第二話 司祭
2016/12/15 地名変更に伴う文章変更しました。
痛みで目が覚めるのには慣れている。
ニコラやエメリヒは木剣の練習でも容赦なく打ち込んできたし、それ以前のこともある。
だがこの目覚めはいつもより悪かった。
体が痛いのはいつものことだったが、頭がはっきりしないのは珍しい。
まるで頭を殴られた後みたいだ。
目を開くと、見知らぬ部屋にいた。
広い、と感じたのは長いこと木箱の中にいたからだろう。
実際には廃屋の俺の部屋よりも小さな部屋だ。
俺はチェストの上に横たえられ、毛布を掛けられていた。
天井には灯りが閉じ込められた容器が釣り下がっていて、ぶらぶらと揺れている。
視線を下ろすと一冊の本を食い入るように読んでいる一人の女がいた。
俺の親よりも年は上だろう。
だがそれほど年を取っているという感じはしない。
一心不乱に本を読んでいる横顔は少女のようですらあった。
教会の神父が来ているような礼服を着ていて、長い髪を編み込んで背中に流している。
彼女は静かに本を閉じ、こちらに向き直った。
「おはよう、小さな密航者くん」
「……おはようございます」
幸いにして知っている言葉だった。
シュタインシュタットに寄港している船が王国の船とは限らない。
だから言葉が通じない可能性も考えていたのだが、杞憂で済んだようだ。
「気分はどうかな?」
「悪くありません」
「やせ我慢しなくともいいよ」
彼女は右手を伸ばして俺の額に触れた。
触れられた額からじんわりと温もりが全身に広がっていくような気がする。
さっきまで感じていた胃のむかつきや、体の痛みが和らいだ。
「シスター」
「私は修道女ではないよ。聖円教会で司祭の役職を頂いているからね」
「では、ありがとうございます。司祭様」
「うん。どういたしまして」
彼女は笑顔を見せ、俺の額から指を離した。
「治癒魔法は傷を治したり、病を癒すことはできるけれど、体力を回復させることはできない。だからしばらくは寝てなさい。お腹は空いてる?」
「いいえ、いえ、はい。空いています。すごく」
言われた途端に空腹に気が付いた。
苦しいほどにお腹が空いている。
「なにか作ってもらってこよう。君はここで寝ていなさい。自分の立場は分かっているかな?」
「密航者をどう扱うかは船長に一任されていると聞いています」
「そうだね、でも君は少々、いいえ、かなり特殊な立場に陥っているよ。そのことについては後でゆっくり話をしよう。ひとまず君の身柄は私が預かっているから、安心なさい」
「分かりました。司祭様。その、ありがとうございます」
「すべては神の御心のままに」
彼女は両手の指で円を作る聖円教会の挨拶をして部屋を出ていった。
一人で部屋に残された俺には少し余裕ができていた。
司祭様に施してもらった治癒魔法の効果もあるのだろう。
強い倦怠感があったが、体が動かないというほどではない。
しかし司祭様の言葉に逆らう理由も特になかったので、俺は大人しくチェストに横になっていることにした。
ひとまず最初の山は越えたということみたいだ。
船乗りから聞いていた話の中で最悪なのが見つかってそのまま船から突き落とされるというものだったから、こうして司祭様に身柄を確保してもらっているというのはかなりいい待遇だと言えるだろう。
しかし女性の司祭様がいるというのは聞いたことがなかった。
シュタインシュタットの教会にいる女性と言えばみんなシスター、つまり修道女で、教会内の身分制度とは縁のない人たちだった。
船は相変わらずゆっくりと揺れていて、慣れないその感覚に俺は気分が良くなることはなかったが、治癒魔法のおかげか、今のところ吐くほどに気持ち悪くはなっていない。
もっとも今は胃液が出るかどうかすら怪しかったが。
とにかくこれからどうなるかを決めるのは俺ではない。
司祭様の手を離れれば、そのあとは船長が俺の運命を握る人になる。
それがどんな人なのか、俺はどうすればいいのか、司祭様に確認しておかなければならないだろう。
そんなことを考えているうちに、木皿を手にした司祭様が部屋に戻ってきた。
「スープを作ってもらってきたよ。体は起こせる?」
俺は寝返りを打って体を起こした。
かかっていた毛布が落ちて、そこで俺はようやく全裸であることに気が付いた。
慌てて毛布を引き上げようとして、俺はチェストから転げ落ちてしまう。
「おやおや、大丈夫?」
「大丈夫です。その、俺の服は……」
「汚れてしまっていたから洗濯に回してもらっているよ。心配しないでも変なことはしていない」
「変なことって?」
俺は体を起こし、体に毛布を巻き付けるようにして、チェストに腰かけた。
司祭様は目をぱちくりさせて、それから不意に微笑んだ。
「つまり不必要に触ったりしていないということ。君を辱めるようなことはしていない。ただ怪我の具合を見なければならなかったし、汚れも酷かったから、全部脱がしたけれどね。それで確認しておきたいのだけれど、君の体の傷、新しいものだけじゃないね」
俺の視線は司祭様の持つスープに注がれていたが、彼女はこの話題を終わらせるまでは木皿を渡す気はないらしい。
俺の体に残る傷跡はいくつもあるが、司祭様が言っているのはその中でも古いもの、つまりはニコラやエメリヒと出会う以前のもののことだろう。
「殴られるのはいつものことでしたから」
「誰に……、とは聞かないよ。そうか」
そこで少し考え込んでから司祭様はようやく自分がスープを手に持ったままであることに気付いて、俺に差し出してきた。
ほとんど具の無いスープだったが、それでも久しぶりに口にする食料は、喉を通るとそのまま全身にいきわたるようだった。
俺が夢中でスープを啜るのを司祭様はじっと見つめていた。
少し居心地が悪かったが、空腹の前には些細なことでしかない。
俺はあっという間に木皿を空にした。
まだまだ空腹だったが、おかわりを要求してもいいものだろうか?
俺が未練がましく空になった木皿の底を見つめていることに司祭様は気が付いた。
「今はそのくらいにしておきなさい。急にたくさん食べると気分が悪くなる」
司祭様は俺の手から木皿を取り上げると、それを小さな机の上に置いた。
「それじゃあ、本題に入ろうか。横になってもいいよ」
「いえ、このままで大丈夫です」
「分かった。それじゃまず君の言い分を聞こうかな」
「はい」
そこで俺はなぜ密航を決意したのか。
あらかじめ用意しておいた話をした。
ほとんどは本当のことだ。
それはニコラやエメリヒに出会うよりも以前の、まだ父と母と暮らしていた頃まで遡る。
第三話の投稿は本日6時となります。




