第一話 迷宮集落
シュタインシュタットは迷宮集落とも呼ばれる。
迷宮がある、というわけではない。
町の造りそのものが入り組んでいて、まるで迷宮のように人を惑わすことから付けられた通称だ。
成り立ちを話すと少し長くなるが、それも迷宮集落の案内役をするならちょうどいい。
シュタインシュタットという町の歴史自体は短い。
元は漂流者たちが作り上げた、町とも言えないような集合居住地で、それを王国が併合したのが今から33年前のことだ。それ以前のこととなると数少ない当時の生き残りから話を聞くしかない。
浮遊船ヴァルヌスに乗っていた最初の漂流者たちはこう語る。
――そこまでは順調な航海だった。だが大きな異音がしたと思ったら浮遊船のプロペラが止まり、そのまま動かなくなった。なんとか修理しようと皆で手を尽くして調べたが、エンジンからプロペラに動力を伝えるための駆動系が途中でぽっきりと折れていて、修理のしようがなかった。
当時はまだ浮遊遺物による境界面の浮遊航行技術が開発されて間もない頃だった。港を出て行方不明になった船はそれこそ数知れない。
ヴァルヌスもその一隻に名を連ねることになった。
そして漂流が始まった。
――漂流2週目になると船に積まれていた水は底を尽き、わたしたちはついに自らの尿を蒸留して飲み水を作らなければならなかった。
キッチンは船室の奥にあったため、熱された尿の臭いが船内に充満して、ほとんどの者が寝るとき以外は甲板に出ているようになった。
中には腰にロープを巻いて甲板で寝ていたものもいたくらいだ。
――その間陸地がまったく見えないわけではなかった。
それこそ目の前を通り過ぎたこともある。
だがわたしたちには陸地に向かって船を進める手段が存在しなかった。
そこで機関士はプロペラのシャフトを取り外し、人力でプロペラを回せるようにした。ロープで!
――3週目になると食料も不足し始めた。
空魚を釣って足しにしていたが、それでも追いつかなくなってきたのだ。
わたしは空腹を紛らわすために空魚の骨を噛んでいたが、それが磨り減ってなくなってしまうありさまだった。
空腹と疲労は限界に達し、ちらほらと動けなくなるものが現れ始めた。
彼らは尿の臭いの充満した船室で、嘔吐しように吐くものがないという状態で寝かされていた。
――4週目になった。
船の流されている方向に陸地が見えたとき、私たちはこれが最後だと必死にロープを引いてプロペラを回した。
これがうまく行かなければわたしは船から飛び降りる覚悟だった。
運良く木や水の上に落ち、危険な野生生物がいなければ、もしかすれば助かるかもしれない。だがありがたいことにわたしは自分ひとりの幸運を試す必要には迫られなかった。
浮遊船のプロペラをロープを使い人力で回すことの有用性については疑問視されている。多くの学者がその程度の回転数では飛行艦を進ませるどころか、向きを変えることすらできないだろうと結論している。
――陸地に足をつけた瞬間にまず感じたことは安堵だった。
尿ですら飲むほどに乾き、骨をしゃぶりつくすほどに飢え、屋根がなくても眠れるほどに疲れていたにもかかわらず、まずここからは墜落しないという事実にわたしは安堵した。だがそんなささやかな平穏も長くは続かなかった。
――わたしたちが上陸したのはむき出しの石灰岩があちこちに突き出している荒地だった。
植物は背の低い草ばかりで果物どころか、木の実すら手に入らない。
下層世界に降りていったグループが動物を狩って帰ってきたのが一番の収穫だった。
漂着地の周辺には川も湖も無く水が手に入らなかった。
そのためヴァルヌスは巨大な尿浄水施設にならざるを得なかった。
――わたしたちは島を探索したが、結果は思わしいものではなかった。
どこにも人の痕跡を見つけることができなかったのだ。
事ここにいたるにあたって、わたしたちはついに自力での帰還の望みを捨てた。
生活資材を得るためにヴァルヌスを解体したのだ。
雨水を溜めるために溜池を作った。
また石灰岩を切り出して建物を建てた。
さらに石灰岩を切り出すときにできる破片を撒いて農作に適した土壌を作った。
幸い、農作に適した植物は下層世界からいくらか得ることができていた。
やがて生活が安定の兆しを見せ始めた頃、霧の深い日にわたしたちは驚くべきものを目にする。
――最初はヴァルヌスが化けて出たのかと思った。だってあんなものが音もなく突然現れるなんて夢にも思わないし、わたしたちはヴァルヌスをずいぶん酷に扱ったものだったから。
だからその船から続々と人が降りてきて水と食料を求めてきてようやく、それが幽霊でも幻でもないってことに気がついた。
第二の漂着船キルシェである。
ヴァルヌスと同年に就航した同型艦であり、乗員はやはり24名。
この漂着によって集落の住民は一気に倍加することになったが、ヴァルヌス乗員が食糧事情の改善に力を入れていたため、キルシェの乗員は比較的楽にこの地での生活に溶け込んでいった。
さらに翌年、第三の漂着船カスタニエ、乗員32名。
同年、第四の漂着船プファラオメ、乗員28名。
――ちょっとはおかしいと思った。
けれどそれどころじゃなかった。
わたしたちは常に足りるという状態ではなかった。
食料が足りない。
水が足りない。
住居が足りない。
プファラオメの漂着で、漂流者の頭数は100名を超えたが、実際の人口は90名弱だった。医者がいなかったからだ。
病気、怪我、どちらも当時の居留地では致命的だった。
だがそれでも石を切り出さなければ住居が作れなかったし、畑を拡張することもできなかった。
わたしたちはこの漂着船の多さについて考えている余裕なんてなかったんだ。
そのさらに翌年に第五の漂着艦アプフェル、乗員40名。
この船については公式の記録としては認められていないものの、艦長の航海日誌の一部が残っている。
――漂流33日目、ついに地を踏む。石造りの町があり、住民は王国の言葉を使う。厚く歓迎されるが、なぜ彼らはアプフェルの故障を知っていたのか? 重要、この点は忘れてはならない。
これが初めて文章の中にシュタインシュタットの名が刻まれた瞬間である。ただしこの航海日誌については信憑性に疑問があり、学者の中には後年の偽造を疑う声も多い。
なんにせよ、この時期には石造りの住居が立ち並び、シュタインシュタットと呼ばれるにふさわしい景観だったことは間違いない。
そしてさらに数年、漂着した浮遊船の数が20を超えた辺りから、町の拡張に限界が訪れる。今後の人口増を見据えて農地の拡大を考慮すると、居住地として使える空間が尽きてしまったのだ。
――食糧難が解決したことはなかったから、畑を潰すことはどうしてもできなかった。だから家と家の間に、新しく家を建てるほかなかった。
隙間が無ければ家の上に家を建てた。
幸い床や天井を作るための板は、漂流者たち自身が持ってきてくれたので、切り出した石で外枠さえ作っておけば、住居の増築はそれほど難しくは無かった。
――難しくないことがいけなかった。
わたしたちは計画性もなしに、とにかく建てられるところにはすべて建てた。
家を建ててみたら、外に出るのに別の家の中を通っていかなければならない、ということも珍しくなかった。
その結果、シュタインシュタットは石造りの町というよりは、まるでアリ塚のような複雑怪奇な構造を有するようになった。
町を外から見れば、ひとつの巨大な建築物にも見えなくはない。
そして一度路地に足を踏み入れれば、折れ曲がり、上り下りする細い道に方向感覚と距離感が失われてしまう。
それはまるで立体的な迷宮だった。
――ヴァルヌスの漂着から10年が過ぎたころから、はたと漂着する船がなくなった。
今でこそ理由は知っているが、当時はずいぶんと不安になったものだ。
変な話だ。
遭難する船がなくなったのだから喜ばしいことのはずだったのに。いつの間にかわたしたちは年に一度は船がやってきて新たな住人を迎えることになるとばかり思い込んでいた。
実際の理由はといえば、浮遊船の改良が進んで故障が減ったことだった。
シュタインシュタットに漂流船が集まってくるのはその辺りの独特な風の流れのせいだった。大陸間で巨大な渦を巻いている風の流れだ。
そしてちょうど40年前、ついに故障することなくシュタインシュタットを発見した軍艦ドロッセルがその存在を王国に報告し、様々な折衝があった後に無事シュタインシュタットは王国の一部として編入することを認められた。
その後のシュタインシュタットは誰でも知っているとおり、有望なエーテル鉄の鉱脈が見つかり、鉱山の町へと変貌を遂げていく。
と、まあ俺が観光客を案内する時はこんな話を聞かせている。
俺?
俺はルフトだ。
シュタインシュタットに住んでいる。
頼まれれば観光客の案内役もするし、頼まれなければ物乞いに早変わり。何も無い日はゴミ漁り。
どこにでもいる普通の浮浪児だ。
さて、ここまで聞いたんだから説明料は払ってくれよな。
さて、本作彷徨のレギンレイヴは私の小説家になろうでの2作目となる長編小説です。
とりあえずはルフトの物語にしばしお付き合いいただければ幸いです。