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固いフローリング

「彩は蜂蜜の匂いがする。」

朝と夜の間、硬いフローリングにラグを敷いただけの薄明るい部屋で言われた。

井伊くんは可愛い顔して可愛いことを言う。わたしは何と答えて良いか分からず、うんとかんんとかモゴモゴしながら

「そうかな、ごめんね。」と答えた。

井伊くんは笑ってわたしの寝転がってくしゃくしゃな髪を指で梳いて、胸のあたりに頭を引き寄せた。

あの人には全然似てないなあと思う。思い出して少し居心地が悪くなる。

頭を寄せられて息が苦しいけれど、暗さと暖かさに安心してすぐに眠ってしまった。

井伊くんもきっとすぐに眠ってしまったと思う。

彼は静かに眠る人だった。


井伊くんは同じ大学に通う、学科の違う知り合い。顔見知りと友達の間くらいだった。喫煙所や食堂にふらっと寄ったときによく挨拶をする。いつも忙しそうで、でも落ち着いた丸い声を出す。圧迫感を与えない空気を持っている。

何日か前、急に彼からどうしてる?食事に行こうと連絡が来た。

断る理由も無いし、何よりわたしは彼のことを好意的に思っていたのですぐに返事をした。

丸い声とふわっとした空気が好きだなあと思っていたから。

怒ったりしなさそうな所もいいなと思っていた。あの人みたいにすぐに怒ったり、ああしろこうしろと押し付けてこなさそうで。


食事の日は連絡が来てからすぐに決まった。

井伊くんの空いている日に、わたしが予定をずらして合わせたのだ。

そんなに急ぎではないのだけど、なんとなく、早く会わないといけない気がした。気持ちは引潮みたいに足が速そうで不安になったから。

約束の日、朝まであの人に会いに川崎に泊まっていたわたしは眠くて寝坊してしまった。

15時には起きてゆっくりお風呂に入り、ちょっとはずんだ曲でスピーカーを鳴らしながら準備をするつもりだったのに。

アラームを5回も止めて眠り、起きたころには予定時間を2時間過ぎた17時だった。

飛び起きてシャワーを浴びた。お湯をためて入りたかったけど、時間が無いので熱めのお湯でせかせか頭を洗う。

ちっとも暖まらない業務的なシャワーを終えてメイクポーチをひっくり返す。

鏡の前を思いきり散らかして、いつも急がないわたしが真面目な顔して一人焦っていた。

なんとか30分で家の鍵をかけ、駅まで走った。

走りながらもタバコに火を付ける。酸素の足りない肺に煙が入り、心臓がドクドク音をつよくするのが分かる。駅に着いた頃には頭の奥がズンと重くて指先がじんと熱かった。

待ち合わせ場所にちょうどの時間に着くと、井伊くんは速そうな白いロードバイクを道路の端に止めているところだった。

白の所々に傷や塗装の剥げた形が見えていつもこれに乗ってるんだったなあと出会った最初を思い出した。

出会ってから案外時間がたっているのにわたしは彼のことを全然知らない。あの人はまだ会って半年なのに癖も嫌なことも知っていて不思議に思って井伊くんの柔らかい後ろ姿をぼうっと見つめた。


お店は明るいカウンターと、いくつかのテーブルがあってほとんどの席が埋まっていた。

井伊くんが外開きのドアをすっと開けてくれる。アルバイトの女の子がぱたぱたとこちらに来るときにはわたしの半歩前にいて、席に案内されると先に入り口側の席に座ってくれた。

その間にもここはお酒が安いんだとか、大学の友達と来たことがあるんだよとか、柔らかい空気を作り続ける。それも、比べる。

お酒を二人でゆっくりと飲みながら握手みたいに適度な距離の会話をした。気づくとたくさん飲んでいたのか、頭がぼうっとする。お会計はわたしがトイレにふらふらと立ったときに済ませてくれたらしい。

「行こうか。」

握手のちょうど手を離そうとするタイミングで彼が言って、一緒に店を出た。

店のドアをこんどは自分で開けた。入るときよりも彼との間隔は近づいて、手を振って歩けば手がぶつかりそうだった。あの人のことは全く頭の隅にも出てこなかった。


ふらふらとした足で階段を踏み外しかけたら、井伊くんがふわっとした顔で笑っていた。つられてへらへらしながら歩いていたら、彼の家に着いていた。知らない道、知らない家。また一つ知ってることが増えた。

二階建てアパートの一番奥の扉を開けるとがらんとした部屋だった。

ベッドも無ければテレビも無い。パソコンとテーブル、書類の束が部屋の隅にとりあえず詰んである。

「いい部屋だね。何にも無い」わたしがはずんだ声でそう言うと井伊くんはやっぱり笑った。本当にいい部屋だと思ったのだ。わたしはほとんど何も無い部屋が好きだから。

部屋の隅に敷かれた一畳ぶんほどのラグに倒れこむ。薄いラグは固い床が直接感じられて心地良かった。

井伊くんもわたしが廊下で脱ぎ捨てた上着をハンガーにかけると狭いラグに寝転がった。

わたしはなんだか急に面白くなってくすくす笑いながらパーカーの胸のあたりに顔をくっつけた。

井伊くんの匂いがする。体温であたたかいパーカーに触れると、もっと安心した。この人の出す空気が落ち着く。

そのままわたしの頭がパーカーにもっと寄せられて、髪を撫でる。


井伊くんは静かに眠り、優しいセックスをする人だった。





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