第三話 司令官の愛人
マーヤはルフトの愛人である。
と、幽霊部隊の人々に思われている。
それは噂というよりは、ほとんど事実として扱われている。
それはそうであろう。
魔法紋を持つため刻印を刻めなかったマーヤはセリア防衛軍には所属していない。本職は魔法使いだが、セリア防衛軍兵士のほうが遥かに強力な魔法を長い時間使い続けられる。冒険者としての知識は豊富だが、セリア防衛軍の軍事力の前で魔物のちょっとした情報にどんな価値があるというのか。
はっきり言えば役立たずであるところのマーヤがガーゲルン統合基地にいることを許されている理由を考えれば、幽霊部隊に圧倒的に足りていない女性であるということを置いて他に無いと考えるのは当然のことだ。
そしてマーヤがそんな勘ぐりを濁しはしても、否定しないことがそれに拍車をかけている。というのも、マーヤにしてみればルフトの愛人だと思われていたほうが都合がいいからである。冒険者であった頃は魔法の力で寄ってくる男を薙ぎ払うこともできた。力で自分を守れた。だがほとんど男ばかりで女性に飢えている幽霊部隊の隊員たちは皆マーヤより遥かに強力な魔法使いなのである。マーヤには自分の身を守る力が必要だった。それがルフトの愛人であるという立場だ。
刻印を刻み、圧倒的な力を手にした幽霊部隊の隊員たちではあるが、それはセリア防衛軍の上下関係に組み込まれるということでもある。彼らは司令官であるルフトに逆らえない。だからルフトの愛人であるマーヤにも手が出せない。そういう理屈である。
そんなわけであったから、マーヤはルフトが求めてくれば応じるだけの覚悟はあった。まだ13歳の少年とは言え、性に目覚める年頃ではある。マーヤには少年を教え導くだけの知識はある。知識は。
しかしながら今のところルフトがマーヤに性的な視線を向けたことはない。彼がマリア元王女にただならぬ想いを抱いていたことはマーヤも知るところなので、恋愛に興味が無いわけではないだろう。マーヤに女性的な魅力が足りないわけでもない。ないはずだ。
いっそ誘惑してみようか、などとマーヤは思う。
ルフトがアンネリーゼ王女の婚約者候補であることは、ルフト自身から相談されて知っている。そのルフトが女を知らず、初夜で失敗すればそれはそれで問題ありなのでは?
いや、ルフトにはレギンレイヴがいるから大丈夫なのだろうか?
レギンレイヴを身に宿していないマーヤには、統合支援人工知能がどこまで支援してくれるのか分からない。管理者に聞いてみてもいいが、それがルフトの耳に届く可能性を考えると聞きづらい。
少なくともマーヤのほうがルフトを求めているという形にはしたくない。
だがその一方で、本当にルフトの愛人にでもならなければ割りと立場が無いのだ。
一応、マーヤの正式な身分は相談役である。
幽霊部隊で起きた軋轢などの調停を行う仕事である。しかしながらマーヤに調停を頼む者がいない。軋轢がないわけではない。人が集まり社会を為している以上、諍いは必ず生まれる。しかしながらマーヤは敬遠されている。その理由もまあ、ルフトの愛人だと思われているからなのだが。
誰が好んで上司の愛人に人間関係を相談するだろうか。奥さんでもあれば少しは話も違ってくるかもしれないが、そんな夢を見るほどマーヤは子どもではないし、愛も無い。恋愛感情を抱くには、いくらなんでもルフトはまだ子どもだ。13歳である。身長の低いマーヤではあるが、それでもまだルフトのほうが背は低い。
まあ、あと数年もあればどうなるか分からないけれど。
それでもまだマーヤにとってルフトは可愛い弟分のようなものだ。だがそれは、それくらいの情はあるということでもある。その情と実利を考えると、やはりルフトの愛人になるのが一番手っ取り早く統合基地における確固たる立ち位置を得ることができる手段であろう。
胸元を緩めてみようか。
隣に座って体を当ててみようか。
スカートをもう少し短くしてみようか。
だがあまりにセクシーな路線は自分には似合わない。と、マーヤは冷静に自己分析する。どっちかというと、ゆるふわお姉さんであるという自覚はある。昔ならそこに毒舌という属性が追加されていたかもしれない。
しかし今はその属性は封印されてしまっている。毒を吐けるというのは甘えだ。今のマーヤに甘えられる相手はいない。暗闇の中に孤独。そう、今のこの部屋のように。
いっそルフトに甘えてみようか。彼は甘えさせてくれるだろう。何故なら彼はケヴィンとブルーノ、かつてのマーヤの冒険者仲間2人の死に責任を感じているからだ。聡い彼ならマーヤがかつてケヴィンに淡い想いを抱いていたことに気付いているかも知れない。
ルフトに責任など無い。冒険者として依頼を受けてあの場にいたのだ。彼らが死んだのは力と運が足りなかったからだ。だからマーヤにはルフトを責めるつもりはない。そんなこと考えたこともない。
だけど少し、ほんの少し、マーヤが悲しみを匂わせれば彼はマーヤを慰めてくれるだろう。だけど、だからこそ、マーヤはその手管を使うことができない。悲しみは薄れた。今ではそのことが悲しいくらいだ。想いは薄れた。まだ新しい恋をすることはできなさそうだけど、枕を涙で濡らすことは無くなった。だけどまだ彼らの死を利用する気にはなれない。
女としてのプライドもあるしね。と、マーヤは苦笑する。
ルフトに抱かれるとすれば、彼が自分という女に我慢できなくなってがいい。そしてそんな彼をマーヤはお姉さんとしてリードしてやるのだ。経験はないけれど。
別にルフトに対して優位に立って、幽霊部隊の実権を握ろうとか大それたことを考えているわけではない。カスパルがそうはさせないだろう。総司令がマーヤの存在をあまり快くなく思っていることもマーヤは知っている。だからこそルフトの寵愛を得ておきたいわけなのだが。
マーヤが欲しているのはこの統合基地での生活だけだ。遥かに格差のある上層世界、王国の生活に戻れないというだけだ。冒険者としての心が折れた今、ここで安穏とした生活を送ることができればそれでいい。
刻印を持たないマーヤにしてみればそれが結構な綱渡りではあるのだが。
その時、真っ暗だった壁のモニターに光が灯り、ルフトからの通信が入っていることを告げた。
「音声だけで応答」
「――マーヤさん、ちょっとお時間よろしいですか?」
「はいはい、なんですかぁ~?」
「通信では話せないことなので、直接会ってお話がしたいんですが」
「私のお部屋でよろしければ、ただ30分待ってくださいぃ」
「分かりました。30分後に伺います」
「はい~」
通信は切れる。ルフトのことだ。30分後と言えばきっちり30分後に来るだろう。マーヤは化粧を直すために慌てて洗面室に飛び込んだ。
一時間後――。
「――そんなわけでフリーデリヒさんと来たら人の古傷をちくちくちくちくと――」
「副司令にも困ったものですねぇ」
マーヤとルフトの間に甘い雰囲気はない。そうなりようがない。いつものように幽霊部隊の運営に関するような愚痴、あるいは相談事であれば、マーヤはルフトの隣に移動することも考えたかもしれない。物理的な距離は、すなわち精神的な距離である。物理的な距離を詰めれば、精神的な距離も縮まる。マーヤはそう考えている。だがそれは必ずしも好意的な意味にはならない。より強い思いは憎しみにもなるからだ。
そして今回は距離を詰めないほうがよい場合であるようだった。何故ならルフト自らが彼の初恋のことを切り出してきたからである。彼にとってその恋が神聖で不可侵であることはマーヤにも分かった。そんな話をしている時に身を寄せてくるような相手は、彼にとっては悪徳だろう。
割りと適当に相槌を打ちつつ、マーヤはこの調子では自分が彼の愛人になれるのはずいぶん先になりそうだなあと思うのであった。
――後日。
「――というわけなんですよぉ」
「どうして私にそんな話をするんだ?」
「他に相談できそうな相手がいないんですよぉ~」
マーヤはフィーナの私室にいた。テーブルにはビール瓶が何本も突き立っている。2人とも普段はあまり飲まないほうなので、配給酒は余っている。
幽霊部隊で孤立しているマーヤだが、友人がいないわけではない。友人でいいはずだ。たぶん。きっと。フィーナは無愛想でぶっきらぼうだが、情に厚い一面もある。それにルフト司令官のことを相談するのであれば、フィーナ以上の適任者はいない。幽霊部隊では一士官ではあるが、彼女はルフトの剣の師でもある。ガーゲルン統合基地にいる面々の中でもっともルフトとの付き合いが長い1人だ。
「恋愛のひとつもしたことのない私だぞ。年下の男の愛人になりたいとか言われても、まず理解するのが難しい」
「そんなこと言わずにぃ。彼の想い人だったマリア様の人となりを教えてくれるだけでもいいんですよぉ」
「あの方を真似ようとしても無駄だ。マーヤとの共通点は魔法が使えることくらいだ」
「たぶん、女ってところも共通してると思うんですけどー。でもまあ、どんな方だったんですかねぇ?」
「天真爛漫で裏表の無い方だった。良くも悪くも、な。物事を理屈ではなく、感覚で捉えていて、手の届く範囲であればどんなことも正解を導き出せた。それが自らの立場に及ばなかったのは残念ではあるが……」
「司令はどんなところに惹かれたんでしょうね?」
「私の知っている範囲では、それは恋心ではなかったように思うな。尊敬、あるいは崇拝と言えるかも知れない。だからおそらくはアインホルンから振り落とされ、離れていた時間が彼の心を変化させたのかも知れない」
「あー、私には司令から距離を取るという選択肢はないですねぇ」
そもそも崇拝のような感情を抱かれているわけでもない。ルフトにとってマーヤは幽霊部隊の一員ではないという点で特別ではあるが、それだけだ。距離が離れればそのまま忘れられてしまうのがオチであろう。
「はぁ~、私は一体どうすればいいんでしょぉ~」
「別になにもせずとも放り出されるようなことはないだろう?」
「居心地悪いんですもん~」
「愛人だと思われる方が居心地がいいとは、理解できん……」
「どんな形でも役割があることが大事なんですよぉ。今の私は名実ともに役立たずですもん」
「そうは言うが、ルフト司令はマーヤには気を許しているわけだろう? フリーデリヒ副司令も、ルフト司令にマーヤのところに行くように助言したそうじゃないか。つまりルフト司令の精神的な助けになっているのではないか?」
「それは分かってるんですよぉ。でも、でもですね。もうすぐ戦いが始まりそうじゃないですか!」
「ああ、そうだな」
「私はこの基地に残されると思うんですよぉ」
「そうなるだろうな」
「そしたら私の立場ってないじゃないですか! しかも総司令は基地に残るんでしょ? 荊の城ですよぉ!」
「分かった。分かったから落ち着け。酒が回りすぎたんじゃないか?」
「わーたーしーはー、酔ってまーせーんー!」
「酔ってるじゃないか。まったく。水でも飲んでおけ」
「やだやだやだ、まだ飲むぅ!」
相談する者、される者、立場が変われば人は変わる。
絡みついてくるマーヤの手を振り払って、フィーナは一応の友人に水を用意するために立ち上がった。




