ニート姉さんとFX
「じゃあATMから下ろしてくればいいんじゃない」
生活資金として足りなくなった5万円分を捻出するために酒代を減らしてほしい、というのが僕の要望だったのだけど、姉さんは「足りない分はどこかから埋めてくる」という発想に至ったらしい。悪人のような顔は一瞬で消え、あっけらかんとした元の表情に戻った。
「どのATMから?」
「たぬきさん」
“たぬきさんのATM”というのは姉さんにとってはFX口座を意味する。つまり外国為替市場からお金をくすねてくるのだ。もちろん普通の人であればATMからお金を下ろすように自由にお金を得ることはできない。しかし姉さんは別だ。姉さんが本気を出せばほぼ自由にお金をひねり出せる。
ちなみに姉さんにとってATMは2種類あって、“たぬきさん”と言えばこのFX口座を、“くまさん”と言えば銀行の生活口座を意味する。どちらもイメージキャラクターの動物がタヌキと熊であることに由来している。FX口座のイメージキャラクターが葉っぱを札束に変えている画像は実に皮肉極まりないところだが、姉さんがFX口座を出金専用口座として使っているところを見ると、実にキャラクターに忠実な使い方をしているなと感心させられる。ちなみに、姉さんの成功を間近で見た僕も一度取引を試してみたことがあったが、貯金の20万円が面白いように吸い込まれて終了した。姉さんはその直後に30万円の儲けを手にして「仇はとったぜ!」と言い放ち、僕は危うくそのカッコ良さに惚れそうになった。ちなみに一般的には、生活資金をFXやパチンコといった博打に頼るのは最もやってはいけないことなので真似してはいけない。
「いいの?」
「しょうがないでしょ酒のためなんだから」
姉さんはため息をついている。酒のためでも何でもいいので、生活が楽になるならいくらでも金を引き出して欲しい。ただ、怠け者の姉さんのことなのでいつもこううまくいくわけではない。情報収集とチャートとのにらめっこをしなくてはいけないので、本人にとっては相当な苦痛らしく滅多にやる気になることはない。職を得ている一般人はこうした苦痛を日々耐えて日銭を稼いでいるんだよ、と一度説教したこたがあったけど、姉さんは「ふーん」と他人事のようだった。ニートな姉さんの辞書には「まっとうに稼ぐ」という日本語は載っていないらしい。
「助かります」
僕は礼を言ってから、食べ終わった食器を下げた。普段は姉さんの方が僕に感謝すべきだと思うが、僕と姉さんの関係はこうしてずっと回っているのだった。
「ギリシャと南アフリカどっちがいい?」
キッチンで洗い物をしていると姉さんが尋ねてくるのが聞こえたけど、僕は聞こえないふりをした。どちらを選んでも姉さんはきっちりキャッシュを用意してくれるだろう。
数日経って仕事帰りにちょっと姉さんのアパートに寄ってみた。部屋にはAmazon.co.jpやらAmazon.comやらAmazon.co.ukから届いたらしい新しい箱がいくつか積み上がっていた。その大半は雑誌やら本やらで、金融、経済、ファッション、環境保護、芸術など多岐にわたるものだった。これで軽く数万円は飛んでいる。姉さんの情報収集は主に雑誌とネットの組み合わせだ。「100万円を元手に1億円稼ぐのは簡単だけど、1万円を元手に10万円稼ぐのはけっこう大変なんだよ」
と、姉さんはよく言っている。取引に必要な公開情報は1万円の投資も100万円の投資も一緒だけど、その公開情報を手に入れるためにはどうしても固定費がかかるということらしい。そして2言目にはこう続く。
「だからねえ、私にぽんと100万円を投資してくれる金持ちが出てこないのかね。少なくとも100倍にはできるのに」
本気でそう思っているなら金持ちの家に嫁に行ってください。おねがいします。
姉さんは部屋の隅っこで雑誌を読みつつネットの世界で調査をしていた。普段は酒を飲む姉さんが何かに取り憑かれたかのように文字を読み、考え事をしている。僕が来たのを認めて「おかえり」と一瞥したほかは完全に自分の世界に集中していた。完全に別人だ。
僕は姉さんが体を悪くしないようにとミルク粥を作り、ほかにも何食分かの食事を作って冷蔵庫の中に入れておいた。はじめは姉さんに酒の量を減らしてほしかっただけだったのだが、こうして別人になった姉さんを見ると自分がボーナスを減らされたことがなんだか申し訳ないような気がしてきた。だから食事のほかに好物のケーキも近所で買ってきて冷蔵庫に入れておいた。姉さんのことだからきっとこの苺の乗ったショートケーキも、苺を最後にとっておいて食べるのだろう。
すべての支度を終えると夜10時を回っていた。もうそろそろ帰って寝ないといけないが、僕は何だか姉さんのアパートを出て行くのが名残惜しい気がして、ベランダに出てぼうっと風景を眺めていた。小高い丘の上にあるこのアパートは、築年数が古いし駅からの坂道はしんどいしあまり良い条件ではないけれど、2DKという広さとベランダからの眺望だけは格別だった。大家のお婆さんが親戚ということもあって、好意で格安で住まわせてもらっている。
ベランダからはこの小さな町の全体像が見渡せて、さらに海も見える。大学に通っていた頃の姉さんは一時期タバコを吸っていたようで、その吸い殻がベランダの隅にある空き缶に捨てられたままになっている。姉さんはこの風景を眺めながらタバコを吸うことがお気に入りだったようだ。
ダイニングキッチンの照明を消すと星明かりがよく見える。僕はしばらくその風景をぼうっと見ていた。寒さの残る3月の夜は適度な緊張感があってなかなか悪くなかった。
しばらくすると姉さんがぺたぺたと歩く音が聞こえた。腹が減ったのでキッチンに食べ物を探しに来たのだろう。横着なことに照明は付けないままだ。
「うあっ」
「えっ?」
姉さんの狼狽える声を聞いて僕は振り返った。すぐに部屋の照明が点った。姉さんはこっちに対して身構えつつ驚いた顔をして固まっていた。
「あーびっくりしたー。勝彦かー」
姉さんは胸をなで下ろしながらその場に崩れ落ちた。どうやら僕がまだ部屋に居るとは思わなかったらしい。
「あーびっくりしたびっくりしたびっくりした。もう灯りが消えてるから帰ったのかと思ってた」
「ごめんね姉さん。ベランダで景色眺めてた」
「暗闇に人影があるから不審者かと思った。あー本当に驚いた」
姉さんはそのあと冷蔵庫の中にケーキを見つけて、他に作っておいたグラタンやらおにぎりやらには目もくれずそのケーキのみを食べた。
「勝彦、苺いる?」
まだベランダで風景を眺めていた僕に姉さんは尋ねた。答えを待たずに姉さんは苺をぱくりと食べた。
「なんてね。あげないよ」
姉さんがものを食べるときに一番大事なところを残しておくことを、僕は当然知っている。だから最後に残ったケーキの苺を姉さんが僕にくれるはずはないのだ。そして、そんな大事にしているものをもらって素直に食べられるような僕ではない。姉さんはよくこうやって僕をからかうのだった。苺を食べた姉さんはやっぱり嬉しそうな顔をしていた。
やがて姉さんはベランダの方にやってきた。パジャマ姿だったのでそのままでは寒いらしく、上着を羽織っていた。
「風邪引くよ姉さん」
「たまにはこの風景も見たいじゃない」
姉さんはニート生活を始めてからはあまりこのベランダに出てこなくなっていた。それは身なりに気を遣わなくなって外出を最小限ですますようになった頃に一致する。昼間はこのベランダは近隣のアパートやマンションからよく見えるので、人目にさらされることが多いのだ。だからベランダに姉さんが出てくるのはかなり久しぶりだった。
姉さんと僕は並んで風景を眺めていた。姉さんは年の割に少しだけ幼く見える。僕より背が低く、まるで第三者が見ると僕と同級生かそれ以下に見えることだろう。
「勝彦、いつもすまない」
「ケーキ2個960円、愛情籠めたおにぎり3個150円、特製グラタン2皿600円になります」
「はいはいツケといてね。というか、ケーキ高っ!」
「わざわざ駅前の名店まで買いに行って参りました」
「流石私の弟。ケーキが食べたくなった時になぜかきちんと用意してくれている。これぞ一子相伝ってやつだね」
「以心伝心です。姉さん」
姉さんは一瞬言葉に詰まっていた。
「じゃなくて。私が言ってるのはそういう意味じゃなくてね」
暇を持て余しているいつもの姉さんとは違う表情の真面目な姉さんがいた。
「今日のことだけじゃなくて、いつも苦労かけてるなあってふと思ってね」
ずっと夢の世界に浸っていた人がふいに正気を取り戻したかのようなことを言った。僕が姉さんに世話を焼くことは僕の中ではもはや当然のことになっているからいいんだけど、ただ自立して昔のような格好いい姉さんになって欲しいということだけが僕の望みで、それが叶えられずに姉さんに養育費のようなものを毎月払っているという点では苦労はかけさせられているのかもしれない。
「今頃気が付いたんですか、姉さん」
たまには姉さんに反撃してみる。
「はっはっは。勝彦のくせに。はっはっは」
笑顔で尻を蹴られた。軽く2回ほど。さっきまで難しい顔で文字を読んでいた姉さんもすっかり元通りになっていた。
そして、結局姉さんは次の日曜日までにきっちり5万円を用意してきた。