第六話 一人きりの山の中で
夏を迎える頃になると、本格的に生存術の訓練を開始した。
具体的には山籠りだ。
「今度は一週間くらい戻らないつもりです」
「本当に大丈夫? 忘れ物はない?」
「何かあったらすぐ戻ってくるんだよー」
「大丈夫ですよ。2、3日ならもう何度もやったじゃないですか」
そう言いつつ自分の荷物を再確認する。
これで忘れ物でもしていて、すぐ家に戻るなんてことになったら恥ずかしいもんじゃない。
――大丈夫、忘れ物はない。
「じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
2人の声が綺麗に揃って聞こえた。
さて、今回の目的は本格的な旅の予行練習だ。
実際に山を越えて戻ってくる。
持ち込むのは狩猟道具だけで、食料は一切持ち込まない。
つまり食べられる植物を採集するか、狩猟を成功させないかぎり食べ物にはありつけないということだ。
幸いなことに水のほうは魔法でなんとでもなる。
このことはマリア王女殿下に感謝しかない。
向かう方角は七塔都市のある西方だ。
少しでも旅程を下見しておきたいという意味もある。
森に入った俺は早速食べられる野草などを採集しながら、森の中を西に向けて進んだ。
途中で野うさぎを一匹、弓矢で仕留めることに成功してとりあえずの肉も確保する。
木に止まった野鳥を狙ってみたりもしたが、こちらはうまくいかなかった。
弓矢はまだ練習が不足しているらしい。
とりあえず矢だけは回収して先に進む。
山を登っているうちに日が暮れだす。
俺はそこらに落ちている枯れ葉と枯れ枝を集めてきて、意識を集中させた。
水の魔法はかなり慣れてきたが、火を出すのはまだあまり上手くない。
それでも十分ほど炎をイメージし続けると、枯れ葉の中に火が灯り、枯れ葉へと燃え移っていった。
たき火ができあがると、今度は背嚢から鍋を取り出して、魔法で水を満たし火にくべる。
お湯が湧くまでの時間に野うさぎを解体してしまおう。
皮を剥ぎ、内蔵を取り除き、骨から肉を外していく。
骨の方にはスープの出汁になってもらうことにして鍋の中に投入する。
肉はどうするか迷ったが、生木の枝から削りだして木串を作り、それに刺して直火で焼くことにした。
明日の為に半分ほどは生肉で残しておく。
それから道中で取った野草を沸いた鍋に投入していく。
味については二の次だ。
出来上がった野うさぎの串焼きと、野草のスープで腹を満たす。
味は最悪だった。
仕方がない。
塩も香辛料も何も無いのだ。
それでも腹は膨れた。
腹が膨れると眠くなる。
睡眠、それが一人旅の最大の難点だった。
たき火を焚いて獣避けをしても、ゴブリンのような多少なりとも知性を持った敵性生物からすれば、逆に目印にもなりかねない。
だから俺は夕食のためにたき火を焚いた地点からは移動を開始した。
そこら中に生えている木々を眺めながら歩を進める。
日が完全に暮れてしまうまでに寝床を見定めなければならない。
やがて俺が3人いても抱えきれないほどの巨木に、いい感じの枝が伸びているのが見えた。
石を結わえ付けたロープを投げつけて枝に引っ掛け、ロープに全体重を預けてみる。
枝は小動もしない。大丈夫だ。
背嚢を背負ったまま、ゆっくりと枝に上がり、ロープを引き上げる。
高さは5メートルほどだろうか。
落ちて運が悪ければ怪我をするだろうが、地面で無防備に眠るよりはよほど安全なはずだ。
背嚢を枝の付け根あたりに押し付けて固定してから、ロープで枝と自分の腰を括りつけた。
これで最悪落ちても宙吊りで済む。
それから枝を上から抱きかかえるようにして体を横たえた。
不自然な姿勢だ。
仰向けで寝る癖が付いているので、うつ伏せのこの体勢は苦しいとさえ言える。
しかし枝の上で寝るにはこれが一番には違いない。
他の選択肢はない。
なにしろ独りきりなのだ。
かわりがわりに見張りを立てることもできないし、眠れない夜を雑談で紛らわすこともできない。
独りきりでなんとかしなくてはいけないのは、エメリヒに裏切られて以来のような気がする。
あの時も最終的にはなんとか1人でやりきった。
だから今回だってなんとかなるはずだ。
根拠の無い自信にすがって、今は眠ろうとする。
かと言って完全に寝入ってしまうのも考えものだ。
木の上は比較的安全だろうが、完全に安全だとも言えない。
木に登る野生生物は多くいるし、その中には敵対的なものもいるだろう。
だから休息はとりつつ、完全に寝入ることはしない。
意識は半分、いや、四分の一ほど覚醒させておいて、目は閉じていても、耳はすませておく。
左腰に帯びているナイフのことも意識からは外さない。
いざというときは左手で抜くことになるだろう。
右手で抜くには抱きかかえている木の枝が邪魔だし、一旦完全に起き上がらなければならない。
何かに襲われた場合は、一も二もなくロープを解いて飛び降りることになるだろう。
下は柔らかい森の地面だ。
さっきは運が悪ければ怪我をすると言ったが、逆に言えば運が良ければ怪我せずに降りられるということでもある。
でもできれば飛び降りるような事態にならないのが一番いい。
このまま何も起きなければそれが一番だ。
かくして俺の望み通り何事も無く夜が明けた。
きちんとした眠りは取れず、頭は多少ぼんやりとしているが、体力は幾分か回復している。
少なくとも動ける。
俺は背嚢を背負うと、ロープを解いて垂らし、木の枝から降りてロープを回収した。
さあ、2日目だ。
昨日残しておいた野うさぎの肉と野草で朝食を済ませた後は、引き続き山を登っていくことになる。
予定では今日中に山の稜線にたどり着いて、下りに入ることになっている。
進むのはまっすぐ西、と、思える方向。
昨日と同じように採集をしながら、獲物を探す。
しばらく進んだところで鹿を見つけた。
距離は100メートルほどある。
とても矢は届かない。
こんな時はとにかく確実に矢が当たる距離まで接近することだ。
鹿ほどの大きさの標的で、今の俺の腕前なら20メートル以内までは接近したい。
しかしその前に気付かれては水の泡だ。
だから気付かれないように注意深く移動する。
鹿は何かを食んでいる。
木の葉か、野草か、何か。
なんでもいい。
食べることに夢中になって動かないでいてくれればそれでいい。
50メートル。
弓を構え、矢を用意するが、狙いをつけたりはしない。
40メートル。
木の陰から木の陰へ、足音を立てないように気を付けながら移動する。
30メートル。
焦ってはいけない。
これまで通りのことを続けるだけだ。
鹿は相変わらず野草を食むことに夢中になっているように見える。
20メートル。
確実を期すならもう少し近づきたい。
息を殺し、足音を消して、次の木陰へ。
ここ、ここがいい。
鹿の頭部は別の木の陰になっていてこちらから窺うことができないが、向こうからも俺の姿を見つけることは困難だろう。
一方、鹿の胴体ははっきりと見えている。
射線が通っている。
俺は弓を構え、矢を引き絞り、――放った。
ほぼ水平に飛んだ矢は、鹿の腹部に突き刺さる。
鹿はビクッとその場で跳ね上がり、高い声で鳴いた。
しかしその場から逃げ出す様子はない。
おそらく何に襲われたのか分かっていないのだ。
それで逃げるに逃げられないでいる。
そんな鹿に俺は容赦なく2射目を放った。
鹿の背中に矢が突き立ち、流石に鹿もどちらから襲われているかくらいは理解したらしい。
踵を返して、俺とは反対方向に逃げようとする。
しかしその動きは緩慢だ。
放っておいてもいずれ力尽きるだろう。
俺は止めていた息を吐き出して、よろよろと逃げる鹿を追いかけた。
第七話の投稿は6月27日18時となります。




