しずくと雪江と父親と~前編~
夏休みまで残り一週間となった。クーラーの付いていない教室では、綾がいる窓際の席はなかなか良いポジションだ。特に今日は強すぎない程度の風が良い具合に綾の頬を撫でて髪を揺らす。これで風が生ぬるくなければ最高だが、そこまで求めすぎるのは贅沢と言うものだろう。
昼休みの教室は相変わらず騒がしく、たまに誰かが大声を上げるたびに、綾の前に座っている宮崎千花と古木望美は僅かに肩を跳ね上げる。三人が集まっている綾の机の上には既に中身が空になった弁当箱がそれぞれの弁当入れや弁当包みに包まれている。望美のオレンジチェックの弁当包みや、千花の小さな手提げ鞄のような薄桃色の弁当入れに比べると、自分が使っている青と紫を基調とした花柄の弁当包みはどこか味気ない。というか、古臭い気がする。しかし、二人と同じようなものを使ったとしてそれが自分に合うとは思えない。人には少なからず自分の意志とは関係なく、合う合わない――相性というものがあるのだ。成長していく過程で誰もが自分にとっての合わないことに気付き、合わせる事を覚える。それを上手く出来ないのが、自分や美紗子や湊谷のような者なのだろう。
そう考えると、湊谷の体質が少し羨ましくなる。本人やしずくから聞いた話によると、霊になった状態では建物も人もすり抜け放題で(ただし、やはり公共の場以外に侵入しようとすると怒られるらしい)、自由に空を飛ぶことも出来るという。人の目も気にせずに、ふわふわと好きなように、ゆっくりと流れる時間を楽しむことが出来る。それは、想像しただけで心地よさそうだった。
「やっぱり無理かな?」
その言葉に、綾の意識は現実に引き戻される。どちらの声か分からないくらい呆けていたことに気付く。千花と望美は二人とも綾の事を少し遠慮するような表情を浮かべてじっと見ていた。何の話だったっけ、と意識が飛ぶ前の会話を頭の中で探す。
あぁ、そうだった。
「うん。あれから何度か訊いてみたけど、やっぱり良い反応はないね」
湊谷を美術部に、という話だ。最初にこの話が出たのは半月ほど前の話で、すでに何度も断られているのだが、この二人はまだ諦めていない。ほとんど伝言役として使われている綾も、どうせ図書室で会うし、ついでに、という具合で特に気にしてはいなかった。
だが二人のように、いつか湊谷が頷いてくれるのではないかと期待しているかと言えばそうではない。湊谷と部活動。これはどう見ても『合わない』ものだった。湊谷自身がその事が分かっているのかまでは不明だが、分かっていたところで彼が自分から合わせようとするとは思えないので同じことだろう。実際、どうしても部員が集まらなかった時、幽霊部員としてなら入部してもいいとは言ってくれているのだ。『ある意味本当の幽霊部員だな』なんていう湊谷を鼻で笑ったのは一週間ほどまでの休日、二人で公園に居た時の事だった。とはいえ、現美術部部員である二人はなるべくちゃんと活動をしてくれる人に入って欲しいらしく(何故か贅沢に思ってしまうが、よくよく考えれば当然のことだ)、それは最終手段としてとっておくと言っている。
二人にしてはしつこいくらいに湊谷を勧誘しているが、もともと、最初に断られた時に一度は諦めていた。だが、少し前に合った選択授業の美術の時間、湊谷が書いた絵をこっそりと覗き、そして完全に惚れ直してしまったらしい。もちろん異性としてではなく、絵をたしなむ同士として。
その時の様子を、珍しく興奮して語る二人の姿を思い出す。
「一学期の中ごろから風景画を描く授業が始まってね、校内を自由に回ってもいいって事だったから、ほとんどの人は教室から出て行ってたの。私達もそうだったんだけど、前の時間に絵が完成して、二学期から本格的にやるって言われてた人物画の練習をしてたんだ。お互いをモデルにして。教室に残っていた人で、まだ風景画が完成してなかった人は図書室から借りてきた本とかを参考にして描いたりしてたんだけど、湊谷君はね、そういうの全然無しだったの。それなのに出来上がったのはすごく綺麗な夕焼けの絵で、どこからこんな景色が見えるんだろうって。湊谷君の頭の中にある景色だとしたらすごいなぁって。ううん、もちろん、そうじゃなくても上手いんだけど――」
それから数分続いたよく分からない湊谷自慢は正直もうほとんど覚えていない。前半部分をよく覚えているのは、望美の『どこからこんな景色が――』という言葉を聞いて、『多分、霊体になった時に見た景色なんだろうな』と思ったからだった。その他に覚えている事といえば、美術室に作品が貼られているから見てみたら? と勧められたことと、湊谷自慢が終わった後、いつかの湊谷との会話を思い出して、『どんな夕焼けだった?』と聞いた時の望美と千花の返事くらいだった。完成した湊谷の絵に、二人は勝手に表題を付けたのだという。
『最後の夕焼け』
その時の気分で印象が変わる、と言ったのは湊谷本人だった。それならば、そう名付けられた一枚の絵には、湊谷の気分が反映されていると考えていいのだろうか。もしそうならば、彼は、どんな気持ちでその絵を描いたのだろうか。
また考え込んでしまった綾の耳に、「綾ちゃん?」という千花の呼び声が届き、顔を上げた時だった。
机を手で叩く音により、騒がしかった教室は一瞬で静寂な空間へと変化する。
「雪江だって、同情で私と仲良くしてるくせに!」
そして、そんな教室に響いたのは、クラスメートの中では比較的聞き慣れた――だが、綾の知る彼女が出したこともない声だった。
視線は無意識のうちに声の方向へ向いていた。視界の隅で、友人に囲まれている湊谷が振り返ったのが見えた。
教室中の視線を受けた夕樹しずくは、それに気付くと、顔を赤くして、目に溜まった涙を拭いながら教室から逃げるように出て行った。
クラスメートの注目は教室の入り口から戸牧雪江に移る。彼女はしずくがいた空間を呆然とした表情で見つめてから、普段湊谷が居眠りをする時のような体勢で腕に顔を埋めた。友人である女子数名が慰めに行き、クラスに先程とは違う種類のざわめきが起こるまで、静かな教室には雪江のすすり泣く声だけが響いていた。
越水綾、本谷美紗子の二人と自分が仲良くしていることを、雪江が良く思っていない事は気付いていた。その理由も、分かりたくなかったけど分かっていた。だけど、これまではしずくが綾や美紗子の話をすると少し嫌な顔をして『あんまりあの人達の話、しないほうがいいよ』と言うだけで、それさえしなければ何も言ってこなかったから、雪江は本心からとは言わずとも、自分の交友関係を認めてくれているのだと思っていた。
だから今朝、二人で登校しながらの会話で口論になってしまったのは仕方のないことだった。
「しずく、隣のクラスの人が、公園で越水さんとしずくが一緒にいたの見たって人がいたけど、ホント?」
先日の少年霊の件を思い出して、しずくは頷く。本当の事を話しても信じてもらえないのは分かっていたので、『遊んでいた』と嘘を吐いた。もしかしたら、それがいけなかったのかもしれない。しかし、じゃあどう答えれば正解だったのか。
「本谷さんとも一緒にいたって聞いたよ? それも、遊んでたの?」
この時点でようやく、雪江の様子がいつもと違うことに気付いた。だが、『遊んでいた』以外に答えようがない。
肯定の返事をしたしずくに、雪江は険しい顔を向けた。
「もうあの人達とは関わらないで」
まるで呪いを口にするかのように重く暗い言葉に、しずくは言葉を失った。だが、完全に思考の止まった頭に反して、「なんで?」という質問が口から零れ落ちた。
「二人とも、女子の間で嫌われてるから」と雪江は冷たい口調のまま続ける。
「一人は言いたい事ばっか言って周りに合わせるって事を知らない自己中だし」
綾の事だ、と分かってしまった自分を少し嫌悪した。
「もう一人は保健室登校じゃなくて図書室登校してるぶりっ子」
本谷さんはぶりっ子なんかじゃない、と言ってやりたかった。
悪口が好きな人間は、どんな環境にも一人はいる。でも、美紗子は悪口を言うのはもちろん、聞くのも嫌いだった。だから、彼女はそういう話になる度に『止めよう?』と言った。そして彼女はクラス内で孤立し、一部の女子から陰湿ないじめを受け、いつからか教室に行く事を止めてしまった。
知っていた。そのくらいは。同じ中学だったし、男子はどうだか知らないけど女子の間では有名な話だった。だから湊谷を訪ねて図書室へ行った時、美紗子に気付いても顔を見ることが出来なかった。美紗子が苛められているという話を聞いて、何もしなかったどころか周りに合わせて愛想笑いすら浮かべていた自分が、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
美紗子はぶりっ子なんかじゃない。そんなのは、初めて会った時から分かっていた。彼女の笑みは幽霊のそれに似ていたから。優しくて、暖かい。性格が似ていることに気付いても話しかけたりしなかったのは、雪江とか他の友達がいたからなんて理由じゃない。自分と比べたら彼女が綺麗すぎたからだった。
その後、しずくは何も言葉を返さず、雪江もたまに何か言おうとする気配は見せながらも、結局それ以上の会話は無いまま、二人は学校に着いた。
いつもなら四人で集まる授業間の十分休憩をしずくは一人で過ごした。顔を上げていると視界の隅にどうしても雪江や三戸森、四篠の三人が入ってくるのが嫌で、美紗子に薦められた小説をぼんやりと眺めていた。
昼休みも一人で食事をとるつもりだったが、三戸森と四篠に同席を強制された。雪江に聞いたのか、それとも自分達で察したのかは分からないが、三戸森と四篠はよく喋った。特に四篠なんかはいつも無口で、先日、入学前から付き合っていた彼女と別れて、最近は元気がなかったのに、今日で一週間分くらいの口を開いたんじゃないかってくらいに喋っていた。たまにしずくや雪江にも話を振っていたが、二人とも返事を一言二言返すだけで、そのたびに微妙な空気が流れた。昼食をとっている間、朝と同じように雪江が何か言いたそうにしていることにしずくは気が付いていた。だけど、何も話したくなかったし、聞きたくなかったから気付かない振りをしていた。
食事を終えた頃、三戸森の携帯が鳴り、「メール?」と不思議そうな呟きが聞こえた。
それからすぐに男子二人が席を立ったのを見て、あぁ、さっきのメールは雪江が送ったんだな、と察した。ずっと俯いているから携帯を構っていたかなんて分からないけど、そうじゃなければあの二人がこの状態の自分達を置いてどこかへ行ってしまう筈がない。
案の定、雪江が何か言おうとしている気配を感じた。
思わず席を立つ。逃げよう、と思った。だが、歩き出そうとしたしずくの手を雪江が掴んだ。
「座って」
ただ一言、そう言った雪江の目に込められた力に押されるように、しずくは席に戻った。
「どこに行く気なの?」
周りの生徒に聞こえないように配慮しているのか、雪江の声はとても小さかった。
どこに行く気だったんだろう。自分に問うと、答えは簡単に出た。
「図書室」
「だめ」
しずくの答えにほとんどかぶせるように雪江は鋭くそう言った。
「どうして?」
「朝言ったじゃん」
言い聞かせるような口調。
「納得できない」
「じゃあ何でしずくは本谷さん達と一緒にいるの?」
「なんで、って、それは……」
きっかけは霊の相談だった。でも、美紗子や綾といるのはとても楽しかったし、気持ちが楽だった。特に美紗子は、湊谷のように自分が霊になれるわけでも、綾のように親戚に専門家がいるわけでもない、本当に普通の人なのに自分の体質の事を信じてくれた。美紗子は大したことじゃないと思っているかも知れないが、しずくにとってそれは本当に嬉しい事だったのだ。他にも自分の事を信じてくれる人がいるかも知れないという希望をくれたのは、間違いなく美紗子がダントツだった。
でも、こんなこと雪江に言ったってしょうがない。だって、雪江は私の事を信じてなんてくれないのだから。私の事をさんざんからかって、私が知りたくもなかった私の過去を勝手に暴露して、勝手に同情して、勝手に友達面して。
しずくの心に、暗い何かが差していく。そんな変化に気付かず、雪江は言葉を発する。
「私には、しずくが本谷さんに対して同情してるようにしか見えない」
その瞬間、しずくの中で何かが切れた。あぁ、キレるって、本当に切れるんだ。なんて頭の隅で冷静に考えていた。
気付けばしずくは大声を上げていた。
あんなに声を上げたのはいつ振りだろう。そもそも、あんなに怒ったのはいつ振りだろう。
そんな事を考えながら走り続けて、気付けばしずくは図書室の前に来ていた。
来てしまった、と思った。こんな顔をして美紗子と会うわけにはいかない。こんな状態の自分を見れば、美紗子は絶対に心配する。自分が辛い状況に置かれているのに、美紗子は人の心配ばかりするのだ。
入るわけにはいかない。ここには。
図書室のドアは開いている。入口のすぐ横にはカウンターがあり、昼休みは毎日図書当番をやっている美紗子がそこにはいるだろう。知り合いなら足音で判断できるんだよ、喫茶店で得意げに話していた美紗子を思い出す。もしかしたら、ここにいるのが自分だとばれているかも知れない。ここまで走ってきたのだから、少なくとも足音は聞こえてしまっただろう。今頃、足音がしたのに人が入ってこないと首を傾げているかも知れない。
逃げなきゃ、と思った。でも、どこへ? そう考えると、足は動かなかった。
ガラ、という控えめな音とともに、すぐ横のドアが開いたのはそんな時だった。
図書室の横にある図書準備室。半分ほど開かれたドアから、司書教諭である早乙女の顔が覗いていた。彼女はしずくの顔を見ると、驚いたように目を見開き、「どうしたの?」と心配そうに問いながら近付いてきた。
しずくが何か言おうとして喉が詰まり、自分が泣いていることにようやく気付いた。そりゃあ、驚かれるか、と少し可笑しく思った自分を、可笑しく思った。
昼休み中は、結局、図書準備室で過ごすことになった。職員室にも置いてあるようなデスクが向かい合う形で二脚あり、部屋の隅には段ボール箱などが置かれている。小さな部屋に唯一ある大きな窓の下に置かれているソファに座り、しずくは膝を抱えた。上履きを履いたままだったが、早乙女は怒らなかった。
しばらく経ち、涙は意外とすぐに収まったが、次は恐怖が押し寄せてきた。
雪江に酷い事を言ってしまった。もう友達には戻れないだろう。それどころか、自分にはもう友達は出来ないのかもしれない。クラスメートの前で――しかも昼休みだから他のクラスの人も少なからずいた――あんなことを言ってしまったのだ。今頃、クラスは私の悪口で盛り上がっている頃かも知れない。仕方ない。私が悪い。
そう思っても、恐怖は収まらず、身体が震えだした。早乙女に「寒い?」と訊かれて、首を横に振った。『怖いんです』とは言えなかった。
しずく自身、いじめと言うものをあまり詳しくは知らない。幸運な事に、加害者になる事も被害者になる事も、傍観者になる事さえ少なかった。そんな僅かな知識で想像すると、大部分が比較的最近耳にした美紗子へのいじめが思い出された。ただ、標的が自分なだけだ。
『私には、しずくが本谷さんに対して同情してるようにしか見えない』
先程の雪江の言葉を思い出す。もしかしたら自分は美紗子に同情さえ出来てなかったのかもしれない。だって、標的が自分に変わっただけで、こんなに違う。全然、同じ気持ちになんかなれていなかった。相手の気持ちなんか、美紗子がどれほど怖い目に遭っていたかなど、これっぽっちも分かっていなかったのだ。
しずくが教室に戻ろうと思えたのは、自責の念があったからだろう。いや、自虐というべきなのかもしれない。
こんな自分はいじめを受けるべきなのだ。そんな、諦めをも超えたような考えの下、しずくはフラフラと教室へと戻っていった。
放課後、綾と湊谷は図書室のいつもの席に座っていた。少し前と違うのは、綾が読書をしておらず、湊谷が眠っていない事だろう。綾が読書をしていない理由は、湊谷が起きているからだ。そして湊谷が眠っていない――というか幽体離脱していない理由は、先日、シュウ少年の自宅へ線香を上げに行った日の夜、綾からかかってきた電話にある。そのことを本人も当然ながら分かっているため、せめて話し相手くらいはしようと思い、読みかけの小説は鞄に入れっぱなしとなっている。
何の話をしているのかと言うと、千花と望美に頼まれた部活の勧誘だった。これまでは断られれば『そっか』とか『だよね』という具合にさっぱり話題を変えたり、そのままおしゃべりが終わったりしていたが、今日は少し踏み込んでみようと綾は思っていた。人は思わぬところに地雷が埋まっている。それが綾の考えなので、あまり踏み込むような質問は好きじゃない。興味がそそられると、地雷が埋まっていると分かっていても歩みが止まらなくなる自分の性格は直すべきだとは思うが、しかし気になってもやもやするくらいならこのままの性格でいたいと思う自分もいる。最近で言えば湊谷の体質というか特技というか、幽体離脱についてしずくに聞いた時がそれに当てはまる。湊谷が霊体になれるかも知れないという推測は、他人と比べたら好奇心が無さ目の綾の興味を存分に引いたのだ。
しかし、今回の件、『湊谷は何故部活動に所属しないのか』という疑問は、綾にとってどうでもいいことだった。別段気にならない事で地雷を踏むのは馬鹿らしい。自分も相手も得をしない。むしろ損。ウィンウィンならぬルーズルーズだ。負け、という意味よりは、なんか物凄くだらしない人を指す言葉に取れる。
それでも足を踏み込もうと思った理由は、いい加減、この勧誘がしつこく思えてきたからだった。勧誘を断る理由が何か――特に、人が口出ししにくいような理由があれば、あの二人もいい加減諦めてくれるはずだ。いつも無表情で簡単に断る湊谷だが、何度も誘われるのはいい加減うんざりしているだろう。
また勧誘を頼まれたことを綾が告げると、湊谷は「ふーん」と本当に興味が無さそうに怠い目をしてから、「パス」と言った。
「部活に入らない理由とかってあるの? 絵が嫌いなわけじゃないでしょ?」
「好きだから距離を置くんだ。近付き過ぎると、嫌いになるかもしれないだろ?」
湊谷はそうサラッと言ったが、綾にとっては予想外の返事だった。やはり驚きは隠せなかったのか、そんな綾の顔を見て湊谷は口角を上げて笑う。
「って、この前、本屋に薦められた小説に書いてあった」
茶化すような言葉に、綾は溜息を吐く。
「別に絵が嫌いなわけじゃないけど、部活をやるほど好きなわけでもない。描くからには良い絵を、なんて殊勝な考えもないしな」
どうやらこっちが本音らしい。
「つまりは?」
「趣味くらいがちょうどいい」
綾の問いにテンポよく答えて、湊谷は頬杖をついた。
「それに、絵が上手い奴なら俺以外にもいるだろ。三組の森広とか部活やってないし案外誘ったら来るんじゃねえの?」
「ん。まぁ、それも一応伝えておくけどさ、あの二人は湊谷の絵に一目惚れしたらしいから、なかなか諦めてくれないと思うよ」
「じゃああれだ。適当に、親父が死んだことと部活に入りたくない理由を絡めて、誘いにくいような話を作ってくれ」
冗談にしては笑えない。思わず額に眉が寄ったのを見て、湊谷は「冗談」とつまらなそうに言った。やはり笑えない。
その話を始めて聞いたのは、シュウ少年の自宅へ行った帰り道で従姉と電話をした後のことだった。
従姉から訊いておくように言われた質問の中に『先天的なものか』というものがあり、それを否定した場合に『いつからか』や『同時期に何か変わったことが無かったか』という質問が続いた。その結果、湊谷の父親が同時期に亡くなったことを聞くことになったのだ。しずくもこの話を知っているらしく、確かにこれは本人以外が口にするには大きすぎる地雷だ。と、質問というよりは尋問という形でしずくから聞き出そうとしたことを少し反省した。
一度目の電話で『霊体になるのは危ないらしいから止めた方が良い』と言った時、言葉には出さなかったが不服そうな沈黙が流れた。詳細は直接会った時に、という話だったので綾も危ない理由などは分からなかった。それを考えればこの反応は当然と言えば当然だったが、その後『分かった』と了解してくれた。
その時、制服のポケットに入れてある携帯が細かく震えた。綾は携帯を取り出し、指先で画面を操作してメール画面を開く。
『もうすぐ着くよ』
絵文字も顔文字も、記号すらないメールは従姉からだった。
こうして二人が何故図書室で暇を持て余しているのかというと、学校まで迎えに来るという従姉を待っているのだった。こちらに着くついでに寄る、ということで、昨晩、電話で確認した時は、早ければ授業が終わる前に、遅くても六時前には着くと言っていた。最速は無理だったが、まだ四時過ぎだ。早い方だろう。
綾は『分かった。校門の前で待ってる』とメールを返信してから、湊谷に
「もうすぐ着くらしいよ。校門まで行こう」
と声を掛けて立ち上がった。
肩を並べて図書室棟から渡り廊下へ出たところで、どうでもよさそうな口調を装うようにして湊谷が口を開いた。
「結局、夕樹は来ないな」
湊谷が授業中に幽体離脱をしない以上、しずくが不審がるのは目に見えていたため、今回の件に関しては大体の事を話してある。元より従姉もしずくに会いたがっていたし、しずくも従姉に聞きたいことがあるらしかった。もちろん、今日会うという事も、放課後、図書室で待つという事も昨日の時点で伝えてある。
「昼になんかあったみたいだからね。そっちの事で頭がいっぱいで、こっちは忘れてるのかも」
「声掛けたりしなかったのか?」
「するわけないでしょ」
「なんで?」
「喧嘩の原因、私らしいし」
二人の会話を耳にしていた者がいたらしく、どこからかそんな話が聞こえてきていた。湊谷も聞いていたのだろう。少し困ったように口を噤みながらも、
「だとしても越水が気にする事じゃない」
湊谷の言葉に、綾は少しだけ笑う。
「気にしてるわけじゃないよ。ただ、もしそうなら、私が話しかけたりなんかしたら余計に事態が悪化すると思っただけ。話をするなら湊谷の方が良いと思うよ」
「俺は駄目だ」
湊谷は即答したが、綾はその理由が分からず「なんで?」と問う。湊谷にしては珍しく言いにくそうにしてから、少しだけ顔を背けてこう言った。
「今回の件に関しちゃあ、俺は戸牧派だからな。共感するフリなんて器用な真似出来ないし、話しかけても慰められなきゃ大して意味ないだろ。今の状態じゃあ」
「戸牧派って、湊谷も、私や本屋ちゃんと話さない方が良いって思ってるって事?」
思わず少しムッとしてしまう。
「俺はいい。ただ夕樹の立場で考えるとそう思うだけだよ。ま、今回の事でその立場も崩れただろうし、これからどうなるかは本人次第だろ」
「他人事だね」
「他人事だからな。それに、夕樹が苛められるようなことは無いだろ」
「そう? 女子からすれば。良い意味でも悪い意味でも目立ってる人だと思うけど」
綾の正直な感想に湊谷は苦笑して「まぁそうだな」と答えるだけで、苛められないと確信している理由については何も話さなかった。
綾、湊谷の二人が校門の柱に背をもたれて待つこと十分。一台の軽自動車が、通行人の迷惑も考えずに、歩道を通せんぼするように停止した。
軽自動車の中でも小型な、四人乗りなのか二人乗りなのか、車に疎い二人からは一目で判断出来ないほど小さな車。細かな傷やへこみが目立つ白の塗装。土がむき出しの山道でも走ってきたのか、タイヤの溝には泥土が詰まっていて、車の側面は跳ねた泥がこびり付いている。
汚い、と、まさか、を同時に考えて、湊谷は綾に目を向けた。綾は無表情のままその車を凝視している。
そんな綾が何を考えているかというと、湊谷と同じで、まさか、だった。しかし、それに続く言葉は二人異なる。
湊谷は『まさかこれが越水の従姉の車?』といったところで、綾は――
その時、車のエンジンが切れて、運転席のドアが開いた。
通行人の主婦や下校中の学生カップルからの傍迷惑そうな視線を一身に受けながら姿を見せたのは、二十代半ばほどの女性。垂れ下がった細い目に、項が見えるほど短い焦げ茶色の髪。少し大きい口の角は僅かに上がり、不敵な雰囲気を醸し出している。
彼女が、綾の従姉の達川文恵だった。
ここに車が停まっていると邪魔だから、という至極真っ当な綾の意見により、挨拶もそこそこに車へ乗り込む。歩道から道路に出たところで、右手でハンドルを掴み、左手は肘掛に置いて怠そうに運転している文恵が、助手席に座っている綾に視線を向けた。
「そういえば、もう一人の子は欠席? 私と同じ霊感少女の」
同じじゃない。と『少女』の部分につっこみたかったが、話を脱線させたくない綾は頷いて答える。
「急用が出来たみたい。まぁ、色々と忙しい高校生だからね」
「そうだねぇ。仕事ばっかで忙しがってる大人とは違うよねー」
文恵は懐かしそうに、そしてどこか羨むように言う。遠い目をして、美化された過去の旅に出そうになった文恵を、綾が現実に引き戻す。
「夕樹さんをスカウトするのは今度にするとして、ヤバいのは湊谷の方なんでしょ?」
過去への旅を邪魔されたからか、文恵は少し不満そうに口を尖らせてから、後部座席に一人座っている湊谷をバックミラーで見た。
「うん。まぁそうなんだけどね。でも、もう見て分かったし、そんなに慌てることもないっしょ」
前方の信号が赤に変わり、停止線の少し前で車は止まる。
「湊谷君」
名前を呼ばれて「はい」と答える湊谷に、文恵は振り返ってこう言った。無表情と無表情の目が合う。
「君の『幽体離脱』はお父さんの霊によるものだよ」
湊谷の反応を見るようにしばらく瞬きすらしなかった文恵だが、綾の「信号、青」という言葉に反応して、前を向き直した。
「予想はついてたみたいだね」
アクセルを踏みながら笑ってそう言う文恵に、湊谷は「まぁ」と素っ気なく答える。
「何が危ないのかは考えても分からなかったですけど」
「うん。そうだろうね。そこに気付くには、少し霊的な知識がいる。……綾はもう気付いてるんじゃないの?」
「え? 全然分かんないんだけど」
何故そう思うのかすら分からず、綾が即答すると、文恵は少しショックを受けたような表情をした。
「前に会った時、話してあげたのに……」
前というと二年ほど前、綾が中学二年生の頃に会った時のことらしい。なんとなく思い出してみると、その頃は従姉の話も半信半疑だったし、その頃は色々あり、あまり従姉に構ってあげられなかった記憶が見つかった。だが、従姉が話したという、湊谷の幽体離脱が危ない理由に関しては何も思い出せなかった。
「ふぅ、まぁいいや。どうせ湊谷君にも説明する気だったしー」
少しいじけてしまったらしい十歳ほど年上の女性をどうしようかと思った綾だったが、放っておくことにした。ご機嫌を取らずとも勝手に喋ってくれそうだし。
「幽霊に不思議な力があるっていうのは二人とも知ってるよね。代表的なもので言えば、服とか年齢とか、外見を変える力かな。確か湊谷君は、年齢は無理でも服装は変えられるんだっけ? そういう力のことね。
それで、ここからが一般的じゃない――まぁ、幽霊云々なんて話の時点で一般的とは言い難いんだけど、まぁ、ただ単に霊感がある程度の一般人は知らない話になるね。
その不思議な力の使い道っていうのは、別に、自由に外見の変化させることだけじゃない。ただ、ほとんどの霊はそれしか使い道を知らないだけなんだよね。それは人間にとっての腕力とか知力とか財力と同じで、使い方さえ分かれば良いことにも悪いことにも使える。職業柄、どうしても後者の幽霊に会いがちだけどね」
そこまで喋ったところで一息入れる文恵に顔を向けて、綾は少し険しい表情で口を開く。
「湊谷の父親の霊もそうなってるってこと?」
「いや」
文恵は即答する。しかし、その表情は優れない。
「そうじゃないから、質が悪い」
苦々しそうに言うと、文恵はバックミラー越しに湊谷と目を合わせる。
「さっき言ってた心当たり、詳しく聞いてもいい?」
湊谷は頷き、「俺が小五の時の話ですけど」と話を始めた。
「親父と話したことがあるんです。幽霊がいるかどうか」
湊谷がまだ幼い頃、父親は『たまに家に来る人』でしかなかった。それでも、たまに、の頻度が他人と比べると多かったし、ごくまれに一日中家に居ることもあったから、家族なんだということはなんとなく分かっていたように思う。
今でこそ無愛想で、他人の事など知らないという性格の湊谷だが、当時は人見知りが激しく、父親にすら懐かなかった。父親も父親で、たまに会う度に母親の陰に隠れる息子にどう接していいのか分からなかったのか、父子間でのコミュニケーションはあまりなかった。
そんな日常は湊谷が幼稚園の年長になる頃まで続いた。
いつから、どこから変わったのかは、湊谷自身、あまり覚えていない。ただ、珍しく三人で出掛けたことは覚えている。母親が運転する車に乗って、眠って起きたら大きな病院の待合所で、母親に膝枕をされていた。
それからだろうか。湊谷が眠る前に父親が仕事から帰ってくるようになり、家族三人で夕飯を食べるようになり、週末は毎週のようにどこかへ出掛けるようになり、そして父親と母親が写真をよく撮るようになったのは。
よく笑う母親と違って、父親はあまり笑わない人なのだと幼い湊谷は思っていた。それは間違いだったと気付いたのもその頃だった。
カメラを向けられて笑みを作れば父親も同じように笑ったし、自分と一緒に写るときも同じような笑みを浮かべていた。この人は自分の父親なんだ、と湊谷が確信したのは、もしかしたらその時が最初だったのかもしれない。
それから、湊谷はすっかりお父さんっ子になった。幼稚園で描いた父親の絵が褒められたのが嬉しくて、暇があれば絵を描くようになった。それを見せる度に父親は、『俺もお母さんも絵が下手くそなのに葉は絵が上手いな』と褒めてくれた。隣で母親が悔しそうに顔をしかめるのが可笑しかった。
そしてそんな日々が続き、湊谷が小学五年生に上がった頃、父親と会う機会は再び減少した。
父親が入院することになったのだ。そうして初めて湊谷は、父親の病気のことを知った。
四十歳まで生きられるか微妙だということ、これからは様子を見ながら入退院を繰り返すということ。そして、決して諦めていないということも。
しかし、その言い方で、既にどうしようもない状況であることを湊谷は察してしまった。
湊谷は同年代の子供と比べると泣き虫だった。
悲しみで心が満ちると、溢れた感情が涙となって頬を伝った。
そんな湊谷の頭に手のひらを乗せて、苦笑しながら父親は言ったのだ。
『もし駄目でも、俺は幽霊になって葉に会いに行くよ』
『幽霊なんていないよ』
『いるさ。いなけりゃ、俺が最初の幽霊になるよ』
本当? と言えたかどうかは分からない。涙と鼻水で、ちゃんと喋れた自信はなかった。
だが父親は力強く頷くと、湊谷が成長する度に似る笑みを浮かべた。
『その時は、一緒に空でも散歩しよう』
湊谷が口を閉じて、僅かな沈黙の後、文恵が「なるほど」と独り言のように呟いた。
「他に思い当たる節が無いのなら、十中八九それが原因だね」
原因、と綾は内心で言葉を繰り返す。確かに原因はその会話なのだろう。しかし、綾と湊谷は、幽体離脱が何故危険な事なのかを未だ聞いていない。いい加減、焦れったくなってきて、訊いてみようかと思った綾の心を読んだわけではないだろうが、ようやく文恵は説明を始める。
「最初に言っておくのは、危険が及ぶのは湊谷君本人じゃないってこと。もちろん、周りの人間でもない。危ないのは、君に憑いているお父さんの霊だよ。ううん、この場合、『憑いている』っていうのも少し違うのかな」
「……どういうことですか? 親父がここにいるんですか?」
「うん。まぁ、居る事は居る。でも、姿は見えない。というか、姿は無い。無くなったって言った方が正しいかな」
湊谷に父親の霊が憑いていない事くらい、二人にも分かっていた。それならば、幽体離脱した状態の湊谷が気付かない筈がないし、一日の三分の一は霊感持ちのしずくに見られているのだ。彼女がそれを隠す理由もない。
それに、一体化、と文恵は言った。
「親父の霊は俺の中にいるんですか?」
「んー。当たってるようでちょい違うかな。やり方さえ知れば私みたいのにはお父さんの存在を感じることが出来るけど普通は出来ないし、どっちかといえばやっぱり『いない』って言うのが正しいのかもしれない。……なんかもったいぶってるみたいに思われても嫌だから言っちゃうけど、湊谷君の『幽体離脱』っていう力。それが、お父さんだよ」
二人が何も反応を示さないのを見て、文恵は「まぁ」と小さく笑う。
「それだけじゃあよく分からないよね。っていうか、これは私の憶測だから、まずそれを念頭に置いといてね。なんせ、こんなケースに関しては過去の事案として本で読んだ程度の知識しかないから。えーと、まずはその過去の事案について話した方が後々説明しやすいかな。
こういうケースが発覚したのは、今から三十年くらい前。今回と同じ様な事があったの。死んじゃった女の子が、生前友達だった男の子に憑いたって事が。もちろん、ただ取り憑いただけじゃなくて、今回みたいに『力』としてね。その時の力は今回みたいに優しいものじゃなくて、男の子が嫌った相手を……まぁ殺すまではいかなくても、不幸にするっていう、呪いみたいな力。……いや、その不幸のせいで自殺した人がいることを考えると、やっぱり他人を殺すほどの力って言うべきなのかもね。もちろん、湊谷君のお父さんは違うけど……」
車内に沈黙が走った。考えていることは誰もが同じだ。
「でも、同じような状態にはある」
文恵が言うと、湊谷は小さく頷いてから質問した。
「霊が消えたら、どうなるんですか?」
「分からない。死後の世界があるのか、輪廻転生があるのかも分かっていない。でも、もしそういうものがあるとしたら、その流れには戻れなくなるだろう、と私は思ってる」
それはある意味、いや、本当の意味での死で、永遠の別れだ。
「……その男の子と女の子の霊はどうなったの?」
再び静寂が訪れた車内で、今度は綾が口を開いた。文恵は一つ頷いてから答える。
「それは解決したの。運が良かったんだよね。普通の――私程度の力じゃあ、この問題は解決出来ないから」
文恵はそう言ってから、自分の胸に手のひらを当てる。
「引っ張り出すしかないの。中にいる霊を、物理的に。……綾には話したことあるよね? 過去に一人だけいた、とんでもない霊感の持ち主」
予想以上に従姉の話を聞き流していたことを自覚し始めた綾だが、その話には思い当たるところがあった。
「幽霊と話が出来たって人?」
「うん。ついでに触ることも出来た。だから、解決出来た」
「じゃあ今回もその人に頼めば……」
だが、綾の言葉に文恵は首を横に振った。
「十年以上前から行方不明。もちろん、あの人と同じ様な霊感の持ち主は一人もいない。みんな、触れるどころか、喋ることも出来ない。あの人が出て来るまでは、視覚化が人間の限界だと言われていたくらいだからね」
じゃあどうしようもないじゃないか。
だが、綾と湊谷の思考を察したかのように文恵は二人を安心させるような優しげな笑みを浮かべた。
「でも、湊谷君も運がいい方だよ? いや、不幸中の幸いかな。
さっき話した男の子の力は、ただ誰かを嫌うだけで勝手に発動してしまった。
でも、湊谷君は違う。自分の意志で、力を使用するか決められる。ようするに、力を使いさえしなければ、お父さんの霊が消えてしまうこともないんだ」
出来ることなら今すぐどうにかしてあげたいし、した方がいいに決まっている。類似点の多い過去の事案を確認したところ、急に力が暴走を始めたり、力が変化してしまったり、なんていうこともあったらしいのだ。そこには、そうなった場合、ほぼ百パーセントの霊が何の対策も出来ないまま消えた。とも記されていた。
このことを言うべきか。二人に霊的な知識を話しながら、文恵は内心悩んでいた。
しかし、結局、湊谷には言わないまま、彼を家まで送り届けた。言えなかった理由は文恵自身、よく分かっていた。
過去の事案の中に、自殺の二文字があったのだ。自殺をしたのは依頼人である三十代の女性。半年前に亡くなった夫に憑かれて、自分の意志では制御しようのない力を手に入れた。そして専門家から詳細を聞き、その帰り道で遮断機の降りた踏切に飛び込んだ。ほんの十年ほど前の話だ。
その事案の最後には、担当した専門家の言葉が記されていた。
『おそらく、自分が命を落とせば、夫の霊は消える前に助かると思ったのだろう。
そして、それは正解だった。後日、依頼人の夫の霊が私を尋ねてきたのだ。もちろん、朝賀鶴久でもない私は霊と話すことなど出来ないが、彼の雰囲気は、依頼人から感じたソレと同じものだった。
彼は私の元へ、死んだ妻を探しにきたのだ。すぐに察することが出来た。
私は真実を告げた。正直に話すことが正解なのだと、これまで信じて生きてきた。
夫の霊とはあれ以来会っていない。
なんと言えばよかったのか、未だに答えは出ない』
文恵は決して、湊谷が父親のために死ぬような親不孝な子だと思っているわけではない。ただどうしてもあの文章が頭から離れず、全てを話すことに躊躇いを覚えてしまう。
自殺した者の死後は誰も知らない。一般人はもちろん、専門家も、そして霊達ですら知らないのだ。霊にすらならずに彼らはどこへ消えるのか。死後の世界があるとすれば、やはり地獄かと文恵は思う。専門家の間でも、そうではないかと憶測のまま話は広がっている。
おそらく、あの文を書いた専門家は、その事を正直に、包み隠すことなく教えたのだろう。その話を聞いた時、夫の霊がどのような反応をしたかは、想像に難くない。
しかしやはり、自殺したらどうなるのかくらい言っておくべきだったか、とも思うし、勘の良さそうな湊谷や綾にそんな話をすれば、そこから察してしまうだろうとも思っていた。
いっそすべて話せばどうだろう、と予想してみる。全部話してしまえば、湊谷だって自分を犠牲にしてまで父親を助けようとはしないのではだろうか。もちろん、それを父親が望んでいない事まで含めて考えて。
いや。
湊谷の、何を考えているのかほとんど読めない無表情を思い出して、文恵はすぐに考えを改める。
あの子は、むしろ犠牲になるのが自分だからこそ平気でやりそうだ。父親の気持ちも、残されることになる母親の気持ちも考えずに、自分の気持ちを最優先して。それは自分勝手で、自己中心的だ。
それを理解して尚、彼は止めないだろう。自分のやりたいようにやる。無表情の中、わずかにそんな思考が読めた。
「お姉ちゃん」
湊谷を降ろして以来、ずっと助手席でムスッと黙っていた綾が口を開いた。たった二年前と比べても色々と成長してすっかり大人っぽくなったのに、小さい頃からの呼び方は変わっておらず、少し安心したように文恵は笑みを浮かべた。
「なに?」
「お姉ちゃんの仕事にはさ、悪い霊を成仏させることも含まれてるんだよね」
「正確に言えば、悪い力を発動させてしまった霊ね。基本的に悪人は霊にならないんだよ? あと、成仏って言っても別に仏さんにするわけじゃない。ただ、どこか――まぁ天国とかそう言うところなのかな? とりあえずこの世以外のどこかに送るだけだよ」
ふーん、と綾はどうでもよさそうに生返事をする。
「じゃあさ、それと同じように湊谷のお父さんを成仏させる事は出来ないの?」
それが出来るなら、言わない理由はない。綾だってそのくらいは分かっているだろう。ただ、可能性が考えられる以上訊かないわけにはいかないのが彼女の性格だ。
「無理だね。もともと、霊には人間の言葉は届きにくいんだ。自分に向けられた言葉はちゃんと伝わるけど、例えば人同士の会話を盗み聞きするのはなかなか難しいみたい。今回の件は相手の姿が見えない以上、対象を認識して話す事は出来ないし、なによりも――これは湊谷君には言わなかったけど、霊の状態はかなり悪い。もうただの『力』でしかないって言ってもいいくらいの状態なの。言葉が届いたとしても、それを理解できるくらい意識が残っているのかすら怪しい。朝賀鶴久がいない以上、打つ手がないっていうのが正直なところだよ」
淡々と言っているように感じられるが、言葉の節々に悔しさが紛れていることに綾は気が付いていた。
専門家ってのは、霊が好きで、それと同じくらい人が好きなんだ。
綾が幼い頃、文恵から聞いた言葉が耳の奥に蘇った。今も変わらずその心を持ち続けているのなら、どうしようもないこの状況を歯痒く思わないはずがない。
「……その朝賀鶴久って人はなんで居なくなったの?」
「それも分かっていない。ただいなくなる前に、知り合いに連絡をして、『俺は禁忌を犯した』って言ったらしいよ」
「禁忌?」
「詳しい事は何も言わなかったみたい。専門家の間で禁忌って言うほどの禁止事項は無いんだけど、言ったのが朝賀鶴久だからね。あれから十年以上経った今でも色々と憶測が飛び交ってるよ」
「憶測って、例えば?」
「霊と会話が出来たから、人間が知るべきじゃないことまで知ってしまったとか……」
そこで言葉を止めて、一瞬、逡巡するような表情をしてから、再び口を開いた。
「霊との間に、子供が出来ちゃったとか」
「えぇ。そんなことってあるの?」
昼休みの静かな図書室で大きな声をあげたのは、本来なら騒がしい生徒を注意する立場にある図書委員の本谷美沙子だった。
彼女にしては珍しい大声に、図書室にいた生徒達は何事かと顔を上げてカウンターを見る。美沙子は立ち上がって生徒達に何度か頭を下げる。それを苦笑混じりに見ていた綾だったが、美沙子が顔を真っ赤にしながら椅子に座り直したのを見て、先程の質問に答えることにした。
「ない。というか、確認しようがないよね。朝賀って人以外は幽霊に触れないんだし。でも、霊同士で……えーと……そういうことをしても子供は出来ない、とは言ってたよ。
そう考えると、人と霊の子供だって有り得ないだろう、ってことになりそうなものだけど、何故かその噂が一番有名なんだってさ。まぁ、一番面白そうだからだろうけど」
専門家だって人間だ。噂話をするなら面白い方がいいに決まっている。
美沙子は、湊谷の幽体離脱体質を知らない。湊谷がシュウ少年の本を見つけたことと、シュウ少年からの言葉を伝えたことをどう考えているのか、それとも気にしていないのかは分からないが、美沙子に話すのならば湊谷本人から話すべきだろうと綾は考えている。あまり美沙子の心配事を増やしたくはないという想いもある。
だから今、綾が話したのは、専門家の従姉に会ったということと、朝賀鶴久の話くらいだ。それでも美沙子は興味津々といった具合に話を聞いていたのだが、ふと暗い表情をすると、「噂かぁ」と小さく呟いた。
美沙子も、自分に関して陰であることないこと囁かれていることは知っているだろう。それを思い出しての表情だと綾は思ったのだが、美沙子の言葉で勘違いだと気付く。
「ねぇ、綾ちゃん。夕樹さんの噂って本当なの?」
「夕樹さん?」
聞き返して、すぐに思い当たった。
そんな表情に気付いたのかは分からないが、美沙子はカウンターに身を乗り出して、綾の耳元に口を持って行く。
「夕樹さんと戸牧さんが喧嘩したっていう噂」
「うん。本当だよ」
そう答えながら、そう言えば美沙子はあの二人と同じ中学だったのだと思い出す。とはいえ、しずくともほとんど初対面のような感じだったことを考えれば、雪江と美沙子もせいぜい顔見知り程度の仲なのだろう。
美沙子はまだ聞きたいことがあるらしく、再び綾の耳元に口を近づける。
「『同情するなら金をくれ』って?」
「……ちょっと違う」
そんな間違った情報を与えたのは誰だと訊きたくなったが、ぐっと堪えて本当のことを説明する。
美沙子は「うんうん」と頷きながら聞いていたが、しずくの言葉を聞くと、悲しそうに顔を歪めた。
「本屋ちゃんは知ってるんだ? なんで夕樹さんがあんなこと言ったのか」
美沙子は頷いたが、それ以上の反応は見せない。
『同情で友達になった』というしずくの言葉はもちろん気になるし、出来れば詳細を聞いてみたい。普段は『どうでもいい』で済ますことの多い綾だが、一度気になるとどうしようもなくなる。しかし、つい数日前に自分のそんな性格を反省したところなのだ。流石に今回は質問を控えた。
「訊きたそうな顔してる」
前を見ると、美沙子が目を細めて少し意地悪い笑みを浮かべていた。
「訊いたら教えてくれる? 訊かないけどさ」
おどけてそう訊くと、美紗子は微苦笑を浮かべてから首を横に振った。
「でも、結構噂になってるみたいだし、詳しい事もそのうち噂として流れちゃうんじゃないかな。その事、知ってる人なら、結構な数いるから」
確かに、言われてみればそうだ。中学時代、二人とクラスメートだったくらいの美紗子でも知っている話なのだから、意外と多くの人が、しずくの言葉の理由を知っているのかもしれない。その中には口が軽い人間もいるだろう。
「そうかもね」
返事をした時、図書室に一人の女子生徒が入ってきた。彼女の胸にはハードカバーが大切そうに抱きかかえられている。カウンターにいる美紗子の姿を見つけると、少し表情を和らげて歩調を早めてカウンター前までやってきた。
綾が少し横にずれて場所を空けると、小さく会釈をしてからカウンターにハードカバーを置き、美紗子と話を始めた。
おそらく女子生徒が借りていたハードカバーの内容についての会話だろう。ハイファンタジーものらしく、聞き覚えのない造語らしき言葉が飛び交っていて、その本を読んでいない綾には半分も理解できないが、二人はとても楽しそうに言葉を交わしている。
図書室の常連には『本屋ちゃん』の愛称で親しまれているという事実からも分かるように、彼女は決して万人に嫌われるタイプではない。むしろ、心底嫌っている人間の方が少ないだろう。ただ、彼女を心底嫌う人間の声が大きいだけだ。そして、綾の知る限りどこの学校にもクラスにもある暗黙のクラス内順位。
綾のクラスで言えば、雪江の友人達がクラスのトップ、湊谷が中間。しずくと雪江はその間くらいだろうか。最下位に近いのは間違いなく自分なのだろう。千花と望美は自分より少し上と言ったところだろうか。例えるならば、雪江の友人達が王族、しずくと雪江が貴族、湊谷や望美、千花が町民で、綾が奴隷と言ったところか。こんなに生意気な奴隷がいて堪るか、と自分でも思うが。
美紗子は、そんな王族、女王連中に目を付けられてしまったのだ。中学の頃の友人が同じクラスにいなかったこともあり、そのまま村八分にされてしまった。学校というのはそこらの会社よりずっと村社会的な要素が多く、そして学生である故に逃げ場も少ない。他人がこの状況を見れば、美紗子の弱さにも原因がある、という者もいるだろう。綾だって、そうは思わないわけではない。自分を美紗子の現状と重ねて、自分なら難なく耐えられると思うことだってある。
しかし、それを口にして美紗子を激励する事も叱咤する事もしようとは思わない。美紗子は他人より弱い所が多いのかもしれないが、しかし、それ故に強い部分もある。強い部分を残したまま弱い部分を改善するなど不可能なのだ。弱いからこそ持っている強さだってある。そして綾は、美紗子のそんなところが好きだった。
こうして美紗子が誰かと楽しそうに話をしている姿を見て、何度、自分が同じクラスだったら、と思った事か。その度に、教室で楽しそうに話をする美紗子を想像する。しかし美紗子の話し相手は綾ではない。顔も名前を知らない――現実にいるのかすら分からない女子生徒と楽しそうに話をしていて、綾は廊下からそれを眺めている。そのくらいがちょうどいい、というか、そのくらいの距離感を保つべきだったのかもしれない、という自分の心理がよく出ていると思う。
美紗子と話をしていて、たまに思う事があるのだ。
彼女が苛められた理由には、自分と仲が良い事も含まれているのではないかと。今回のしずくの件もあり、証拠付けられた様な気さえしている。
高校に入学した頃、図書室で二人きりになって、初めに話し掛けてきたのは美紗子の方だった。彼女はあの時の事を後悔していないだろうか。
もちろん、そんな事は聞かない。聞かずとも、美紗子がどう答えるかなどは分かる。そして、その言葉を聞いたところで、それを鵜呑みに出来ないであろうことも。美紗子を信じられないわけではない。そう思ってしまうのは綾にとって当然のことなのだった。




