第十三話 実力の差
マリア王女殿下の部屋を退出した俺は真っ直ぐに士官候補生の部屋に向かった。
フィーナ様に木剣で一撃入れなければならない試練のこともあったが、それよりもまずフリーデリヒさんに謝らなければならないと思ったからだ。
士官候補生の居室はあまり環境の良くない船倉の近くにある。
つまりは境界面より下側、エーテル海の中ということだ。
奴隷の船員たちが暮らす火砲甲板よりさらに下。
廊下を歩くのにもランプの灯りが必要だ。
とは言っても士官候補生の部屋には何度も出入りしている。
フリーデリヒさんから読み書きを習っているのも、その士官候補生の部屋だからだ。
ノックをして部屋に入ると、フリーデリヒさんは本を読んでいた。
ドリスさんとヨハンナさんはカードで遊んでいたが、俺が入ってくるのを見て、ささっとテーブルの上を片付けた。
いや、俺が、ではなく、その後ろからついてきたフィーナ様を見て、だろう。
フリーデリヒさんも、他の2人もさっと立ち上がり、フィーナ様に敬礼する。
「楽にしていい。いつものように私は部屋の外に出ていよう。彼が何か粗相をしでかしたら大声で呼ぶように」
「はいっ!」
そんなわけで俺の手からランプを受け取ったフィーナ様が部屋の外に出て扉を閉じると、部屋の中にようやく弛緩した空気が戻った。
「あー、びっくりした。最近はフィーナ様が部屋に入ってくることはなかったから油断してたよ」
「いつもより剣呑な雰囲気だったね。王女殿下のところで何かあったのかい?」
ヨハンナさんに聞かれたので、俺はマリア王女殿下から出された試練について説明した。
次の寄港地までにフィーナ様に一撃を入れなければならない。
できなければ他の船に士官候補生として紹介はしない。
それを聞いた3人は程度こそ違えど、呆れたような表情になった。
「そりゃ、まあ」
「うわぁ……」
「それで馬鹿正直にやりますって言ったわけ?」
「あの場で私に拒否権なんてあるわけないじゃないですか」
フリーデリヒさんは大きくため息をついた。
「それじゃ私の授業はもう終わりでいいわね。読み書きなんかに時間を費やしている場合じゃないでしょう」
「いえ、フリーデリヒさんさえ良ければ続けて欲しいと思っています。たぶん、マリア王女殿下はこれまで努力してきたことを続けた上で、フィーナ様に一撃を入れろと仰っているのだと思うんです」
「それこそ無茶に思えるけど、ルフト士官候補生がそれでいいなら、私は構わないわ。あなたがどうなろうと私の知ったこっちゃないしね」
「ありがとうございます! その、授業を続けてくださることだけでなく、私の命を救って頂いて、感謝しています。それから不名誉な渾名の原因になってすみませんでした」
フリーデリヒさんは俺の謝罪を聞いてたっぷり10秒ほど固まった後、ぽすんと自分のチェストに腰掛けた。
「……王女殿下から聞いたのね。別に謝ることじゃないわよ。私はただ自分が情けないだけ。あなたを嫌っているのも個人的な感情よ。態度に出るなんて子どもみたいで悔しいわ」
「そんなことはありません。私はフリーデリヒ士官候補生のその寛容さと意思の強さを尊敬していますし、自分もそうありたいと思っています」
そう言うと、フリーデリヒさんは金髪の巻き毛を指先で弄る。
それは困っているときに出る彼女の癖だった。
「嫌っていると明言している相手からそんなことを言われると妙な感じね」
「フリーデリヒさんに甘える形になってしまって申し訳ありません」
「あなたのことは私に任されたのだから、私が面倒を見るのは当然のことだわ」
そう断言するフリーデリヒさんはやはり尊敬に値する女性だ。
それから俺は午後の休憩時間をいつもと同じようにフリーデリヒさんから読み書きを習って過ごし、夕刻の天測を行い、夕食を取った後、いつもなら侍従の部屋で復習に当てる時間になってようやく甲板でフィーナ様と向き合った。
「フィーナ様、お相手をよろしくお願いします」
「いちいち言わなくとも、最初にやったように不意打ちでもなんでもしてくるといい」
「分かりました。でも今は正面からお願いします」
フィーナ様の剣の腕と俺の腕前との間には、それこそ天と地ほどの差があるのだろう。
だがそれを実感として知っておかなければ、今後どんな手を使ってもフィーナ様に一蹴されるだけのような気がして、俺はこんな無謀な申し込みをしているのだった。
俺が木剣を構えると、フィーナ様は木剣を片手に、体を半身に構えた。
俺からするとフィーナ様に打ち込むためには、その剣を越えなければならず、それだけでもう大きな重圧を感じる。
だが今はやれることをやってみるしかない。
俺は剣を振りかぶってフィーナ様に立ち向かっていった。
手も足も出ない、ということを心から実感するのに10分も必要なかった。
俺から向かって行くと、フィーナ様はそれを待ち受け、剣の届く範囲に体のどこかが入ると、正確に剣が突き出される。
腕を打たれ、脛を打たれ、その度に後退するしかなくなる。
そして俺が後退すると、後退した分だけフィーナ様が前に出てきて、容赦なく追撃を入れてくるのだ。
それは俺が剣を取り落とすまで続き、剣を拾い直すと再開される。
一から十まで同じことの繰り返し、いや、攻撃を受けている分だけ俺の動きが鈍くなって、より一方的になっていく。
最初は興味深げに取り巻いていた船乗りたちも、興味を失ったのか、いつの間にかいなくなっていた。
そしてついに落とした木剣を拾おうとした俺は、打たれた腕の痛みで剣を落としてしまった。
「こんなものか。準備運動にもならないな」
実際、フィーナ様は汗ひとつかいていなかった。
いくら甲板の上が寒いとは言っても、俺は汗だくなのだから、その差は歴然だ。
遠い。
果てしなく遠い。
「シェルマン師のところで治療を受けておくといい」
そう言い残すとフィーナ様はさっさとその場を去っていった。
その背に失望が混じって見える気がするのは、俺が俺自身に失望しているせいだろうか。
相手にはならないにしても、もう少し剣を交えることができるだろうと思っていた。
フィーナ様の剣を一度くらいは受け流し、反撃に転じることはできるだろうと思っていたのだ。
今はそれが自分の慢心だったと認めなければならない。
俺は震える手で剣を腰に差すと、シェルマン師の部屋に向かった。
「いらっしゃい。ルフトくん。なんだか久しぶりな気がするね」
「その節はお世話になりました。そのフィーナ様から怪我の手当をしてもらえ、と言われてきました」
「話は聞いているよ。さあ、服を脱いでそこに座りなさい」
言われるがままに俺は着ているものを全部脱いでチェストの上に腰掛けた。
シェルマン師は俺の体をあちこち調べて行って、赤く腫れた打撲痕に治癒魔法をかけていく。
「フィーナ様も容赦が無いね。もっと手加減することだってできるだろうに」
「そう、ですか……」
俺は思わず歯噛みする。
シェルマン師も俺とフィーナ様の実力差をそれだけあると見積もっているということだ。
それは正しい判断に違いないが、それでも悔しいものは悔しい。
「ごめんね。君を傷つけるつもりで言ったんじゃないんだよ」
「はい、分かっています」
「君はもうちょっと子どもらしくてもいいと思うけれどね。はい。治療は終わり。明日は来なくてもいいように祈っているよ」
「ありがとうございます」
俺はそう言ってシェルマン師の部屋を退出したが、きっと明日も来ることになるんだろう。
第十四話の投稿は本日4時となります。




