本と本屋さん~後編~
事故現場は、学校から自転車で三十分ほどの場所にある、中規模な公園の前をはしっている二車線の道路。公園の入り口から出て、横断歩道を渡っていたところを轢かれたらしい。
その場所を自転車で通った際、自転車を止めた湊谷にそれっぽい幽霊がいるか聞かれたが、少年霊どころか幽霊一人いなかった。その事を伝えると「そうか」とだけ言って、近くの喫茶店に目を向ける。
横断歩道を渡ったところにある黒茶色に塗られた木壁。一般家屋のような屋根らしい屋根は無く、横に長い四角形をしている建物だ。ここから出入り口が見えないため、一見、何の建物か分からないが、大きな窓からは、食事や談笑を楽しむ客の姿が見える。オープンカフェはないけれど、窓際の席に座ればこの場所も良く見えるだろう。道中で『今日は暑いし喫茶店だな』と言っていたが、七月上旬に暑くない日があるのかは微妙だ。もし調査が続くようであれば金銭的にピンチになるかもしれない。たとえアイスコーヒー一杯でも喫茶店となれば最低でも三百円はするだろう。学食ならトリマヨ丼が買える値段だ。カロリーを気にして、しずくは食べたことは無いが、三戸森や四篠が食べているのを見て、卒業するまでに一度は食べてみたいと思っている。
喫茶店の入り口横にある駐輪スペースに自転車を停めてから、湊谷に付いて行くかたちで店に入る。
店内の涼しい空気で、汗をかいた体がスーッと冷えていくのを感じていると、店名が書いてあるエプロンを付けた店員がササッと湊谷に寄った。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
「はい」
「それではこちらへどうぞ」
「窓際の席に座りたいんですけど、いいですか?」
「あ、はい。それではこちらへ」
そんなやり取りを終えた湊谷は店員の後を追いながら、しずくがちゃんとついてきているか確かめるように振り返った。
「……なんだ、その顔は」
え、としずくは間抜けな声を漏らす。
「えっと、だって、湊谷君が敬語使ってる」
「丁寧語だ。ってか、高校生にもなって丁寧語使えない奴がいるか」
「だって、湊谷君、敬語使うイメージないし。ちょっと口悪いし」
「……よし分かった、夕樹と話す時は『さん』付けに丁寧語で接する事にする」
「えぇ、気持ち悪いよ」
そう言うと湊谷は顔をしかめて、先導していた店員に小さく笑われた。少し恥ずかしくなって、しずくは視線を下げる。
二人が席に着くと、店員は「ご注文がお決まりになりましたら――」というテンプレートな言葉を言って離れて行った。
メニューを手に取る湊谷を見てから、しずくは店内を軽く見まわす。夕方のこの時間が喫茶店の繁盛する時間なのかは分からないが、人はそれほど入っていなかった。それに、高校生以下の客はおそらくしずくと湊谷だけで、あとは大学生だったり、OLっぽかったり、中年女性の集まりだったり。しかも、結構オシャレっぽい服装の人が多くて、制服姿の自分達が浮いていないか気になり始める。もう少し可愛い制服だったらよかったのに、と今さら過ぎる不満が出てきたりもした。
「なに挙動不審になってるんですか」
一瞬、誰に声を掛けられたのかと思った。周りをキョロキョロしてしまったくらいだ。でも、その声は確かに湊谷のもので、いつもの無愛想な表情と目が合う。
「どうしたんですか」
予想はしていたが、実際に言葉と口の動きがシンクロしているのを見ると衝撃的だった。
湊谷君が私に敬語使ってる……!
冗談っぽい口調ではなかったが、まさかほんとに実行するとは、としずくは戦慄する。冷や汗が頬を伝った。
「う、ううん。なんか、ここって大人っぽい店だなぁって」
「あぁ、そうですね。夕樹さん、ここにくるのは初めてなんですか?」
「夕樹『さん』!? ……え、うん。初めて、です」
「そうなんですか。実は初めてなんですよ、僕も」
「ボク!?」
あまりの恐ろしさに足が震えだした。何が怖いって、湊谷が敬語を使っているだけでも不自然すぎるのに、その表情が普段と変わらない無表情だから余計に怖い。
しずくが顔面蒼白になって震えていると、メニューに視線を落としていた湊谷が顔を上げた。
「僕は決まったので、どうぞ」
「は、はい。ありがとうございます……」
泣きたい気持ちを抑えていると、先程の店員――名札を見たら、店長と書いてあった。見た感じ若い女性なので少し驚いた――が水とおしぼりを持ってきた。ついでに注文を済ませてしまうと、テーブルには再び沈黙が流れた。
まだ幽体離脱する気はないのか、湊谷はボーっとした表情で窓の外を眺めている。その視線を追って――というか公園の前の道路を監視するのが目的だった、としずくは今さら思い出す。
車通りの多い道路ではない。道路が混雑し始める今の時間でもこんな調子という事は、ピーク時もそんなに車が通るわけでもないのだろう。少年が轢かれたのは、土曜日の午後四時頃。ちょうど、今の時間帯だ。一人で美紗子の両親が働いている書店へやってきて、出て行ったのが午後一時頃。少年は徒歩だったらしいが、書店からここまで何時間もかかるような距離は無い。公園から出て来たという事は、空白の数時間はあそこで遊んでいたのだろうか。
そして、湊谷や綾から聞いた、少年霊を見つけたい理由。具体的な理由は二人とも知らないらしく、『美紗子が少年霊に聞きたいことがあるらしい』とだけ教えてもらえた。
「お待たせしました。ご注文のアイスコーヒーです」
その声に振り向くと、店長が二人の前にコースターを置き、その上にコーヒーが入ったグラスをそっと置いた。喉が渇いていて、すぐに手が伸びそうになったけど、しずくはコーヒーをブラックで飲めない。普段はガムシロップとミルクを一つずつ入れる。
店長が「ごゆっくり」と頭を下げてテーブルを離れてから、早速しずくはミルクに手を伸ばした。最悪、ガムシロップは無くてもいい。でもミルク入れないと駄目だった。コーヒーの黒さが苦手なのだ。苦みを強調しているような気がして。
しかし、そんなしずくの耳に聞き慣れることは無いであろう丁寧語が届く。
「最初の一口はブラックでお楽しみください」
ミルクを掴んだ状態でしずくが顔を上げると、湊谷の横顔があった。視線を追うと、大きな窓の横の壁には紙が貼られていて、そこには、先ほど湊谷が口にした言葉。ついでに貼り紙の隅には、コーヒーカップの絵が描かれている。カップの中に入っているコーヒーは真っ黒で、多分ブラックなんだろうなぁ、としずくは思った。
「だそうですよ」
続いて聞こえた丁寧語に、再び鳥肌が立った。そろそろ文句を言ってもいいと思う。
少し不満そうに睨むしずくなどどこ吹く風。湊谷は、コーヒーグラスに手を伸ばすと、ブラックのまま口に含んだ。しずくは、うわぁ、と思いながらその光景を見る。引いているわけではなく、感心しているのだ。よく飲めるなぁ、と。
別に、しずくはブラックコーヒーを飲まず嫌いしているわけではない。飲んだことはあるのだ。小学三年生の頃に。そしてあまりの苦さに吹き出して、泣いて、それ以来、ブラックコーヒーを避けるようになった。実は、コーヒーを飲むようになったのも高校に入ってからだ。中学の頃は雪江や他の友人と喫茶店などに行ってもココアやカフェオレを飲んでいたが、高校に上がってから雪江に『もう高校生なんだからコーヒーを飲めるようになりなさい』と言われて、それから飲むようになった。最初は角砂糖一個にミルク二つだった。そう考えると、少しずつだがコーヒーの苦みにも慣れてきているのかもしれない。それでも、やっぱり好きなのはココアとかカフェオレなのだけど。
「ん、苦い」
湊谷はそう言って軽く眉を潜める。
「苦いの?」
ブラックコーヒーを飲む友人達はみんな『苦くない』と言っていたことを思い出して、そう尋ねてみる。
「まぁ」と湊谷はガムシロップに手を伸ばす。
「書いてあるから飲んでみたんだけど、やっぱ苦い」
照れを隠すような仏頂面をしてガムシロップをコーヒーに加える湊谷だが、先程までの丁寧語を忘れている。それが可笑しくてか、それとも自分と同じで安心したのか、しずくの表情には自然と笑みが浮かんだ。でも、そんな顔を湊谷に見られたら余計に仏頂面になりそうだから、バレないように隠れて笑ってから、しずくもブラックコーヒーを口に含んだ。
「苦い」
そう言うと、湊谷が笑みを浮かべる。さっきのしずくと同じような笑みだった。
二人してガムシロップ入り(しずくは結局ミルクも入れた)コーヒーを半分ほど飲んだ頃、湊谷が「よし」と言ってコーヒーをテーブルの隅へコースターごとずらした。
「それじゃあ始めますか」
丁寧語は結局戻ってしまったけど、しずくはもう気にしない事にした。それに、湊谷が自分に丁寧語を使っているという状況は少し優越感もある。これを口にしたら、湊谷は丁寧語を止めてしまうかもしれないから言わないけど。
「コーヒー飲んだ後に寝れるの?」
そう尋ねると、湊谷は少し呆れたような顔をする。
「別に寝るってわけじゃないからな。少しの間、死んでるだけだ」
その言葉にハッとする。そういえば、綾から聞いた専門家の言っていた『一般的な生霊』と湊谷の違いはそこにもある。それについても尋ねてみようかと思ったが、前を向くと湊谷は既に幽体離脱していた。だが、いつもと違うところがある。
「なに、その紐みたいなの」
「あぁ、これな。……ってか、あんまりでかい声で喋るなよ?」
そうだった、と少し慌てて頷くと、湊谷は自分の背中から出ている紐を軽く持ち上げた。どこからどうみても紐だ。霊体の湊谷と、本体の湊谷を繋げている。半透明で、空色。色の濃度は本体に近付くほど濃く、霊体に近付くほど薄くなっている。
「一応、本体の状況が分かるようにしておくためのもんだ。これがあれば、本体の耳に届いた音とかもこっちで分かるし、一瞬で本体に戻ることも出来る」
「へー?」
分かるような分からないような感じで首を傾げる。
「でも、普段はこんな紐付いてないよね?」
「邪魔だからな、この紐。それに、最初の頃は付けてたけど、一回、幽霊の子供にこの紐で縄跳びやら綾取りやらして遊ばれたことがあってな。それ以来、付けないようにしてたんだけど……まぁ、今回はしょうがない。死体騒ぎになってもアレだし」
「縄跳び……」
その光景を想像したら可笑しかったが、
「あぁ。なんか子供のくせにムスッとしてて、上等な感じの着物着てる奴だったな」
それを聞いて、笑みの浮かべる途中で表情が固まり、冷や汗が流れる。
心当たりがある。というか、毎日見ている。
「えっと、女の子?」
「ん? そうだけど。知ってんのか?」
知ってるも何も、しずくの家に住みついている幽霊だった。子供の霊というのは数が少ないうえ、あんなに変わり者の霊は二人もいない。湊谷の紐で縄跳びや綾取りをしたのはほぼ間違いなくあの幽霊だろう。しかし、『うちの子です』なんて言って、幽霊の代わりに説教を食らうのは嫌なので、しずくは「あー、うん」と曖昧に返事をして誤魔化した。
湊谷がふわふわと窓から出て行くのを見送ってから、しずくも事故現場へ目を向ける。
幽霊がいた。でも、少年でもなければ男性でもなく、若い女性の幽霊だ。彼女は事故現場付近に立って周囲を見てから、スッとどこかへ飛んで行ってしまった。湊谷が言っていた、少年霊の噂を聞いてやってきた幽霊だろうか。
幽霊、か。とふと思った。
誰かの幽霊の話を普通にしたり、こんな風に誰かと幽霊を探したりする日が来るなんて、高校に入学するまで想像もしていなかった。そうなったらいいのにとは思っていたけど、無理だろうと心のどこかで諦めてもいた。
そして実際に湊谷や、少しだけど綾とも幽霊の話をして、しずくにはまた別の願望が出来た。
綾の親戚にいるという、専門家の人と話をしてみたい。
いろんな人と話をして気づいた事だったが、しずくはまだまだ幽霊に関して何も知らない。いや、知らなくてもいいと思っていた。でも、もっと知りたくなった。色んなことを知って、それを色んな人と話したい。
湊谷君とか越水さん、それに本谷さんも信じてくれているみたいだし……。
頭に浮かぶのは両親の顔。小さい頃、多分四歳かそのくらいだったと思う。幽霊が見える事を言ったら『他の人には言わないように』と言われた。それまでに見た事が無いくらい険しい顔で言われたので、小さい頃のしずくは『幽霊が見えるのは悪い事なんだ』と思って、それ以来、両親の前では幽霊の事を喋らなくなった。でも、いつか話したいとは思っている。理由は自分でもよく分からないけど、簡単に言えば『親だから』だ。
そんな事を考えていると、いつの間にか視線が下がっていた。コーヒーグラスを眺めていても仕方がない。自分がするべきことは、事故現場を監視する事だ、と顔を上げた瞬間、窓の外にいた二人と目が合った。二人とも信号待ちをしているらしく、綾はしずくと目を合わせてから湊谷を見て怪訝な顔を、美紗子は邪魔したら悪いとでも言っているのか、何か言いながら慌てたように綾の腕を引っ張ってどこかに連れて行こうとしている。そんな二人の頭上には湊谷の紐がふわふわ浮いているのだが、やはり普通の人には見えないらしい。
「越水さんに、本谷さん」
思わず呟くと、宙に浮いていた紐がパッと消えて、湊谷がのそっと顔を上げた。
「越水に本屋?」
どうやら紐があれば本体の近くの音も分かるらしい。湊谷は確認するように言ってから、しずくの視線を追って窓の外へ目を向ける。そして、しずくと同じように、二人と目が合う。
軽く右手を挙げて挨拶する湊谷に、綾は同じように返し、美紗子もその場を立ち去ることを諦めたらしく、照れたような困ったような笑みを浮かべながら小さく手を振った。
店に入ってきた二人と相席して話を聞くと、どうやら同じ目的らしい。
「まぁ、本当なら公園で見張ってた方が良いんだろうけど、外暑いからね」
綾はおしぼりで手を拭きながらそう言って隣のしずくを見る。
「というか、さっき話した時に教えてくれればよかったのに」
しずくは苦笑で返すが、湊谷が
「さっき話したからな。昼休みは、また別の話」
しれっと嘘を吐いた。綾は少し意味ありげに「ふぅん?」とわずかに首を傾げる。疑っている、とまではいかずとも、少し気になる感じだ。内心が顔に出やすい事を自覚しているしずくが、綾から視線を外すと、今度は美紗子と目が合った。美紗子は先程からずっと笑顔だ。三人も協力してくれる人がいて嬉しい。というのが理由らしい。美紗子の笑顔は同性であるしずくから見てもほんわかとしていて可愛らしい。美紗子が、比較的身長の低いしずくよりも更に小さい事も、そんな雰囲気を感じる理由の一つかもしれない。
「でも夕樹さんが手伝ってくれるなら心強いね」
美紗子はコロコロと笑いながら綾に同意を求める。
「うん。そうだね。私達じゃあ、いても分からないかもしれないし」
普段、こんな風に誰かに頼りにされることが無いしずくは、少し照れながら窓の外へ目を向ける。信号待ちをしている学生や、公園から出て来た母子、仕事帰りであろうスーツ姿の男性など、人通りはあるが、幽霊の姿は見当たらない。
ふと、窓にうっすらと映っている湊谷の姿に目を向ける。何を考えているのか、何も考えていないのか、トロンとした眠そうな、というより怠そうな目で窓の外を見ている。幽体離脱している時間は、睡眠時間に入らないのだろうかと気になった。眠っているのではなく死んでいるのだと湊谷は言っていたが、それにしても身体は休まりそうなものだが。
また一つ聞きたいことが増えた。それは悪い事ではなく、嬉しい事だ。
「葉君、眠いの?」
ヨウクン?
美紗子の言葉が脳内変換できずに戸惑うが、彼女の視線を追い湊谷を見て、ようやく意味が分かる。湊谷、葉。それで葉君。
湊谷の名前を聞いたのは入学式の日以来、それも、誰かの口から聞いたのは初めてだった。
二人が知り合いであることは聞いていたが、まさか名前で呼ぶ仲とは思っていなかった。これで湊谷まで『美紗子』なんて呼び始めたらそれこそ恋人同士のようだ。いや、自分や綾の事は名字呼びなのに美紗子だけあだ名という事は、やはり二人は仲が良いのかもしれない。そんな推理をするしずくだが、実際のところ、美紗子が湊谷を名前で呼んでいる理由は『湊谷君って何か言いにくい。ミナトヤンクンって感じになっちゃうから』という理由で、湊谷が美紗子をあだ名で呼んでいるのは『越水がそう呼んでたから。ってか、初めて話した時、本屋の名前知らなかった』という理由に過ぎない。
「湊谷眠たいの? 授業中、いつも寝てるのに」
美紗子に続いて綾が呆れたように言うと、湊谷は二人の方を向けて小さく手を振り、
「別に眠たくはないっての。元からこんな顔なだけだ」
そう否定したが、既に話題は別の物へ移ったらしい。
「葉君、まだ授業中に寝てるの? テストとか大丈夫だった?」
美紗子は少し怒ったような、でも心配そうな表情で尋ねる。まるで母親、または、出来の悪い弟を叱る姉のようだった。そういえば、湊谷に兄弟はいるのだろうか。また聞きたいことが増えたけど、家族の事は少し聞きづらい。多分、そう思っていることも顔に出てしまうから、余計に。
「大丈夫だった。って前も言わなかったか?」
「言ってたけど、授業中に寝てるなんて知らなかったもん」
美紗子に疑いの視線を向けられて少し困ったような表情をする湊谷をフォローしたのは綾だった。
「本屋ちゃん、こう見えて、湊谷ってクラスではかなり頭のいい方だから大丈夫だよ」
「そうなの? 綾ちゃんよりも?」
「うん。多分、この中でも一番いいはず」
「中間の時はたまたまだけどな。それかテストが簡単だったんだろ。中学最後の期末は五教科で三百五十点くらいだったし」
「あ、それなら私と同じくらいだね」
美紗子は嬉しそうに笑う。先程の会話からして、綾は美紗子よりも頭が良いようだし、この中で一番成績が悪いのは自分という事になる。しずくは五教科の合計が三百点に届くか届かないかくらいだ。テスト勉強をしなかったり内容が難しかったりする時は二百五十点まで下がることもある。しかし、湊谷の言う通り中間テストは簡単だった。それでも合計点数は三百三十点と言ったところだったが。しかし、今回の期末は少し難しかったので、何点下がるか心配でいけない。しずくのお小遣いはテストの点数で決まるのだ。しかも一学期の期末テストから二学期の中間まではかなり間が空くため、ここで酷い点数を取ったら、しばらく金欠になってしまう。夏休みなんて、特に浪費が激しくなるだろう。つまり一年の中でも重要な試験になる。もちろん勉強はしたのだが、それでも不安だ。
それから四人で噂話の検証や称号をしてみたが、結局真新しい情報は得られず、そして少年霊が姿を現すこともないまま午後六時くらいに解散した。外はまだ明るく、時間的に少し早いが、しずくの門限もあったし、美紗子も今日は夕飯当番だからあまり遅くなれないと言っていたためだ。
しずくの家は一軒家が建ち並ぶ区画から少し外れたところにある。唯一のお隣さんとは家二件分くらいの距離が空いていて、なんとなく仲間外れにされているような印象を受けてしまうが、しずくはそんな家が好きだった。というより、窓を開けたら数メートルの場所に他人の家があるというのが嫌なのだ。分譲団地にある雪江の家なんかは特にそうで、窓を開けたらすぐ近くに隣家の窓がある。もちろん、カーテンを閉めていなければ中だって覗けてしまう。初めて雪江の家に行ったときは驚愕を通り越して寒気を覚えたものだ。
日が沈む前に家に着いたしずくを迎えたのは母親の「おかえりー」という声と、ちょうど壁をすり抜けて玄関前へ出て来た幽霊の鈴だった。もちろん、ずっと一緒にいるとはいえ彼女と言葉を交わせるわけでは無いため、しずくが付けた名前だ。話せないなら文字を書けばいい、と思った頃もあったが、幽霊が書いた文字(筆とかはどこかからか取り出す)というのはぼやけて何と書いてあるのか分からないのだ。幽霊からすれば、しっかり見えるらしいが。そう言えば、この事についても専門家の人に聞いてみたい。
「ただいまー」と母親に少し大きな声で返してから、鈴を見て小さく「ただいま」と言う。鈴は無表情のままコクリと頷いて、おかっぱ頭と赤い着物を揺らしながらふわふわと階段の方へ浮いて行った。
外見は小学校低学年だが、しずくが子供の頃からずっとその姿なので、実年齢もっと上だろう。そこら辺の大人よりも落ち着いた雰囲気や、たまにしずくを子ども扱いしていることを考えると、幽霊歴はかなりのものなのかもしれない。そういう事を訊いても首を横に振るだけなので詳しい事は何も分からないのだが。
二階にある自室へ行くと、鈴がベッドの上で正座をしていた。部屋に入ったしずくに顔を向けて、そのまま目を逸らさない。
これはいつもの事だった。家に帰ると、鈴はしずくの自室にやってくる。そして何かを催促するように目を見てくるのだ。何を催促しているのかと言うと、報告だ。報告と言っても、別に鈴から特殊任務や極秘任務を受けているわけではない。ただ単に、その日何があったかとか、そんなことだ。
左手を後ろに回して部屋の鍵を閉めて、木製のポールスタンドの枝に鞄を引っ掛ける。鈴の隣に座ろうかと思ったが、汗を掻いている自分の身体を思い出して、勉強机の椅子に腰かけた。
「今日はね、久しぶりに色々あったよ」
小首を傾げる鈴に、えへへ、と笑みを浮かべる。思い出し笑いだ。
近くで事故があったという話は以前にした事があったため、しずくは「少し前に話した子供の事故の話って覚えてる?」と切り出して話を始めた。
雪江、三戸森、四篠から聞いた噂話。
湊谷、綾から少年霊探しを頼まれたこと。
そこまで順調に喋っていたしずくだったが、放課後、湊谷と喫茶店へ行った話の途中で「あ」と小さく声を上げた。
「そう言えば、鈴さん、湊谷君に会ったことあるでしょ?」
鈴は首を傾げる。
「えっとね、こう、背中から紐が出てる生霊で……」
横を向いて背中を指してから正面に向き直り、両手の人差し指を口角に当てて下げる。
「こんな風にずっと仏頂面してる、私と同い年の男子。なんか、鈴さんっぽい人に本体と霊体を繋いでる紐で綾取りとか縄跳びされたって言ってたよ」
鈴は少し眉を潜めながら首を傾げ続けて、ついにはベッドに、ポス、と倒れた。そして、ようやく思い出したように口を小さく開けた。
「思い出した?」
横向きに寝たまま頷く。
「それが湊谷君だよ。ちょっと前に話した、生霊になれる同級生」
へー、というように鈴は口を開いた。
「湊谷君と話とかしたの?」
そう問うと、鈴は左手の人差し指と親指で輪っかを作った。
「おーけー? たくさんしたの?」
首を横に振って、右手の人差し指で輪っかを差す。よく見ると、完全な輪っかではなく、人差し指と親指の間には僅かな隙間があった。
「少しだけ?」
そう聞くと、正解、と言うように両手をだらんとおろした。
「ふぅん」と呟くしずくを、鈴は不思議そうに見つめる。
「羨ましいなぁ。私も、鈴さんと話してみたいよ」
今までに何度か、というか何度も、同じような事を言ってきた。そうすると鈴は必ず、苦笑いをしてから、子供に何かを諭すような優しい笑みを浮かべて、大きく首を横に振るのだ。こういう時の鈴は、しずくが知っている中で一番大人っぽい表情をしている。
しずく達の少年霊探しは続いた。翌日は雨が降っていたため喫茶店で、そしてそのまた翌日である今日は、曇りで気温がそれほど高くなかったため、公園で待ち伏せしている。
公園と言っても遊具などはほとんど無い。正確に言えば無くなったのだが、今はブランコと滑り台、砂地があるだけで、あとはただただ広いスペースが残されている。しかし公園にフェンスなどは無く区画を区切るように木が植えられているだけ。野球などをするにはあまりに心もとないし、ボールが茂みに入ったりしたら探すのも一苦労だろう。サッカーゴールがあるわけでもない。もちろん、テニスコートもバスケットゴールもない。そんな理由もあってか、それともただ単にインドアな子供が増えているだけなのか、公園内に子供の数は少ない。屋根のあるテーブル付きの小さな休憩所には子供が数人集まって、二画面あるゲームをしている。ゲームとは縁のない生活を送ってきたしずくだが、あんな風に面白そうにやっている様を見ると、少し気になってくる。
湊谷君はゲームとかやりそうだなぁ。本谷さんは多分やらないだろうけど……。うーん。越水さんはどうだろう。訊いてみようかな、と同じベンチに座っている綾を横目で見る。
一昨日と比べて、人数は半減した。昨日はしずく、綾、美紗子の三人だったが、今日はこの二人だけだ。湊谷は、昨日学校で会った時に『あの二人、明日からも来るらしいし、俺は俺で探すことにする』と言っていたため、どこかで幽体離脱をして今もふわふわと町中を回っているのだろう。美紗子は、今日は図書当番、明日は店の手伝いがあり、こちらには来られないらしい。そんなわけで今日は二人だ。おそらく、明日も。
先程から、若干気まずい沈黙が続いている。昨日までは美紗子がいたから何とかなっていたのだと今更知った。自分に似たタイプだと思っていたが、ああ見えて美紗子は仲の良い相手がいるとよく喋るらしい。基本的に聞き手に徹しているしずくとは大きく違う。
「なんか訊きたそうな顔してるね」
気付くと、綾が同じように横目でしずくを見ていた。その流し目の表情が同年代に見えないくらい色気を感じて、しずくは「えっ? あー、うわぁ」と何故か照れてしまった。綺麗に見える角度という奴だったのかもしれない。いや、もともと綾は綺麗な顔をしているのだが。
そんな反応を見て勘違いしたのか、綾は「湊谷のこと?」と微笑を浮かべながら言った。
「湊谷君?」
「あれ、違った? なんか、変な噂が流れてるらしいから、気にしてるのかと思ったよ」
変な噂。
「えっと、湊谷君と越水さんが付き合ってるってやつ?」
「うん。それ」
綾は少し困ったように笑いながら言う。
「まぁ、もちろん噂は根も葉もない嘘なんだけどね。火種っぽいものは自分で作っちゃったのは自覚してるけど」
火種?
数秒考えて、『火の無いところに煙は立たぬ』という諺の事を言っているのだと分かった。確かに、噂が生まれたのは綾が湊谷と話すようになったからなのだが……。
「でも」
友達と話すのは普通のことだよね。と言いたかったけれど、噂話を耳にした時、否定も肯定もせず一番楽でズルい位置にいた自分を思い出して、口を噤んだ。
綾はそんな内心を読んだように笑みを浮かべて、言葉の続きを聞いてはこなかった。
「私としては、湊谷と夕樹さんの方が気になるんだけど」
からかうような口調で言われて、しずくは「えぇ!?」と飛び上がりそうなほど大きく反応する。訊いた綾も、目を見開いて身を引くほどの大声だった。しずくは恋愛話が苦手だ。雪江相手ならば慣れもあるし心の準備も出来ているのだが、まさか綾とそんな話になるとは思っていなかったのだ。それも、こんな唐突に。
「わっ、私と湊谷君は何もないし!」
「そうなの? 授業中、ずっと見てるって話聞くけど」
「ずっとじゃないし! たまにだし!」
「やっぱ見てるんだ」
「ほんのたまにだし!」
「そんなに否定するって事は、異性として興味なしって事?」
「ないし!」
「そうだよね。湊谷なんて、生霊になれなかったらただの無愛想な男子だもんね」
その言葉に何度も大きく頷いてから、しずくはピタッと動きを止めた。最近、ニュースで見た二足歩行型ロボットよりもロボットらしい角ばった動きで綾に顔を向ける。色気のある流し目と視線が合った。
先程までは沈黙が気まずかった。でも今は、沈黙が痛い。
「……夕樹さん、すごい顔してるよ」
「え。そ、そうかな」
まだぎこちない動きで両手を頬に当てて軽く回して筋肉をほぐす。そんなしずくを綾は苦笑を浮かべながら見ていた。
「えっと、湊谷君に聞いたわけじゃないんだよね?」
ようやく落ち着いてから、しずくはそう尋ねる。嘘を吐いたって意味の無い事は自分が一番よく分かっていた。
「まぁね。本人に聞けるような事じゃないし」
「なんで分かったの?」
「夕樹さんの行動を見てたら、もしかしたらって」
綾の言葉に、「うぐ」としずくは赤面しながら怯む。一か月前、図書室で傍から見れば(綾から見れば特に)奇行に見えたであろう自身の言動を思い出したのだ。
「あぁ、ううん。別に変な行動ばっかりじゃなくて……、例えば、寝てる湊谷ばっかり気にしてるとことかね。あと、脈測ってたし」
後半は『変な行動』に該当する気がしたが、しずくは気にしない事にした。
つまりは、もしかしたらと思い、カマをかけて、それに見事なまでに引っかかってしまったわけだった。
完全に自分のミスだった。湊谷に怒られたらどうしよう。としずくは頭を抱えたくなる。
「やっぱりあんまり聞かない方が良かった?」
少し心配そうな表情をする綾に、首を振って答える。
「ううん。分かんない。私の時は、湊谷君、あんまり気にしてないみたいだったけど」
「ってことは、やっぱり湊谷は自分が霊体になってること分かってるんだね」
「あう!?」
頷いている綾を見て、また余計な事を喋ってしまったと気付く。優しい表情に騙された。酷い。これが飴と鞭というやつか。
両手を宙に浮かせてアワアワしているしずくを見て、綾は「ごめんごめん」と苦笑いをしながら謝る。
「でも、どうしてもそこだけは知りたかったから。ほら、図書室で夕樹さん、湊谷と喋ってる感じだったし」
実際は図書室では喋らず、湊谷が口を開いたのは体育館裏へ行ってからだったのだが。
「…………」
しずくは膨れ面で綾から顔を背ける。そこまで怒っているわけでもないが、顔を見られただけで心が読まれそうだったから。
「話が出来るのは、夕樹さんの霊感が強いから? それとも、湊谷が他の幽霊――というか、生霊と違うから?」
「…………」
「やっぱり湊谷の方なんだ」
簡単にバレた。
「まぁ普通に話が出来るって時点で、従姉が言ってた生霊と違うからね。そうだろうなぁって思ってたんだけど」
「私、何も言ってないよ」
顔を背けたまま言うと、綾は可笑しそうに笑った。
「だって、自分が原因なら、夕樹さんが黙ってる理由がないでしょ?」
つまり、嘘を言えばバレると分かっているから黙っていたのがバレていたわけだ。あまりに自分の事を見抜かれていて、泣きたくなる。どこまで自分は分かり易いのだろう。じんわりと涙が浮かんだ。
「なに泣いてんの、お前」
突然聞こえた無愛想で少し乱暴な声に、しずくは勢いよく振り返った。その勢いに押されてか、それとも目に溜まった涙を見てか、それともその両方か、綾は少し身を引いた。
そしてそんな綾の頭上後方に湊谷は浮いていた。
「様子見に来たら、まさかの展開だな。ま、越水にはバレてるような気はしてたけど。少し前から、教室で『よく寝てるね』とか何気ないフリして訊いてきてたけど、妙に疑るような感じだったし」
気にした様子もなく、そしてどうでも良さそうに、まるで独り言のように言う湊谷は、しずくの顔を見て呆れたように顔をしかめる。
「大体、夕樹に気付かれた時点で、クラス中に言い触らされる覚悟くらいはしてた。それに今回の件に関しちゃあ、事情知ってる奴がいた方が楽かもな」
すごく遠回しだったが、湊谷が『気にするな』と言ってくれていることがなんとなく分かって、しずくは少し気が軽くなる。でも先程までとは別の意味で泣きそうだった。
綾はしずくの視線の先を追って、次にしずくを見る、という行動を数回繰り返してから、「もしかして」と宙を指差した。
「湊谷、そこにいるの?」
一応湊谷に視線を向けると、どうでもよさそうに頷いたため、「うん」と答える。
「えっと、証拠とかって……難しいよね」
もう一度湊谷を見ると、空を見上げながら「証拠……」と呟いた。そして思い付いたように口を開き、すすす、と綾の前に降りた。もちろん綾は気付いておらず、しずくは頭の上にハテナマークを浮かべて行動を見守っている。
そして湊谷は無表情のまま、スッとしゃがんだ。
「キャ――――!!」
突然大声を上げながら綾の目の前に前蹴りを入れるしずくだが、もちろん霊体である湊谷に当たるはずも無く、半透明な体をすり抜けて空を切る。
目を点にしている綾を気にする様子もなく湊谷は立ち上がり、はぁはぁ、と息を切らすしずくを見て一言。
「薄い水色で、リボンが付いたやつ」
「変態!」
「証拠だ、証拠。本人しか知らない事言うのが一番早いだろ。他にいい案あるのか?」
「…………」
もちろん、そんな案は思い付かない。だけど下着の色を言うのも嫌(というか下着を男子に見られたという事実を綾に伝えるのが嫌)なので、何かいい案が無いか綾に聞いてみる。
「うーん。幽霊がいることの証拠かぁ……」
しばらく考えてから、じゃあ、とベンチの隅に置いてあった自分の鞄を膝の上に置いた。その中から手のひらサイズのメモ帳とボールペンを取り出し、
「私がこれからあっちの方でこのメモ帳にとある文章を書くから、夕樹さんがそれに答えられれば湊谷がいるっていう証拠になるんじゃない?」
湊谷を見ると、目を逸らしながら「なるほど」と呟いていた。下着覗く必要なんてなかったじゃん、と思わずジト目になる。いつの間にか涙も引っ込んでいた。間違っても感謝する気にはなれないけど。
「じゃあ、それでいこっか」
そう答えると、綾は腰を上げて、十歩ほど歩いた場所でメモ帳に何かを書き始めた。綾には見えていないだろうが、湊谷は彼女の頭上からそれを覗き見ている。二人ともしずくに背中を向けているため表情は見えなかったが、振り返った時の綾の笑顔と、湊谷のしかめ面が妙に気になった。
綾は珍しいくらいの笑顔を浮かべたまま、ベンチに座る。
「さ、答え合わせ」
その言葉に、しずくは湊谷に目を向ける。綾の頭上に浮いている湊谷は
「ない」
とだけ短く答えた。
「ない。だって」
「へー。ほー」
綾がニヤニヤと少し意地悪そうな笑みを浮かべる。
「あと、薄い水色」
「薄い水色、だって。あ」
意味を考えないまま繰り返した言葉によって、まるで時が止まったかのように綾の笑みが固まる。湊谷はそんな綾の様子を鼻で笑ってふわふわと空高く飛んで行ってしまった。
結局、その日も少年霊は見つからず、また明日という事になった。明日は土曜日。休日だ。二人は特に集合時間などは決めず、気が向いたら来るということになった。そう提案したのは綾だった。
でも多分、越水さんは朝から来るんだろうなぁ。
帰路の途中で別れた綾の背中を思い出しながら、何の根拠もなくしずくはそう思った。
翌日、しずくが公園へ着いたのは昼前の事だった。朝早くから家を出ようとしたら父親に見つかり、『久しぶりの家族団欒の日にどこに行くんだ! 男か!?』『違うよ! 友達と遊びに行くの』『友達ってのは女の子か?』『えっと……多分』『多分!?』『もしかしたら男の子も来るかもだけど、でもそういうのじゃないし!』『駄目だ! もしかして、昨日、帰りが遅かったのは……』『違うって! ていうか、家族団欒ってお母さんまだ寝てるじゃん! 起こしてきてよ!』『馬鹿言うな! あいつの寝起きの悪さをしずくも知ってるだろう!』というやり取りがあった後、結局、早めの昼食を済ませるまでは家から出られなかった。まさか四十後半の大人の男が玄関で仁王立ちするなど、しずくは予想だにしていなかったのだ。当然だが。
公園の中は、休日という事もあって昨日より人が多かった。小さい子供連れの主婦達が、昨日子供がゲームをしていた休憩所で話をしていて、子供達は何の遊びかは分からないが走り回っている。鬼ごっこだろうか。
昨日座っていたベンチに目を向けると、そこには別れる一歩手前といった険悪な雰囲気を醸し出しているカップルがいた。あそこは入り口前の道路が良く見えるいい場所なのに、残念。と顔を逸らしてから数秒でふと気付き、もう一度カップルに目を向ける。
二人ともベンチの端に座っていて、中央にはもう一人くらい座れそうなスペースが空いている。男の方はジーンズに、筆記体の英語で何かプリントされている白いTシャツを着ていて、膝の上には紺色のシャツっぽいものが丸められている。多分、暑くて脱いだのだろう。今日の最高気温は三十五度らしい。一方、女の方はランニングウェアにランニングパンツ。その下に着ている上下のインナーも、おそらくランニング用なのだろう。汗が服に垂れないように、首にタオルも巻いている。とてもではないが、デートには見えない。それもそのはず。しずくの知る限り、二人は付き合ってなどいない。
見慣れない姿だったため一目では分からなかったが、その二人は湊谷と綾だった。特に綾なんかは長い髪を縛ってポニーテールにしているから、よく見ないと分からないくらいだ。
湊谷がわざわざ生身でここにいる理由は分からないが、何故二人がこんなに険悪な雰囲気なのかは分かる。多分、昨日の事が原因なのだろう。
公園前の道路を見に来ているはずの視線は二人とも真っ直ぐ向いておらず、湊谷はベンチに深く座り、だらけるように首が曲がっていて空を見ている。一方の綾は、湊谷に顔を背けて何かを凝視していた。視線を追うと、公園の隅に猫がいた。首輪が付いているところを見ると、放し飼いにされている猫らしい。
「あちー」
「そんなこと言ってると余計暑くなるんだけど」
近付くと、そんな会話が聞こえた。どうやら、思ったより険悪な雰囲気ではないらしい。どちらかというと、二人とも暑さとひたすら霊を待つという状況に疲れ切っているらしい。
ベンチまで数メートルといったところで二人はようやくしずくに気付いた。
「おはよー。二人とも」
「おー、おはよう」「おはよ」という二人の返事を聞いてから、しずくは小首を傾げる。
「いつからここにいたの?」
「私は朝の八時くらいだったと思うよ」
随分早い、と驚いたしずくだったが、話を聞くと、何と綾は自宅からここまで走ってきたらしい。綾の家は高校から比較的近い場所にあるが、それでもこことは逆方向。そして、高校からこの公園まで自転車で三十分ほどかかるのだ。想像するだけで足が筋肉痛になりそうだった。
「俺は……そうだな。寝起きの散歩……というか霊体でフラフラしてたら、この公園で越水を見つけて、それから身体に戻って支度して来たから、ここに着いたのは十時すぎくらいか」
「そういえば、どうして湊谷君がここに? 霊体なら暑さとか感じないんでしょ?」
しずくがそう聞くと、湊谷は珍しく、「あぁ」と言いよどむように頭を掻いた。そして代わりに答えたのは綾だった。
「なんか、話があるんだって。私と夕樹さんに」
「話?」
何のことかは分からないが、湊谷の様子を見て、良い話ではない事は分かった。
「まぁとりあえず座りなよ」と綾が空いているスペースを掌で軽く叩きながら言ったので、しずくは二人の間に腰を下ろした。それを見てから、湊谷はゆっくりと話し始める。
「昨日の夜、ずっと探してた霊の知り合いに会えた。それで、今回の件に関して話をして、色々聞いてみた」
それで、と一呼吸置いてから続ける。
「結論から言うと、多分、子供の生霊の噂はデマだ」
その言葉に二人とも黙るが、しずくは何と言っていいのか分からずに、綾は静かに言葉の続きを待っている。
「まず分かったのが、霊の中では噂話はほぼ嘘だって認識されている事。それでも気になる霊はいるみたいだけど、一時期に比べれば現場を見に行く霊もかなり減ったらしい」
確かに、二十四時間いるという噂の割には、少年霊どころか他の霊の姿もあまり見なかったように思う。事故現場で何かを探すようにしていた霊など、この数日の間だと両手で数えられる程度ではないだろうか。
「それから、そいつに俺らが聞いた噂とかを全部話したんだ。そしたら、いろいろ初耳の事を教えてくれた。そういうことを人間に話すのは暗黙のルールみたいな感じでなんとなく駄目な事になってるらしいけど、そいつだけは教えてくれた。まぁ、こっそりとな。
それで、まず気になったのは少年霊の噂の真偽。これは、多分だけど、本当なんだろう」
「デマじゃないの?」
綾が聞くと、湊谷は「デマっちゃデマだ」と微妙な返事をしてから、
「ただその少年霊は、事故に遭った子供の生霊じゃない」
「そうなの? 子供の霊って結構珍しいから、そんなに姿見ないと思うけど……」
今度はしずくが言うと、湊谷も頷いて同意する。ここ数カ月とはいえ、毎日霊体になっている湊谷もそれは分かっているのだろう。
「まぁな。でも、これは俺も知らなかったことなんだけど、幽霊ってのは自分の外見を好きに変えられるらしい。服だけじゃなくて、年齢も」
それはしずくも初耳だった。綾も知らなかったらしく、「へぇ」と小さな声が隣から聞こえた。
「でな、そいつの話によると、子供の霊の噂が霊の間で広がった頃、相手を怖がらせないように自分も子供の容姿になって事故現場に向かった奴が大勢いたらしい。子供の服装が見る人によって違うってのはそういう事だろう。
ちなみに、霊感の無い人間にも霊が見えた原因は、『探す』っていう行動に合ったんじゃないかって話だ。霊が見えるタイミングってのは、『人と目が合ってしまった時』が一番多いらしい。人探し……ってか霊探しか。とにかく、そんなことしてたら嫌でも人と目が合うだろ? 探すって行為自体が見つかりやすくなる要因でもあるらしいけど、そこら辺は説明を聞いてもよく分からなかった。探すっていうのは自分を見つけてほしいとも取れるから――とか言ってたけどな」
なるほど。分かるようで分からない。でも、話がデマである可能性が随分と上がったのは分かった。
「それに、生霊っては必ず……えっとな、俺がこの前見せた紐が付いてるらしい」
「紐?」
その言葉に反応した綾に湊谷は紐について簡単に説明する。『まぁ何故か俺は付ける付けないを自分で選べるけどな』と湊谷が言った時、綾の目が少し鋭くなった気がした。
「病院からここまではかなりの距離だし、紐なんかあったら普通は気付く。でも発見者はいない。霊達が噂は噂だと決めたのは、こういうところが決定打になったかららしい」
駄目押しするような湊谷の言葉に、二人は黙り込む。綾が言っていたように火の無い所に煙が立つことはない。だが、今回の場合は『子供が事故に遭った』という時点で火種を作り出すには十分だったのかもしれない。そしてそんな噂を聞いてやってきた霊が、故意は無かったとはいえ偽りの火種を炎に変えた。もっとも、それすら既に鎮火気味ではあるが。言ってしまえば、こんなのはよくある事なのだ。だが、いつもと違う点は、それを信じてしまっている人がいるということ。
「それで、湊谷はどうするの? 降りる? それとも、本屋ちゃんに言う?」
淡々と自分が聞いたことを話していた湊谷の表情がそこで少しだけ陰りを見せた。
「正直、俺はもう噂は嘘だって確信してる。だけど越水達がまだここで見張りを続けるっていうなら本屋には何も言わないし、気が向いたら町内を見回るくらいはするつもりだ。もちろん、止めるっていうなら本屋には言いに行くけどな。期待させとくのも、あれだろ」
「言いに行くって、どう説明する気? 幽霊から聞いたって言うの?」
綾の問いに、湊谷は少し疲れたように答える。
「それしかないだろ。別に俺も隠してるわけじゃないからな。一から説明するつもりだ。本屋ならむやみに言い触らしたりしないだろうし」
で、どうする? と湊谷はしずくと綾の顔を交互に見てから、どちらでもいいというように訊いた。
公園に響くのは子供の元気な声とたまに大きくなる主婦の話し声。それと蝉などの虫達による合唱、公園の前を通る車の走行音くらいだった。
どのくらい沈黙が流れただろうか。十分は経ったと思う。湊谷は最初と同じように、だが怠そうな表情ではなく何か考えるように空を見上げており、しずくは両手を膝の上に置いて俯き、綾はそんな二人から顔を背けて、ベンチの肘掛けに左肘を置いて頬杖をついている。
「私は」と綾が口を開いたのは、ちょうど辺りが静かになった時だった。頬杖をつくのをやめて、しずくと湊谷に顔を向ける。いつもよりも凛とした表情だった。
「今日一日、待ってみる事にするよ。見つからなかったら、明日、本屋ちゃんも来るから、その時に話してみる」
その言葉に、しずくも頷いて同意する。
「う、うん。私も、今日一日待ってみる事にする」
湊谷は二人がそう言う事を分かっていたのか、空を見上げたまま淡白に「そうか」と言ってから、ゆっくりと立ち上がる。公園にはいつの間にか小さなさわめきが戻ってきていた。
「まぁ、そういうことならコンビニに昼飯でも買いに行くか。腹減ったし、ちょうど昼だろ」
公園の近くにあるコンビニの方を見ながら、湊谷はそう言った。
綾としずくは揃ってキョトンとした表情になり、また同じようなタイミングで顔を見合わせ、笑みを浮かべた。
「そうだね」
二人は声を合わせてそう言ってから、湊谷に続いて立ち上がった。
「あ、夕樹は留守番な。万が一、霊が来たらアレだし」
「えぇ!? ここは仲良く買い物に行くところじゃないの!?」
そんなやりとりに、綾は可笑しそうに笑い声をあげた。
少年が亡くなったと美紗子から連絡があったのは、その日の夕方の事だった。
それから三日が経った火曜日の昼休み、図書室へ行った時に美紗子と会った。昨日は休んでいたため会うのは四日ぶりだった。笑いはするし、普通に話もしたが、彼女の表情には常にどこか陰りがあったように思う。
そして放課後となった今。しずくは公園に向かってペダルを漕いでいる。
喜ばしい事ではないが、シュウ少年が亡くなった以上、噂が流れていた頃よりは霊として出てくる可能性が高くなった。そして、一般的な霊ならこちらからの言葉は届くし、簡単な反応くらいはしてもらえる。美紗子が話したかったが何なのかは未だ知らないが、出来る事なら叶えてあげたいとしずくは思っていた。雪江に遊びに誘われていたが断った。幽霊はいつ消えるか分からないのだ。もしかしたら、シュウ少年の霊は今日一日しか現れないかもしれない。そう考えると、遊びに行く気分にはなれなかったし、たとえ遊びに行ったところで楽しめないと思ったからだ。雪江は少し不満そうだったけど、事情を話したって理解してくれるとは思わないし、遊びに行くメンバーの中には綾の悪口ばかりを言う女子もいたため、ほとんど逃げるようなかたちで教室から飛び出したのだった。
綾は、今頃、美紗子と一緒に図書室にいるはずだ。昨日は、雨の中、一緒に公園へ行ったが、今日の昼休み、図書室から教室に戻る時に『今日も公園に行くの?』と訊かれて頷くと、『ごめん。私、今日は行かないと思う』と言っていた。美紗子を気にしている事は考えなくても分かったから、気にしないで、と言うように笑顔で頷いた。
湊谷は、少なくとも表面上は普段と変わらないように見えた。授業中はいつも通り霊体になっていたし、今も多分図書室にいるのだろう。雪江と話していたしずくより先に教室を出た湊谷だが、彼の自転車はまだ駐輪場にあった。そういえば、昨日今日と湊谷は自転車で来ている。少し変わったといえばそのくらいかもしれない。
訃報を受けた時も、しずくや綾と違って彼の表情は変わらなかった。だが、しずくはそんな湊谷を見て『冷たい人だ』とは思ったりしない。それどころか、おそらく自分も同じようなものだと思った。しずくが悲しい気持ちになったのは、シュウ少年が亡くなったからではない。純粋に悲しんでいる美紗子に同情したのだと思う。そう考えると、安易に同情を顔に出さなかった湊谷に感服すらする。しずくにとって同情はするのもされるのも嫌な事だった。
しずくにとっての死は、一般的な意味と少し異なっている。死とは永遠の別れではなく、言ってしまえば中学や、まだ経験していないが高校の卒業式、もしくは友人が遠くの町と引っ越す。そんな感じの別れと何も変わらない。もう会えないかもしれないけど、偶然会う事もあるかもしれない。別れが確定ではない。その違いはとても大きいのだ。
事故現場が見えてきたが、そこに霊の姿は無い。しずくはそのまま公園前を通り過ぎて、コンビニで紙パックのレモンティーを買ってから引き返し、公園に入っていつものベンチに腰を下ろした。まだ七月上旬だ。下旬の夏休みを考えれば、喫茶店へ行く金など無い。
これまでは話し相手がいたが、今日は一人だ。ただここでボーっとしていると怪しい人に思われそうなので、しずくは携帯電話を取り出して、ちょっとした暇な時間にコツコツやっているソーシャルゲームを始める。基本的に決定キーを押すだけなので、たまに画面を見る以外は視線を前に向けていても問題はない。傍から見れば、携帯を構いながら誰かが来るのを待っている学生に見えるだろう。
携帯、かぁ……。最近、携帯電話を見ると、雪江や友人達の言葉が浮かぶようになった。
『スマートフォンに変えないの?』
しずくが使っているのは、折り畳み式の携帯電話。中学生の頃から使っているので、それなりに細かい傷も多い。替え時と言えば替え時なのかもしれない。でもスマートフォンは少し敷居が高いというか、単純に難しそうだ。でも女子なんかはほとんどみんなスマートフォンを使っている。雪江はもちろん、綾もスマートフォンだった。男子なんかはまだ折り畳みとかスライドとか、古いタイプの携帯を使っている人が結構いる。湊谷も、折り畳みを使っていた。でも女子はそういうのをすごく気にするから、ときどき面倒に思ってしまう事がある。仲間意識が強いというか、違うものを許容できない人が多いのだ。中学の自己紹介で失敗してしまった自分はどう考えても『違うもの』だったわけだが、からかわれるだけで苛められなかったのは友達に恵まれていたからだろう。
だから、しずくは湊谷や綾が羨ましい。興味が無いという理由でも、どうでもいいという理由でも、相手を否定しない彼らが。もしかしたら、美紗子の事も羨ましく思っているのかもしれない。彼女は湊谷や綾とは違うけど、あの三人の中では一番純粋に他人を許容しているように思える。誰かを貶めず、悪口を嫌う。もっとも、だからこそ美紗子は今のような状況に陥ってしまったのだろう。
そんな事を考えていたためか、いつの間にか俯き、地面を見ていた。そんなしずくに影がかかった。顔を上げると、湊谷が汗を流しながら呆れた顔で立っていた。視線が合うと、少し目を見開いて驚くような表情に変わる。
「なんでまた泣きそうになってんだ?」
「……汗が目に入って」
本当のことは言わなかった。これも、同情だったから。
湊谷は「そうか」と言うと、しずくから目を離して公園内を見回した。目尻に溜まった涙を拭いながら視線を追うと、公園を囲むようにして植えられている木の根元にある丸い茂みが点々と並んでいた。
「ま、ちょうどいい。夕樹、ちょっと手伝ってくれないか?」
「なにを?」
「この公園の茂みのどこかに本が隠されてるから、見つけてほしい」
「本って、なんでこんなところに……」
湊谷はしずくに顔を向けると、短くこう言った。
「さっき、本屋が言ってた子供の霊に会った」
一瞬、言葉の意味が分からず、表情と思考が固まる。
「えぇ!? どこで!?」
「本屋の親がやってる書店の前で突っ立ってた」
「ほぇー」と思わず変な声が出るくらい感心してしまった。
「本当に本が好きだったんだねぇ」
その言葉に、湊谷の表情は少し険しさを増した。そんな表情に気付いたしずくだったが、子供が死んでしまった事を嘆いているのだと思った。
「違う」
自分の想像を否定されたかと思ったが、湊谷が否定したのは『本が好き』という言葉だとすぐに理解する。でも、その理由は分からない。
「とったんだってさ」
「トッタ?」
湊谷の言葉を漢字変換できずに首を傾げる。だが、もともと漢字の語彙が豊富ではないしずくだ。『盗った』という答えが出るまで、そう時間はかからなかった。だが、もちろんにわかには信じがたい事だ。何故なら、シュウ少年が事故に遭う前に行ったのは、美紗子の両親が経営している書店なのだ。そしてシュウ少年の事を話す美紗子の表情を思い出すと、それが真実であろうとなかろうと信じたくない気持ちになる。
「万引きって事……?」
湊谷は頷く。
「本人から聞いたんだ。噂なんて曖昧なもんじゃない」
「そう、なんだ。なんで、そんなこと?」
「保護者の許可が無いと本も売れない子供が万引きする理由なんて、欲しいものがあった、くらいしかないだろ。本当は買うつもりだったらしいけど、少し前のテストで低い点数取って、親に金がもらえなかったんだと」
責めるような口調ではないが、湊谷の表情には嫌悪感が溢れていた。
「それで本屋に行って盗ったはいいけど――いや、よくないんだけどな――帰る途中で罪悪感が出て来たらしくてな、長い間、これからどうしようか公園で考えてたらしい。でも謝りに行く勇気もでない。そのうち、盗品の本を持ってることが怖くなって、ここの茂みに隠して公園から出たところで……」
そう言ってから、湊谷は公園の入り口に顔を向けた。ちょうど、車が勢いよく横切った。
「このこと、本谷さんに言うの?」
「言うよ」と湊谷は即答した。
「約束したからな」
変わらず、嫌悪感を隠しきれない表情でそう言ってから茂みへ向かう。しずくはベンチから腰を上げて、そんな湊谷の背中を小走りで追った。
放課後の図書室は、今日も人は少ない。と言うか、今のところカウンター内の椅子に座って文庫本を開いている美紗子しかいない。
カウンターへ入ったところの白いドアの向こうには図書準備室があり、司書教諭である早乙女がいるため、たまに後ろから小さな音が聞こえてくることもあったが、それ以外の音は外から聞こえてくる蝉の鳴き声くらいだ。もう少し時間が経てば、部活動に励む生徒達の声や楽器などの音が聞こえてくるだろうが、今の時間は静かなものだった。
美紗子が座っている椅子は他の者と比べると少し上等で、木製の椅子ではなく、パソコン室にあるような、肘掛けが付いていて背もたれも動く椅子だ。そんな椅子を有効活用にして背もたれに体重を預けながらのんびりと読書を続けていた美紗子だったが、廊下から足音が聞こえて、勢いよく背筋を伸ばす。あんまりだらしない姿勢を人に見せるの恥ずかしい。
誰だろう? 綾ちゃんかな? 本から顔を上げて入口を見ながら美紗子はそう思ったが、よく考えれば、綾は五時間目の終わりに『放課後職員室に来るように』と先生から呼び出しを受けていた。それに、このゆっくりとしたテンポの足音は、どう考えても綾の物ではない。
「いらっしゃいませー」
本日放課後第一号来室者に、美紗子は笑みを向ける。もちろん、誰にでもこんなことを言うわけじゃあない。相手が友人だったから言ったのだ。
図書室に入ってきた湊谷は右手を挙げて美紗子に挨拶を返す。だが、予想と違うのは表情だった。美紗子の予想だと、『何言ってんだこいつ』みたいな表情をして挨拶を返してくると思っていたのだが、湊谷はある意味いつも通りの無表情だった。
よく分からないようで分かり易い人、というのが美紗子の中にある湊谷のイメージだったため、予想が外れたことを少し意外に思う。
湊谷はそのままいつもの席で居眠りを始めるかと思いきや、美紗子の前で足を止めて、軽そうなバッグをカウンターに置いてファスナーを開いた。
お気に入りの小説を薦めても寝てばかりの湊谷だったが、いつの間にか図書室の本を借りていたのだろうか、と不思議に思う。だが、彼が取りだしたものを見て美紗子は目を小さく見開いて思わず「あ」という声を漏らしてしまった。
濡らしてしまったのか、横から見ると波をうつように形が歪んでしまっているが、それは小説だった。表紙の色もかなり薄くなっていたが、それがどんな小説で、どんな人物が登場して、どんな物語で、どんなラストを迎えるものなのか判断するのに時間はかからなかった。
それは、美紗子が何年も前から好きな作家の新作書き下ろし小説だ。書店に通い始めた頃のシュウ少年に薦めたのもこの作家の作品で、彼もすぐに気に入った。二人で作品について議論みたいなことをした事もあった。シュウ少年も、この本を買うのを楽しみにしていた。彼はお小遣い日がくるまで小説を買う事は出来なかったため、美紗子も彼がこの小説に目を通すのを楽しみにしていた。議論したいことが山ほどあった。主人公はなんであんな行動をとったのかとか、あの登場人物はあの時どんな気持ちだったんだろう、とか。
シュウ少年が本を買いに来ると言っていた日、美紗子は店番をしていた。新作小説コーナーに平積みされているその小説が残り一冊しかない事は朝から気付いていたが、慌てたりはしなかった。その作家は有名で愛読者も多かったから、こうなる可能性がある事は最初から分かっていた。むしろ売り切れなかったら『この本が売れないなんておかしい!』と両親に愚痴をこぼしてしまうくらいだ。だから美紗子は、シュウ少年には内緒に、こういう時のために本をもう一冊、確保していたのだ。
だから、シュウ少年が来店して、何も言わず、今日買うと言っていた本も買わずに帰った時は思わず首を捻った。そして、何気なく新作小説コーナーに行って、気付いてしまったのだ。
色褪せた小説の表紙をじっと見てから、美紗子はゆっくりと顔を上げた。
珍しく、真っ直ぐにこちらを見ている湊谷と目が合う。
「ごめんなさい、だとさ」
一瞬では、理解できなかった。でもその言葉はまるで沈む夕日のようにゆっくりと耳から入り脳へ寄り道してからお腹の中へ落ちて行った。
「泣き顔までは再現できねえけど、とりあえず、それだけだ」
本をカウンターに置いてそのままいつもの席へ向かおうとする湊谷の右腕を両手で掴んだ。数日前の肘攻撃を思い出したのか湊谷はビクッと勢いよく振り返ったが、カウンターに身を乗り出して俯いている美紗子を見て落ち着きを取り戻す。
十秒も経たないうちに、小説の上に水滴が落ちた。腕を掴まれているため動くことも出来ず、湊谷は美紗子の頭頂部を眺めるしかない。静かな図書室内に響くのは、セミの鳴き声と、ちょうど聞こえてきた運動部の掛け声、そして小説に水滴が落ちる音だけだ。
それに今、小さな嗚咽が追加された。
休日。カラッとした天気、というよりカラカラの晴天の下、しずく、綾、湊谷の三人は、美紗子の両親が経営している書店へ来ていた。店内に入る前、自動ドアの横にチラリと目を向けた湊谷を見て、もしかして子供の霊はあそこらへんに立っていたのかな、と綾は思った。
店内に入ると、程よく涼しい空気と図書室とは少し違う本の匂いが体を包んだ。綾は何度か来たことがあるが、しずくは完全に初めて、湊谷は生身だと初めてだという。霊体で来て美紗子に何か悪さをしていないか問い詰めたかったが、今回の件がこうして――もちろん最高の形ではないが、それなりに決着がついたのは湊谷の功績が大きいので、勘弁しておいた。それに、公園で『霊体になって犯罪的なことした?』とメモ帳に書いて質問した時、露骨に嫌そうな顔をしていたらしいことと、そのあと、子供のような反撃をしてきたことからして、理由は分からないが霊体になれることを悪用したりはしていないと思う。そう思われる事すら不快に思うのだから、他人が思っているより湊谷があの能力を大切に思っているのかもしれない。
「いらっしゃいませー」
入り口横にあるカウンターで接客をしていた美紗子が三人に気付いて笑顔を向ける。よそ見しながらもテキパキとブックカバーを付ける美紗子の動きは、普段の学校生活しか知らない者にとっては少し驚きの光景だ。
「ありがとうございましたー」
店を出て行く客の背中をしばらく見送ってから、美紗子は再び三人に顔を向けた。
「ごめんね。そろそろお母さんが戻ってくると思うから、ちょっと待ってて?」
両手を合わせる美紗子にそれぞれ了承の返事をしてから、三人は時間を潰すため、各自で好きなコーナーへとばらけた。
綾は雑誌コーナーをゆっくりと見て回っていたが、そういえば、と思い付くことがあり、小説コーナーへ向かう。
今日はこの後、美紗子を含めた四人でシュウ少年の自宅へお線香を上げに行く事になっている。シュウ少年の両親と美紗子は顔見知りなのだが、もちろんそれ以外の三人は、両親はおろか生前のシュウ少年にすら会った事が無い。そんな自分達が行っても、と綾としずくは遠慮していたのだが、湊谷が行くと言い出した事と、美紗子の説得もあり、二人とも同行することになった。迷惑じゃないか今でも心配だが、昨日美紗子が言っていた『みんなの事話したらシュウ君のお母さんも喜んでたよ』という言葉で少しは心が軽くなったように思う。
新作小説コーナーへ行くと、そこには湊谷の姿があった。漫画コーナーにでもいるのだろうと思っていたから、少し意外に思いながら話し掛けようとして、言葉が止まる。
湊谷の視線の先には、平積みされた小説の中にぽっかりと空いたスペースがある。そこに置かれた小説紹介用のポップには、『すいません! 売り切れました!』と書かれた紙が貼ってある。綾が黙ったのは、その本のタイトルを見たからだった。
その瞬間、理解した。湊谷が最初から行く気満々だった理由。それは、自分と同じこと――といっても湊谷に比べれば思い付くのは遅すぎたが――を考えていたからだったのだと。
「残念。売り切れみたいだね」
そう言うと、湊谷はようやく綾の存在に気付き、顔を上げる。
「ん? 越水もこの本読みたかったのか?」
「は?」と思わず疑問が声に出た。
「なんだよ、『は?』って。あんだけ毎日のように本屋に薦められたら、流石の俺の気になるっての」
「……自分で読む用?」
「当たり前だろ」
何を言っているんだ、という表情をされて、綾は大きく溜息をついた。そんな綾を一瞥した湊谷は「ま、心配すんな」とカウンターの方を見ながら言った。
視線を追うと、仕事着から普段着に着替えた美紗子が入口の方から二人に向かって手を振っていた。その手には一冊の本。
「あいつの分はとっくに確保してたらしい」
口角を上げて少しひねくれた笑みを浮かべる湊谷に、綾は呆れたようにもう一度溜め息を吐いてから、「素直じゃないなぁ」と言って笑みを浮かべる。
「早くいこー」と人を待たせていたことをすっかり忘れたらしい美紗子の言葉に苦笑しながら、二人はゆっくりと足を動かした。
空が橙色に染まる時間になっても、空には雲一つない。いつもと比べて少し物足りない夕焼け空。綾は携帯電話で従姉と通話をしながら帰路についていた。予想よりも仕事が長引いたらしく、従姉から電話があったのはシュウ少年の家にお邪魔している時だったため、後で掛けなおす、とメールを送ったのだった。本当ならもう少し早いうちに電話をするつもりだったのだが、『忘れるなんて酷い……』としずくが思い出し鬱になっていたため宥めるので忙しかったのだ。そりゃあ、三人そろってしずくを書店に置いて行ったのは酷かったと思うが、書店を出て五分ほどで気付いたのだから許してほしい。……今さらだけど、五分って結構長いな。内心、(今さら)反省しながらも、従姉に今回の件の顛末を話す。
どうやら従姉にもまた他の仕事が舞い込んできたらしく、通話を始めて早々『今回の件は解決したよ』と告げると『そりゃよかった』と安心したように言っていた。しずくの事を話した時は『助手候補だ』なんて言っていた。『そのうちスカウトに行く』なんて冗談とは思えないトーンで言っていたため、しずくには夜道に気を付けるよう言っておくべきかもしれない。
そう考えると、従姉が妙に静かになったのは、湊谷の話をしてからだった。
あまり勝手に話していい事ではないのは分かっているが、霊体になる本人ですらその現象について詳しく分かっていないという状況は、綾からすれば危険に思えた。そして、従姉の沈黙はそんな綾の勘を肯定しているようだった。
「そんなふうに解決したわけだけど……」
今日の話も終えて、綾は従姉の言葉を待つ。従姉はどれくらいの間黙っていただろう。正確な時間は分からないが、綾が歩道橋を渡っている間はずっと黙っていた。
『目的地変更かな』
長い沈黙を破った従姉の言葉はそれだった。
『やっぱり、そっちに行くよ』
「湊谷のこと?」
そう問うと、従姉は『うん』と即答する。そして、苦笑いの含んだ言葉でこう言った。
『そっちの方が、ヤバそうだから』




