16 妥協点の落下点
いい加減な返事をしちゃったかなと、後悔をしたわけだけど、おじ様が提示してくれた待遇はすごくまともだった。
月に一回、研究室に行き検体の提供をする。
嘘みたいな話だけど、彼等があたしに望んだのはそれだけ。それも腕一本寄越せとか、お腹を切らせろとか恐ろしいことは言われず、血液とか皮膚をちょっぴりとかでいいらしい。…皮はちょっとでも痛い気がしなくもないけど、ま、この程度は我慢我慢。何しろ交換条件が破格なのだ。
お家を提供してくれて、毎月お給料もいただける、中央の職員扱いとか、幸せすぎる。ついでに市民権もくれるんだって。やっほーっ、だよね。
…そんなにいいことばっかりあるわけないのが人生だけど。
おじ様が退出して、静まり返った室内。
「市民権があるのなら、私が嫁にもらってやろう。新居はチェントロに用意してやる。悪い条件じゃないだろう」
無表情のアウレリオさんがとっても偉そうに言えば、
「それマイを研究室に飼おうって魂胆が丸見えだよ。ま、どっちにしてもあんな大怪我させたお前と一緒にいたいなんて、彼女が思うはずないけどね」
フロリードさんが鼻で嗤う。
「確かに首座がじきじきにマイを認め様々な権利を付与したからな、お前がくだらない策を弄しても、彼女に都合が悪いとわかれば我々が速やかに救出することが可能だ。諦めろ」
静かに諭す口調のリオネロさんの忠告は、
「どなたも、これ以上客人に関わることなく、速やかに業務にお戻りください。護衛を正式に拝命しているのは私です」
黒い耳をくっつけた黒髪のお兄さんにさっくりきっぱりぶった切られていた。
そう、さっきここにいたおじ様は狼を総べる首座エドアルド様で、最高権力者らしく異星人の待遇についてあれやこれや説明してお帰りになったんだけど、中で1つ、ご自分でもイレギュラーだとおっしゃっりながら決めていかれたことがある。
それが自分の護衛で今ここにいる人たちと浅からぬ縁を持った黒狼のジャンノットさんを、異星人の護衛と定めたことだ。
いわく『リオネロの心労を減らし、フロリードからは貴女の貞操を、アウレリオからは貴女の心身を守るための措置として必要なのだから、遠慮なく守られなさい』だって。言い得て妙というかよくお分かりでというか、ともかく言われるまでもなく持っていた危機感なので一も二もなく頷いたんだけども。
「こらこらジャン、他はともかくお兄ちゃんの邪魔はしちゃだめだろう?」
底知れぬ恐怖を感じさせる笑顔と共に、フロリードさんがジャンノットさんを窘める。もちろん言われた本人は爪の先ほども動揺せず、冷静すぎる凪いだ瞳で浮かれたお兄さんをきろりと見やってお終いだ。
…どこかで見た顔だと思ったらこの2人、兄弟だったんだって!狼にありがちな半分だけ血の繋がった異母兄弟らしいんだけど、詳しく聞けてません。だってそういう雰囲気じゃないしね、今。
「警備隊長程度が私に意見するつもりか」
相変わらず高飛車にジャンノットさんを睨んだアウレリオさんは、「客人の護衛中は首座以外の命を聞く必要はないと言われています」と歯牙にもかけてもらえなかった。確かにそれはあたしたちみんなの前でおじ様が宣言したことなので、今更彼がどんな権力を振りかざしても通用しない。とっても残念だね。
「助かった。後は任せたぞ」
「は」
唯一、護衛としての正論にお礼をしたのはリオネロさんだ。
冗談抜きにお仕事が溜まってるらしくて、今日はこれ以上時間を割けないとあたしに謝りながら、疲れた笑みを残して早々に退出していった。
ここ数日、見えないところですっごく迷惑をかけた気がするのでありがとうございましたとお礼を言いながら最敬礼しておく。頭を下げる文化がこの星にもあればいいんだけど。
あ、リオネロさんは去り際にフロリードさんの首根っこを掴んで引きずって行ったから。なんでも補佐官がいないとちっとも仕事が片付かないんだって。暴れる男の人をものともせずに連行しちゃうって、ちょっと見直した。さすがアルファだね。
ともあれ、これで室内に残されたのは諦めの悪い研究者と職務にとっても忠実らしい護衛さん、オルガさんとあたしになった。因みにオルガさんは今日まで、交配休暇とかいう赤面しそうなお休みを取っているんだとか。え?どんな休みかって?読んで字のまま、子づくりのために休みマースってやつですよ。女性は年に4回10日ずつ取れるんだって。その後妊娠が発覚したら産前産後で1年休めるらしい。この国の1年が何日なんだか知らないけど、その後は育児所で狼全体の子として養育するのが一般的らしいので、働くお母さんとしたら恵まれてる環境じゃないのかな。
ああそんなことはどうでもいいんだけど、オルガさんは残り1日の大切な休暇をあたしと一緒にいてくれると首座に宣言していた。それなら休暇を延ばしてもいいとありがたい許可ももらっていたけど、これ以上休むと仕事が立ち行かなくなると残念そうに断っていた。あたしこそ残念。
「リオとリードも戻ったんだから、貴方も戻りなさいよ」
隣りであたしを守るように肩を抱いてくれているオルガさんが、一向に部屋を出ようとしないアウレリオさんに少々強い調子で言う。
その彼女の方に一歩踏み出そうとした彼は、流れるように動いたジャンノットさんに腕1本とられただけで動きを制されていた。
「無暗に近づかないでいただきたい。客人が怯える」
庇われるとそんなことはないと言ってしまうことが多い控えめな日本人だけど、残念ながら今のあたしにその余裕はなかった。
なんだかすっかり臆病になってしまったようで、アウレリオさんの一挙手一投足に無意識で体が逃げを打つのだ。ずきずきと肩の痛みが増す気がして意識しないで揺れる体を支えてくれたオルガさんが、キッと彼を睨みつける。
「そうよ。どんな理由があろうと、男が女を傷つけるなんてあり得ない」
けれど何を言われようとどんな立場になろうと、アウレリオさんのスタンスは変わらなかった。相変わらず冷たい視線をあたしに投げて、くだらないと吐き捨てる。
「検体が生物であったとき、実験の結果それが命を落としたからと悲しむ研究者はいない。それの重要性ではさすがに死なれれてはまずいが、関節を外した程度なんだというんだ。まだ五体満足で存在しているではないか」
地球で人間をやっていた身としては、この一言は堪えた。よく先生に『他人の身になって考えなさい』と言われていたが、あたしは他の人間になってみたことはあっても家畜や鼠の身になってみたことはなかったと思い知ったからだ。もちろん今更聖人君子ぶるつもりはないので、肉を食べたり薬の恩恵に与っていたことを否定するつもりはない。だけどどこかに驕りがあって人間なら尊重されて当然だと思ってたんだ。だからこの人に利用価値しかないと言われて体が冷えるほど恐怖する。命の価値が軽いのだと、知らしめられて戦くのだろう。
「お前たちだってそれから薬が作られればどれだけの者が救われるか、理解できるだろう」
二人の反論を封じ込めるよう被された言葉に、頭の芯が冷える。
「…だからってマイを実験室に閉じ込めておく必要はないでしょう?町で暮らして何が悪いの」
「甘いな」
必死に庇ってくれるオルガさんを馬鹿にしたように見たアウレリオさんは、たった1つしかない検体の取り扱いについて事細かに説明してくれた。
あたしが彼等が克服できない病を治療できる鍵を握っていたように、狼にとって何でもない細菌が致命傷となるかもしれない危険性。
驚くほど脆い異星人が力加減をしなかった狼にうっかり殺されてしまう危険性。
貴重な生き物であると知った好事家に、拉致される危険性。
前2つはともかく、最後の1つだけは冗談のような話だが真実らしい。そして何があっても避けたい結末でもある。地球の中でも最高水準に治安のいい日本に住んでいたせいで、この街だって安全だと思い込んでいたあたしは大馬鹿だ。どこにだって危険はあるというのに。
「それらから守るために私がここにいるということを、お忘れですか?」
俄かにひきこもりたくなっていた時、いつの間にやら傍に来ていたジャンノットさんが視界の中に割り込んだ。アウレリオさんと隔絶するように現れた背中は防護壁のようで、沈んだ気持ちも少しだけましになる。
「研究室で飼われている動物たちも、仲間と引き離したり日の光に当てないで置いたりすると体調を崩しいずれ死んでしまいます。客人の場合高い知能を持つためかこの傾向が強く、目覚めてすぐの様子を観察した精神科医からあまりストレスをかけすぎ無いよう、貴方にも通達があったはずです。兄達の対応がすべて正しいとは言いませんが、現状客人にとってどちらがより意向に合っているかはお分かりなのではありませんか」
だけど、淡々と”異星人取扱説明”をするジャンノットさんに再び気持ちが転落した。と同時に理解する。客人と呼ばれようと検体と呼ばれようと、あたしが研究に値する異星人であることに変わりはないんだよね。仲良くなったつもりでいても、優しくしてもらっても所詮狼にはなれないって、やっぱり地球人でしかないんだってしっかり覚えておかないと。
全然違うやり取りをしているようで、結局は同じ話をしているアウレリオさんとジャンノットさんを前に、密かにそんなことを思っていた。




