第五話 春節祭
その夜、俺は大振りのナイフを枕元に置いて寝床に入った。
いつもならとっくに睡魔に屈しているだろう時間になっても中々寝付くことができない。
寝返りを繰り返しながら、俺はかつて見たゴブリンの姿を思い出す。
人間の子どもに似た、しかし醜悪なその怪物は、フィーナ様や魔法使い、そして船乗りたちの前にあっさりと撃退されていた。
フィーナ様の言によれば俺でも一対一では遅れを取ることはないという。
だからさほど強い魔物というわけでもないのだろう。
今はもう自警団が外周街の警備に当たっているはずで、過去の襲撃の例から言っても自警団が間に合いさえすればゴブリンによる被害は最小限に抑えられるはずだ。
だからと言って被害がまったく出なかったということではない。
自警団の目を盗んで襲われた家があったこともある。
だからいざというときは俺がヴァレーリヤさんとルフィナさんを守らなければならない。
枕元のナイフに手を伸ばす。
アインホルンで与えられた俺用の長剣に比べると遥かに心もとない。
だがそれ以前はナイフが俺の主な武器だった。
ゴブリンに遅れを取るはずがない。
根拠の無いその考えを今は信じる他ない。
眠れない夜が過ぎていく。
コンコン――と、戸がノックされる音で俺は飛び起きた。
いつの間か眠ってしまっていたのだ。
慌てて枕元のナイフを抜き去り、寝床から転がり落ちるように臨戦態勢を取る。
「ルフトぉ、朝だよー」
寝ぼけた声はルフィナさんのものだ。
俺はバクバクと高鳴る心臓を胸の上から押さえ、ゆっくりと深呼吸する。
すでに明るい、ということは朝が来たということだ。
「ごめん、寝坊した」
ナイフを鞘に戻し、枕元に戻して、戸を開ける。
「わぁ、目の下すごいクマだよ。もしかして眠れなかった?」
「あんまりね。ルフィナさんは元気だね」
「えへへ、お姉ちゃんと一緒に寝たからね。怖かったんならルフトも誘えば良かったね」
「そうしても良かったかもね」
その方がより確実に2人を守ろうとできたはずだ。
「さっきおじさんが来てね。今日の狩りは中止だって。昨日は結局ゴブリン出てこなかったみたい」
ルフィナさんの話によると、昨夜は自警団が警備に当たっていたが結局ゴブリンが現れることはなく、今日は森に入って捜索を行うのだそうだ。
そのため今日は女子どもが採集のために森に入らないよう、注意するために回ってきたらしい。
「朝ごはんできてるから支度できたら来てね」
そう言ってルフィナさんは向こうへ行く。
部屋に残された俺は、手をおわん型にして、その上に魔法で水を生み出す。
それで顔を洗って、寝間着から着替えると朝食を食べるために部屋を出た。
朝食の席ではヴァレーリヤさんからも目の下のクマについて心配された。
今日は寝ていたら? と提案を受けるが、そういうつもりは毛頭ない。
昨日獲ってきた鹿の肉の処理もあるし、エルネ=デル=スニアに落ちてきてからすっかり遠ざかっていた剣の訓練も再開したい。
場所があれば弓の訓練もしたいし、魔法の練習にとやりたいことは山積みだ。
結局それらのことを忙しくこなしているうちに夕刻になった。
残念ながら弓を練習できるような場所は無かったので、それ以外だ。
森に入っていた自警団が戻ってきたようで、ザハールさんが家にやってきた。
「ゴブリンが居た痕跡は見つけたんだが――」
歯切れ悪くザハールさんが報告してくる。
森に入った自警団はゴブリンたちが野営していたと思われる痕跡を発見したものの、ゴブリン自体は発見することができなかった。
野営の規模から言ってゴブリンの数は十匹を超えることはなさそうだとのことだ。
「いつもなら自警団が出ていても連中は襲ってくるもんだが、今回はそうじゃなかった。数も少ないし、なんというか、引き際が良すぎるのが気にかかる」
とにかくゴブリンたちを見つけ出して狩らない限りは女子どもが森に入るのは危険過ぎるということで、しばらくは自警団が森を捜索するらしい。
ということはその間は狩りもお休みということだ。
「ゴブリンが見つからなかったらいつまで続くんですか?」
「長くても10日がせいぜいだな。それ以上仕事の手を空けてられないからな。食料的に困窮する家も出てくるだろうし」
「家は大丈夫ですよ。保存食ならたっぷりありますから」
「悪いが困った家が出てきたら分けてやってくれ」
「ええ、もちろんです」
ヴァレーリヤさんが胸を張って言う。
この人のことだから、困っている人が居たら手を差し伸べないという選択肢は無いに違いない。
結局それから10日経ってもゴブリンが見つかることはなく、なし崩し的に自警団は解散され、女子どもが森に入ることも解禁された。
俺も再びザハールさんについて森に入るようになり、弓の訓練も再開された。
10メートルだった的までの距離はやがて20メートルになり、30メートルになった。
その頃には森に残っていた雪もすっかり溶け、すっかり春になっていた。
外周街ではささやかながらも春節祭が行われ、それとともに俺は1つ歳を重ねた。
俺とルフィナさんは他の子どもたちと共に踊り、ヴァレーリヤさんはこれを期にと次々と現れた求婚者をばったばたと切り捨てていた。
そんなことがあった日の夜。
「お姉ちゃんはなんで結婚しないの?」
「そうね、ルフィナが結婚したら、私も結婚しようかしら」
「えー、ルフィナが結婚できるようになるのまだ3年も先だよ。お姉ちゃん行き遅れになっちゃうよ」
「そんなこと心配しなくていいの。あなたはあなたの幸せだけ考えなさい」
するとルフィナさんがふすーと鼻息を荒くしていった。
「いっつもそう! お姉ちゃんは自分のことは後回し! 今日も楽しいお祭の日だったのに、お姉ちゃんはちっとも楽しそうじゃなかった! お姉ちゃんこそ自分の幸せを考えてよね!」
そして自分の部屋に駆け込んでガタンと戸につっかえ棒でも立てかけた音がする。
後に残されたヴァレーリヤさんはおろおろとルフィナさんの部屋と俺の顔を繰り返し見つめて言った。
「私、なにか悪いことを言っちゃったかしら?」
「どうでしょう? ルフィナさんはただヴァレーリヤさんのことが心配なんじゃないですか?」
「そんなルフィナが心配なんてすることじゃないのに」
「そんなことないでしょう。ルフィナさんにとってヴァレーリヤさんはたった1人の家族なんです。心配して当たり前だと思います」
「でも、本当に私はまだ結婚する気はなくて」
「いや、ルフィナさんが怒ったのはそこじゃないですよ。俺から見てもヴァレーリヤさんはなんというか他の人に尽くしすぎるような感じがします。ヴァレーリヤさんこそもっと自分のことを考えてもいいんじゃないですか?」
「そう言われても、私、どうしたらいいのか。今でも沢山の人に助けられて生活がなんとかなっているのに、自分の幸せと言われても」
「そんなに難しく考える必要は無いんじゃないですか? ルフィナさんだってほとんど癇癪のようなものでしょうし、明日になったらいつものルフィナさんだと思いますよ」
「そう、そうね。ありがとう。ルフト。あなたがいてくれて助かったわ」
「いいえ、ほとんどルフィナさんが言ったことでしたけどね」
「それでもありがとう。それからあなたも自分の幸せを考えないとね」
「――はい」
反射的に固まってしまい返事が遅れてしまう。
自分の幸せとはなんだろうか? と考えてしまったのだ。
今が幸せかと問われたら、やはり俺は返事に戸惑うだろう。
衣食住の足りた生活に不満は無い。
しかし不満が無いということは決して幸せであるということと同義ではない。
かつて幸せだった記憶はある。
それは衣食住すべてに事欠いていたが、エメリヒやニコラがいて、いつか町を出るのだと夢を見て生きていた頃だ。
そしてエメリヒに裏切られた後、マリア王女殿下に救われてわずかばかり過ごしたアインホルンでの日々。
厳しい課題を課せられていたが、あの時間も幸せだったと思い返すことができる。
では、今は?
アインホルンの消息を知らなければならないという切迫感はある。
しかし単純に、この優しすぎる姉と、ちょっかいの過ぎる姉の2人に囲まれ、ザハールさんから森での生き残り方を学ぶ日々は楽しく、幸せであると言えるだろう。
「大丈夫です。俺は今、幸せみたいです」
「それは良かったわ」
ヴァレーリヤさんはいつものように微笑みを見せる。
だが、どうしてだろう。
それが俺にはとても儚いものに見えたのだった。
第六話の投稿は6月26日18時となります。




