第一話 遥か遠いエーテルの海の底で
痛みで目が覚めるのには慣れていると思っていた。
幼い頃から殴られてばかりいたし、最近は筋肉痛で目覚めることもしばしあった。
だから大抵の痛みには慣れてしまっているとばかり思い込んでいた。
しかしこの時俺を目覚めさせた痛みは過去に記憶の無いもので、俺は歯を食いしばって痛みに耐えなければならなかった。
歯が割れるのではないかと思うほど食いしばり、手に力を込めようとしてちっとも力が入らないことに愕然とした。
体をほんの少しでも動かそうものなら、激しい痛みはさらに波を打って俺を襲った。
気の遠くなるような痛みの中、俺は何が起こったのかを必死に考えた。
最後の記憶はアインホルンの上での戦いだ。
俺は空賊の女と打ち合っていて、そして転落した。
アインホルンから落ちた。
そこで記憶は途絶えている。
ではここはどこだ?
揺らめく灯りのある小さな部屋の中だ。
司祭様の部屋で目覚めた時のことを思い出す。
あの時も痛みで目覚めたが、その程度はあの時とは比べ物にならない。
俺は呻きながら観察を続ける。
俺が寝かされているのは藁を集めて造られた粗末な寝床だ。
床が揺れている感じはしないから浮遊船の上ではない。
つまりは地上にいるということになる。
それもおそらくは境界面の下、エーテルの海の底のどこかだ。
激しい焦燥が身を焼いた。
アインホルンはどうなったんだ?
マリア王女殿下は?
フィーナ様やフリーデリヒさんや他の士官、士官候補生、船乗りたちはどうなった?
とにかくじっとしていられなくて身を起こそうとした。
激しい痛みが全身を襲い、耐え切れずに叫び声を上げた。
耐えられなかったのは痛みだけではない。
何も知らずにいることが怖かった。
結末を知らなければならないと思った。
そのためならこんな痛みなどなにするものか。
しかし現実として体は動かず、ただ痛みだけが体を苛む。
悔しさに涙があふれた。
こんなことで泣くなんて子どもみたいで嫌だったが、あふれるものを押しとどめることはどうしてもできなかった。
ただせめて声を上げて泣くことはすまい。
溢れ出しそうになる嗚咽を痛みと共に噛み砕く。
それは唸り声となって現れた。
仰向けで身動きできず、歯を剥き出しにし、涙を溢しながら、唸り声を上げる俺は滑稽な獣のようだっただろう。
不意に涙でぼやけた視界に何かが映り込み、額の上に冷たいものが乗せられた。
「――――♪」
枕元で誰かが歌っている。
言葉は分からなかったが、それが歌であることは間違いがなかった。
それはゆっくりとしたリズムで、美しいソプラノの声だった。
ほんの少し気が紛れた。
痛みは相変わらずとしてそこにあったが、身を焼きつくさんとする焦燥感は和らいだ。
誰かがここに居て、俺を気にかけてくれている。
その事実に感謝する余裕すら生まれた。
そうだ。
俺は生きている。
痛みはともかくとして生きているんだ。
あの高さから落ちたのだから命があっただけでも幸運なのだ。
だから今は少し休もう。
アインホルンがどうなったのかをどれだけ気にかけても、この遥か遠いエーテルの海の底でできることなどなにもないのだ。
それでも悔しいものは悔しくて、溢れる涙は止まらなかった。
いつの間にか俺は眠ってしまっていたらしい。
再び痛みによって強制的に目覚めさせられてようやくそのことに気がつく。
相変わらず体は動かなかった。
激しい痛みも相変わらずだ。
ただあれほど身を焼いた焦燥感はずいぶんと和らいでいた。
諦めがついたわけではない。
ただ今の俺にはできることがないと悟っただけだ。
まずは体が動くようにならなければならない。
そうしたら次はエーテルの海の上を目指す。
幸い空図は頭の中に残っている。
エルネ=デル=スニアからもっとも近いエーテル海上の町は七塔都市だ。
アインホルンの足で20日ほどの距離。
自分の足で歩くとなるとどれほどかかるか想像もつかないが、アインホルンの消息を探るならば、そこに向かうしかないだろう。
きっと長い旅になるはずだ。
そんな長い旅をするだけの知識も技術も俺には無い。
だから体が動くようになったらまずはそれを身につけなくてはならないだろう。
俺がそんな風に思いを巡らせていると、不意に部屋の戸が開き、そこから1人の少女が顔を覗かせた。
俺より幾分か年上に見える少女の頭には犬か、あるいは狼のような耳がピンと立っている。
獣人だ。
とすると、予想はしていたがやはりここはエーテルの海の底なのだろう。
俺と目が合うと少女は何やら喚きながら扉の向こうに駆けて行った。
何を言ってるのかまったく分からなかったがエルネ=デル=スニアの言葉と同じであろうと推測はできる。
続いて戸から姿を表したのは、俺よりかなり年上に見える、やはり犬か狼の耳を持った女性だった。
「――――」
何か話しかけてくるが、何を言ってるのかはさっぱり分からない。
ただその声には聞き覚えがあった。
前に目覚めた時に俺の傍にいて歌を歌ってくれた誰か。
それがこの女性だ。
『言葉、分かりません。私、名前、ルフトです』
痛みに耐えながらなんとかそれだけを言う。
ウルスラさんから少しだけでも言葉を学んでいて良かった。
向こうの言うことはさっぱり分からないが、こちらの最低限言いたいことは伝わったはずだ。
2人は驚いたように目を見開き、2人で何かを少し話してこちらに向き直った。
そして俺にも分かるようゆっくりした発音で話しかけてくる。
『私の名前はヴァレーリヤ』
『私の名前、ルフィナ』
とりあえず言葉は通じたようだ。
年上の女性がヴァレーリヤ、少女のほうがルフィナという名前らしい。
2人とも同じ薄茶色の髪の色をしているところからして姉妹なのだろう。
その後も2人はなんやかんや分からない言葉で話しかけて来ながら、手振り身振りで意思疎通を図ろうとしてくる。
その仕草から食事を与えてくれるような様子だったので、首を縦に振る。
2人は部屋を出て行って、やがて木皿を持って戻ってきた。
ヴァレーリヤさんのほうが俺の背に手を回して体を起こそうとしてくれるが、激痛が走り思わず呻く。
俺の額に滲む脂汗に気付いたのだろう。
ヴァレーリヤさんは俺を起こすのを諦め、ルフィナさんから木皿を受け取ると、スプーンでスープをそっと寝たままの俺の口に運んでくれる。
「熱っ!」
思わず口をパクパクさせると、ルフィナさんが慌ててカップに入った水を俺の口に運んでくれる。
かなり溢れてしまったが、口の中の熱さは無くなった。
ヴァレーリヤさんが何か言い、それからはスプーンにすくったスープに息を吹きかけて冷ましてから口に運んでくれる。
そうして長い時間をかけて食事を終えると、ヴァレーリヤさんがスプーンを指差して何かを口にした。
同じ発音を返すと、ヴァレーリヤさんが頷き、今度は木皿を指差してまた何か言う。
どうやら言葉を教えてくれているらしいと察した俺は、痛みに耐えながら、彼女の言葉を繰り返すのだった。
状況から言うと俺の手足は折れてしまったようだ。
当て木が添えられ、きつく縛られている。
痛みから類推するに、他の部分の骨もやられているに違いない。
それでも浮遊船から落ちたにしては軽症で済んだというべきなのだろう。
どうして助かり、どういう経緯でヴァレーリヤさんたちの世話になることになったのか、さっぱり分からないが、とにかく助かったことに感謝しよう。
今は体を回復させることが最優先だ。
情けないことに起き上がれない俺はトイレに行くことすらままならない。
すべてヴァレーリヤさんに介助してもらわなくてはならなかった。
それからヴァレーリヤさんかルフィナさんがいるときは言葉を学び、2人がいないときには寝床の脇に置かれたカップの水を魔法で熱したり冷やしたりする練習に費やした。
数週間が過ぎ、ようやく体が起こせるようになる頃になると、片言ながらもヴァレーリヤさんたちと意思疎通もできるようになり、また魔法のほうもアインホルンに居た頃には考えられなかったほどの進展があった。
今ではカップの水の温度は思うがままだ。
これは大した進歩ではないだろうか。
俺がここに運ばれた経緯も知ることができた。
どうやら山に入った狩人が、雪の中で倒れていた俺を見つけて運んできてくれたらしい。
そして女手の余っているヴァレーリヤさんの家に運んできたようだ。
らしい、とか、ようだ、とか、推測になるのはまだ言葉がちゃんと通じているか怪しいからだ。
その狩人の男性も俺を見舞いに何度も顔を出してくれた。
ザハールという名前の彼によると、山の上にいた浮遊船はとっくの昔に姿を消したらしい。
アインホルン側が勝ったのか、空賊側が勝ったのかは分からないが、少なくとも俺の捜索に手をかけるつもりはなかったようだ。
もうさらに数週間が過ぎる頃には当て木も外れ、体も動かせるようになった。
もちろんもうトイレも1人で行ける。
リハビリも兼ねて何か手伝えることはないか聞き出すと、雪かきを手伝って欲しいとのことだった。
エルネ=デル=スニアは雪の深い国だ。
女性2人で住んでいるこの家では確かに雪かきは重労働だろう。
快諾して、ハシゴで屋根に登り、スコップで雪を落としていく。
すっかり筋肉の衰えた体には酷な仕事だったが、失われた時間を取り戻すにはちょうどいい仕事だとも言えた。
そうして外で雪かきをするようになると周辺の住民とも知り合うようになってくる。
最初こそひどく警戒されたが、こちらが片言で話しかけると、彼らは徐々に警戒を解いていってくれた。
家を出てすぐに分かったことだが、ここはエルネ=デル=スニアの中でも外周街、塀の外側であるようだ。
彼らの話によると、中で家を買えない貧乏人は塀の外に住むしかないらしい。
そして塀の外側では度々魔物の襲撃があって、それでよそ者には過敏になっているらしい。
特に獣人でない俺はどちらかというと見た目がゴブリンに近く、より警戒されたようだ。
アレと似ていると言われるのは心外だったが、彼らの基準からそうなるのだろう。
そうして外周街の人々とも親交を深めつつ、日々はあっという間に過ぎた。
季節は春になろうとしていた。




