第十二話 試練
仕事に少し慣れ、一人でハンモックに上がれるようになり、九九を覚え、文字をひと通り覚えた頃になると、マリア王女殿下から呼び出しがあり、俺は再びあの豪奢な部屋に足を踏み入れていた。
もちろん俺の傍にはフィーナ様が待機している。
今のところ俺の首が胴とお別れをせずに済んでいるのは、なんとか上手くやれているということなのだろう。
マリア王女殿下は前にもそうだったようにゆったりとした椅子に腰掛け、満面の笑みを浮かべて俺のことを迎えてくれた。
「フィーナから聞いているわ。順調に船の生活に慣れているみたいね」
「ありがとうございます。マリア王女殿下のおかげです」
「そう謙遜することないわ。あなたは私たちが思っていたよりずっと上手くやっているわ。フリーデとも打ち解けるとまではいかなくとも、ちゃんとやれているみたいじゃない」
「それはフリーデリヒさんの努力によるものだと思います」
「そうね。フリーデがちゃんと我慢できているようでなにより」
そう言ってマリア王女殿下は悪戯っぽくクスクスと笑った。
「ひとつ聞いてもいいでしょうか?」
「どうぞ」
「フリーデリヒさんはどうして私のことを嫌っているのでしょうか?」
「そうね、そろそろ教えてあげてもいい頃かしら。――あの日、林檎の木箱の中からあなたを見つけたのはフリーデなのよ」
「――!?」
ではフリーデリヒさんは俺の命の恩人だということになる。
あの時、俺はもう限界だった。
もう幾日でも発見されるのが遅れていれば死んでいたかもしれない。
しかしそれが何故フリーデリヒさんが俺を嫌う原因になるのだろうか?
「不思議そうね。でも考えてもみなさいよ。薄暗い船倉でうめき声が聞こえて、恐る恐る近づいた木箱からは考えもつかないような悪臭が立ち込めていたのよ。それでもフリーデは精一杯の勇気を振り絞って、他の乗組員の助けを借りてその木箱を開けられるように他の木箱をどけて、その木箱を開いた。そこから出てきたのはクソ塗れの――」
「マリア様、お言葉が悪いですよ」
「失礼。排泄物に塗れたあなただった。それを見たフリーデはショックでその場で泡を吹いて倒れちゃったのよ。それで乗組員たちから泡吹きフリーデと呼ばれるようになった。どう? あなたを嫌うには十分過ぎるほどの理由でしょ」
「なるほど。分かりました。それであんなに恨まれているんですね」
聞かされてみればなるほど、納得のいく理由だった。
それだけの恥をかかされたとあれば、その対象を嫌いになるのも仕方ない。
「そうだと分かっていて私をフリーデリヒさんに付けた理由はなんでしょうか?」
「だって面白そうじゃない。というのは冗談で、そうでもしないとフリーデはあなたを嫌ったままでしょうし、あなたにしたって敵意を向けられ続けるというのは嫌でしょう?」
「しかし今のままではフリーデリヒさんに過剰な負担がかかっていると思います」
「その判断は艦長に任せてあるわ。あなたが気にすることじゃない」
「そうですか……」
どうやら俺はフリーデリヒさんにこれまでの態度を謝り、お礼を言う必要があるようだ。
そんな事情があったとは知らずに、自分の立場を押し付けてしまっていた。
フリーデリヒさんからすれば、俺と一緒にいること自体が苦痛だったろうに。
「そんなことより、今日、あなたを呼んだのは別の用件があったからよ」
「別の用件、ですか」
「そうよ。あなたは私たちの期待よりずっと早く船の生活に順応している。そろそろ退屈しているのではない?」
「そんなまさか」
今でも覚えることが多すぎててんてこ舞いしているところだ。
ようやく九九を覚えたところで、油断をしていれば三角関数は頭から逃げ出していってしまいそうだし、文字も使われている種類をなんとか暗記したばかりだ。
もちろん朝の計器チェックはもう一人でもできるし、六分儀の扱いにも慣れてきた。
だからと言って他のことまで詰め込めるほど頭に余裕はない。
「心配しなくとも、何か新しいことを覚えろという話ではないわ」
そんな俺の思考を読んだかのようにマリア王女殿下は言う。
「フィーナ、あれを」
「はい。マリア様」
フィーナ様が取り出したのは一本の形が整えられた木の棒、というより、木剣だった。
それを俺に向けて手渡す。
受け取ったものの、それをどうしていいか分からずに眺める。
長さは俺の片腕ほどだろうか。
明らかに大人向けの長さではない。
短剣というには長すぎ、長剣というには短すぎる長さだ。
だが俺が取り回すにはちょうどいいかもしれない。
子ども向けのおもちゃの長剣というのがしっくりくる。
「うん。ちょうどいい大きさのようね。ではルフト、あなたは次の寄港地までにその剣でフィーナに一撃入れて見せなさい」
「はい。……はい?」
「できなければ浮遊軍艦への口利きの件は無かったことにするわ。気合を入れて励みなさい」
それはつまり――。
マリア王女殿下の言葉の意味を理解すると同時に体は動いた。
手にした木剣を振りかざし、すぐ横に立っていたフィーナ様に斬りかかる。
がんっ!
と、鈍い衝撃音とともに俺の振り下ろした木剣は、フィーナ様が手にしていたもう一本の木剣に受け止められる。
パチパチとマリア王女殿下が手を叩く。
「いいわよ。ルフト。その判断の早さ、思い切りの良さは評価に値するわ」
一方で俺は深い絶望を味わっていた。
最初の奇襲を余裕を持って受け止められたことで、フィーナ様の実力が俺には遥かに及ばないところにあると理解したからだ。
「マリア様、お戯れにも程がありますよ」
「私は至って本気よ。もちろんルフトにハンデは与える。フィーナ、あなたが使っていいのはそのルフトに与えたのと同じサイズの木剣のみよ。反撃はほどほどに留めるように、怪我させない程度にね」
「本気で彼にチャンスがあると?」
「可能性は常にあるわ。あなたこそ足元をすくわれないようにね」
「そのようなこと、間違っても起こりえません」
そう言ってフィーナ様は木剣を腰のベルトに差した。
俺も見よう見まねで腰のベルトに木剣を差す。
こうして俺の船での生活には大きな試練がのしかかってきたのだった。
第十三話の投稿は20日2時となります。




