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ニート姉さんの寝息

 姉さんは「勝彦とデートだー」とずっとはしゃいでいた。

 そして田んぼのど真ん中に最近出現したばかりのショッピングモールを見て「でかっ!こわっ!」と大声を上げ、興奮のあまりあぜ道のど真ん中で両手を広げながらくるくる回って子供のようにはしゃいでいた。

 ただ、そこから先をすぐには思い出すことができない。



 舞台は夏の日に変わる。


 その日は日差しが強かったことを覚えている。

 蝉の声がうるさかったことを覚えている。線香の匂いがしていたことを覚えている。

 そして、布団の上で動かなくなった母をじっと見つめていたことを覚えている。

「…」

 それが13歳の僕が見た、母の死の記憶だった。


 僕の父と母は立て続けに亡くなった。父は僕が12歳のときに、仕事で行っていた国で不慮の事故で亡くなった。父はもともと家を留守にすることの多い人だったから僕にとっても印象が薄く、しかもあっという間に骨壺になって帰ってきて墓に入っていたものだからその死をあまり強く意識することはなかった。父には失礼な言い方だが、気が付いたら「父が死んだことに」なっていた。

 そして母はその一年後に力尽きるように亡くなった。母の死は間近で見ていたのでよく覚えている。母はもともと心と体があまり丈夫な人ではなかったようだけど、父の死には大きなショックを受けたようでその後少しずつ衰弱していき、布団に伏せがちになり、最後には消え入るように死んだ。母が死んだ瞬間はやけに僕の頭は冴えていて、寝息がどんどん小さくなっていって最後には聞こえなくなる様子を「あっけないものだな」と冷静に見つめていた。

 母が死んで悲しみがやってきたのはそれから半日後、親類や近所の人が来ていろいろな準備を始めてばたばたとし始めた頃だった。その瞬間が来るまで僕は感情を忘れてしまったように呆然として、人が力尽きて簡単に死ぬのだということについて繰り返し静かに考えていた。おそらく幼い僕はそうやって半日を費やして、やっと目の前で起きたことを事実として認めることができたんだと思う。

 中学1年の僕と、高校3年だった姉さんとの関係はその時がいちばん悪い状態だった。

 もともとは姉さんの修学旅行のエピソードもある通り、僕が小学校低学年のころは姉さんとの仲は悪くなかった。しかし僕が成長するにつれ、姉さんのいじめが理不尽だということを強く意識するようになっていた。そして中学に上がる頃になると腕力も付いて、姉さんに対抗できるようになってきた。しかし姉さんは相変わらず僕のことを下僕と見なして支配しようとするものだから、僕は反発し、取っ組み合いの喧嘩を何度かやった。今考えてみれば、親に対して不安定なわだかまりをぶつけるべき反抗期という時代を、病弱な母に代わって姉さんにぶつけていたのかもしれない。そんな時代が母の死を挟みながら何年か続いていたのだ。

 母が亡くなったことで僕たち姉弟は伯母さんに引き取られることになった。この伯母さんは仕事が忙しい人だったので実質的には伯母さんの娘、つまりイトコにあたる吹江さんという人に生活の面倒を見てもらった。いま姉さんが暮らしている2DKの部屋のあるアパートは伯母さんが所有し、吹江さんが管理をしている。僕たちが引き取られた時に住み始めてからもう10年もこの部屋を格安で使わせてもらっているのだ。

 とは言うものの、僕はこの部屋にはあまり住んだことがない。反抗期の僕はどうしても姉さんから離れたくて、縁まで切ろうとする勢いで友達の家に居候させてもらったり、高校では寮住まいをしてできるだけ姉さんから遠ざかるようにしていたからだった。僕がこの部屋にまともに立ち入るようになったのは高校3年生、つまり姉さんが大学を卒業して完全にニート暮らしになってからのことだったと思う。



 夢だか現実だか分からないようなところで、線香の匂いがしている。蝉の声が聞こえている。僕は反射的に母の亡くなった日のことを思い出し、顔を上げた。

 その瞬間に目が覚めた。

 僕は床に座りベッドに顔を伏せた状態で寝てしまっていたようだった。部屋はわずかな青白い光で埋められている。いまが何時だかわからなくて、足下に転がっていた目覚まし時計を拾い上げた。

「4時か…」

 この暗さからすると、いまは朝の4時だ。そしてこの場所はおそらく姉さんの部屋。次第に血が巡るようになってきた僕の頭は持っている記憶を少しずつたぐっていた。

「日曜日なので僕は姉さんの部屋に来て、多恵子さんも来ていて、姉さんと外出することになって、それでショッピングモールに行ったんだっけ」

 それで、その後は。

「それで出先で姉さんが体調を崩して、急いでタクシーを呼んで、それで何とかこの部屋に帰ってきたんだっけ…?」

 そうだった。

「姉さん?」

 僕が伏していたベッドをよく見ると、姉さんが静かに寝息を立てていた。それを確認して僕はひどく安心した。僕が疲れ切って寝てしまう前に抱いていた不安や恐怖といったものが、この寝姿を確認した瞬間にようやく解消されたようだった。

 ベッドのそばにあった香壺から音をたてずに灰が崩れ落ちた。これも思い出した。姉さんがしきりに胸が痛いというので、痛みをやわらげる香を焚いていたんだった。さっき夢が醒める直前に線香のような匂いがしていたような気がするのはこの香のことだったようだ。

「そういえば、僕が姉さんと仲直りをしたのっていつだったっけ?」

 ふいに唐突な疑問が頭に浮かんだ。

 でも、その直後にそんなことより現実的な問題に気が付いた。今はもう日曜日が終わって月曜日の朝4時に突入しているのだ。そして朝の8時にはいつものように仕事にいかなければならない。

「えーと、病人向けにご飯用意して、タオルや痛み止めもまとめて、ゴミも片付けて、それから家に帰ってシャワー浴びて支度すれば十分間に合うな」

 幸いなことに、さっきまでぼうっとしていた頭もすっかり冴えている。寝息を立てている姉さんをもう一度確認する。うなされているようではなさそうなので、容態は落ち着いたのだろう。綺麗な寝顔が青白い外の光に少しだけ照らされている。

「姉さんって、本当に綺麗なんだな」

 一度喋らせれば口の減らない姉さんも、こうして静かに寝ているところを見ると可愛いものだ。昔の僕はなんでこんな人に恐怖したり異常に反抗したりしていたんだろう、と今さらながら思い始めた。今となってはただのニート。酒を飲んで楽しいことだけを追い求める厄介な扶養家族だ。

「ふふっ」

 僕は何だかそんな姉さんの存在が可笑しくなって、つい一人で笑ってしまった。

 さて、これから僕はその扶養家族のために準備を始めないといけない。眠れる王女様のために今日も召使いは身の回りの支度を始めるのだ。


 僕と姉さんが今のような仲に戻ったのがいつだったかなんて、今はどうでもいいことだった。

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