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しずくと雪江と父親と~中編~




 しずくの言葉の意味を綾が知ったのは、それから二日後の事だった。

 昨日一日で、クラスの女王達がしずくに送る視線は険悪なものが多くなっていた。それは、女王達と雪江の仲が良かったためだろう。女王連中から、しずくはどちらかと言えば雪江の友達、つまりは友達の友達として認識されていたらしい。女王達にとって、雪江がいないしずくなど町民かそれ以下の存在なのかもしれない。そう考えると、女王達が雪江側に付くのは頷ける。喧嘩した当日から、突然大声を出したしずくを非難する声はあったし、何よりも酷いことを言うだけ言って教室から逃げたしずくと、教室で涙を流していた雪江では、後者に同情が集まるのは当然だった。

 だが、そんな教室内の空気は、新たな噂が流れた事で一変した。

 夕樹しずくは養子らしい。そして、中学時代、その噂を面白可笑しく学校中に広めたのは、中学一年の時もクラスメートだった戸牧雪江だ。そんな噂だ。

 綾が初めて耳にしたのは、今朝、登校してきて、下駄箱に外履きをしまっている時だった。生徒が集まる朝の昇降口では様々な話し声が飛び交っていて、その中の一つがその噂だった。

 その後、千花と望美からも『噂って本当なの?』と質問された事を考えると、かなり早いスピードで噂は広まっているものと思われた。

 当然、しずくとそんな話はした事が無かった。しかし、二人の話によると、雪江本人は、その噂は真実だと全面的に認めているという。それならば本当なんじゃないか、と言いたいところだが、厄介な事に、しずくは、噂は嘘だと言っているらしい。もっとも、しずくの証言は『雪江を庇ってるんじゃない?』とか『養子だって事を知られたくないんじゃない?』という何の根拠もないくせに自信だけはたっぷりな女王達の意見によって嘘だと判断されつつあるようだ。

 そうして、教室の空気は一変した。同情は完全にしずくの方へ向けられ、そして雪江には軽蔑するような視線が向けられるようになった。クラス内順位にあまり縛られず、そして大人しい性格で町民などの友人もいたしずくと違って、雪江は女王達しか友人がいなかったため、クラスで孤立するのに半日もかからなかった。噂は本当だという雪江に反省が見られなかった、むしろ開き直っているような態度だったことも確実に関係しているだろう。

 昨日の事を忘れたかのように馴れ馴れしくしずくに話し掛ける女王達を見ると、知らず知らずのうちに眉間に皺が出来る。

 夕樹さんも『昨日と随分態度が違うね』くらい笑顔で言ってやればいいのに。そんな事を考えながら綾が目を向けると、しずくは女王達に生返事をしながらどこか別の場所をチラチラと見ていた。また湊谷でも見てるのかな、と思ったが、視線を追うとどうやら違うらしい。

 彼女の視線の先には、三戸森と話をしている雪江の姿があった。あの二人は付き合っているらしいし、昼休みにああやって話をしているのはいつものことだ。もっとも、普段はしずくや四篠も一瞬にいるため、二人だけでいるのは珍しいのかもしれない。

 女子ほど噂というものに関心のない男子でも今回の事は知っている筈だ。同じクラスなら尚の事。それでも普段通りに接してくれる彼氏がいるというのは幸せなことなのだろう。

 でも私ならまず戸牧さんを怒るけど。と綾は三戸森に非難の目を向けてから、自分がいつになくイライラしていることに気付き、小さく深呼吸をする。三戸森は関係ない。この怒りの原因は――根本的に言えば、もちろんしずくと雪江の喧嘩なのだが――あの女王達にある。誰かにすり寄らないと誰かを非難も出来ない。まるで大義名分を掲げるかのように除け者を作る。言ってやりたい。

『あんた達は無関係でしょ。二人の問題なんだから二人に任せれば?』と嫌みたっぷりの口調で。

 しかし、それが通じるような相手ではないことくらい、綾にも分かっている。それに今の状況はしずくにとって悪いものではない。本人はあまりよく思っていないようだが、端から見れば大逆転だ。ここで嫌われ者の自分が口を出して下手に拗らせるよりは、このまま傍観していた方がいいのだろう。

 それに、綾自身、雪江のことをあまり好いてはいなかった。いや、確実に嫌っていた。

 女王達にばかり媚びを売るような態度を取り、それ以外の女子には目も向けない雪江のことを軽蔑していたのだ。ある意味では、女王達よりも嫌いだった。しずくが彼女のことを好いていたので今までその感情を表に出したことはなかったが、今回の件では良い気味だとさえ思っている。

 性格悪っ。と自己嫌悪しながらも、その感情を簡単に殺すことなど出来ない。美沙子はもちろん、知り合いには絶対に見せられない一面だった。

 湊谷はどう思ってるんだろう。また我関せずかな。と今度は湊谷に顔を向ける。相変わらず、無愛想な顔をしているわりに、彼の机の周りには男子が二、三人集まっている。町民か、それより少し下くらいの男子達だ。普段なら彼らと話をしているか、机に突っ伏して幽体離脱をしている湊谷だが、後者の選択肢が消えたため、最近は授業中も休憩中もずっと起きている。幽体離脱が禁止された初日なんかは、授業が始まる度に『湊谷、今日は起きてるんだな』と教師に言われていた。嫌みではなく純粋な驚きが含まれた言葉だった。

 しかし、今日は違った。湊谷もまた、しずくと同じ様に雪江を見ていたのだ。雪江の席は、綾の席と湊谷の席のちょうど間にあるため、二人は自然と目があった。湊谷はちょうど友人に話しかけられたらしく、すぐに顔を逸らしてしまったが、彼が雪江を見る表情は、綾が見たことのないものだった。

 軽蔑でも嫌悪でもない。それは憐れみだ。だが、同情とは少し違う。

 一体、湊谷は何を考えながらあんな表情をしていたのだろう。

「湊谷君、最近真面目に授業受けるようになったよね」

 綾の視線を追ったのか、千花が思い出したように言った。

「期末の成績悪かったのかな」

 望美は少し声を潜めながら返事をする。

 部活のこともあってか、この二人はことあるごとに湊谷を気にしている。一応、湊谷が部活に入らない理由は伝えたのだが、やはり諦められないらしい。湊谷にとって不幸なことに、彼の入部を希望する者がまた一名増えた。

 昨日、湊谷の言葉を綾が伝えると、千花と望美はすぐさま森広さんの勧誘へ行った。相手が同性だと行動力の上がる二人である。その結果、森広さんは美術部へ入部することになった。ここまでは湊谷の思惑通りだろう。しかし彼にとって想定外だったのは、千花と望美の『湊谷入部作戦』を聞いた森広さんが乗り気になってしまったことだった。しかも森広さん、千花や望美と違って、湊谷と普通に話が出来る。そのため、廊下で偶然会った時や、体育などの他クラス合同授業などで顔を合わせる度に『入部しない?』と言われるらしい。昨日、図書室へ眠りに、ではなく、美沙子に借りていたらしい本を返しに来たときに聞いた話だ。湊谷が自らそういう話をするのは珍しく、大分参っているようだった。

「綾ちゃん、湊谷君から何か聞いてる? テストの事とか」

「さぁ。詳しい点数は聞いてないけど、普通って言ってたから五教科で四百点くらいじゃない?」

 ちなみに綾もそのくらいだ。美沙子は三百点を越えるくらい。しずくはテストの話題を始めた途端泣きそうになっていたから聞いていない。

「それじゃあ別に成績が悪くなったってわけじゃないね」

 望美の言葉に綾は頷く。中学の時は五教科で三百五十点くらいだったと言っていたことを考えると、まだ高いくらいだろう。

「もしかして不眠症?」

「もともと寝過ぎだっただけだと思うけど」

 当たり前のことを言うと、千花は目から鱗だと言うような表情をした。

「そっか。そう言われればそうだね」

 どうやら、湊谷のせいで千花の中にある普通の授業風景が改変されつつあったようだ。

「でも、そう言えばなんだけど、なんで湊谷君ってあんなに授業中に寝てたんだろう? 夜に寝ないのかな」

 授業中に寝てるのは幽体離脱をしてるからだけど、答えるわけにはいかないよね。と考えたところで、ふと疑問が浮かぶ。

 そう言えば、何故湊谷は授業中に幽体離脱をしているのか。というか、放課後に図書室で幽体離脱をして何をしていたのかすら聞いていない。散歩だろうか。いや、わざわざ学校で霊体になってまですることじゃないと思う。

 また今度、聞いてみよう。綾がそう結論を出す頃には、湊谷の事から、夏休みにあるという美術部での合宿のことへ話は移行していた。

「綾ちゃんも来ない? 隣の県だし、お金とかはあんまりかからないと思うけど……」

「それって部外者が行っていいの?」

「うん。別にバスとか民宿とか貸し切るわけじゃあないし。……湊谷君も来ないかなー。男子って三年の先輩一人だけでちょっと可哀想だし」

 確かに、合宿に行って一人部屋というのは悲しい気がする。しかし、湊谷が増えたところで、状況的にはあまり変わらないのではないだろうか。

「湊谷に聞いてみる?」

「あ、ううん。大丈夫。森広さんが聞いてみるって言ってたから」

「そっか」

 どうやら、自分の役割は森広さんが引き継いでくれたらしい。よかった、よかった。これで湊谷に話しかける度に『勧誘か?』としかめ面をされることもなくなるだろう。

「それで綾ちゃんは来る?」

「あー、ううん。私、夏休みはバイトと実家帰りがあるから無理かな」

 綾が言うと、二人は声を揃えて「ええ?」と驚いた声を出した。

「綾ちゃん、バイトするの?」

「え、うん。言ってなかったっけ」

 千花の問いに答えると、二人は仲良く揃って頷いた。

「どこで? どこでバイトするの?」

「えっと、南公園の横にある喫茶店。知ってる?」

 二人は首を傾げる。知らないらしい。

「でも南公園って綾ちゃん家と逆方向じゃない?」

「うん。まぁ遠いけど、シャワー使わせてもらえるらしいから、朝のジョギングついでに出勤しようと思ってる」

「へー。ねぇねぇ、制服とかってあるの?」

「制服は無いけど、エプロンみたいのは着けるよ」

「へー!」

 何故かテンションが右肩上がりの二人。

「私達も行ってみよっか」

 千花が言うと、望美も「いいねー」と同意する。まぁ、来る分には構わない。客が増えるのは良いことだ。

 喫茶店の名前と詳しい場所を教えると、二人は「楽しみだねー」とキャッキャしだす。

 しかし、ふと思い出したかのように、望美が「あれ?」と不思議そうな声をあげる。

「どうかした?」

「綾ちゃん、さっき『実家帰り』って言ったよね?」

「うん」

「それって、お父さんかお母さんの実家ってこと?」

 あぁ、と綾は納得する。確かに、その場合だと、娘が『実家帰り』という言葉を使うのはおかしいだろう。実際、綾もそういう意味で言ったわけではない。

 って、あれ?

「二人に言ってなかったっけ? 今、私が住んでるの親戚の家なんだけど」

 そう言うと、二人は「聞いてないよ!」と声を揃えた。

「あれ? そうだったっけ? 私が中学三年の頃にこっちに引っ越してきたってことは知ってるよね?」

「知らないよ! ……というか、よく考えたら、私達って綾ちゃんのこと何も知らないんじゃない?」

 望美が『まさか』といった表情で言うと、千花もハッと口を開く。

「確かに。そうかも」

 何か面倒臭そうな流れになりそうだなぁ、と綾が警戒したところで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

「あー、残念。『綾ちゃんのことをもっと知ろうタイム』を始めようと思ったのに」

 千花の心底残念そうな表情に苦笑をこぼしながら、内心助かったと思った。




 なんであんな嘘吐いたの?

 未だに使い慣れないスマートフォンに、しずくからのメールが届いたのは四時間目の授業が始まる前のことだった。

 返事を出さなかったためか、昼休み中は背中に視線を感じたような気がしたけど、気のせいかもしれない。むしろ、自分が気にしすぎているのかもしれない、と戸牧雪江は思う。

 気のせいじゃないのは湊谷と綾の視線だが、何故あの二人が自分に注目しているのかは見当も付かない。クラスで一番、噂話などに興味が無さそうな二人だ。もっとも、二人ともしずくと仲が良いし、いい気味だとでも思っているのかも。と雪江は考えていた。

 そんな事があった放課後、これまでまともに話したこともなかった湊谷に『ちょっといいか?』なんて言われれば、警戒するのは当然だろう。

『いいけど』と答えると、『じゃあこっち』と言って以来、ずっと黙って歩いている湊谷の背中を見ながら、やっぱり断ればよかった、と思う。教室内に三戸森がいればどうとでも理由が付けられそうだったが、何故か鞄が机の上に置かれたまま本人の姿はなくなっていたのだ。トイレでも我慢していたのだろうか。

 渡り廊下に出たところで、図書室に行くのだろう、と予想した。湊谷が放課後図書室に入り浸っているという話は耳にしたことがある。

 しかし、話をするとしたら図書室は向かない。出来ないことはないがどうしても小声になるし、第三者に話を聞かれる可能性だって高い。

 湊谷は渡り廊下から図書室棟に入り、そのまま階段の方へ向かう。図書室は渡り廊下から入って左側にある。どうやら、ここが目的地ではないらしい。

 そこで、雪江は『まさか』と思う。

 近くに一カ所だけあるのだ。人気が少ない場所が。

 雪江の予想通り、湊谷は階段を下りて図書室棟から出ると、校舎へ続いている舗装された道から外れて図書室棟の壁沿いに歩いていく。

 図書室棟裏。バカップル御用達、この高校きってのイチャイチャスポットだ。他人のそんな場面を見たくない雪江は、ここに来ること自体初めてだった。湊谷はここのことを知っているのだろうか。

 警戒心が増す。こんな場所で安心して話をするには、湊谷は謎すぎるのだ。もっとも、雪江にも切り札はあるが。

 図書室棟裏へ曲がるとき、誰かいるんじゃないかと冷や冷やしたが、先を歩く湊谷が何も反応しなかったのを見てホッとして曲がった。

 誰もいない図書室棟裏は確かにひっそりとしていた。図書室棟と裏山に囲まれた場所は常に日が当たらないのか、他の場所よりか随分と温度が低く、たまに吹く風も涼しくて心地いい。なるほど。確かにここは休憩するには絶好の場所なのかもしれない。夏は、特に。イチャイチャスポットでなければ自分が使いたいくらいだった。

 しかし、ここからでも図書室の開いている窓は見える。

「ここで話するの? 図書室にいる人に聞こえない?」

「馬鹿みたいにデカい声出さなけりゃ、意外と聞こえないから大丈夫」

 つまりは何かあった時は馬鹿みたいに大きな声を出さないと助けが来ないわけか、と思いながら、

「それで、何の話?」

「夕樹の話」

 湊谷は簡潔に即答する。まぁ、雪江にとって予想出来たことではあった。意外でないと言えば嘘になるが。

「戸牧は、なんで自分を悪役にしてまで夕樹のことを守ってんだ?」

 その問いに、心臓が跳ね上がるほど驚いた。間違いなく、表情にも出てしまっているだろう。

 しかし、湊谷は最初から顔色一つ変えない。何も考えていなさそうな無表情のまま、核心を突いてきた。

「バレたのが意外そうな顔してるけど、端から――というか、『外』から見りゃ一目瞭然なんだよな」

 湊谷はそう言うが、クラスメートや友人達にはバレていない自信がある。事情を知っている中学からの知り合いは仕方ないにせよ、それ以外の人には――三戸森だって、雪江が打ち明けるまでは気付くどころか気にしたこともなかったと言っていたくらいだ。

「まぁ確かに」

 雪江の顔を見て、湊谷は言い直した。

「戸牧に近すぎる奴――それこそ夕樹本人だったり、いつもの男子二人だったり、騒がしい女友達連中は気付かないだろうな。あと、戸牧に対して先入観がある奴とか」

「それに気付いて、湊谷君はどうするつもりなの?」

「さぁ? 今は気になるから聞いてるだけ」

 その言葉に思わずムッとする。そんな軽い気持ちで聞いてほしくはない。

「……中学一年の時、しずくの自己紹介の話は知ってる?」

「あぁ。本屋から聞いたな」

 本屋? と一瞬だけ疑問に思うが、すぐに本谷美沙子のあだ名であることを思い出す。湊谷と美沙子の仲が良いという話は聞かないが、二人とも図書室の常連、そして越水綾という共通の友人がいるのだから、交友関係があっても何もおかしくはない。これは学校の友人には話していない情報だが、公園近くの喫茶店で四人がいるところを発見されたこともある。

「幽霊が見えます、ってやつだよな? それで、それが?」

「それを広めちゃったのが私だから、反省して」

「嘘吐け」

 大声をあげたわけでもないのに、その言葉には威圧感があった。思わず、体が固まってしまうくらいの。いや、ただ単に図星だからそう感じるだけだろうか。

「その話を聞いたとき、夕樹も近くにいたんだ。言ってたぞ。今でも戸牧にはたまにからかわれるって。反省してるなら、そんなことしないだろ、普通。まぁ広めたのが戸牧ってのは本当なのかもな。でも、だとしたらそれは他の噂を隠すためのもんだろ」

「……なんでそんなに知りたいの?」

 湊谷の言うことがあまりに的を射すぎで、恐怖すら覚えた雪江は言葉を遮るように質問した。

「ただ気になるからってだけでこんなに首突っ込むような人じゃないでしょ、湊谷君は。しずくのこと好きなの?」

「まぁ、話を聞かせてもらえるならそういうことにしてもいいけどな」

「違うなら……。本当に興味本位なら、もうこれ以上首を突っ込まないで」

「なんで?」

「誰にだって人に話したくないことくらいあるよ」

 少し言おうか迷ったが、雪江は一呼吸入れてから湊谷を真っ直ぐに見た。

「湊谷君だって、お父さんの事を他人にどうこう言われるのは嫌でしょ?」

 湊谷は珍しく驚いた表情をしてから、小さく苦笑いを浮かべた。

「流石、情報通だな」

 脅しととられても仕方がない――むしろ雪江にとっては脅しでしかない言葉に対して、湊谷は可笑しそうに笑う。

「親父のことを言いふらす代わりに話を聞かせてもらえるっていう交換条件なら乗るけど?」

「……話してもいいの?」

「誰も困らないだろ」

「鬱陶しいくらい同情されるよ?」

「ほんの少しの間だけだろ。同情で周りの人間が全員味方になるなら、戸牧が夕樹を守る理由なんて端から無いことになる」

 それにしても、と湊谷は雪江の目を見つめ返す。いつもの無表情なのに、どこか柔らかい雰囲気があり、心無しか優しい顔に見えた。

「今ので、色々と納得した」

「納得?」

「戸牧や夕樹と同じ中学出身の女子が何も言わない理由。あいつらだって、こんな状況になる前はそれなりに戸牧と仲良さそうにしてただろ? なのに、周りに流されるままだ。俺が知らない真相だって知ってる奴らもいるんだろ?

 つまり、同じ中学出身の女子達にとって、今の状況は悪くないものなんじゃないかって考えれば答えは出る。

『誰だって人に話したくないことくらいはある』。それを利用して、さっきみたいに暗に脅しを掛けたんだろ? 夕樹をよく思っていない奴らに。情報通ならではの方法だな」

 そこまで言ってから、湊谷は喋り疲れたように「はぁ」と小さく息を吐いた。

 雪江は返す言葉もなく立ち尽くしている。そんなことは、三戸森にも話していないのに。

「まぁ、同じ中学の奴全員とはいかないだろうけど、今の状況を見るに結構上の奴に脅し掛けたんじゃないのか?」

 その通りだった。中学三年の頃、しずくをイジメの標的に選んだ女子を脅した。彼女は今も同じクラスにいて、中学の時と同様、学年で見てもなかなか目立つタイプの女子だ。他のクラスにも脅しを掛けた女子はあと二人ほどいるし、彼女達も関わっているのかもしれない。

「そうだとしたら、どうするの? それとも自分の推理が当たってるか知りたいだけ?」

 誰にも知られたくなかったことを知られたせいか、雪江の瞳には明確な敵対心が出ている。

 だが、湊谷はそんな視線を軽く流して軽薄な笑みを浮かべる。

「それを言われたくなきゃ、話を聞かせろ、ってのは?」

 先ほど雪江が言ったのと全く同じ脅し文句に、雪江は「ふん」と鼻で返事をする。

「勝手にすればいいよ。私は何も困らないし」

「そりゃあ戸牧は困らないだろう」

 当然、というような口調に、雪江は怪訝な表情を浮かべる。

「でも、夕樹がそんな話を聞いたらどう思う? 平等な立場にいると思ってた友達にずっと守られていたとか、自分のために友達が誰かを脅していたとか知ったら? 夕樹みたいなお人好しには、無視程度の苛めよりもキツいんじゃないか?」

「………………」

 卑怯だ。自分だってそういう人間だと自覚しながらも、雪江はそう思わざるをえなかった。

「……もうしずくは、私の事を友達だなんて思ってないでしょ」

「そんなわけないことくらい、戸牧が一番分かってるだろ。俺と越水との約束を忘れっぱなしでいるくらい気にしてるよ、あいつは」

 こんな分かりきったことを言うのは馬鹿馬鹿しい、そんな湊谷の感情が言葉に乗っていた。

「戸牧が話さないなら、夕樹に直接聞く。あいつが話さないなら、今の話を聞かせて、戸牧みたいに脅してでも聞き出す」

「そんなのっ……!」

 絶対に駄目だ。泣きそうな笑みを浮かべるしずくの顔など、もう二度と見たくない。

「なんでそこまでして……。もう放っておいてよ……」

 俯きながら懇願するも、湊谷は何も反応しない。

 誤魔化しも嘘も通用しないだろう。ここまで推測を打ち立ててきた湊谷だ。もしかしたら、事の真相も予想がついているのかもしれない。これもまた、誰にも言ってない。言えないことだった。

 ゆっくりと顔を上げた雪江の表情に敵対心はなく、諦めの念が色濃く表れていた。

「私としずくが中学一年の時――――」




 小学生までの雪江は、人よりもちょっと可愛く、ちょっと元気な女子だった。

 だが、中学に入って、半年が経つ頃には、情報通というステータスがついていた。その情報をどこから仕入れていたかというと、顔の広い母親からだった。つまり情報通といわれるべきなのは雪江ではなく雪江の母なのだが、雪江はさも自分が仕入れたかのように様々な噂を流していた。

「ハッキリ言って、調子に乗ってたの。私が話し始めるとみんなよってきて、クラスのリーダーになった気分だった」

 そんなある日、夜中に目を覚ました雪江がトイレに行く途中、両親の寝室から話し声が聞こえることに気が付いた。

 普段、雪江が母親から噂話を聞くのは食事中くらいだった。

 もしかしたら、もっと面白い話が聞けるかもしれない。

 そう思った雪江は、寝室のドアに耳を当てて両親の会話を盗み聞きすることにした。

「雪江のお友達に夕樹しずくちゃんって子がいるんだけどね」

 まず聞こえたのは母親の声。続いて、仕事疲れのせいか眠たそうな声で「あぁ」と返事をしたのは父親だ。

「その子ね、どうも養子らしいの。夕樹さん家の奥さんって子供が出来にくい身体らしくて、不妊治療とか頑張ってたらしいんだけど、やっぱり駄目で――」

 そこまで聞いて、雪江はドアから顔を離した。

 夕樹しずくとは中学に入ってから友達になった。自己紹介の時にとんでもない事を言ってクラスを沈黙させて、それ以来、その事をからかうと顔を真っ赤にする。いじられキャラの、可愛い女の子だ。

 まさかしずくが養子だったなんて。

 驚きながらも、雪江の顔には笑みが浮かんでいた。

「これは凄い情報だ。って、それしか頭になかった。本当に、どうしようもないくらい調子に乗ってたの。中学一年だから、子供だから、なんて言い訳にならないよ」

 翌朝、登校した雪江は、すぐさましずくの机に駆け寄った。

 面白い話がある。雪江のそんな顔を見てか、しずくの机の周りにはあっという間にクラスメート達が集まった。

「それが嬉しかったの。純粋に、無邪気に、最低だった」

『しずくって養子なの?』

 えー、なんで知ってるの?

 しずくはそんな反応をすると思っていた。

 しかし、しずくはキョトンと目を丸くしてから首を傾げて、

『え?』

 と一言だけ口にした。

 その反応の理由を雪江が察する前に、周囲のクラスメートがざわざわと騒ぎ出し、様々な言葉が飛び交う。

 そんな中から『本当かよ?』とか『嘘じゃないの?』という言葉が耳に届き、雪江は怒ったように『本当だよ!』と言って、母親から聞いた話をそのままクラスメートに伝えた。

「私が話し終わった時には、もうしずくは泣いてた。知らなかったんだって。全部」

 その事を知って、雪江は反省した。今更反省している自分にとてつもない嫌悪感を覚えた。

 噂の真偽を聞いてくるクラスメートに、しずくが泣きそうな笑みを浮かべて答えているのを見る度に吐き気が襲ってきた。トイレに駆け込んで、本当に吐いたこともあった。

 そのうち学校に行くのが怖くなり、一週間ほど体調不良を理由に休んだことがあった。

 週明けの月曜日、しずくが迎えにきた。

『大丈夫?』

 そんな一言で、もう涙が止まらなかった。その日は結局休んだけれど、次の日から学校へ行くようになった。

 約一週間振りのクラスは、同情に満ちていた。クラスメートにとってしずくは可哀想な子となっていた。

 しずくの居心地悪そうな表情は今でもよく覚えている。

 だから、雪江はせめて自分だけでもと、前と変わらない態度でしずくに接することを心掛けた。その頃は大分ネタにされることも無くなっていた自己紹介ネタでからかい、真っ赤になるしずくを見て笑っていた。

 そのうち、クラスメート達はしずくに同情の視線を向けることを止めた。しずくは以前と同じ様にいじられキャラに戻った。

「その頃の私は、自分の作戦が成功した、なんて思ってたけど、湊谷君の言うとおり、ただ単にみんな同情するのに飽きただけだったのかもね」

 現在、高校生になった戸牧雪江は自嘲するような表情を浮かべながら話を終えた。

「じゃああの噂話は本当だったわけか。夕樹が嘘だっつってたから嘘なんだと思ってたけど。ま、あいつは『言い触らされたわけじゃない』とでも思ってるのかもな」

 納得するように言う湊谷に、雪江は頷きながら笑みを向ける。

「これで満足?」

 嫌みで言ったつもりの言葉が予想外に柔らかく優しい口調になって、雪江は自分のことながら驚く。そして、心が軽くなっている事に気付いた。

 誰にも言うべきではないと思っていた。それは今も変わらない。

 しかし、話すことを頑なに拒んでいた時と比べると心はスッとして、世界が広がったような感覚さえ覚えた。

「まぁ、そうだな」

 噂の真相を知ったためか、湊谷はすっかり興味を失ったように後頭部を掻きながら、チラリと視線を上げる。話をしている途中も何度か同じ動作をしていた。一応、図書室から誰も覗いていないか気にしてくれているらしい。

「湊谷君、これからもしずくと仲良くしてあげてね」

 雪江が言うと、湊谷は少し意外そうに片眉を上げて、口元だけで笑って見せた。

「俺は女子を脅迫するような奴だけど?」

「もしそんなことしたら、湊谷君の恥ずかしい噂流すから」

「デマも取り扱ってんのか、戸牧は」

 小さく笑う湊谷を見て、雪江も笑う。

 心が軽かった。脅迫されて仕方なく喋ったのに、お礼を言いたくなるくらいに。

 話も終わり、そろそろ帰ろうかという雰囲気が流れ始めた時、湊谷が「そういえば」と口を開いた。

 まだなにかあるのだろうか。

 内心で首を傾げる雪江。

「どうして俺や越水や本屋が夕樹と一緒にいたのか、戸牧は知ってんのか?」

 戸牧は首を横に振る。彼女のもとに入ってきた情報は、公園や喫茶店で四人が一緒にいたというものだけ。しずくに聞いても、『四人で遊んでただけ』とバレバレの嘘を吐いただけだった。

 そのことを告げると、

「公園ってどこの公園か知ってるか?」

「南公園でしょ? 喫茶店は、南公園の傍にある『ふらわ』ってお店」

「……どっから流れるんだ、そんな噂」

「主婦ネットワークとか、他の学校の生徒とか。あの喫茶店の前が通学路の生徒くらい、この学校にもたくさんいるしね」

 雪江からすれば当然のことなのだが、湊谷は呆れたような表情をする。そんなの見たとしても噂するような事かよ。湊谷の顔からはそんな内心が読みとれた。

「喫茶店にいたのが越水さんと本谷さんの二人だったら噂もあんまり広がらなかったと思うけどね。しずくと湊谷君がいたとなっちゃあ話は別」

「俺も原因に入るのか」

「湊谷君、クラスの人とあまり話さないから謎の人物扱いだしね」

 初耳だったのか、湊谷は嫌そうに顔をしかめる。

「そんな人が、しずく、越水さん、本谷さんっていう、色んな意味で目立つ三人と一緒にいたら、そりゃあ噂にもなるよ」

 一呼吸置いて、

「それで、四人が一緒にいた理由がどうかしたの? というか、それって私に教えていいの? しずくにはバレバレの嘘吐かれたんだけど」

「そうなのか? んじゃあ、止めといた方がいいか」

 しまった。黙って聞いていればよかった。

「まぁ、じゃあヒントくらいにしとくか」

 思ったことが顔に出たのか、湊谷はそう言って、何かを考えるように視線を少し上に向けた。

「じゃあ」と口を開いたのは数秒後。

「夕樹の特技と、南公園付近で最近起こったこと。……ほとんど答えだな、これ」

 独り言のように小さく呟くと、湊谷は「んじゃ」と軽い挨拶をして身を翻した。

 その背中を見ながら、雪江は考える。

 しずくの特技? 耳をピクピク動かせること? いや、あんなしょうもない芸は関係ないだろう。それじゃあ、寝相が壊滅的に悪いこと? いや、中学の修学旅行での『眠りのしずく暴走事件』で反省しているだろうから、まさか特技として話すことはないだろう。

 先に『南公園で最近あった事』を考えた方が早いかな。雪江がそう思ったとき、背後から聞き慣れた低めの声がした。

「雪江」

 呼び掛けに振り返ると、そこには恋人である三戸森翔の姿があった。

 少し驚き、慌てた。湊谷と二人でいるところを見られただろうか。話は聞かれてないだろうか。

「えーと……」

 どこか気まずそうに目を泳がせる三戸森を見て、やっぱり聞かれたみたい、と雪江は思った。だから、三戸森が

「ごめん!」

 と突然頭を下げたのには本当に驚いた。

「湊谷に、話を聞き出してくれって頼んだの俺なんだ!」

「へ?」

 腰を曲げたまま、三戸森は顔だけ上げて雪江を見る。

「雪江、俺が詳しいこと訊いても話してくれなかっただろ?」

 それは、確かにそうだ。しかしそれは三戸森が信用ならないとかでは全くなく、好きな人に自分の嫌なところを見せたくないからだった。

 三戸森が、警察に自首した犯罪者のように罪悪感に満ちた表情で白状したことをまとめると、つまりはこうなる。


 三戸森は雪江が隠し事をしているのが不満だった。どんなに後ろ暗い事でも、誰かに話した方が楽になるというのが三戸森の持論だった。彼は雪江にもっと楽になって欲しかったのだ。

 しかし、だからと言って無理やり聞き出すのは好きじゃないし、自分の持論を人に押しつけるようなことはしたくない。

 そんな時、これまでほとんど話したこともなかった湊谷に話し掛けられたら。

 何の話かというと、放課後、雪江を借りて良いか、というものだった。なんで自分に、と問うと、一応彼氏だろ? という、分かるような分からないような答えが返ってきたらしい。

 そう言われると、何をするのか気になるのは当然のことだ。湊谷も隠す気は端からなかったらしく、すんなりと教えてくれた。

『知り合いに頼まれたんだよ。あの二人を仲直りさせて欲しいって』

 しかし、雪江がしずくの事を陰で守っていることに勘付いていた湊谷は、自分の勘が当たっているのなら他人が口を挟む問題じゃないと考えた。

 つまり、自分の勘が当たっているか否か、湊谷が本来知りたかったのは、それだけだったのだ。

 しかし、そこで三戸森が湊谷に『雪江の隠し事を出来れば聞き出して欲しい』と頼んだ。雪江本人に言われるまで、彼氏である自分も気付けなかったことを気付いていた湊谷になら、それが出来るような気がした。それに、湊谷の話はしずくからたまに聞くことがあり、悪い奴じゃないことも知っている。

 当然、湊谷は怪訝な表情で『なんで?』と質問してきたが、三戸森が自分の考えを必死に説明すると、『まぁ、出来ればな』と了解してくれた。

 そして放課後。

『よく知らない男と彼女が二人でいるのが心配なら、図書室から様子くらい見とけば? ただし話は聞くなよ?』

 そう言っていた湊谷に従って、終礼が終わると三戸森は図書室へ走った。

 そして、二人が話している様子をずっと見ていたらしい。そんな姿を想像すると変質者でしかないのだが、図書室にいた人達に変な目で見られなかったのだろうか。利用者数が少ない図書室だが、少なくとも図書当番の生徒や司書の先生はいるだろう。それに、美紗子や綾、湊谷も図書室の常連だと聞く。

 話が終わったのを見て図書室棟から出たところで湊谷が待っていた。

『悪い。結構無理やり聞き出したから、今頃泣いてるかも』

 そんな言葉を聞いて、いてもたってもいられなくなり、裏へ向かった。



 教室に置きっぱなしだった鞄を取り、学校を後にして、二人は歩道を歩いている。雪江は自転車通学、三戸森が徒歩通学なのだが、今、自転車を押しているのは三戸森だ。それが恋人同士では当たり前のことなのか、誰かと付き合うのは今回が初となる雪江には判断できないが、三戸森はまるで当然のようにいつもこうして自転車を押してくれる。休日会った時――まぁ俗にいうデートの時なんかも鞄を持とうか聞いてくれるし(流石に断っているが)、買い物をした時なんかは何も言わずに買ったものを持ってくれる。普段はガサツというか、そういう細かいところは気にしない感じなので、付き合い始めた頃は驚いたものだ。

 七月中旬。図書室棟の裏では忘れていられた暑さが容赦なく襲いかかり、二人の額には早くも汗が滲んでいる。夕暮れにはまだまだ早い時間帯。空にはほとんど雲が見当たらず、青色が広がっていた。

 三戸森の話を聞いた雪江は、呆れたように溜め息を吐く。

「様子見てたんなら分かるでしょ。最後の方は結構和やかな雰囲気だったことくらい」

「俺がいた場所からだと、雪江の後ろ姿しか見えなかったんだよ。湊谷がたまにこっち見てくるから動きづらいし」

 まぁ、何はともあれ、自分を心配してのことなのだから、純粋に嬉しい。

 しかし、湊谷も湊谷で、事前に恋人に許可をとるとは、変なところで律儀というか、細かいというか。やはり少し変わっている。

「でも、まぁ、確かに無理やり聞き出された感はあるけどね」

「やっぱそうなのかぁ。なんか湊谷の奴、途中で妙に怖い顔してたからさ」

「あー、うん。ちょっと怖かったね」

 表情というよりは、勘の鋭すぎたところが、だが。

「でも俺が頼んだせいだから、湊谷を嫌わないでほしい」

「分かってるよ。湊谷君には、これからもしずくと仲良くしてもらいたいし」

 もちろん、打算的な考えもある。関わりが少ないのに、クラスの中心的な女子達に一目置かれている湊谷という存在はなかなか珍しいのだ。彼と仲良くして悪いことは少ないだろう。

 友人関係においてもこんな嫌らしいことまで考えをすることなど、誰にも知られたくない。しかし、知った上で受け入れてもらえるなら、それはとても嬉しいことだ。

「ありがとね」

 雪江が少し照れながら言うと、三戸森は不思議そうに「どうしたの?」と訊く。

「話したら、少し楽になったから」

 今日、湊谷に話したことを、いつかこの人にも話せる日が来ると良いな。

 三戸森の笑顔を見ながら、雪江は穏やかにそう思った。




 時間は少し遡る。

 図書室棟裏で雪江と、図書室棟前で三戸森と別れた湊谷は、そのまま図書室棟に入り、階段を上っていった。

 換気のためか図書準備室のドアは開かれていて、前の廊下を通る際に室内を覗いてみたが、人の姿は見えない。

 図書室に入り、室内をグルッと見回す。貸出カウンター、そしていつもの席にいない事を確認する。帰ってしまったのだろうか。

「越水さん? 本屋さん?」

 どこかで聞いたような声に顔を向けると、図書当番をしているのは同じクラスの清水裕太だった。男子にしては長めの髪に、落ち着いた雰囲気の容姿。クラスではあまり目立つタイプではないが、勉強は出来るし、運動神経も平均よりは上。高い能力を持つ割に目立たないのは、一重に大人しい性格のためだろう。読書が趣味で、委員決めの時に自ら挙手したのは清水くらいだった。そんなこともあってか、未だにクラスメートの名前を覚え切れていない湊谷も、彼のことは覚えていた。

 図書室で何度も見かけたことはあったが、こうして話すのは初めてだと思う。

「本屋」

「今日はもう帰ったよ」

「越水は?」

「本屋さんと一緒に」

「そうか」

 まぁ、もともと何か約束していたわけでもない。いなければいないで電話かメールで済む用なのだ。ただ、頼みを断るだけなのだから。

 湊谷が身を翻して図書室から出ようとしたところで、清水が「あ」と小さく声をあげた。

 それに反応した湊谷と目を合わせて、

「そういえばさっき、夕樹さんが来てたよ。誰か探してるみたいだったけど」

「夕樹?」

 思わず口からこぼれた言葉に、清水は頷いて答える。

「うん。十分くらい前かな。いつも湊谷と越水さんが座ってる席だけ見たら、声をかける暇もないくらいさっさと出て行っちゃったけどね」


 美沙子がいないのなら湊谷が学校に残る理由もなくなる。

 鞄を取りに教室に戻る途中、雪江と三戸森の背中を見つけた。なんとなく二人にバレないように少し遠回りをした。

 湊谷は、今日も自転車通学だ。家に早く帰ったところで、幽体離脱が出来なければ、ただ暇を持て余すしかない。霊体での散歩はあまり疲れずに遠くまで行ける。普段、どうしても見ることの出来ない視点から様々な景色を鑑賞するのも楽しかった。

 たまにだが、無性に絵に残したくなる景色と出会うことがある。そういう時は忘れないうちに生身に戻り、生前、父親がプレゼントしてくれたスケッチブックにその景色を描く。そんなことを繰り返していると、あっという間に夜が明けてしまうわけだが、そこで湊谷を助けたのが『幽体離脱』だった。

 霊体の状態での疲れは生身に引き継がれない。それどころか、生身でいる間に疲れがとれるくらいだ。そして、逆も然り。死んでいる状態で疲れが取れるというのもおかしい気がするが、今更そんな細かいことを気にする湊谷ではない。彼からすれば、全てが不思議な出来事なのだ。

 湊谷の絵の中で一番頻度が高く描かれている場所は、ここ、松枝南高校だった。

 景色というのは、季節や時間、天気などの違いで、印象が驚くほど変わってくる。様々な表情を持っているのだ。

 そして、高校という場所は特に表情豊かだ。社会に出て個性が潰される前の、半分大人な子供が集まっている場所だからだろうか。校舎を射す夕日は眩しいくらいに綺麗で、細めた目から涙が零れそうになるくらい悲しい。

 もっとも、現在進行形で高校生である湊谷が、それを感じ取るのは難しいだろう。

 今の彼はただ、自分の求める景色を探しているだけなのだ。そしてそれは学校にあるのではないかと、直感的に思っている。

 そういうわけもあり、入学してからというもの、放課後は霊体になって校内を飛び回り、景色探しを繰り返していたわけだが、如何せん求める景色は見つからない。いいな、と思うものならある。しかし、それでは何かが足りないのだった。厄介なのは、何が足りないのか湊谷自身も分からないところだ。

 教室で鞄を取り、昇降口が見えたところで、湊谷は足を止めた。

 一年三組の下駄箱の側面に、夕樹しずくが背をもたれていた。

 足音で誰かが来ることに気付いていたのか、しずくと湊谷の目が合う。

 誰かを待っている、というのは見たら分かる。そして、待ち人は自分だろうと湊谷は思った。それなりの根拠もある。清水の証言もそうだし、しずくが昇降口にいるというのもそうだ。

 それが自惚れじゃあないことを証明するように、しずくは下駄箱から背中を離して、眉尻の下がった苦笑を浮かべた。




 なんで幽体離脱しないんだろう?

 しずくがそんな疑問を抱いたのは三日前、月曜日の一時間目、現国の授業の時だった。

 その時は不思議に思いながらも流していたが、流石にそれが一日中続くと気になって仕方がなくなり、放課後、図書室へ向かった。しかしそこには湊谷の姿はなく、いたのは綾だけ。その日は美沙子も店の手伝いがあったらしく、足早に帰宅したらしかった。

「湊谷なら来ないと思うよ?」

 その言葉に、しずくが「そうなの?」と返すと、綾は不思議そうに眉を寄せて、

「もしかして、聞いてないの?」

 今度はしずくが不思議そうな顔をする番だった。しかし、すぐに思い当たり、

「湊谷君が授業中に幽体離脱しないからおかしいなぁって思ってたんだけど、やっぱり理由があるの?」

「うん、まぁね。……でも、夕樹さんには自分から言うって言ってたのに。湊谷の事だし、なんか理由があるのかな。ちょっと、話していいか確認してみる」

 そう言って、ポケットから携帯電話を取り出し、メールを打ち始めた綾を見ながら、向かいの席に座る。綾の手にある携帯電話――スマートフォンを見ていると、質問が頭に浮かんだ。

「越水さん、スマートフォンに変えたきっかけって何かあった?」

 周りの友達は『みんなそうだから』でスマートフォンに乗り換えた人ばかりだが、綾はそういうタイプではないだろう。そう考えたからこその質問だったのだが、綾は言葉の意味がよく分からないというように眉を潜めた。

「きっかけ?」

「う、うん。だって、スマートフォンってややこしそうだし……」

 しずくは何か地雷でも踏んでしまったかと誤魔化すように両手を振りながら言う。綾はそんなしずくを不思議そうに見てから、数秒後、「あぁそういうことか」と小さく呟いた。

「夕樹さん達――というか、ここら辺の子供は中学の頃から携帯電話持ってたね、そういえば」

「ここら辺の?」

「うん。私、中学三年の二学期にこっちに転校してきたから。前、住んでたところはここよりもっと田舎で、携帯電話を持ってる中学生なんて学年に一人いたかいないかくらいだった」

「じゃあ越水さんも持ってなかったんだ? ……あ、じゃあ」

 ようやく話が繋がったしずくに、綾は微笑しながら頷いてみせる。

「そういうこと。変えるも何も、これが初の携帯電話なんだよね。正直、携帯電話とかにあんまり興味もなくて、ただ店員に薦められるまま買ったのがコレ」

 少し照れ臭そうに言いながら、しずくに携帯の画面を向ける。そこには、送信完了しました。と表示されていた。

 使い易さや普通の携帯電話との比較を訊きたかったのだが、どうやらそれは無理らしい。

「携帯、変える予定でもあるの?」

 綾は携帯を机の上に置いてから、そう尋ねた。

「ううん。どうしようかなぁって考え中」

 溜め息混じりに言って、ポケットから携帯電話を取り出す。

「これ、中学一年の頃から使ってる初携帯電話だから、結構愛着あるんだー」

 三年以上も使っているわりには一見綺麗だが、よく見ると画面や外装には細かい傷が多数あり、角の塗装が僅かに剥げているのが分かる。

「夕樹さんは、携帯買うときどうやって決めたの? デザインとか?」

「うん。それもあるけど……、えっと、一緒に行った友達が決めてくれて……」

 言葉を選ぶような言い方に、綾は「ふぅん?」と少し不思議そうに目を細めた。心を読まれそうな表情に、しずくは思わず顔をうつむける。

 友達というのは雪江のことなのだ。そして、雪江が綾を好いていないように、綾も雪江のことを好いていない事はなんとなく分かっていた。

 その時、綾の携帯電話の画面が光った。そしてそこには『メール受信 湊谷』の文字。

「湊谷にしちゃあ早いね」

 そうは言われても、湊谷とメールをしたことがないため基準が分からない。しかし考えてみれば確かに湊谷は、メールを面倒臭く思うタイプな気がする。

「『OK。そういや、言うの忘れてた』だってさ」

 呆れ顔をする綾に、苦笑を返す。

「じゃあ簡単に説明するけど……」

 そうしてしずくは、湊谷の現状と、明日、綾の従姉がやってくるということを知った。

「夕樹さんはどうする? もう無関係じゃないんだし、湊谷のことが気になるなら、明日、従姉に会ってみる?」

 綾の問いに、しずくは迷わず頷いた。

 綾の言うとおり、湊谷のことが気になるというのもある。しかし、自分と同じ人に会えるという楽しみの方が勝っていた。訊きたいことも山ほどある。幽霊関連の仕事の内容なども気になる。

「うん。分かった。じゃあ明日の放課後、ここに集合ね」

 綾はそう言ってから苦笑を浮かべて、

「勧誘とかしてくると思うけど、気にしなくていいからね」

 と言った。

 それが三日前の出来事。そして現在、しずくと湊谷はそれぞれ自分の自転車を押しながら、並んで駐輪場を出たところだ。

「それで?」

 しずくがいきなり三日前の話を始めても黙って聞いていた湊谷だったが、話が終わると一言、そう言った。怒っているというよりは、言いたいことが分からないといった具合だ。

「そんな約束をしてたのをついさっき……校門から出たところで思い出して……」

 どうやらわざわざ戻ってきたらしい。明日に回さないあたり、しずくらしい。

「あぁ」

 言われずとも分かっていたことなので、湊谷は簡単な返事をする。しかし、その反応で、湊谷が怒っているとでも勘違いしたのか、しずくは暗い顔をして俯いてしまった。

「それで、えっと……、ごめんなさい」

 ペコリと小さく頭を下げるしずくに、湊谷はしかめ面をする。前述したように、怒っているのではない。しかしだからこそ、謝られても困るというものだ。

 約束を忘れていたのはよろしくないが、ハッキリ言って誰一人として気にしていないし(文恵は残念がっていたが)、むしろ湊谷と綾なんかは、あんな事があったから仕方ない、と勝手に納得していたくらいだ。

「別に誰も気にしてねぇよ。戸牧とあんな風に喧嘩して、何食わぬ顔で来たら、それこそ驚きだ」

「うぅ」と小さな呻き声が聞こえた。声の主を見ると、涙目で俯いている。

「こっちの事はどうでもいいから、先にそっちをなんとかしろよ」

「だって、私、悪くないし」

「戸牧だって別に悪くはないだろ」

 その言葉に、しずくにしては珍しく不満顔で湊谷を見る。

「そんな睨むな」

「別に睨んでるわけじゃないけど……。だって雪江が、越水さんとか本谷さんと関わるなって」

「理由は?」

「……あの二人を嫌ってる人に目を付けられるから」

「誰が?」

「……私が」

 つまりはしずくのためだ。彼女も、それに気付いていないわけではない。だからと言って簡単に納得出来るものではないから困っているのだ。

「湊谷君が昇降口に来る少し前にね、雪江と三戸森君が来たの」

「へぇ。なんか話したのか?」

 二人のことを知らなかったフリをして答える。あの事はしずくにも、誰にも話す気はない。

「ううん。声が聞こえたから、すぐに隠れたの」

 下駄箱が並んでいる昇降口だ。隠れ場所には困らないだろう。慌てて身を隠すしずくを想像すると、つい笑みが浮かぶ。しかし、俯いているしずくの顔は、湊谷の柔らかい表情とは反対で、硬く、強ばっていた。

「湊谷君。雪江が隠している事って、なに?」

 その問いで、湊谷の表情から笑みは消えた。

「三戸森君が言ってたの。湊谷君が雪江の隠し事を聞き出してるのを図書室から見てたって」

 いつの間にか顔を上げていたしずくが湊谷を真っ直ぐに見つめる。

「さっきまで、雪江と一緒にいたんでしょ? 多分、図書室棟の裏に、二人で」

 違う、というのは簡単だ。しかし、そこまでバレているとなると、ここで誤魔化したところで疑念は消えないだろう。それならば、話せる範囲の事だけでも言っておいた方がお互いのためだ。

「あぁ。少し話をしてた」

「何の話?」

「そりゃあ、男女が校舎裏でする話っつったら一つだろ」

 顔を赤くして驚くのを期待したのだが、しずくは少し不満気に口を尖らせた。こんな時に冗談を言うなという事なのか、しずくにしては珍しい表情だった。素直に「冗談」と認めてから、雪江から聞いたことでしずくに言える事と言えない事を頭の中で判別する。

「隠し事ってのはアレだ。今、流れてる噂の真相と、夕樹と戸牧が中学生だった頃の話」

 その二つなら、当事者であるしずくも知っている事だ。あとの、雪江がしずくを守っていることや、そのために誰かを脅したりしていた事などは言うべきではないだろう。少なくとも、自分が勝手に伝えるべきではない。

「全部、聞いたの?」と、表情を硬くするしずくに肯定の言葉を返すと、彼女は泣きそうになりながらも笑みを浮かべて「そっか」と言った。

 湊谷は、なるほど、この表情は確かに罪悪感を覚える。と納得してから、しずくの額にデコピンをした。

「あたぁ!?」

 しずくは痛みというより驚愕で大声を上げ、足を止める。

 熱を測るように掌を額に当てて、隣で足を止めた湊谷を、何故、といった表情で見る。

「とりあえず、その顔止めろ」

「えぇ……」

 理不尽だった。デコピンのせいで目尻に溜まった涙がこぼれそうだ。

 校門に向かって歩みを再開した湊谷を小走りで追いかけてから、彼の顔を覗き込むように質問をする。

「中学の時のことって、私の自己紹介の話じゃないよね?」

「それならただの笑い話で終わったんだけどな」

 湊谷の返事に、しずくは苦笑する。もう一回デコピンをしてやろうかと思ったが、目が合うと何か察したのか、さっと身を引いたため止めておいた。

「養子、か。夕樹本人が知らなかったって事は、まだ小さい頃に引き取られたんだな」

「アルバムを見た感じ、一歳とかそのくらいかな」

「親には訊いてないのか」

 しずくは首肯する。そんな立場になれば、自分なら絶対に訊きだすと断言出来る湊谷だが、しずくにもしずくなりの考えがあるのだろう。そもそも、家族の問題だ。ただのクラスメート、精々一友人でしかない自分が首を突っ込む問題ではない。それで物事が解決に向かうならまだしも、この件に関して他人がどうこう出来る事などないだろう。最終的には、しずくの気持ち次第なのだ。三戸森に頼まれたこととはいえ、大分首を突っ込み過ぎた。

 なんとなく黙ってしまったまま校門を抜けたところで、しずくが口を開いた。

「湊谷君の方は大丈夫なの? なんか、幽体離脱は危ないって……」

 気にするなと数分前に言われたばかりだが、やはり気になるらしく、しずくはおずおずと訊いた。

 心配してくれているのが分かっていて、なお気にするなとは言いにくいし、別に隠す理由もない。なにより、しずくと雪江のことに首を突っ込んでおいて、自分のことは話さないというのはどうかと思う。

 湊谷は、文恵から聞いた事をしずくに伝えた。

「えっと、つまり、湊谷君が幽体離脱出来るのはお父さんの霊のおかげで、でも使う度にお父さんの霊は力をなくしていって……? そうなった原因は湊谷君とお父さんの約束で……? あれ? 合ってるよね?」

「あってるけど、ビックリするくらい分かり難い」

 湊谷が正直な感想を言うと、しずくは「うぅ」と怯んだ。

「まぁ簡単に言えば、俺がこれ以上霊体になったりすると、親父が消えるってことだ」

「むー」

 しずくは眉間に皺を作りながら、難しい顔をする。

 また変なこと言い出しそうだ、と湊谷が思っていると、

「幽霊を引っ張り出すのって、どうやるのかな?」

 案の定、変なことを言ってきた。

「さぁ。それは訊かなかったな」

「そっか……」と呟きながら、自転車のハンドルを掴んでいる自分の手をじっと見る。

「お前、霊と喋ることも出来ないだろ」

 何を言いたいのか察して、湊谷が呆れたように言うと、しずくは少し膨れた。

「やってみないと分かんないじゃん」

 そう言って、しずくは足を止めて、自転車を道路脇に止める。

「やるのか」

「やります」

 溜め息を吐いてから自転車を止める。

 湊谷の前まで来て向き合うと、しずくは小さく首を傾げた。

「引っ張る、だよね。じゃあ……」

 湊谷が着ているカッターシャツの第二ボタン辺りを掴む。

 まだ学校の近くだ。誰かに見られたらまた変な噂を流されそうだが、しずくはそこまで頭が回っていないらしい。自分より小さな女子に胸のあたりを掴まれている男子。傍から見れば、どう思われるだろう。カツアゲとかだろうか。だとしたらなんと情けない男子だろう。それが自分だというのだからやるせない。

「引っ張る、引っ張る……」

くい、くい、とカッターシャツを軽く引っ張ってから、しずくは大きく深呼吸した。

 そして、

「引っ張る!」

 という掛け声と共に、カッターシャツを勢いよく引いた。

 予想外に大きな力に驚いた湊谷だったが、なんとか体勢を崩さずにいられた。しかし。

「…………あ」

 何かに気付いたしずくは、顔面蒼白となり、恐る恐る湊谷を見上げた。

 そこでようやく湊谷も気付く。

 しずくが掴みっぱなしのカッターシャツ。第二ボタンとその周辺のボタンが無くなっていた。

「ご、ごごごごご」

 強敵でも登場しそうな効果音を口から出すしずく。

「ごめんなさい!」

「あー、まぁ気にすんな」

 勢いよく頭を下げたしずくに苦笑しながら湊谷はカッターシャツを脱いでTシャツ姿になる。カッターシャツを鞄の中に詰め込んでから振り返ると、しずくが何やらソワソワしている。

「どうかしたか?」

「えっと……、ど、どう?」

「どう?」

 湊谷が聞き返すと、しずくは何度か小さく頷いた。いや、頷かれても、何を質問されているのか分からないのだが……。

「なんかこう……ほわぁーって抜けてく感じとかない?」

 掌を空にかざしながら小さく振るしずくを見て、あぁ、そういう事か、と納得する。力が使えるか確かめるわけにもいかないが、どうも変わった様子はない。

「今ので親父が抜けたら朝賀鶴久も形無しだな」

 自信があったのか、しずくは残念そうに肩を落とす。

 しずくの試みは、結局、カッターシャツを破損させただけとなった。まぁ、破けなかっただけヨシとしよう。と湊谷は早くも気持ちを切り替える。

 降ろしていたスタンドを上げて、再び自転車を押して歩きだした湊谷の後ろを、しずくがトボトボと付いて行く。確かに、自転車を押している二人が歩道で並んで歩くのは邪魔なので正しいと言えば正しいのだが、しずくの場合はただ単に落ち込んでいるようにしか見えない。

 それから無言のまま歩いた二人は、人気が少なく、周囲は田んぼと畑、あとたまに民家がポツポツとある道に出た。高い建物が――というより建物自体がほとんどなく、二人がいるのは長い坂の頂上なので遠くの景色が良く見える。

 ずっと田んぼと畑が続き、その向こうには高速道路が走っていて、そして更に向こうには湊谷としずくが住んでいる小さな町がある。ここからではその町の隅っこくらいしか見えないが、その代わり、というわけでもないが、海が広がっている。テレビで見る、沖縄や外国のような綺麗な色をした海ではない。濃い青色で、近くで見ると結構濁っている。

 湊谷は、空が青いのは海の色を反射しているからだと思っていた時期があった。それは中学に上がった頃、父親に理論を説明されて勘違いと分かったわけだが、こうして空と海の青さを見比べると、どうしてあんな間違いをしていたのか不思議になる。あんな色をした海で、こんなに綺麗な空の色が出来るはずがない。

「うわぁー」

 後ろで、しずくが感嘆の声を上げた。振り返ると、目を輝かせ口を開けて景色をじっと見つめている。

「見慣れてるだろ? そんなに綺麗な景色でもないし」

「でも私、この景色好きだよ」

 そう答えるしずくから暗い表情はすっかり抜けていて、湊谷は隠れて笑った。単純というか、素直というか。まぁ、欠点でないのは確かだ。

 それにしても、この景色が好きというのは変わっている。見晴らしがいいのは確かだが、綺麗かというとそうでもない。右手に見える山よりは正面にあるコンクリートの建造物の方が目立つし、左手は道路の横に山があって景色は見えない。どこを見て楽しむというのだろうか。

「どこが好きなんだ? この景色の」

「え? ……なんでだろう?」

 湊谷の問いに、しずくは、はて、と首を傾げたまま、「うーん」と悩み始めた。

「うーん」を何度か繰り返した後、しずくは「うん!」と納得するような声を出して、湊谷と顔を合わせた。

「分かんない!」

 自分の価値観を変えるような答えを何故か期待してしまっていた湊谷は肩透かしを食らってしまう。そんな反応を見て、しずくは照れたように笑った。

「なんというか……なんか好きなんだよね。理由は、自分でもよく分かんないけど」

「なんか好き、か」

 ふっと、湊谷は遠い目を見せた。視線は正面、しずくの好きな景色に向いているが、彼が見ているのはおそらく別のものなのだろう。

 どうしたのかな。訊いてもいいのかな。しずくが逡巡していると、そんな内心が顔に出ていたらしく、彼女の顔をチラリと見た湊谷は、苦笑しながら口を開いた。

「親父も同じようなこと言ってたこと、思い出した」

 そう言いながら歩き出す湊谷と並び、横顔を見る。

「お父さん?」

「あぁ。夕焼けが好きだったんだ。理由は、夕樹と同じでなんとなく。でも親父が入ってた病室は隣の建物のせいで夕日が見えなかったから、俺はよく夕焼けの絵を描いてた。中学の時は美術部だったからな。場所にも道具にも困らなかった。ま、いつも同じような絵を描いてたから、顧問には良い顔されなかったけど」

「へー」としか反応できなかった。興味が無いわけではなく、湊谷が自分の事を話しているという驚きの方が大きかったからだ。

「あの三人には言うなよ?」

「三人?」

「越水と古木と宮崎。中学の時、美術部だったなんて知られたら、勧誘する理由になっちまうだろ」

「あー、うん。そうだね」

 しずくは苦笑しながら答える。シュウ少年探索の際、湊谷が綾に勧誘されているのを見ていたため、その事は知っていた。先程、校内で湊谷を探していた時も、もしかしたら、と思って美術室へ行ったのだ。もちろん、そこにはいなかったわけだが、その代わりに宮崎と古木が一枚の絵を見せてくれた。

「選択授業の時に夕焼けの絵を描いてるのは、それが理由なの?」

 湊谷は表情を硬くしたが、すぐに無表情に戻った。いつも通りなのだが、先程まで笑っていた(と言っても苦笑いとか呆れ笑いだが)ため、その表情は少し怖く見えた。

「へぇ。見たんだ」

「うん。さっき」

「そうか」と言ってから一呼吸置き、

「どうだった?」

 絵の感想を求められているという事はすぐに分かったが、即答する事は出来なかった。

「綺麗だったよ」

「夕樹は、好きだって思ったか?」

 う、と再び言葉に詰まる。しかし、湊谷の訊き方はまるで最初から答えが分かっているように思える。正直に答えた方が良いのだろう、としずくは小さく呼吸をしてから言った。

「好き、じゃあなかった。綺麗なんだけど、なんか悲しくて」

「だよな」と湊谷は嘆息気味に答える。

「描いてて、自分でも思う。『親父の好きだった夕焼けはこんなんじゃないんだろう』って。親父が死んでから、ずっとこうなんだ。霊体になれるようになって、色んな景色を見て、夕焼けを見て、絵にしてみても何も変わらない。俺の描く夕焼けから感じることは一つだけだ」

 そう言ってから、しずくに顔を向ける。

「ごめんな、急にこんな話して」

 しずくはいつの間にか俯いていた顔を上げて、勢いよく首を振る。

「ううん。……でもなんで私に?」

「さぁ。なんでだろうな。話の流れってのもあるだろうけど、夕樹の昔の事を知っちまったから、その代わりに、って理由もあるかもな」

「そっか」

 苦笑を浮かべる湊谷に笑みを返す。

「自転車、乗るか。せっかくの坂道だし」

 照れたように顔を背けながら自転車に跨る湊谷に、再び微笑を浮かべながらしずくは頷いた。


 次に二人が口を開いたのは、横断歩道で足を止めた時だった。横断歩道を渡った先にある住宅街にしずくの家はあり、もう少し国道を進む必要がある湊谷とはここでお別れとなる。夕刻の国道という事もあり、田舎とはいえ交通量はかなり多い。

「夕樹は、絵とか描かないのか? 幽霊部員でも漫研なんだろ?」

 湊谷がそう訊いてきたのは、自転車から降りたしずくが歩行者信号の押しボタンを押して、それじゃあ、と別れの言葉を言おうとした時だった。湊谷は自転車に跨ったまま、片足を地面に着いてしずくを見ている。

「うん。絵、下手なんだよね」

「そうなのか」

 少し残念そうな声色の湊谷に、しずくは首を傾げた。

「どうして?」

 いや、と湊谷は誤魔化すようなそぶりを見せたものの、結局言う事にしたらしく、目を横に逸らしたままこう言った。

「夕樹なら、親父が好きだった夕焼けを描けるんじゃないかってな」

 その言葉を純粋に嬉しく思ったしずくだったが、「でも」と苦笑を浮かべた。

「私が描いても、意味ないよね」

 その事が分かっているからこそ、湊谷も誤魔化そうとしたのだろう。

「そうだな」

 湊谷は自嘲気味に笑いながら言葉を続ける。

「俺に足りないのは、なんか好き、って感じる事なのかもな。好きだから距離を置く、近付き過ぎたら嫌いになる、なんて考えて、物だろうが人だろうがそれ以外のなんだろうが、距離を置き過ぎてんだ」

「それは、お父さんが大好きだったからじゃないの?」

 思った事が、そのまま口から出た。何故そう思ったのか、説明しろと言われてもしずくには出来ない。

 しかし、見た事のない湊谷の表情を見て、自分の考えは間違っていないと確信した。

「信号、変わったぞ」

 笑みを浮かべながら湊谷は言う。しかし、しずくは湊谷から視線を外さず、そのうちに信号は再び赤になってしまう。仕方なく湊谷が信号のボタンを押すと、表示されている文字が『ボタンを押してください』から『お待ちください』に変わった。

 信号のボタンからしずくに向き直ると、彼女の目尻に水滴が溜まっていた。

「ホント、よく泣きそうになるな、お前は」

 呆れたように言う湊谷に、しずくは涙を乱暴に拭うと、こっちに来いというように、指を揃えてクイクイと振った。

 なんだ? と自転車から身を乗り出して顔を近づけると、額に微妙な衝撃が走った。

「いて」と痛くなさそうな声を出してから、身を引いて、額に手を当てながらしずくを見る。

「多分、さっきの私と同じような顔したから、とりあえず」

「あぁ……なるほど」

 湊谷が納得したようなしないような表情で言うと、しずくは珍しく勝ち気な笑みを浮かべる。

 そして、信号が青に変わった。




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