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ニート姉さんと見た海(4)

 妙な沈黙が続いた。僕はそれに耐えきれず何か喋ろうとした。

「そういえば、喉かわきましたね」

 さっきまでの夏の日差しは体から水分を奪っていた。周囲はまだ強い雨が降り続いていて、空気は湿り気で満たされているが、そんなこととは関係なしにのどがカラカラだった。

「そうね。でも自動販売機はないね。さっきの漁港まで戻らないと」

 廃墟となった公園の中で飲み物など売っているはずがない。しかし土砂降りの中で傘を持たないで雨宿りしている我々には、濡れるか我慢するかの二択しか残されていない。

「姉さんも喉かわいたでしょう。雨が弱くなったらひとっ走りしてきますよ」

「いや私はいい」

 姉さんをよく見ると口がもぐもぐしていた。

「飴ですか?」

「うん。飴なめてる」

「ずるいです。一人だけ」

 僕がせっかく気を回しているのに肩すかしを食らったような気がして、僕は悪態をついた。

「勝彦もいる? じゃあ目をつぶって。何味か当ててみて」

 姉さんがゲームを持ちかけた。ただの暇つぶしのつもりなのだろう。

「はいはい」

 僕はベンチに座ったまま目をつぶった。

 味を当てろというのだから、もしかしたら変な味のする飴でも持っているのかもしれない。姉さんのやりそうなことだ。でも、もしもとんでもない味の飴だったとして、口を濯ぐような場所はここにはないし、元々喉がかわいているから地獄を味わうことになるだろう。しかしまあ、姉さんのやることだから、無邪気に苦しむ様子をケタケタ笑って満足するだろうし、そういう悪戯には慣れているから別に困らない。

 ……などと考えつつ、飴玉が来るのを待っていた。

 しかし口に触れたのは、違うものだった。

 柔らかい、食べ物ではないもの。

 そして姉さんの息と体温が間近で感じられた。

 僕の脳は、混乱する中で心臓の鼓動をMAXにする。キスだ。キスだ。これはキスだ。僕の脳はそう繰り返すばかりで、それが一体何を意味をするのか、自分が何をすればいいのか、そもそも安全な状況か危険な状況か、などの重要情報がすべて白紙のまま、雑多な思考だけがぐるぐる回っていた。

 閉じた目を開ける勇気はなかった。

 僕は驚きのために、座ったまま少し仰け反った。しかしそれは僕の唇を追いかけてきた。僕の肩には手が置かれていて、彼女の肩に乗っていたと思われるやや長い髪が、僕の胸のあたりに、ぱさり、と落ちてきた。

 無言のまましばらく時間が経ち、僕は手足を何一つ動かすことができないまま、頭の考えを無意味に回転させていた。

 唇と右手が離れて、僕はようやく目を開けることができた。

 姉さんは正面に立っていた。僕と目を合わせられないようで、少し横を向いて何もない地面を見ている。頬は少し紅潮していた。

 おそらく姉さんから見た僕も同じようになっているのだろう。顔は熱くなり、鼓動は速く打ち続けているままだ。

 僕は唐突な事件に面食らったが、何とも言えない安心を感じていた。

 自分の中の理性は猛烈な勢いで警告のサイレンを鳴らしている。でも、これまで距離を保ちながらも妙な信頼感でつながっていた二人の間が、なんだか奥底の大きな部分でもつなぎ直されたような気がした。

 あるいは、無くしていた自分の体の一部が、突然自分の元に帰ってきたというべきだろうか、同じであるべきものが混ざり合って一緒になったかのような安堵感を覚えていた。

 互いに何も言わない。

 もしかすると互いに同じような不思議な気分を味わっているのかもしれない。


 少し経って、さっきよりもずいぶんと頭が働くようになった。

 姉さんはベンチに座り直した。しかしその場所はさっきまで座っていた場所よりも近い。というか、ほとんど隣にぴったりとくっついている。この夕立ちのひんやりした空気に覆われていなかったらきっと暑さで耐えられないだろう、というくらいに接している。

 相変わらず、僕の中の倫理観のサイレンは鳴りっぱなしのままだ。

 僕は何か言うべきだろうかと思って、かける言葉を探していた。冷静に考えればその行動はツッコミどころが山のようにあるのだが、それをどうこう言えるような雰囲気ではない。かといっていきなり無関係な雑談を始めるのもおかしい。

 そもそも何の話をしていたか、を思い出してみる。

 姉さんは飴をなめていた。それが欲しいと言った結果のこれなのだ。飴が何味か、など今さらどうでもいい。

 いや、姉さんは飴の味を尋ねていた。唇が触れたとき、それは少し甘かった。その時は混乱していたけれど、今思い出せばはっきりと分かる。その味は姉さんが一番好きな飴の味。懐かしくてちょっと酸っぱい味だった。

「パイナップル味」

 至近距離にあるその横顔はこちらを見てしばらくきょとんとしていたが、言葉の意味を理解してニッコリと笑った。

「正解」

 いつもの姉さんらしくない控えめな声だった。そしてぺろっと一瞬出した舌の上に、黄色いリング状の飴玉が乗っていた。



「私はもう死んでも悔いはないよ」

 いつの間にか、姉さんは僕の右腕を抱いていた。この状況は誰がどう見てもカップルのように見えるだろう。

「勝彦にとっておきの飴玉、あげたからね」

「そんな、死ぬだなんて言っちゃ駄目です。姉さんはこんなところで終わる人じゃないです」

「うん」

「ザッカーバーグを超えるって言ってたのに」

「うん」

「ディズニーランドに行くって言ってたのに」

「うん」

「そんな姉さんだから、僕も希望を持って姉さんの世話をしてきたのに」

「うん」

「したいことがあるならいつでも言えばいいじゃないですか。知らない人の足の裏を舐めろと言われても、キスしろって言われても、僕は姉さんの言うとおりにしますから」

「知らない人の足の裏と、私の唇を同列に語る奴があるか」

 頭を軽く叩かれた。

 でもそれは心地の良い、慣れたやり取りだった。

「僕がこんなに世話をしても、姉さんは好き勝手ばかりして。しまいに体を壊して。姉さんほどの人なら、その美貌でどこかの金持ちにでも貰ってもらえれば、違うレベルで好き勝手ができたでしょうに」

 姉さんは一瞬こちらを見た。

「心外だねえ」

 低いトーンで不満を表明していた。

「覚えてるかい。私のケーキの食べる特徴」

「えっ? とっておきの部分は最後まで取っておく、ですか?」

「そういうこと」

 姉さんの横顔は赤面していた。

「…私にとってのとっておきは、ほかに考えられないから…」

 そう言ったように聞こえたが、姉さんは抱きかかえた腕に顔をうずめながらもにゃもにゃ喋って、最後の方はよく聞き取れなかった。


 降る雨はさっきより弱くなり、遠くの方は雲が切れて日差しが見え始めていた。夕立はもう少しで通り過ぎそうだった。

 何か言ったかと聞こうとしたが、それよりも先に姉さんの表情が元通りになっていた。

「雨が止みそうですね」

「そうね。でもまだ時間かかるから、しばらく時間をつぶそうか」

 姉さんはバッグの中からなぜか花札セットを取り出した。

「な…、なぜそんなものを持ち歩いているのか非常に疑問なんですけど」

 明らかに年頃の女性がオシャレバッグから取り出すようなモノではない。

「細かいことを気にしないの」

 言うが早いか札をシャッフルして次々と並べ始めた。見慣れた手際の良さだ。

「じゃあ、何を賭けようか。負けた方が勝った方の言うことを一つだけきく、でどう?」

「望むところです」

「じゃあ私が勝ったら、ジョニーウォーカーを飲みたい」

 こんなときも呆れるほどに酒好きだった。

「じゃあ僕は、」

 何を望むか、を自分に聞いてみる。どうしようもない答えが返ってきた。僕は、口をついて出てくるままにその望みを叫んでいた。

「僕が勝ったら、姉さん、死なないでください」

 自分では言うべきでない言葉の分別はついているつもりだ。ここでそんなことを言ってはいけない。言って何になる。そう思いながら、僕の意に反して、口から一気に言葉が流れた。

「酒をやめて、薬を飲んで、ご飯をちゃんと食べて、病気を治して、元気な元の姿に戻ってください。死なないでください」

 情けなく懇願する自分の声を聞いて、馬鹿かと思った。

 そんなことできっこないのだ。

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