ニート姉さんと見た海(5)
「死なないでください」
そう言ってしまった後、僕はどうしていいか分からなかった。
冷静に考えて、運命の決まっている人にこんなことを言ったって困らせるだけでしかない。
ここまで進行した病状を止めることすら無理なのだ。笑って死に備えようとしている姉さんに、駄々っ子のように無理難題を押しつけようとすること自体がおかしい。自分で自分を呪ってやろうかと思った。
「いいよ」
姉さんは快諾した。
この滅茶苦茶な花札勝負の条件を呑んだことで僕は驚いたが、姉さんは苦笑しただけで、何一つ渋る様子を見せなかった。
「あ、でも、ちょっと私の条件変えるけど、いい?」
僕は身構えた。姉さんも無茶な要求をしてくるかもしれない、と思った。
「私が勝ったら、ジョニーウォーカーを浴びるほど飲む。これでもかって言うくらい飲む。これでどう?」
「駄目ですよ駄目! 姉さん今度こそ死んじゃいますって」
「勝彦にハンデつけるから。はじめは勝彦が親で、しかも15文のハンデでいいから。だからお願い!」
こちらの方が無茶な要求をしているのに、姉さんは申し訳なさそうに言った。これまでの戦績からすると姉さんと僕はほぼ五分五分だ。だからハンデありだと僕の方が有利になる。そこまでしても酒を浴びたいと思うのか、姉さんの要求は執拗だった。
最終的に、僕はその要求を受け入れた。しかしあとでそれを後悔することになる。
今日の姉さんは強かった。
12回勝負のうち、3回を過ぎた時点で二人の得点は並んだ。つまり、僕に与えられたハンデが消え去っていた。
「いやー今日は調子いいね」
姉さんは高らかに笑っていた。
快進撃はその後も衰えることがなく、続いての3回で点差はどんどん開いていった。僕は自分がそれほど勝負に弱いとは思っていなかったので、姉さんが何かイカサマでもしているのかと思ったぐらいだった。
「生まれてこの方、イカサマなんてしたことないよ」
これまでの姉さんとの勝負の中で、不思議なことに、僕はここぞというときはほとんど勝ってきた。健康のため酒の量を減らしてくださいとお願いしたときも、ボーナスカットされて姉さんに泣きついたときも、どうしても譲れない勝負のときはたいてい勝利を収めてきた。もちろん、この勝負は僕にとっては譲れないはずだった。無茶な要求かもしれないが、僕の叶えて欲しい心からの希望を賭けて、絶対に負けてはいけない戦いだった。しかし、無情にも点差は開くばかりだ。
「勝彦に謝らないといけないんだけどね」
勝負の途中で、姉さんは話しかけてきた。
「私、実は花札強いんだ。隠しててゴメン」
それは姉さん特有のいつもの軽口だと思ったのだけど、そうではなかった。
「オンラインの花札ゲームで、数万人のうちのチャンピオンに何度かなったことがあるんだ」
意表を突かれて僕は姉さんの方を見た。目は真剣だった。
「えっ、だって姉さん、勝負するときは僕と互角くらいで…」
「うん。あれ全部、手心」
僕の頭の中はなにか大きなもので殴られたような衝撃を受けた。
そして自分の中での考えが不思議とつながった。本当に僕が負けられないときの勝負は、姉さんがわざと負けていた、と。ということは、姉さんはその僕の妥協できないラインを読み取った上で、自分が勝つか負けるかを自在に制御していたということだ。つまり、これまで僕は姉さんの手の上で踊らされていたようなものだ。
「そんな…」
姉さんは役を繰り出し、中間地点になる6回目の勝負は終了した。もうどうしようもないくらいに点差が開いていた。
「でもね、別に馬鹿にするつもりで手心を加えてたわけじゃないよ。勝負するときはいつも楽しかった。勝っても負けても楽しかった。でもね、勝ち負けに一喜一憂してる勝彦を見るのが面白くてね、つい反応が見たくてわざと負けたりしてたんだよ」
姉さんはフォローを入れたが、それでも僕にとっては悔しかった。あらゆる点で敵わない姉さんに、唯一対抗できるものがこのゲームだと思っていたからだ。結局、僕は何一つ姉さんに敵うところがなかったのだ。
「じゃあ、今日の勝負は」
「本気の本気。逃げもごまかしもない本気勝負だよ。勝彦に悪いけど、お前の希望は打ち砕かせてもらうよ」
次の勝負がまた始まった。姉さんは顔色一つ変えずに札を取っていく。
「そんな…。姉さんは死にたくないんですか?」
「そりゃ死にたくはないが、今更どうなるものでもないよ」
また点差が開く。
「だって、僕はこれからどうやって生きていけばいいんですか」
僕も札を取る。
「私のことは忘れろ」
「無理です」
姉さんの役ができる。
「姉さんはずるいです」
「ああ」
姉さんは勝負師のような真剣な目を崩さない。
「僕なんかよりたくさんのものに恵まれて。
魅力も。人気も。友達も。
頭脳も。技術も。勝負強さも。
集中力も。要領の良さも。運も。
なのにそれを捨てて酒なんか飲んで」
姉さんは、僕が途切れ途切れに話す言葉に「ああ」と頷くだけだった。
「自慢の姉さんだったのに。
大好きな姉さんだったのに。
勝手なことして勝手に命縮めて…」
自分でも気が付かないうちに涙声になっていた。
点差はさらに開いていく。
「私は傲慢な姉だからな」
いつの間にか9回目の勝負が終わっていた。もはや点差が何点あるのか数える必要もないほどだ。
「私は弟のことを自分のものだと思っている。お前が笑うとき、私は自分の感情だと思って笑ったし、お前が怒るときも、私は自分の感情だと思って怒った。
お前は私が自立できると何度も言っていたが、お前なしには私は生きていけなかった。事実、私はお前に命を助けられた。ゴミの中で死にかけていた私が生き返ったのは、お前が偶然訪ねてきたからだ。あのときから私の命はお前のものだ」
「そんなこと、一度も言わなかったじゃないですか、姉さん」
涙があふれている僕とは対照的に、姉さんは淡々と話していた。
「悪いな口べたで」
姉さんは笑った。「だから、ずっと昔からお前は私のものだし、私もお前のものだ」
僕は腕で涙を拭きながら札を取っていた。視界が潤んで役ができているのかどうか確認するのもやっとだった。
「本当は、花札が強いという事実は墓場まで持っていくつもりだったんだが。お前に死ぬなと言われると、私は死ねなくなっちゃうじゃないか。だから、お前の希望に応えないために、私は全力でお前を負かさないといけなくなった。
だから、一度でも全力で勝負ができて良かったと思ってる」
僕は涙で、何一つ言葉を返すことができない。
「あと勝彦、お前は酒を飲み過ぎるなよ。この病気になるとものすごく辛いぞ。いまも意識が飛びそうなくらいに辛い」
「姉さん、辛いんなら横になって休んで…」
「いや、いい。その前に一勝負させてくれ。お前と花札勝負している時が一番楽しいんだ」
姉さんは表面的には健康な人と同じようにカードゲームをしているように見えた。真剣な目つきは揺らぐことがないし、ベンチに腰掛けて横を向いて札を選ぶ姿には何も違和感はない。しかし額には妙な汗が浮かんでいて、口の奥を食いしばっているようにも見えた。
「ほら、こいこいだ。早く」
姉さんを安静にさせなくては、このままどんどん命を削ってしまう。僕は躊躇していた。
「札を取れ。勝負を続けるんだ」
勝負師の目がこちらを見る。僕は抵抗できず札を取る。
「そうだ。それでいい」
姉さんは札を取り、すぐにひっくり返した。
「私の勝ち」
そう言って、12回の勝負が終わりを迎えた。それと同時に、姉さんはベンチに座ったまま倒れ込んだ。
並べていた札が散らばり、僕は慌てて抱き留める。
姉さんは弱々しく肩で息をしていた。
「あんまり抱きしめるなよ。涙が出ちゃうじゃないか」
力なく言った。もう寝入ってしまうかのように目を閉じたままだ。
さっきまでの鋭い表情はなくなり、安心したような笑顔を浮かべていた。目尻は濡れていた。
「いま医者に連れていきますからね、姉さん」
「いいよもう。それよりジョニーウォーカーはまだか」
姉さんは目を閉じたまま、気の抜けたことを言う。
僕はもうやけくそで叫んでいた。腕に抱いた姉さんの顔へ、僕の大粒の水滴が落ちている。
「いま持ってきますから、死なないでください」
「勝負に勝ったから、浴びるほど飲むんだ。約束だぞ」
「ええ、約束です」
姉さんの手が伸びて、僕の頬をなでた。
「約束だぞ、勝彦」
聞こえないほど小さな声でそう言った後、姉さんは息をしなくなった。




