどだ。
自分を狙う銃口から目を離すのは勇気が必要だったが、それ以上に恐ろしくて俺は視線を少し離れた床の上に向けた。
そこにはすでに血だまりの中に倒れ伏したニコラの姿がある。
何が起こったかは誰の目にも明らかだ。エメリヒの持つ短銃はまだ煙を吐き出し、硝煙の臭いを撒き散らしているし、この場にいる誰もがその瞬間を目にしていたのだから。つまりはエメリヒがニコラを撃つ瞬間を。あるいはニコラがエメリヒに撃たれる瞬間を。
そして今しがた友人を、親友を撃たれたばかりであるというのに、俺の脳裏にはまだ現実が追いついてきていなかった。それというのもエメリヒもまた俺にとってはまたとない親友であったからだ。
「……なにかの冗談だろ。エメリヒ」
声は震えた。それでも俺はまだ希望にすがった。
今にもエメリヒは銃を取り下げ、ニコラは血糊の上から起き上がり、この場にいる全員が俺がまんまと一杯食わされたことを笑う。そんな可能性があるのではないか、と。
「…………」
だがエメリヒは答えない。もはや答える言葉を持たないのか、あるいはとても言葉にできないのか。その青ざめた表情から答えを得ることは難しい。答えることを恐れているようにも見える。
ただ銃口は揺れながらも俺の胸に向けて突き付けられたままだ。震える指は今にもエメリヒの意思とは別に引き金を引いてしまいそうでもある。
逃げなければ、と、理性がそう叫ぶが、足は竦んで動かない。
それどころか呼吸することすら難しい。
「答えろよ」
震える喉を絞り上げ、問いかける。
種明かしをするなら今のうちだ。これ以上焦らされたら、冗談でも怒ってしまうぞ。頼むからそうなる前に冗談だと言ってくれ。
「答えてやれよ、エメリヒ」
突然、観客の1人がそんな野次を飛ばした。
この部屋にいる5人の大人たちの1人で、背の高い小太りの男だ。薄笑いを浮かべ、この喜劇を明らかに楽しんでいると分かる。男は名乗ることをしなかったので、俺は彼の名前を知らない。彼だけではない、俺はアルノーを除いてこの場にいる大人たちの名前を知らない。ただ確信としてろくでもない連中であるとは知っていた。
その証拠に大人たちは誰ひとりとしてエメリヒを止めようとはしない。
「……冗談なんかじゃない。ルフト、お前にゃ悪いが、死んでくれ」
どうして? という言葉は喉につっかえて出てこなかった。
次は俺の番だというわけだ。
まるで悪い夢でも見ているみたいだ。
今にも揺り起こされて夢から覚めそうな気さえする。だが夢と言うにはあまりにもすべてが現実的すぎた。涙でぼやける視界に、硝煙と血の混じりあった臭い、全身の血が流れ去ってしまったような冷たさ、難しい呼吸に息苦しさ、胃のむかつき。
すべてが俺にこれが現実だと突きつけている。
そうか、俺はここで死ぬのか。
エメリヒの答えを得て、俺はようやくそう気付いた。ニコラが撃たれてもまだそのことに気付かなかった。銃口を向けられてさえ、まだそのことに気付かなかった。だがすべては今更だった。
俺の命はエメリヒの指先ひとつで終わってしまう。
じわりと暗い感情が胸の奥から湧き上がってくる。
もしも生まれ変わるようなことがあるのなら、この記憶だけは忘れてなるものか。エメリヒ、お前のことだけは許さない。どんな手段を使っても見つけ出して殺してやろう。
俺がそう誓うのとエメリヒが引き金を引くのは同時だった。
撃鉄が落ちた。
カチンと乾いた音を立て、撃鉄が火打ち石を叩いたが俺は死ななかった。
銃声は無く、代わりに大人たちの笑い声がぱっと弾けた。
「くくくっ、いやあ、笑いをこらえるのに苦労したぜ」
「そう言って、厳粛な雰囲気出してたじゃないすか。『答えてやれよ、エメリヒ』って」
「そりゃよ、空の銃を向けてお互いに超ビビってんだぜ。そんな空気に俺ぁ水差せねぇよ」
「ちげぇねぇっす」
小太りの男とひょろ長の男がゲラゲラと笑いながらそんな会話を交わすのを、俺は呆然と聞いていた。視線は室内を彷徨い、大人たちを通りすぎて正面に立つエメリヒを見た。エメリヒは俺と同じくらい呆然として、手元の銃を見つめていた。
ほんの少し生き長らえたことに、膝から崩れ落ちそうになる。
どっと冷や汗が全身に吹き出した。
死んでいない。
まだ死んでいない。
だがそれがどうしたというのだ。
大人たちはこの余興を止めるつもりはない。
その証拠にひょろ長の男が腰にぶら下げた短銃をエメリヒに手渡そうと引きぬいた。
俺はそれを呆然と見ていることしかできなかった。
俺は――。
だが短銃がエメリヒの手に渡った瞬間に動いた者がいた。
「逃げろ!!」
もはやうめき声すら上げなくなっていたニコラが猛然と起き上がり、エメリヒに向かって突進していったのだ。突然のことにエメリヒは動けなかった。エメリヒだけではない。この部屋にいる誰もがニコラの行動に意表を突かれた。エメリヒはニコラのタックルを受けて床に押し倒される。
「ルフト!!」
ニコラの声に弾かれたように、俺の体は動く。
動いた。
さっきまですくんで動かなかった足が、ニコラの命がけの突進に後押しされるように、その一歩目を踏み出した。
出口側には大人たちが立ち塞がっている。となれば脱出口はひとつしかない。
「逃がすな!」
そう叫んだのは大人たちの誰だったか。誰だとしても俺は名前すら知らない。
ただ窓に向けて全速力で突っ込んだ。
くすんだガラスが木枠ごと割れ、俺の体は中空に放り出される。
一瞬の浮遊感の後、俺の体は背中から石造りの街路に叩きつけられた。
降り注ぐガラス片が体のあちこちを傷つけたが、幸いにして致命傷となることはなかった。
すでに日の落ちた旧市街の街路には人影はない。
俺はとにかく体の向いていた方に向けて走りだす。
その背後で着地音が聞こえ、ほんのわずかな期待を込めて俺は振り返った。
「ニコラ?」
「ざぁんねぇん」
にぃと口の端を歪めて嗤うのは、大人たちの中で唯一の女性だった。
浅黒い肌に桃色の髪が揺れる。
俺は今度こそ前を向いて全力疾走した。
旧市街の街路は無闇やたらに入り組んでいる。迷宮集落の二つ名は伊達ではない。逃げ切れる。一度目線を切ることさえできれば、女は俺を見失うだろう。
しかしすぐ後ろには女の足音。
離れもせず、近寄っても来ない。
それは明らかに獲物をいたぶる狩猟者のものだ。
どんなに逃げても女が自分を見失うことなど無いように俺には思えた。
ならば新市街に向かうしかない。この時間であっても新市街ならば人通りもあるだろう。流石に人前で人殺しを行うほど血迷った相手ではないはずだ。
しかし、女は俺が方向転換したことに気付いたのか、いきなりその速度を速め、俺のすぐ背後に迫ってきた。
「追いかけっこには飽きちゃったわぁ」
ぞくりと背筋を這い上がる悪寒に、俺は前に身を投げ出すように跳んだ。
それでも背中にずきりと鋭い痛みが走る。
街路をごろごろと転がり、女に向き直る。
女はいつの間に抜いたのか、くの字に折れた短剣を手にしていた。
その刀身からぽたりと血の雫が落ちる。
俺が構えたのを見て、女はくすくすと笑った。
「何もできない坊やかと思っていたわぁ。少しは楽しませてちょうだいねぇ」
袈裟懸けに刃が振り下ろされてくる。
――速い!
――想像していたのよりずっと鋭い斬撃!
受け止め損なえば肩口から肋骨ごと断ち切られるだろう。銀色の刃がぎらりと禍々しく月明かりを反射する。
それと同時に俺は腰の後ろから短剣を引き抜いた。最後の最後まで抜かなかったのは、こちらが武器を持っていることを知られたくなかったからだ。警戒はされたくない。戦い慣れしているであろう空賊に俺が付け入る隙があるとすれば、俺のことを単なる浮浪児だと侮っているだろうそこにしかない。
刃と刃が交錯し、鋼のぶつかり合う鈍い音が夜の路地に響いた。空賊がぎょっと目を剥いた。
彼女の剣を受け止めたのは俺の短剣だった。刃の手元側に櫛状の切込みが入った、剣を受け止めるための剣。デーゲンブレッヒャー。剣戟の重みで、または受け手の力で、絡めた剣をひねり落とす。または細い剣なら折ってしまう。
俺は受け止めると同時に力任せにデーゲンブレッヒャーを引いた。だが女のほうがすばやく剣を引いて、俺の剣は空を切った。
「お、おっー、おっどろいたぁー。おどろいたわー。あっはっは」
さっと距離を取った女は驚いた驚いたと言いながらケラケラ笑った。
「いいね、キミすごくいいね。逃げる時の手際といい、今の一撃を凌いだことといい、すごくいい。さあ、次はなにを見せてくれるのかな?」
俺は歯を噛み締めた。
いくら若い女に見えても相手は空賊、浮浪児の俺と比べると戦闘経験が違いすぎる。正面から戦えば勝ち目は無い。
女は剣を前に半身に立つ。剣士として標準的な構えだが、それゆえに隙がない。一方、俺はデーゲンブレッヒャーを腰の後ろの鞘に収め、両手をローブの中に隠す。次の獲物を知られないように――、と、相手に思わせるように。
実際のところは俺の武器は投げナイフと、このデーゲンブレッヒャーしかない。だが、だからこそ、その事実を相手に知られるわけにはいかない。
「一体何が目的だ、空賊」
「――悪いことじゃないかな? 空賊的に」
「ふざけんな!」
右手の指先はデーゲンブレッヒャーに、左手の指先は投げナイフにかかっている。いつでも、どちらでも、両方でも引き抜ける。だが切っ先を結ぶ前にどうしても知りたかった。自分たちは一体何に巻き込まれたのか。エメリヒは一体何を知ったのか。
「金じゃないはずだ。大麻でもない。ブロッケンブルクだって? あんなのは道楽者が遊びで泊まりにくるところだ。そんなところで一体何をしようってんだ」
「どうでもいいよ、そんなことは。そっちからこないならこっちから行くよ。いいか、歯を食いしばってしっかり構えな。さあ、唸りを上げろ!」
女がゆっくりと剣を振り上げる。それはあまりにも緩慢な動作で、あまりにも隙だらけだった。
だからこそ俺は迷った。ここで攻撃してもいいものかと疑問を抱いたのだ。間違いなく女は隙だらけだったのに、そこを攻撃することができなかった。
次の刹那、女は俺との距離を一歩で踏み抜いた。片足のバネだけで実に5メートルを跳んだのだ。そのまま細剣が振り下ろされる。対応を考える暇もない。俺は再びデーゲンブレッヒャーを抜いて刃を受け止める。
ばつん――、と皮の裂ける音がした。
「――え?」
剣の振り下ろされた左の肩口から、右のわき腹に向けて、まるで焼けた鉄を押し当てられたような痛みが走り抜けた。剣は確かに受け止め、しかも絡め取っているのに!
腕から力が抜けて細剣をひねり落とすところまで持っていけない。それどころか女は受け止めたデーゲンブレッヒャーごと俺を両断する勢いで力を込めてくる。
俺は自分の体がどうなったかを確かめることもできず、女と刃の押し合いをするしかない。
目の前にある女の顔は相変わらず状況にそわない満面の笑い顔だ。
「わーお、致命傷を避けたね。ねえ、どうして不可視の攻撃が来るって分かったのさ?」
分かってなどいなかった。だが剣を受け止める瞬間に身を半分引いたのも事実だった。女が飛び込んできたとき、刃が振り下ろされたとき、刃の向こう側になにかが見えた気がして、とっさにそれを避けようとしただけだった。
まったく理知的でない。
単なる勘だ。
「魔法使い……」
遅れて理解が追いついてくる。
剣戟とは別の不可視の攻撃、それらを俺にも理解できる形で説明しようとするとそれしか残らない。
魔法使い。
つまり魔法を使う能力者。
ヒト以上の存在。
俺の知識ではその程度のことしか分からない。ただ浮遊船が普及する前は、魔法使いが戦争を左右していたという話は知っている。戦争の主役が浮遊船に移り変わった現在においても、魔法使いが戦場において求められる存在であることは変わっていない。兵士としてではなく、兵器として――。
つまり今の俺は大砲とつばぜり合いをしているようなものだ。
――そりゃ、ないぜ。
わずかにあった勝てる可能性が、まるで朝もやのように消えていく。俺はそれが単なる気のせいだったということに気づかざるを得ない。
「気づいて、どうする?」
「倒す」
もちろん虚勢だ。
だが虚勢を張らなければ、腕にこもる力が鈍る。
確認はできていないが、肩からの傷はかなり出血している。
女は致命傷ではないといったが、決して浅いとも言っていない。このまま時間が過ぎれば出血による疲弊で負ける。死ぬ。
「倒してやる!」
叫んで俺は左手をデーゲンブレッヒャーから離した。
右手一本では女の剣圧に耐え切れず、細剣が左の肩に食い込んだ。歯を食いしばり、痛みに痺れあがる左手で投げナイフを抜いて女の胸に向けて突き上げる。
突き上げたつもりだった。
どん、と鈍い衝撃が体を抜けて、次の瞬間には地面に叩きつけられている。目の前がぐしゃぐしゃにゆがみ、体中があちこち痛んでいるが、具体的にどこが痛いのかが分からない。そもそも自分がどんな体勢になっているのかが分からない。
「ごぶ……」
何かをしゃべろうとしたのに、口から漏れたのは異音と、生暖かく鉄錆びた味のする液体だけだった。
「また致命傷を避けたね。すごいすごい」
遠く耳鳴りのように女の声がする。視界の端に見えた女ははるか何メートルも遠くにいるように見えた。
例の不可視の攻撃を受けて、横なぎに吹っ飛ばされたのだと気づく。角を曲がった先の壁に叩きつけられたのだ。
俺は自分の体を見下ろした。やはり左の肩口から右のわき腹にかけてばっさりと切られている。出血で胸から下はべったりと赤く染まっている。これだけ出血していても気づかないものかと、俺は愕然とする。
そして左腕はぐしゃぐしゃに折れ曲がり、もはや使い物になりそうにない。おそらくはこの腕で女の魔法を受け止めた形になったのだろう。でなければ致命傷を受けていたか、あるいは即死していたに違いない。
だが即死していないということに一体どれほどの意味があるというのか。痛みはなく、意識はまるで靄がかかったようにはっきりしない。たとえ致命傷でなかったところで、もはや戦う力などどこにも残っていない。
心の奥底から、真っ黒い何かが体中に染みあがってくる。それはあまりにも明確な死のイメージ。自分はここで死ぬという確信。
――嫌だ。死にたくない。死ぬのは嫌だ。死ぬのは怖い。死にたくない。
逃げなければ。
逃走の意味合いは先ほどまでと明らかに変化する。さっきは突然の状況から自身を立て直すための一時撤退だった。だが今はとにかくこの場から逃げ出したいだけだ。この魔法使いの手から逃げ切れるのであれば、なんでもよかった。
右手を地面についた。崩れた膝を立てた。胃の中から吐き出せるものを全部吐いて、息を吸い込んだ。咳き込み、涙を拭いて、立ち上がる。膝ががくがくと揺れる。
「まだ立てるんだ。立ち上がるんだ。寝てりゃいいのに、そこまでキミをかきたてるものはなに?」
――嫌だ!
吹き飛ばされてできた距離を無駄にできない。
走る。走り出す。この女に死に様を見られるのだけは嫌だ。足がもつれる。立て直す。エメリヒを殺すまでは生き延びる。痛い。鉄の味が口の中に広がる。ここはどこだ。
その瞬間、すべてが明晰になる。これまで道順を把握しているだけだった迷宮集落が俯瞰的に理解できる。女は俺の後を少し遅れてついてきている。それはもはや狩猟者ではなく、ただの嗜虐者だ。俺がどこで力尽きるかをただ観察しているに過ぎない。
ならば、これは予想できたか?
俺はとある建物の影に入る。呼吸を整える。浅く、短く、静かに。デーゲンブレッヒャーは落としてきてしまった。残っているのは一本の投げナイフだけだ。それを構えてじっと待つ。女の気配がやってくる。角を曲がる。
やってくるのは剣戟。待ち伏せは見抜かれていた。重い剣を投げナイフで受け流す。そのまま投げナイフを捨て、女の体に掴みかかる。女の目が驚きに見開かれる。
俺が立っていたのは水路の縁にある細く、小さな足場だ。子ども1人がやっと立っていられる程度の小さな足場。女の足が一歩前に出るが、踏みしめるべき足場はそこにはない。
落ちる。
俺は女と絡み合ったまま細い水路に飲み込まれて意識を失った。