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ニート姉さんの回復

 その日に限って僕の仕事は忙しかった。

 特別に何かの日というわけではないのだけど、どういうわけかその月曜日は目の回るような繁盛っぷりだった。体調を崩した姉さんの世話のために前の晩あまり寝てなかったこともあり、僕は一日の仕事を終える頃にはすっかり心身共にくたくたになっていた。休憩時間中に、ベッドで伏せっているはずの姉さんに連絡の一つでも取りたかったけれど、それすらままならなかった。

 そうして仕事が終わる頃、消耗しきった僕にとても悪い知らせが届いた。もともと減らされて支給されるはずだったボーナスが全カットになるそうだ。このぶんだと思ったよりも店の資金繰りは危なそうだ。

 姉さんのアパートの近所に赤紫色の巨大スーパーができてから店の売り上げはずっと下がり調子で、いつ給料の遅配が出るかというのが最近の従業員たちの話題の一つだった。町の反対側に位置するそのスーパーとうちのスーパーは直接的には商圏が被ることはないけれど、少し離れたところにある新興住宅地から車でわざわざ買いに来てくれていた人たちは、こぞって太い道路沿いに大きな駐車場を構える巨大スーパーの方に流れていくことになったらしい。

 元々僕の給料では姉さんと二人分の生活を賄っていくにはカツカツなので、ボーナスなどの臨時収入を勘定に入れてやっとやりくりできていた。特にこの春は友人の結婚式で祝儀が必要だったり、4月から僕が住んでいるアパートの家賃が値上げされることもあって厳しい生活を続けていたけど、ここにきてどうやら限界のときが来たようだ。

 どうしようか。

 まず姉さんに泣きついてもう一度酒代と食費を減らしてもらおう。おそらく姉さんに事情を話せば何とかなるだろう。FXに頼るということになるかもしれないが人間としてそこに確実性を期待してはいけないので、あくまで酒代と食費を減らすように説得しよう。

 姉さんからは「そんなにカツカツなんだったらわざわざ一人で部屋借りる必要ないじゃん」と何度となく言われている。そうすれば家賃分が浮くし姉さんにコンビニに落としている食費分も浮く。徒歩5分の通勤時間が自転車で30分になることがネックだが、それ以上に僕は姉さんが自立心を失ってしまうところに抵抗感を感じて今まで一緒に暮らすことを避けてきた。

 しかしもう限界だ。給料分でやっていけない以上、今の部屋を引き払わざるを得ない。

「今日やたら客が多かったのって、あのスーパーが臨時で休業してたかららしいぜ」

 帰り支度をしている時、同僚がそう話しているのが聞こえた。

「なんでも浄化槽まわりに不備が見つかったらしくて、大事を取って半分くらいの売場を休業にして点検してたらしい。また明日から通常営業だって」

 すぐに死にはしないにしろ、生き死にを別の場所に完全に握られている職場に未来は感じられなかった。職場の空気がよどんでいることがよく分かる。そろそろ身の振り方を考えないと行けないのかも知れない。

 いろいろと考えながら徒歩5分の家路についた。そして家に着くとすぐに姉さんの様子を見るために自転車をこいだ。今日は3月の夜にしては暖かく、風を切ってもそれほど寒くなかった。日曜日以外にこうして姉さんの部屋に行くのは久しぶりのことで、うんざりした職場から物理的に遠ざかることもできて心の中は軽やかだった。ただ姉さんが回復しているかどうかだけが少し心配だった。

「おかえりー」

 姉さんはすっかり元気になっていた。

 まあ、もともと姉さんは丈夫な方だったので、昨日のように急に倒れてしまうことの方が珍しかったのだ。姉さんはいつものように部屋着で迎えてくれた。満身創痍だった僕の心はそのニート姿を確認してようやく安心できた。

「あなた、お風呂にする? ご飯にする? そ、れ、と、も…?」

「おまえだー」

「きゃー」

 急にネタ振りされたのでオーソドックスな反応で返す。

「これでいいですか」

「よし、合格。入りたまえ」

「何で姉さんが就職試験の面接官みたいになってるんですか」

「ニートたる者の務め。インターネット掲示板の就職活動スレは隅々までチェック済みなのだ」

「何と不毛な…。スレチェックして満足してないでさっさとハローワークに行ってください」

「君は何にも理解してないね。スレを見ながら『馬鹿だなこいつら』って指さして笑うんだよ」

「謝れ。いま姉さんはすべての労働者を馬鹿にした。すぐ謝れ。特に毎月姉さんの分の生活費と税金を払っている僕に対して謝れ」

 僕の抗議に姉さんは涼しい顔をしている。筋金入りのニートだ。できれば筋金など入っていて欲しくないのだが、今となってはニートになるために生まれて来たようなそのダメっぷりに苦笑いするしかなかった。

「ところで姉さん、今日は大事な話が」

「なんだい八っつぁん、やぶから棒に」

「何で唐突にべらんめえ調なんですか。僕のボーナスが全カットされたんですよ」

「ボーナス何それおいしいの。カットしたら天ぷらにして美味いだろうな?」

「姉さん落語の世界から戻ってきてください!」

 姉さんはきょとんとした顔をしていた。事の重大さがまったく分かっていないらしい。というか、家計を見ているのは僕だけなんだから分からないのも仕方ないのだけど。

 事の重大さについて真面目に説明すると、姉さんはようやく理解したようだ。

「なるほどね。ボーナスを当て込んで何とか食いつないできたから、ボーナスが無くなったら米を買う金も無いと」

「米買う金が無いのは言い過ぎですけど、酒を買う金はありません」

「米が無いならお菓子を食べればいいじゃない」

 この貴族様は何にも理解していやしなかった。

「あと酒も」

「姉さんみたいに酒で一日活動できる人と一緒にしないでください。死んでしまいます」

 それから10分ほど妙な掛け合いを繰り返し、ようやく姉さんの酒代が危ないということを理解しやがったようだった。僕は疲れきって、もはや自分が正しい日本語を使えているのか分からない。

「酒は聖域。まかりならん」

「聖域なき構造改革が必要です」

「難しい言葉はお姉さんわかりません。というか、勝彦が部屋を引き払えば一気に楽になるんじゃないの」

「ぐぬぬ。やっぱりそうなりますか。でもそうすると姉さんが自立しません」

「うーん、勝彦は私のことをまったく信用してないね!」

 姉さんは鼻息荒く否定する。

「働かずに5年間だらだらと暮らしてきた人のいうことを誰が信用できますか」

「私に任せなさい。一生養われてあげます」

「結局自立する気がないんじゃないですか!いやですよ僕が65歳になっても70歳の婆さんの面倒見るの」

 話し合いの結果、もう僕の収入が心細いということで僕の部屋は引き払われることとなった。これから夏の暑い日も冬の寒い日も、雨の日も風の日も毎日往復1時間自転車をこぐのは痛いが、もう先が見えない以上は余計な家賃は払えない。そして姉さんの方も引き払うための引っ越し代やら何やらの資金をたぬきさん口座(FX)から調達することになった。双方痛み分けのように見えるが、妥協可能ラインをすべて割譲した僕と、酒代を減らさないという聖域を守った姉さんの差は大きい。

「ところで姉さんは体の調子は大丈夫なんですか」

「ああ、寝てたらいつの間にか直ってた。でもちょっと息苦しい」

「ごめんね姉さん。運動不足なのに無理させたみたいで」

 部屋の中とコンビニの往復しか運動らしい運動をしていない姉さんのことだ。体調を崩しても当然といえる。多恵子さんの言うこととはいえ、姉さんの体力を過信して僕が軽々しく外に連れ出してしまったことを今は後悔している。

「うーん、まだちょっと本調子じゃないみたいだから、今晩はちょっと早めに寝るよ」

「おやすみ姉さん。からだ大事にね」

 姉さんが奥へ引っ込んだので、僕も帰り支度を始めた。今や僕の体は全身に力が入らないくらいにくたくたになっているけど、姉さんの前では何とか動き回れるだけのパワーが出てくるところが不思議だった。

「じゃあね。おやすみなさい」

 僕はいつもの通り姉さんのアパートのドアに鍵をして部屋をあとにした。

 心地よい脱力感と安堵に包まれて、僕は夜の道路をゆっくりと自転車で帰っていった。

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