しずくと雪江と父親と~後編~
一学期最終日の朝。
とある計画を胸に秘めて、しずくは自転車を押しながら校門を通過した。
数日前から、状況は何も変わっていない。雪江とは接していない、というか近付くと逃げられるし、同級生、特に女子から妙に気を遣われている事も。中学の時みたいに詳細を聞いてくる生徒がいないだけマシだが、普段あまり話さない人にまで優しくされると、やはり気まずいというか、違和感がある。
とはいえ、しずくからすれば、後者は気にしない。綾や湊谷風に言えば、どうでもいいのだ。
気になるのは、やはり前者。雪江の事だ。同じ中学だった友人にそれとなく相談してみても、大抵お茶を濁されてしまうか、困った表情をされるだけだった。
そんな状況を変えるべく、中学の時の経験を参考に考え出したのが、今回の作戦だった。
上手くいくかな。
作戦決行は終礼前の予定だが、今からドキドキしてしまう。
駐輪場に自転車を止めてから、普段よりも明らかに早い鼓動を刻んでいる胸に手を当てて小さく深呼吸をしていると、
「なに、お前。今日の終業式でスピーチでもすんの?」
呆れた様子で駐輪場に入ってきたのは、湊谷だった。こうして挨拶以外の言葉を交わしたのは、先週の帰り道以来だ。
彼の事も、何も変わっていない。鈴に、自分に出来る事が無いものか相談(といってもしずくが質問して、鈴が首を横か縦に振って返事をするくらいだが)してみたが、下唇に人差し指を当てて考えるような表情をしてからおもむろに前まで来て、ポンポン、と肩を叩く仕草をした。まぁ頑張れ、という事なのだろう。その前の悩む仕草が可愛かったため、抱きつこうとしたが、当然ながらすり抜けて床にダイブしてしまったのは人には言えない記憶だ。
「それとも夏休みに向けて誰かに告白でもすんのか?」
からかうような笑みを浮かべながら自転車のスタンドを立てる湊谷に、しずくは顔を赤くしながら慌てて「ち、違うし!」と言った。
「そもそも、そんな相手いないし……」
「四篠は? 戸牧と話さなくなってからもたまに話してるだろ?」
確かに、しずくと雪江が喧嘩してからも、四篠は双方と仲良くしてくれている。『戸牧も少し意地になってるだけだって』とか励ましてくれたり、『三戸森は戸牧とああいう関係だから夕樹とも話さないけど、別に嫌ってるわけじゃないからな。むしろ、仲直りさせたがってんだ』とか、雪江達の事を教えてくれたりもした。クラスメートからすれば、しずくと仲の良い男子はダントツで四篠だろう。しかし……。
「四篠君は、彼女、居るし」
しずくが俯き加減でそう言うと、湊谷は興味なさそうに「そうなのか」と言って、自転車の籠から鞄を取った。
「湊谷君は? 越水さんとか、本谷さんとか」
さっさと歩き始めた湊谷に小走りで追い付いてから、しずくはそう訊いた。
「……さぁな。考えたことない、というか、今は自分の事で手一杯だからな。俺も、本屋も。それは夕樹だって同じだろ? 越水は人のことであれこれ悩んでるみたいだけどな」
「それが分かってるなら変なこと訊かないでよ」
妙に激しい反応をしてしまったこともあり、不満を顔に出して睨むが、湊谷は反省するどころか鼻で笑った。
「冗談のつもりで言ったんだけどな。思った以上に面白い反応するから、つい」
可笑しそうな笑い声を殺しながら言う湊谷だが表情までは隠せず、しずくは怒りというより恥ずかしさで顔が赤くなる。
しかし、怒りが全くないわけではないし、校内に入って内履きに履き替えてもまだ笑っているのを見ると、流石に肩を叩くくらいはしたくなる。
「湊谷君、笑いすぎ」
「やめろ。こっち向くな。なんかお前の顔で笑っちまう」
「失礼な」
それにしても、これと同じような経験をしたことがあるような気がする。しかし、顔を見るだけで笑われるなんて失礼なことをする人物なんて……、たくさんいる。
自分の交友関係に若干の疑問を抱きながら階段を上っている途中、しずくはふと思い出した。
ゴールデンウイークが終わった頃の話になる。
ある朝、校門を入ったところで四篠と出会った。
その頃のしずくはまだ三戸森にも四篠にも慣れておらず、話をするとどうしても緊張してしまっていた。
しかし、そんな自分を変えるべく、その日のしずくは勇気を出した。
しずくが自分に慣れていないことを知っていたのか、それとも嫌われていると勘違いしていたのか、遠慮気味に「おはよう」と言ってきた四篠に、満面の笑みを浮かべて「おはよう」と返した……瞬間のことだった。
グラウンドから飛んできた野球ボールが、しずくの横っ面を正確に捉えた。まるでボクサーに殴られたような衝撃に、何秒か意識を失ったくらいだった。
もちろん、その場は四篠も心配してくれたし、保健室までしずくに肩を貸したのも彼だ。
しかし、それから数週間、しずくが笑顔を向けると四篠はあの光景を思い出して笑うようになってしまった。そんなやり取りのおかげで、三戸森よりも苦手に思っていた四篠との距離が縮まったといえばそうなのだろうが、しずくからすれば消し去りたい過去である。
その事を教室に着くまでの間に話したら、野球ボールがぶつかった、と言った瞬間に湊谷は吹き出した。一言くらい心配の言葉があってもいいのに、としずくは膨れる。
「夕樹、ちょい笑ってみ」
「絶対にイヤ」
一文字一文字を強調して返事をすると、またしても湊谷は吹き出して笑った。湊谷がこんなに笑うのは珍しいが、笑われているのが自分だと考えると希少価値もへったくれもない。
「笑いすぎ!」
階段を上がりきったところで、軽く湊谷の肩を叩いた……つもりだった。
「あれ?」
「ん?」
突然立ち止まった二人の横を、二人の女子が不思議そうに通り過ぎていった。その女子二人はクラスメートだったが、固まっている二人はそのことにすら気付かない。視線はひたすら、湊谷の肩としずくの左手を行ったり来たりしている。
何が起こったか。一言で説明するならば、『すり抜けた』のだ。しずくの左手が、湊谷の肩を。
まるで、幽霊を触ろうとした時みたいに――――いや、少し違う。と、しずくは自分の考えを即座に否定する。
何故ならば、湊谷の肩をすり抜けた際、しずくの手にはなんらかの感触があった。もちろん、湊谷の肩の感触ではない。
水をかき分けるような、そんな感じで、何かを『引っ張った』。
しずくは、振り切ったばかりの左手を、逆再生の映像のようにゆっくりと戻していく。
手の甲が湊谷の肩に当たり、今度はすり抜ける事なく止まる。
さっきのは見間違いか? と二人が同時に考えた時、しずくの視界の隅で景色がぼやけた。
しずくが驚いて、すぐに顔を向けると、やはり景色の一部がぼやけている。まるで、そこに何かいるように揺れている。
「なんだ今の? ってか、どうかしたか?」
未だに自分の肩を見ながら驚きの余韻を残している湊谷は、この現象に気付いていないらしく、表情を強ばらせているしずくを見て怪訝そうにした。
しずくの視線を追っても湊谷の表情が変わらなかったことを考えると、これは霊的な何からしい。
「……なんかいるのか?」
状況を察したのか、声を潜める湊谷に、しずくは何度も頷く。
得体の知れないものに恐怖を覚えるのは人間として当然な事で、しずくは無意識のうちに湊谷のカッターシャツの袖部分を握っていた。
「霊じゃないのか?」
その問いに答えられずにいると、ぼやけている何かが少しずつハッキリと形作られていく。
それは人だった。いや、正しくは霊、なのだろうか。
男性で、見た目は四十代。創作ものでよく見る幽霊のように足がない。というより、身体の半分がない。もちろん、切れているとか千切れているとか、しずくが見たら卒倒しそうなグロテスクな外見になっているわけではなく、体は臍の辺りから下、腕は肘の辺りから下が少しずつ透けていっているのだ。
そんな霊は見たことがなかったが、しずくが驚いている原因は別のところにあった。
しずくは隣で怪訝そうに眉をひそめている湊谷を見る。
その幽霊の表情――しずくと同じように驚いているその表情は、湊谷にそっくりだった。
もしかして、と、しずくが考えたのは当然のことだろう。
とりあえず、ここにいるわけにはいかない。湊谷はもちろん、この霊も状況を理解出来ていないようなので、この場を動かすのは自分しかいないのだ。
「み、湊谷君、ちょっとこっち来て。……そこの人も」
謎の霊に声を掛けてから、湊谷を引っ張って、上ってきた階段を早足で降りる。
「どこ行くんだ?」や「やっぱ霊なのか?」等の質問が聞こえてきたが、返事をせずに内履きのまま、昇降口から出て、図書室棟へ向かった。あそこなら人もいないし、カップルだって流石に朝は来ないだろう。
道中、何度か後ろを振り返ると、霊は困惑した表情をしながらもゆらゆらと付いてきていた。
図書室棟裏に着くと、しずくは湊谷の袖から手を離し、覚悟を決めて振り返った。
湊谷と霊がいるかと思いきや、そこにいたのは湊谷だけだ。まさかどこかに置いてきてしまったかと心配になるが、それよりも湊谷に訊きたいことがあった。
「湊谷君、お父さんの写真とかって持ってない?」
しずくの問いに、湊谷は小さく目を見開いたが、何も言わずに携帯電話を取り出し、何か操作してから、そっと前へ差し出した。
画面には家族三人が写った写真が表示されていた。場所は広い草原。遙か後方には山が連なっている。最近の写真ではないらしく、両親の間にいる湊谷は小学校高学年くらいに見える。今と比べると可愛かった。写真の中の湊谷は笑っているという点も大きいだろうが。
しかし、子供と違って大人は数年でそこまで変わるものではない。少なくとも、外見では。
携帯電話から顔を上げたところで、図書室棟の角から先程の霊が姿を見せた。
「湊谷君」
霊を差す指先と声が震える。勘のいい湊谷だ。既に状況はほとんど分かっているらしく、珍しく緊張した表情でしずくを見ている。
「湊谷君のお父さん、そこにいるよ」
湊谷は、しずくの指先を追い、そっと目を閉じた。その状態を数秒。そして、ゆっくりと目を開いた。
「霊体になれない。……本当なんだな」
振り返る事なく、呟くように言った湊谷に、しずくは「うん」と短く返事をする。
霊――湊谷の父親は状況を理解したわけではないだろうが、息子の様子を見て朗らかな笑みを浮かべた。
「お父さん、湊谷君見て笑ってる」
そう口にした時に気付いた。いつの間にか、彼の身体が胸までしかなくなっている。
時間がないのだ。しずくはすぐに悟った。この状況を説明する時間も、しずくが自己紹介をする時間も、親子が――例え一方的な会話になろうとも――他愛ない話をする時間すら。
「父さん……」
湊谷は驚きのせいか、感極まっているのか、それ以上は言葉が出ない様子だった。
「湊谷君――」
状況を教えようと口を開いたしずくに向かって、湊谷の父親は首を横に振って見せた。
彼も、自分の状況は分かっているはずだ。それで黙っていろというのなら、自分に出来ることは何もない。
しずくはそっと身を引いて、二人をじっと見ていた。
父親は何かをずっと喋っている。しかし、それは湊谷にも、そしてしずくにも届かない。口が動いていても言葉は届かず、唇を読むことすら出来ない。父親が口にしているのはおそらく日本語なのだろう。しかし、まるで知らない言葉を聞いているかのような気がする。理解できるのは、絶対に理解できないということだけ。もちろん、湊谷の父親に限ったことではない。鈴がたまに口を開いても同じだし、桜子さんだってそうだった。違ったのは、霊体になった湊谷くらいだ。
幽霊相手なら当然のことなのだ。しかし、それをこんなにももどかしく思うのは初めてだった。父親の言葉を湊谷に一字一句伝えてあげたかった。
父親の身体は既に消えていて、首から上しか残っていない。
黙って俯いている湊谷を見て、しずくには焦りが溜まっていく。
何故、自分は霊を視ることしか出来ないのか。朝賀鶴久であれば、父親の言葉を伝えることはもちろん、もう少し親子の時間を稼ぐことだって出来るかもしれないのに。
この時、しずくは『もっと』を望んだ。鈴や桜子さんと話が出来ずとも、そういうものなのだと割り切っていた彼女にとって、その感情は初めてのものだった。
ふいに、視界が変わったような感覚を覚える。両眼の視力が一・五のしずくには分からないが、目の悪い人が眼鏡を掛けたらこうなるのかな、と頭の隅で思った。
その時点で、父親の霊は顎の部分まで消失していた。
彼は、俯きっぱなしの息子に微笑みかける。
次に言うのが最後の言葉だと、直感で分かった。
口が開く。一文字発して、また違う形に変わっていく。その一連が、まるでスローモーションのように見えて、彼が発した言葉が、テレパシーのように理解できた。
「会いに来るなら、もう少し簡単な方法もあっただろ……」
様々な感情を押さえ込むような湊谷の言葉に、父親は目を細めて、そして、音もなく消えた。
「湊谷君」
しずくの呼び掛けに、湊谷は微かに振り返る仕草をした。
「お父さん、消えちゃったよ」
そう言うと、湊谷は勢いよく振り返った。その瞳には涙が溜まっていて、だから顔を上げなかったし、こっちも見なかったのだと分かった。
自分と同じようなしずくの表情を見て、湊谷はその言葉が嘘でないと悟り、父親がいた空間にゆっくりと向き直った。
「そうか」
そう小さく言ってから俯いた湊谷の名前を呼んで、「あのね」と遠慮がちに続けた。
湊谷は反応せず、そのまま背を見せている。
「お父さん、最期に、『好きな景色は見つかったか?』って」
湊谷は反応しない。ただ、小さな声で、「先に教室行っといてくれ」と言っただけだった。
しずくは「うん」と頷いて背を向け歩き出す。
後ろから小さく「馬鹿だ」と聞こえた。
角を曲がる際に湊谷をチラリと見てみると、両目を覆うように右の掌を当て、空を仰いでいる。
「馬鹿だ」
微かに耳に届いた声に、しずくの瞳から涙が零れた。
さて、朝から予想外なことがあったせいで本人も忘れかけていたが、今日はとある作戦を胸に学校へやってきたしずくである。
校長先生の話もいい加減終わるみたいだし、それはイコールで終業式の終わりを意味する。いや、もちろん校長先生の話以外にも校歌斉唱とか色々あるのだが、全体の割合的に間違ってはいないだろう。
作戦決行はこの後にあるホームルーム後。終礼前の僅かな時間だ。
巻き込む相手は湊谷にするつもりだったが、朝にあんなことがあって、終業式中盤(つまり校長の話が始まって十分くらい経った辺りだ)になってようやく姿を表した彼にそんな役を押し付けるのはいくらなんでも気が引けるし、何のリアクションも取ってくれないと、しずくにとって教室は完全な生き地獄と化す。
とはいえ、クラスの一部の女子に睨まれている綾を悪目立ちさせたくはないし、四篠だと仲が良すぎて冗談を言い合っているんだと思われてしまいそうだ。となるとやはり適役は湊谷となる。
しずくはそっと振り返って、途中参加のため最後尾で腰を下ろしている湊谷を見る。
ぱっと見、いつもと同じ無表情だが、どこかダルそうで、そしてボーっとしているようだった。湊谷の無表情は他人を寄せ付けないオーラというか、気というか、そういう何かを放っていることが多いのだが、まるでそんなものは無かったかのように、どこか抜けた感じの雰囲気だ。
普段であれば、すぐ斜め横にいるしずくの視線にも気付きそうなものだが、ボーっと校長の方を見ていて、そんな気配すらない。
溜め息を飲み込みながら前に向き直ると、しずくと同じように後ろを見ていた綾と目が合った。彼女も、遅れてやってきた湊谷が気になっているのだろう。
締めに入った校長の話を聞き流しながら、しずくは予定通りにいかない現実に小さく肩を落とした。
終業式後のホームルームも終わり、あとは担任教師が職員室から戻ってきて終礼が終われば晴れて夏休みとなる。
なんとなく一学期分の疲れがどっときたような気がして、綾はダルそうに頬杖をついた。彼女の前にはいつもの二人、望美と千花がいて、夏休み中の部活――主に合宿のことについてキャッキャと話をしている。若々しい二人と比べると、自分が同年代のようには思えなくて、内心で溜め息を吐く。
ふと、しずくの方を見る。湊谷としずくの二人は、今朝から様子がおかしい。しずくは朝礼ギリギリで来たし、女王達が話し掛けても完全に上の空。湊谷なんか、これまで無遅刻だったのにいきなりの大遅刻。しかも、余裕のある時間帯に、しずくと校内にいたところを望美と千花が見ている。
何かあったのか。訊きたい気持ちはもちろんある。どうでもいいとは思えない。
しかし、綾の予想通り、それが霊関係のことならいい。だが、一応二人とも年頃でお互い恋人のいない男女なわけだし、もしかしたら『そういう』話題かも知れない。綾自身そういう話題は得意ではないし、首を突っ込むのも野暮だと思っている。しかも、そうだとすれば、今の二人の様子を見る限り、上手くいかなかったということになる。
湊谷はこれまでにないくらい気の抜けた顔をしているし、しずくはそんな湊谷をたまにチラチラと盗み見ている。恋愛経験の少ない綾だが、中学時代、何度か男子に告白されたことがある。その時の経験からすると、告白したのはしずくで、断ったのが湊谷に思えてくる。綾にフラれた男子達も、しばらくああして綾をチラチラと見ていた。告白されたことを言い触らされやしないかと心配なのは分かるが、たまに目が合うと、なまじフッたばかりの相手なだけに、気まずくてしょうがなかった記憶がある。
綾の視線の先、そんな男子達と同じような気弱な瞳で湊谷を見ていたしずくの表情が、急に変わった。目に力がこもったというか、何か決意したような表情だ。こんなしずくの顔を、綾は過去に見た事があった。
三か月半ほど前の、入学式当日。自己紹介の時と同じだ。
のちにしずくは『自己紹介は緊張したけど上手に出来た! 湊谷君の事以外は!』と、同席していた湊谷がツッコミすら出来ないほど良い笑顔で語ったのだが、傍から見れば大失敗、とは言わずとも失敗と言ってもいいくらいの噛み具合だったし、全身というか、精神的な部分にまで力が入りすぎていて完全に空回りしていた印象しかない。足もガタガタだった。
要するに、今のしずくは『何かをやらかしそうな表情』なのだ。
嫌な予感がして顔をしかめた綾に、望美と千花の二人が気付いて不思議そうな表情をした瞬間、椅子を引く大きな音と共に、しずくが勢いよく立ち上がった。
しずくの周りに集まっていた女王達はもちろん、大半のクラスメートの視線が集まる。気の抜けた顔をしていた湊谷も、驚いた様子で振り返っていた。
綾は頬杖から顎を浮かせた状態でしずくを見ている。
「あ、あのっ!」
そんな状況に気付いているのか、いないのか、おそらく後者であろう、しずくはギュッと目を瞑ったまま堰を切ったように大声を出した。
「私っ! 実は幽霊見えるの!」
先程よりも静まり返る教室内を、しずくは俯いたまま視線だけで見回した。見た目と違い、内心はいつになく冷静で、自分が教室内の注目を集めていたことにも気付いていた。というか、それも含めての作戦だった。
結局、湊谷を巻き込む気にはなれず、近くに居た女子達に言ったが、出来れば彼女達には言いたくなかった。自分で考えた作戦なので、からかわれるのが嫌とか、馬鹿にされるのが怖いわけではない。そりゃあ、嫌か嫌じゃないか、怖いか怖くないかで訊かれれば両方とも後者になるが、覚悟はしていた。
じゃあ何故、彼女達が適役でないかと言うと――。
女子達の一人、リーダー格の女子の口が笑みの形になっていく事に気付き、しずくは小さく肩を震わせた。怖いのは、冗談で済まされてしまう事だ。この場で全て流されてしまえば、噂として残る事もなく、現状は何も変わらない。
必要なのは、インパクトのある話なのだ。今、流れている噂を忘れさせるほど、インパクトのある噂。あるいは出来事。人は同情にはすぐ飽きるけれど、他人の面白い噂にはなかなか飽きない。中学の時に知ったことだった。あの時とほとんど同じ方法――と言っても、あの時にこの方法を取ったのは雪江だったが――になってしまったが、自分に関するインパクトのある話を考えた結果、これくらいしか思いつかなかったのだった。
だから、冗談で流してもらっては困るのだ。湊谷や綾が適任だと思った理由もそれだった。あの二人は何も考えずに『知ってるけど?』とか言いそうだし、何よりも、湊谷や綾に対してしずくが人を馬鹿にしたような冗談を言うなど、クラスメートからすれば有り得ない事だろう。よって、話の信憑性は増し、噂は広まる……という予定だった。
そんなしずくの内心も知らず、リーダー格の女子はとうとう笑みを完成させて、
「もー」
急に何言ってんの、夕樹さん。
続く言葉、作戦失敗を意味する言葉が頭に浮かび、しずくの表情に焦りが見えた瞬間だった。
教室の隅から、息を吹き出すような音、そして、大きな笑い声が響いた。
笑われる覚悟はあった。むしろ、中学や高校での自己紹介の時のように、クラス全員に笑われるくらいインパクトが無ければいけないと思っていた。
しかし、しずくの顔は恥ずかしくて赤くなるわけでも、俯くわけでもなく、ポカンと間抜けに口を開けて、笑い続けている男子生徒を見ている。もっとも、それはしずく一人に限ったことではなく、今度こそ完全に、クラス全員だった。
何故なら、先程から腹がよじれんばかりに大笑いしているのは、湊谷なのだ。もちろん、この教室内に湊谷と言う苗字を持つ生徒は一人しかおらず、湊谷葉その人。
彼が笑うだけでも珍しいのに、こんなに爆笑しているのを見ると、普段から湊谷と親しくしている男子達も驚きで言葉も出ないようだった。
それから数秒後、担任がやって来るまで、教室内には湊谷の笑い声だけが響いていた、
普段より半日早くやってきた放課後。
いろいろ報告したいことがある、という事で、綾は湊谷と共に図書室へ向かって歩いている。
終礼前は涙目になるほど笑い転げていた湊谷だったが、あれから十分も経っていないのにすっかり元通りの無表情となっている。安心したような、残念なような。
図書室に着くまでに湊谷が報告したのは、今朝、しずくが湊谷の父親を引っ張り出して成仏させたという事だった。もちろん、従姉の話を聞いていただけに、にわかに信じられる話ではない。しかし、二人がそんな嘘のために遅刻や演技をする理由が無いし、湊谷自身、もう幽体離脱は出来ないと言っている。
「なんで夕樹さんがそんな事出来たんだろうね」
綾が言うと、湊谷は肩をすくめて「さぁな」と返す。
「それに、湊谷のお父さん……つまりは幽霊の声が聞こえたんだよね?」
「本人はそう言ってたな。嘘吐いてる様子もなかったぞ」
どうでもよさそうに言う湊谷だが、綾としては少し気になる。
あとで従姉に電話して訊いてみよう。と決めて、他に気になっていたことを質問する。
「景色、っていうのは?」
「……お前って意外と知りたがりと言うか、訊きたがりだよな」
「そりゃ、知り合いの事だからね。他人の事はどうでもいいけど。湊谷だってそうでしょ?」
「……景色ってのは……」
その言葉は流して、先程の質問に答える……と思いきや、不意に質問を返してきた。
「越水は夕焼けが好きって言ってたよな?」
「うん、まぁね」
理由とかを聞かれても困るのだけど。
「親父もそうだったんだ。夕樹は帰り道にある景色、本屋は夕日が射し込んだ時の図書室が好きらしい」
「うん」
綾が相槌を打つと、数秒黙ってから湊谷はゆっくりと口を開く。
「俺には、そういうのがない」
「うん」
それは、普段から感じている湊谷のイメージ的にはおかしいことでも驚くような事でもない。
「いつだったか、親父にもそう言ったんだ。そうしたら、妙に悲しい顔で笑って、『いつか好きな景色が見つかるといいな』って言った」
「……湊谷が幽体離脱出来るようになったのは、好きな景色を見つけてほしいっていう、湊谷のお父さんの想いがあったから?」
綾が訊くと、湊谷は小さく苦笑を浮かべながら首を横に振る。
「さぁな。それだけが原因かっていうとそうじゃないかもしれないし。結局、自分の事は何も言わないで消えちまったし」
湊谷は、はっ、と乾いた笑いをこぼす。
「馬鹿だよな。そんなの気にしないで、ただ会いにくればよかったのに」
結局、そんな景色も見つけられなかったし、と呟いてから、湊谷はちょうど辿り着いた図書室へと足を踏み入れた。霊関係の話は美紗子には内緒にしている。つまり、この話はここまで、という事だろう。
「それで、さっきのアレは何だったの?」
いつもの席に着いてから綾がそう訊くと、湊谷の隣に座ろうとしていた美紗子が首を傾げた。
「あれって?」
「さっき、夕樹さんが教室で急に、自分は霊感がある! って叫んで」
それだけでもなかなかの奇行なのだが、美紗子は「へぇー」と呑気に聞いている。
綾は続いて、少し呆れた表情をしながら湊谷を指差した。
「んで、それを聞いた湊谷が爆笑したこと」
五秒ほどの沈黙の後、美紗子は困った顔をして先程よりも大きく首を傾げる。
「ばくしょう? 爆発とかで付いた傷の事じゃないよね?」
「なんであいつの行動で俺に爆傷が出来るんだよ」
そのツッコミに、美紗子は「だって……」と言葉を詰まらせてから、湊谷をチラチラと見る。
「うん、本屋ちゃん。その気持ちはすごく分かるよ」
綾が神妙に目を閉じて何度か頷くと、美紗子は苦笑を浮かべ、湊谷はそんな二人を見て顔をしかめた。
「俺だって面白い事があれば笑うっての」
そう言いながら、机の上に鞄を置いて中から一冊の本を取り出して美紗子に渡す。
「もう読み終わったんだね」
「まぁ、最近は暇になったからな」
美沙子が「ふぅん?」と少し不思議そうに首を傾げて本を鞄にしまうのを見てから、湊谷は綾に向き直る。
「んで、なんだっけ? 俺が笑った理由なら『面白かったから』としか答えようがないけど」
「別にそれはどうでもいいよ。私が知りたいのは、夕樹さんがあんな事をした理由」
「夕樹に訊いたら?」
「本人には聞き辛いでしょ。他に知ってる人がいるなら、そっちに聞くよ、私は」
湊谷は椅子の背もたれに体重を掛けて前足を浮かせながら、「なるほど」と呟いた。
「ま、俺が話すのは結局予想ってか妄想でしかないから言う分には構わないんだけど、越水が聞いても面白くない話だと思うぞ?」
「そうなの?」
ということは自分が関係する話なのだろうか、と予想する綾に、湊谷は頷きながら言葉を返す。
「だって、お前、戸牧のこと嫌いだろ?」
「戸牧……さん?」
「あぁ。あいつのアレは、戸牧がハブられてるのを助けようとしての行動だと思う」
湊谷がそこまで言ったとき、隣で黙って話を聞いていた美沙子が「あ」と小さく声をあげた。彼女は中学一年生の時、しずくと雪江とクラスメートだったのだ。今の言葉だけで分かっても、何の不思議もない。
「簡単に言えば、夕樹が養子で戸牧がどうこうって噂を、他の噂で流そうとした、ってところか」
そう言うと、湊谷はまたおかしそうに笑った。
綾は、納得しかねるものの、自分は何の推測も立てられないため、とりあえず湊谷の予想を信じることにした。
「それで、湊谷はなにがそんなに可笑しいの?」
頬杖をつきながら言うと、湊谷は笑いを口の端から漏らしながら答える。
「なにが、って言われても困るんだけどな。ただ面白かったってだけで」
まぁ、と湊谷は投げやりな感じに言葉を続ける。
「掻く必要のない恥掻きにいったのが面白かったのかもな。あと、あの時のアイツの顔」
「掻く必要のない?」
「あぁ。あんな噂、どうせ夏休みが終わる頃には九割がた消えてるだろうし、戸牧の今の状況だってそう長くは続かないだろ」
「そう? 今回は結構、溝が出来てるみたいだったけど」
「本当か嘘かも分からない――つっても今回は本人が認めてんのか。まぁ、たかが噂一つで離れるくらいの交友関係ならくっつくのだって簡単だろ。戸牧は性格も容姿も良いし、男にも女にも友達多いし、情報通だしな。敵にするよりも味方にした方がいいってことにそのうち気付くだろ」
思わず、綾はむっとした。湊谷の口から雪江を褒める言葉が出たのが、どうも気に食わない。裏切られたような気さえした。
そんな雰囲気に気付いた湊谷は苦笑しながら
「だから言っただろ?」
「綾ちゃん、嫉妬してる」
からかうような美沙子の言葉に、綾は苦々しい顔をする。
「別に嫉妬とかじゃないけど、湊谷って人を褒めないイメージがあったから意外に思っただけ」
もちろん嘘だし、湊谷や美沙子にもバレバレだろう。現に美沙子はいつにも増してコロコロと笑みを浮かべている。
「俺だって褒めるところがあれば褒めるぞ?」
「そうなの? てっきり、戸牧さんのこと好きなのかと思った」
「それもあるけどな」
「えぇっ!?」
思わず、といった具合に声をあげて腰を浮かせた美沙子とは対照的に、綾は黙ったまま驚きの表情を浮かべている。
「さっき言っただろ。容姿もいいし、性格もいい。この前話してみて、気だって合いそうだった。……って言っても、別に夜眠れなくなるほど恋い焦がれてるわけでも、三戸森から奪おうなんて考えるほどでもない」
湊谷自身、この気持ちに気付いたのは、つい先日、しずくと一緒に下校した後のことだった。
自分が好きなものを探したら、浮かんできたのは雪江だったのだ。
おそらく、入学式の時から好きだった。俗に言う一目惚れだ。そうでなければ、人に興味を持たないようにしていた自分が、しずくと雪江の少し複雑な関係に気付くはずもなく、美沙子の頼みだからといって、二人のことに口出しするはずもない。あれは、気が付けば二人を――というか雪江を目で追っていたから出来たことだ。
気付くのが遅かったためか、それとも、まだ、何かを好きになり過ぎないように壁を作ってしまっているのかは定かではないが、先程二人に言ったように、恋愛小説でよくある狂いそうなほど恋慕するような気持ちは全くない。ただ好きという、それだけだった。
「へ、へぇ……。でも、そうだよね。戸牧さん、運動出来るし、スタイルもいいし……」
美沙子は納得したように、あるいは自分を納得させるように呟きながら席に座り直した。
やぶ蛇だった、と綾は自分の発言を後悔しながら、なんとか話を良い方向に持って行こうと口を開く。
「でも付き合いたいとかじゃないんでしょ? それって、異性としての好きじゃなくて、友達としての好きなんじゃないの?」
そうなの!? というように美沙子が勢いよく顔を上げて湊谷を見る。
「いや、彼氏がいなきゃ普通に告ってたと思う程度には異性として好きだな」
藪をつついたら蛇がわんさか出てきた気分になった。
微妙な笑みを浮かべる美沙子と気まずそうに顔をしかめる綾に気付いたのか、それとも湊谷からすれば大した話題でもなかったのか、「そういえば」と簡単に話を変える。
「ここら辺で景色の良い場所とか知らないか?」
「そ、そこで告白するの?」
「しないっての。選択美術の宿題。夏休み中になんでもいいから絵を一枚描けって」
確かに、綾が選択した書道の授業でも宿題は出ている。合唱の授業でも宿題があるのかは知らないが、美術ならそんな宿題があってもおかしくはないだろう。
美沙子と顔を合わせてから、綾は首を傾げて肩をすくめる。
こちらに来て、ようやく一年が経つ程度の綾は、そんな景色に心当たりはない。
一方の美沙子は一応いくつか答えたが、書店だったり、図書館だったり、ここ、図書室だったりで、『出来れば屋外』という湊谷の希望で黙ってしまった。
「ま、なんとなく聞いてみただけだからな」
先程のこともあってか、少し落ち込んでしまった美沙子をフォローするように、湊谷は苦笑混じりに言う。
そんな光景を眺めていた綾に、ふと案が浮かんだ。
「明日から夏休みなんだし、景色探しにでも行ってみれば?」
もちろん、湊谷と美沙子の二人で。人はそれをデートという。
「わぁ、いいかも。ね?」
両手を合わせて乗り気な美沙子に対して、湊谷は微妙そうな表情だ。
景色を探すのなんて一人でいいだろ。そう言おうとした時、ふと、しずくの顔が、それに続いて通学路にあるしずくお気に入りの景色が頭に浮かんだ。
誰から見ても同じ景色でも、感じるものは同じとは限らない。しずくと出会わなければ、あの坂の上からの景色を特別視することはなかっただろう。もちろん、しずくがそうだからといって、湊谷がその景色を好きになったわけではない。ただ、家に帰ってから落書きついでに、あの景色を描く程度には気になるようになった。
人と関わらなければ分からないことがあるように、人と関わっていると分からないこともある。湊谷は父親が他界してから、後者を選び続けていた。しかし、今回の景色探しに関しては、おそらく人と関わっていた方が、誰かと一緒にいた方が気付けることが多いのだろう、となんとなく思った。
気付けば湊谷の表情は柔らかいものになっていた。
「あぁ、いいかもな」
美紗子は笑みを深めると、湊谷と綾を順に見た。
「じゃあ、いつ行こっか?」
「俺はお盆以外ならいつでも」
「ちょ、ちょっと待って。私も行くの?」
その体で話が進んでいることに気付いた綾が慌てて口を挟むと、湊谷は『何を今更』と言いたげな、美紗子は不思議そうな表情を向けてくる。
「言い出しっぺなんだから当然だろ」
「綾ちゃん、来ないの? やっぱり、バイトで忙しい?」
湊谷はともかく、美紗子までその気でいたとは、妙に気を遣ってしまったせいか肩透かしを食らった気分になる。この二人の関係は、他人から見るとなかなかに分かりにくい。
「バイト? 越水が? なんか合わねーな」
さらっと酷い事を言う湊谷に、美紗子は得意げに返す。
「綾ちゃん、ウェイトレスやるんだよ。シュウ君の時に皆で行った喫茶店で」
「更に似合わねーな」
想像しかねる、と言うように眉を潜めた湊谷に、何となく気恥ずかしさを覚えた綾は誤魔化すように片手を振りながら補足する。
「ウェイトレスっていうかただのフロアスタッフね。制服とかもなくてエプロン付けるだけだよ。それだけじゃなくて、他にも色んなことをしてもらうことになる、って言われてるし。っていうか、この中で一番バイトが似合わないのは湊谷だと思うんだけど」
「まぁ、そうだろうけど、二番目は越水だろ?」
簡単に認められてしまった上に否定出来ず、綾はうぐっと言葉に詰まる。とにかく、これ以上バイトの話を長引かせて『じゃあ見に行くねー』なんて面倒なノリにならないうちに話を戻そう、と決める。
「私もお盆とバイト以外に予定らしい予定はないよ」
でも本当に着いて行っていいの? そんな気持ちで向けた視線は、美紗子の嬉しそうな笑みに掻き消された。なんというか、面倒くさい二人だ。悪い意味じゃなくて。
しずくの元に雪江から連絡が入ったのは、夏休みが始まって十日ほど経ち、八月に入った頃のことだった。気温は七月に比べても大差ないが、このごろは日差しの強さが若干和らいできた気がする。とはいえ、暑いものは暑いし、外に出ると当然日焼けする。日焼けしやすいタイプのしずくにとって外出時のクリームは欠かせないものだ。少し油断すると、真っ黒になってしまうのだった。中学の頃は、しずくの日焼け姿を見た同級生に『元気な子』というあだ名を付けられたのは今となっては良い……とは言えないが、まぁ昔の事だ。
そんなことを久しぶりに思い出しながら、しずくは家から最寄りの駅に向かって自転車を漕いでいる。
昨晩、雪江から『ちょっと会って話がしたい』という旨のメールを受けたしずくは、待ってましたと言わんばかりに『じゃあついでに宿題を見てください』と返信した。雪江がいない夏休みは退屈で、暇ばかり持て余すため、宿題に手を付けたしずくだったが、全く持って理解できない問題が続く。そして、自分は毎年どうやって宿題を終わらせていたんだろう、と考えた結果、雪江に見てもらっていたことに気付いたのだった。
藁にもすがる思いで返信してしまったしずくだったが、断られたらどうしよう、とすぐに思う。それから二分後に返って来たメールを見て、彼女はほっと胸をなでおろしたのだった。
そしてメールで話し合った結果、お互い、家は都合が悪いという事で、駅に集合して、電車で移動、宿題は図書館でしようということになったのだった。
会うのは終業式以来、話すのはそれに数日追加した日数となる。駅に近付けば近付くほど心臓が激しく動き、息が切れた。その原因は緊張と、昨晩眠れなかったこともあるが、大半は運動不足のせいであることに彼女は気付いていない。
家から十分ほど自転車を漕いで、駅に着く。
駅員が二人、自動ではない改札口が一か所しかない小さな駅だ。待合室も小さく、冷房なんてものはない。大分古い木製の扉とホームへ続く扉が開けっ放しになっていて、たまに涼しい風が通り抜ける程度だ。冬はストーブが置かれるためまだマシだが、夏は地獄でしかない。平日の昼間だと、隣町に行く電車は一時間に一本だけ。時刻表を見て来たわけではないため、運が悪ければ長時間ここで足止めを食らう事になる。駅周辺にコンビニなど涼めそうな場所は無いし、自動販売機で冷たい飲み物を買って暑さを凌ぐしかない。
駐輪場に自転車を止めて待合室に入ると、中には雪江がいた。切符売り場の奥の方に駅員が二人ほど見えるが、客は雪江としずくだけらしい。
図書館へ行く前に、学校に寄ることになっているため、しずくと同じく雪江も制服姿だ。
しずくに気付くと、雪江は片手をあげて「久し振りだね」と小さく笑った。
確かに、そう言われると、かなり久し振りに会う気がする。たった十日とはいえ、雪江と仲良くなってから、一週間も会わない日があったかと考えると、それは当然のように思えた。
しずくが「うん」と頷くと、雪江は座ったまま少し横にずれた。
「私やしずくの噂、すっかり消えたよ」
空いたスペースにしずくが腰を下ろすと、雪江が呆れ混じりの笑みで言った。
「しずくのおかげで、というか、湊谷君のおかげなのかな?」
まぁ元を辿ればしずくのおかげだよね、と一人で納得した雪江に、しずくは首を傾げる。
「湊谷君がどうかしたの?」
「今、流れてる噂、知らないの?」
頷く。夏休みに入ってから、クラスメートとは全然連絡をとっていないしずくである。
しかし、一学期最終日に自分がとった行動を鑑みれば、答えはなんとなく分かってしまう。
「私が幽霊見えるとか、霊感があるとか……」
痛い子だとか、という自虐は飲み込んでおいた。
自分でやったこととはいえ、思い出すと恥やらなんやらで落ち込んでしまう。そんなしずくを見て、雪江は安心させるように片手を軽く振って笑みを作る。
「違う、違う。ま、それも全くないってわけじゃないんだけど、しずくのカミングアウトよりも、『あの湊谷君が笑った』って事の方がみんなにはインパクトあったみたい」
「……つまり?」
「噂になってるのは湊谷君ってこと。今は夏休みだから部活動やってる人中心だけど、この勢いだと二学期になっても消えてないだろうね。私のところにクラスの人から、『湊谷君と夕樹さんって仲良いの?』とか『付き合ってるの?』とか質問メールが来るくらいだから、学校始まったら質問責めにされると思うよ」
「えー……」
つまり、思惑通りとはいかなかったが、噂を他の噂で流すというしずくの作戦は成功したのだ。クラスメートから雪江のところにメールが来るということは、そういうことなのだろう。
「それでさ」と雪江は携帯を右手に持ってしずくを見る。
「しずくと湊谷君の関係ってどう答えればいいの?」
「どうって……」
「付き合ってはないんでしょ? 仲の良いお友達です、で、いい?」
なんか芸能人の熱愛ニュースでよく聞く台詞だった。そう考えると良いイメージがなくて、しずくが首を横に振ると、雪江は目を丸くして驚いた。
「付き合ってるの?」
「そ、そっちじゃなくて!」
慌てて否定するしずくに、雪江は「へぇー」と目を細めて意地悪そうに笑う。そんな表情を久し振りに見られたことが嬉しいのに心から喜べないのが悲しいところだ。
「じゃあ友達?」
「うーん……。なんかよく分かんない関係」
結局は『友達』が一番近いのだろうが、しかしそれだけでもない気がした。
しずくが頭を捻る様子をしばらく見てから、雪江は「私はね」と口を開く。
「二人は秘密を共有出来る関係なんだと思うよ」
ギクッと僅かに肩が震えた。雪江がまるで、湊谷の父親の事、自分の霊感の事など、全て分かっているような表情をしたからだ。
「たまにいるでしょ。どう考えても性格とか合わないのに、何故か仲が良い人達って」
「私と雪江みたいな?」
しずくが言うと、雪江は嬉しそうに、だがどこか困ったように笑って、
「私は湊谷君ほど懐が広くないけどね」
「懐、広いかなぁ?」
懐の広さというより、どうでもいいからあまり気にしない、という方が正しい気がするが、わざわざ良くないイメージを口にするのもどうかと思うので黙っておいた。
雪江は自信満々と頷いてから、「さて」と顔を上げた。
「あと少しで電車来るから、切符買っておきなよ」
しずくは頷いて、一つしかない券売機まで歩く。
二百円入れてボタンを探していると、後ろで雪江が思い出したように「あー、そういえば」と声を上げた。
「どうかしたの?」
「うん。そういえば、今日って図書館って休館日でやってないんだって」
「え、そうなんだ」
じゃあどこか代わりの場所を、と考えて最初に浮かんだのは喫茶店『ふらわ』だったが、綾がバイトをしていることを考えると、あそこに雪江と一緒に行くのは駄目な気がする。
「だから、どうせ学校に行くんだし、図書室で宿題やろっか」
「図書室?」
思わず聞き返してしまった。なんとなく、雪江は図書室を――というか、美紗子を避けているように思っていたからだ。とはいえ、良く考えてみれば夏休み中まで美紗子が図書室にいるとは思えないから、そうおかしくはない提案なのだ。だから、雪江が美紗子の事を少し受け入れてくれたような気がしたのは、しずくの気のせいなのだろう。多分。
日が暮れ始めた頃。湊谷、美紗子、綾の三人は校門を通った。
午後から景色探しをしていた三人だったが、今日で三日目にも関わらず、湊谷がピンとくる景色は見つかっていない。山登りをしたり、灯台に行ったり、海沿いを歩いたりして、様々な景色を見てきた。湊谷が持ち歩いているデジタルカメラにはその景色が残されていて、そんな写真を見た人のほとんどは『良い景色』だと言うだろう。実際、湊谷もそう思うし、写真や記憶を参考に何枚か絵を描いてみたりもした。美術の宿題はそれで十分だろう。しかし、美紗子や綾にはああ言ったものの、湊谷の本当の目的は、父親と同じように自分が好きな景色を見つける事なのだ。
景色探しに付き合ってくれている二人に、先程ようやくその事を打ち明けると、美紗子から『じゃあ図書室に行ってみない?』と提案があった。見慣れた景色を今さら好きになれる自信のない湊谷だったが、綾の『結局は、その景色を見た時の気持ちというか、状況ってのも大事だと思うよ』という言葉で、じゃあ行ってみよう、という事になった。
「ちょうどいい時間に着いたねー」
スキップしそうな軽い足取りで、湊谷の斜め前を歩く美紗子は、当然ながら私服姿だ。他の二人も同様で、湊谷は不意に『夏休み中でも学校に来る際は制服着用の事』という規則を思い出す。図書室が空いている以上、少なくとも早乙女はいるだろうし、軽い注意くらいは覚悟しておこうと心に決める。
「そういや」と湊谷は美紗子から綾に視線を移して口を開く。
「越水が夕焼けを好きになった時も、やっぱ状況とか関係あったのか? 言いたくなけりゃ答えなくていいけど」
以前の会話を覚えていたらしく、そう付け加えた湊谷に綾は微笑を浮かべながら「まぁね」と返事をする。
「私の場合も結構見慣れた景色だったし、特別なものがあったわけでもないけど、なんか好きになったよ」
「誰かと一緒に見たのか?」
「ん……。どうだろう。一緒に見たというより、一緒に居ただけかな」
そんな会話を興味深そうに聞いていた美紗子が、「もしかして彼氏? 元彼?」 と更に好奇心をむき出しにして質問した。
綾は苦笑して、手を振って否定する。
「違うよ。男ではあったけど、年上だし、彼女もいたからね」
「へぇー」
「本屋ちゃん、変な想像してない?」
「し、してないよ!」
していたらしい。湊谷と綾が小さく笑うと、美紗子は顔を赤くして足を速めた。
図書室棟の入り口で来客用スリッパに履き替えて、三人は階段を上る。窓からは夕日が射し込んでいて、美紗子は「本当にグッドタイミング!」と親指を立ててハイテンションになっている。
階段を上りきると、美紗子はたたっと小走りをして、一足先に図書室へ入った。飼い主の元へ駆け寄る子犬のような動きだった。
入口で足を止めた美紗子は、動きを止めてキョトンと目を丸くする。
「どうした?」
図書室に入りながら湊谷が問うと、美紗子は立てた人差し指を口元に持っていき、もう片方の手で図書室内の一点を指差した。
湊谷と綾はその指先を追う。
三人がいつも座っている席。
そこには、教科書とノートを開いたまま眠っているしずくと雪江の姿がある。
湊谷が気付いた時、窓から射す夕焼けが一層強くなり、眠っている二人、教科書、ノートが橙色に染められて、世界が切り替わったような錯覚さえ覚えた。
「えへへ」という小さな声が聞こえて顔を向けると、美紗子が嬉しそうに目を細めていた。綾も「ふん」と鼻で短く息をしながら、口元には笑みが浮かんでいる。
湊谷が前を向き直ると、日が当たったせいか、しずくがもぞもぞと動き始めた。
そんな光景を見ながら小さく呟く。
「なんか好き、か」




