第一話 密航
2016/12/15 文章修正しました。
咽返るような悪臭に、ぶん殴られるような衝撃を受けて目が覚めた。
覚醒と共に開けた世界は薄暗く、どんなに暗闇に慣れた目でもはっきりと物を見渡すのは困難だ。
俺は暗闇の中に落ちるような幻覚に襲われて、何かしがみつくものを探して手を伸ばそうとしたが、折りたたんだ腕にはそれを伸ばせるほどの余裕はなく、爪が虚しく木箱の内側を引っ掻いたに過ぎない。
俺を強制的に目覚めさせた悪臭は鼻の奥どころか、喉に詰まり、呼吸すら難しく、俺は何度も嘔吐く。
吐瀉物を口の端から垂れ流しながら、俺は思い出す。
この悪臭は俺自身の臭いだ。
幾日も風呂に入っていないとかそんな話ではなく、この木箱の中で身動きすら取れず、糞尿を垂れ流している。
そんな結果の悪臭だ。
徐々に意識がはっきりしてきて、自分の置かれた状況を理解し始める。
そうだ。ここは林檎の詰まった木箱の中だ。
林檎の木箱の中に忍び込んだ俺は、運搬人によって運びだされる間、必死になって息を潜め、何処へ行くとも知らぬ浮遊船に積み込まれた。
揺れを感じて出航したのが分かってからどれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
眠った回数も覚えていない。
することが何もないので、できるだけ寝ているようにしていたからだ。
実際にはそれほど時間が過ぎていないに違いない。
飢えと渇きは林檎を口にすることで凌いでいた。
幸いにしてまだ見つかっていない。
見つかればどうなるのだろうか。
酒場にいる船乗りから密航者がどうなるのかは聞いたことがある。
大抵は何らかの処罰の後、そのまま船乗りになることを強要されるらしい。
船は常に人手不足だからだそうだ。
だがそれは大人の場合で、俺のような子どもがどうなるかは聞いたことが無かった。
どうなるにせよ、いずれこの木箱からは出なければならない。
だがそれはできる限り遅い方がいい。
シュタインシュタットの近くで見つかれば、もしかしたら船が引き返すかもしれないからだ。
話を聞く限り、その可能性は低いと思ったが、それでも少しでもシュタインシュタットから遠ざかりたい。
船酔いしているようで、風邪を引いたときのようにぐるぐると頭の中が回ってしまって、何も考えられない。
眠ったような、起きているような、よく分からない状態が続いて、時間の感覚どころか、自分がどこにいるのかさえ分からなくなってきて、そしてどれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
三日か?
一週間か?
それとも半日も持たなかったのか?
ついに俺は限界を迎えた。
せめて木箱からは出なければならない。
幸い今は人の気配が無い。
今のうちにどこか隅の方に隠れられればまだ時間を稼げるかもしれない。
どれくらいシュタインシュタットから離れたのかは分からないが、それでもそのことだけは頭に残っていた。
俺は生き延びるんだ。
そう心に強く思って、俺は木箱の蓋を押した。
釘を内側から仮留めされただけの木箱の蓋は簡単に開く。
だから俺は運搬人に運ばれている間、蓋が外れないように必死に祈らなければならなかった。
押すだけで開くはずだったのだ。
しかし木箱の蓋はぴくりともしなかった。
俺はぞっとする心を抑えてもう一度蓋を押し上げようとした。
しかし結果は同じだった。
音がする危険を冒して軽く叩いた。
重い音が返ってきた。
もう一度、今度はもう少し力を込めて。
しかし蓋はぴったりと閉じられたままだった。
それで俺はようやく自分の置かれた状態を理解した。
なんでこうなることを考えなかったのか、自分でもびっくりするくらい当たり前のことだった。
木箱の上に木箱が重ねられているのだ。
船倉にいっぱいに木箱を詰め込むのだから、そうなるのが自然だった。
よく考えれば船乗りに聞いた密航の話には木箱に入って、というのはなかった。
それはそうだ。
そんな馬鹿なことをすればどうなるか、誰だって分かるからだ。
少しでも長く隠れていなければならないという思いは、少しでも早く発見されなければという恐怖に取って代わられた。
さっきまではいつでもこの木箱から出ていけると思っていたのだ。
それが自分の意思ではどうやっても出ていけないというのでは、この狭い空間で感じる圧迫感がまるで違っていた。
息が苦しくなる。おかしい。
でもなにがおかしいのか分からない。
「誰か……」
声が喉につっかえた。
うまく発音できない。
力を込めて木箱の枠を叩いたが、それはひどく弱弱しかった。
俺は俺が思っていたよりずっと衰弱しているのかもしれない。
このまま声も出せず、誰にも見つからなかったら、遠からず俺は死んでしまうに違いない。
誰にも気づかれないまま死んでしまう。
そしていつか誰かがこの林檎の木箱を開けて、俺の糞尿に塗れた死体を見つけるのだ。
「――ッ!」
こみ上げる衝動に身を焼かれ、声にならぬ声をあげて、俺は木箱の枠に頭を叩き付けた。
俺は喚きながら滅茶苦茶に暴れまわった。
林檎が潰れ、果汁が服を濡らした。
涙が頬を濡らした。
胃液が口の周りを濡らした。
拳や、額が切れて血が皮膚を濡らした。
ひょっとしたら小便も漏らしてたかもしれない。
はっきり言って俺は正気ではなかった。
癇癪を起した子どもともまた違う。
自分の中になにか暴力的な衝動があって、精神的に弱くなったことでそれを抑えておけなくなったのだと思う。
俺は狂気のままに暴れ続け、やがて力尽きた。
全力で暴れまわればあっという間にそうなることは至極当然のことだった。
このまま俺は死んでしまうのか、なんて考える意識はすでに失われていた。
俺は潰れた林檎の上でもはや指すら動かせない力尽きた狂った獣だった。
そのとき、ガタと木箱が揺れた。
しかし俺はただ身を横たえていることしかできなかった。
ガタ、ガタガタと木箱の揺れは激しくなり、やがて一条の光が木箱の中に差し込んできた。
俺はあまりの眩しさに目がくらんだような感覚に陥ったが、実際にはすでに瞼は閉じられていた。
周りで何かが起きているのはなんとなく分かったが、それ以上のことは何も分からなかった。
なにかすごく遠くから声が聞こえたような気がしたが、耳鳴りが酷くて何も聞き取れなかった。
なにも分からないまま俺は意識を手放した。
第二話の投稿は本日4時となります。




