23 保護者変更につき
幾何学模様だろうと、ミミズがのたくってようと、理解すれば文字になる。文明万歳!
貸与されたタブレットに覚えたての字で解答を書き入れながら、あたしはニマニマ笑いが止まらない。
「…知能は、鼠の遥かに上だな」
そうして必死に頑張っているところに、褒めているんだか貶しているんだかの美声が降ってくれば心中複雑になるってもの。
「寧ろ、あたしがどれだけ馬鹿だと思っていたのか知りたくなる一言ですね。ついでに鼠さんに謝ってください」
問題から目を離し頭上を睨み上げた先で、アウレリオさんは器用に片眉を上げただけで答えなかった。真っ白お耳もピクリとも動かないところを見ると、こっちの意見に答えるつもりは毛頭ないらしい。
因みに。鼠族は狼や虎に比べると知能が低いんだって。これは生物学的に証明されてるらしくて、彼等より小動物に近い生体のあたしはちょっとおバカだと思われていたそうだ。そう、知能的には十歳程度にね。皆失礼かと思って口にしなかったって話だけど、行動はまさに子ども扱いだったね、そう言えば。ええ、ええ。抱っこされたり、抱っこされたり、抱っこされたりねっ。
そんなあたしの怒りなど知るはずもなく、ちらりと据え置き時計を見やった彼は背中を向けて己の作業に戻りながらぶっきらぼうに次の指示を与えるのだ。
「取り敢えず、今やっている分が終わったら少し休め。お前はやればやっただけ効果が上がると信じているようだが、それでは効率が悪い。適度な休息は脳の働きを高める」
「はーい」
「子供の様な返事をするな。成人しているんだろうが」
「はいはい」
窘められても反抗的態度を崩さないあたしに溜息で呆れを表現したアウレリオさんは、結局それからゆうに一時間、口を利いてくれなかった。
いいけどね、もう慣れたから。あたしは一人でいられる子だもん。お勉強は一人でするもんだもん。
なんていじけたふりをしながら、実はこの人本当に優しい人だなぁ、とか思っていたりするのだ。
初対面の最悪な印象も、怪我させられて痛かった怖かった気持ちも、一緒にいた時間ですっかり薄らいで記憶の彼方に飛んでっちゃう位、アウレリオさんは優しい。
今のだってほっとくと何時間でもぶっ通しで勉強し続けるあたしを見てから出るようになったお説教だ。忙しい合間に知能テストと称して文字を教えてくれるようになった彼は、定期的に声をかけてわからないところを教えてくれたり、レベルに合わせて問題を作り直してくれたりと、こっちが驚く一面をぽろぽろ見せてくれるもんだから、すっかり懐いてしまった。
そんで、懐いた相手を邪険にできない人だから、頑なに翻訳機を外せと主張してたんだと、リオネロさんがこっそり教えてくれたのは内緒だ。
こういう人をツンデレっていうのかな?…ま、まだデレは見られてないんだけど。
まだまだへたっぴな最後の一文字を書き入れて大きく伸びをしたあたしは、無機質でけど機能的な室内を見回してここに来られてよかったと、心の底から思っていた。
ベッドから解放されたあの日、再び狼さん達は揉めた。
正確には揉めたのはフロリードさんとジャンノットさんで、残り二人は止めなかっただけなんだけど。
ただ、地球人のような大人しい揉め方じゃないから困る。口喧嘩が掴み合いになり、手が出て爪も出て牙も出て終いには血まで出た頃、相応に破壊された室内の一角であたしを庇ってくれていたリオネロさんとアウレリオさんの密談が終了していた。
『マイは一時、アウレリオ預かりとする』
という内容で。
勿論耳を疑いましたとも。実験動物にも檻で飼育もさせないって言ってたのに、リオネロさんてばひどい!首座さんに言いつけてやる!!
恨みを込めて涙目で睨んだら、そうではないと説明されて。
無暗に実験もしないし檻にも入れない、ただ会話とテストで知能を計るなど、観察研究をアウレリオの研究室と居住スペースでするだけだと。勿論傷一つ付けさせないから安心するように。いや寧ろ現状ではあの二人といる方が危険だ。
血塗れぼろぼろのほぼ獣を指さして言われたら、あたしだってそんな気になりますとも。現実問題、過保護が行き過ぎて健康体が不健康になりかけた実績まであれば尚更ね。
ところが二人が心配しているのは、そっちじゃないらしい。詳しくは教えてくれなかったけれど現状そこから一番遠いところにいるアウレリオさんにあたしを預けるのが、最も安全だって力説された。ぎゃいぎゃい煩い外野を無視して真剣に説得されて、ちょっと怖いけど頷いたのが、一月ほど前の話。
「確かに、ここは安全で快適ですよねぇ」
住めば都と申しますが、アウレリオさんの研究室は居心地がいい。
完璧な空調(大切な実験動物を死なせないため)、座り心地の良いソファー(長時間作業でも疲れない仕様)、医薬品から嗜好品まであっという間に配達される物流システム(研究の手を止めなくても生活に困らない)、行き届いた清掃(実験に影響が出ないようロボットが完全管理)、時間になると供される温かくて美味しい食事(体調管理の為、時間内に食べ始めないと他の研究員が飛んでくる)、ありんこ一匹通さない鉄壁警備(情報を外部に漏らさないため)までついている。
引きこもりニート垂涎の至れり尽くせりは、天才だっていうアウレリオさんのために周囲が与えた最上の環境らしく、お零れにあずかっている身としては左うちわでご満悦だ。
こんなことなら最初からここに来ればよかったかなぁとか、現金なことを考えちゃうけど、あの頃とはあたしの立場が変わったからこその待遇。やはりあれらは必要なプロセスだったわけだ、うん。
転送機だという電子レンジ大の箱で送られてきたお茶とお菓子を頬張りながら、今後ずーっとここにいてもいい気になっている珍獣を眺めていたアウレリオさんは、本日二度目の盛大なため息を吐きながら伸ばした指であたしの口元をひと撫でした。
「知能は我々と同等程度あるはずなのに、何故こう子供っぽい事ばかりするんだ」
しなやかな指先を汚しているのは本日のおやつ、フルーツサンデーのベリーソースだ。
食べ物をしょっちゅう口の周りにつけているあたしを毎度注意していたアウレリオさんは、ちょっと前から勝手に拭っていくようになった。言っても無駄だと諦めたからこその行動らしいが、こっちにだって言い分はある。
「スプーンが大きいんです。フォークもナイフも大きいんだけど、これはもう絶望的に大きんだっていつも言っているじゃないですかっ」
スープスプーンよりまだ掬う部分の大きいそれを行儀悪く振り回しながら、せめて口に入るサイズにしてもらえないかといつも言ってるのにと睨むと、眉間に僅かながら皺を刻んだアウレリオさんは一瞬考えてから首を振った。
「ダメだ。今後人前に出るたびに子供用のカトラリーを希望するわけにいかないんだから、これに慣れろ」
…いいじゃない、子供用を頼んでも。どーせほっといても子ども扱いされるサイズなのに。
理不尽に頬を膨らませても、アウレリオさんの決定は覆らない。仕方なしに大きなスプーンと格闘しながらバナナもどきに挑むのだ。ああ、食べづらい。
狼族は口が大きい。別に耳まで裂けてるわけじゃないんだけど、耳まで裂けてた頃の名残なのか日本人より顎が大きく開く分ほっぺの肉も薄くて良く伸びるのだ。
だから見た目は欧米人のように大づくりな顔のパーツに合ったサイズの口、なのだけど物を食べるときがどうにも肉食動物でね。こう、がぶっと一口が大きい。ま、初日にリオネロさん達とご飯食べてるときにも薄ら思ってはいたんだけど、食事中に勉強と称してアウレリオさんがいろいろ教えてくれるので結構彼等の生態も覚えましたよ。
ま、それはともかく。
基本、そんな彼等に合せたカトラリーは大きいしあたしにはちょっと重くもある。オルガさんの気配りでそれまでは子供用の食器を与えられてたようなんだけど、新生活でその辺は一変した。
『慣れていなければいつか困る』と判じたアウレリオさんが、大人用のカトラリーで統一しちゃったのだ。
おかげで肉が切れないとか野菜が刺さらないとかスープが零れるストレスにさらされる度、あたしは密かに決意する。いつかなんて来ない。だってここでヒッキーになるもん!
「また下らない事を考えているんだろうが、無駄だぞ」
指先のソースを舐めながらじろりとこちらを睨めつけたアウレリオさんに内心で舌を出して、いつか絶対子供用カトラリーを勝ち取るぞと心に決めるあたしだ。
タワーの中のこんな生活は、おおむね平和だ。
「マイ、いる?!」
「マイ、食事に行かないか?」
フロリード、ジャンノット兄弟が訪ねてくるまでは、ね。




